福音の丘
                         

弱さゆえに寄り添い合って

聖家族
カトリック浅草教会
第一朗読:サムエル記(サムエル上1・20-22、24-28)
第二朗読:使徒ヨハネの手紙(一ヨハネ3・1-2、21-24)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ2・41-52)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 

 さてさて、そんなこんなで、「聖家族の祝日」を迎えて、今年も今日で最後の日曜日。みなさんにとってどんな一年だったでしょうか。と言っても、たぶんみんな同じですよね。コロナで始まり、コロナに終わった一年でした。思えば去年のお正月は、マスクもしないでワイワイ集まって、ごはん食べてたんですよねえ。約二年前ですか、なんか遠い昔のことのような気がいたしますけれども。
 私にとっては、まさにこの一年は、「福音家族の一緒ごはん」ができなかった年っていう、もうそれに尽きます。以前は、月に二五回、一緒ごはんやってましたから、ほぼ毎日ですよ。福音家族って、ともかく一緒にごはん食べるのを第一にする集まりなので、それがないと、会う機会が激減しちゃう。まあ、それも神のみ旨だと信じて、再会のときを待ちわびています。
 とか言いながら、昨日はフライングでやっちゃいました。二〇代の福音家族が五人集まって、小さなクリスマス会をしてくれたんです。久しぶりってのもあってうれしかったなあ。大体、神父のクリスマスって、寂しいんですよ、結構。みなさんは夜半のクリスマスミサが終わったら、それぞれ自分んちに帰ってお祝いとかするんでしょうけど、神父は一人暮らしですから、みんながパアーッと帰ると、寂しいもんですよ。とりわけ浅草教会のみなさんって、帰るの早いですよね(笑)。引きが早いというか、サーッといなくなる。鍵かけるともう、ひとりぼっちになるわけです。福音家族の一緒ごはんが盛んになってからは、そんなこともなくなりましたし、昨日も一人暮らしの仲間たちが集まってくれて、ごはん食べちゃいました。ほんと、楽しかった。もちろん、飛沫がかからないように大きなアクリル板を天井から何枚も吊るしてますし、窓を開けっぱなして換気して、サーキュレーターも回して、二酸化炭素測定器まで置いて。昨日も、キッチンのガスコンロ使ったら測定器が鳴りましたよ。1000ppm越えると、「ピー、ピー」って鳴るんです。まあともかく、なんとしても一緒ごはんをしたいという、意地というか、負けず嫌いというか、クリスマスなんだから家族は一緒にいるべきという信念というか。

 家族と言えば、最近教会に来始めた二〇代がいるんですね。で、その彼も昨日いたんですけど、みんなでご飯食べてるところへ、後から遅れてきたのが一人、「ただいまー」とか言いながら入ってきて、すぐに冷蔵庫を開けたんです。何か飲み物を取り出そうとして、でも振り向けばビールがもうテーブルに並んでるのを見て、そのまま冷蔵庫を閉じた。それを見て、その二〇代が驚いてつぶやいたんですよ。「いやあ……、家族だねえ」って。確かに、いくら親しいとはいえ、一応ひとんちなわけですから、「ただいまー」って入ってきて、いきなり冷蔵庫を勝手に開ける姿は驚愕だったみたいです。「この人たち、そこまで親しいんだ、いいなあ、これもう家族じゃん」、って思ったでしょうし、「自分もそういう家族になりたいな」、とも思ったんじゃないですか。
 それでそのとき、ふと思い出したことをみんなに話したんですよ。以前、ある年配の女性が私に相談に来られたんですね。その人の同居しているお嫁さんがうつになったんだけども、病院で「原因は姑だ」って指摘されて、ショック受けた、と。息子の嫁が、自分のせいでうつになっちゃった。でも、自分ではいい姑だと思ってるし、親切にしてきたつもりだし、嫁が苦しむ理由が分からない、と。だけどね、いろいろ聞いてると、「でもね、神父さま、嫁も冷たいんです。一階と二階を分けて二世帯住居にして、私もカギ持ってるんですけど、二階に入ってくるのをいやがるんです」とか言うんです。だから、「そりゃ勝手に入っちゃダメでしょう」って言うと、「でも、もともと私の家だったんだし、家族なんだからちょっとくらいいいじゃないですか。なのに嫁は、カギ開けて入って冷蔵庫を開けると怒るのよ」って(笑)。どう思いますか、みなさん。
 これ、どっちが悪いとかの話じゃなく、家族観の違いの話なんですね。「家族なんだから」ってお姑さんは思ってるわけでしょ。だけど、お嫁さんにしてみたら、そこまでの家族だと思ってない。家族って、時間をかけて家族になっていくもんであって、いきなり家族なんだからと強制もできないし、あんたは家族じゃないと切り捨てることもできないし。「家族ってなんだと思う?」ってね、そこにいたみんなにも聞いたんです。

 家族の定義ってなんでしょう。みなさんはどう思います? 今日、「聖家族」のお祝い日ですし、ぼくは、「福音家族」って、つまりは聖家族を目指していると思っているわけですけど、それは、聖家族にこそ家族の本質が秘められてると思うからです。それさえあれば、確かに「家族」だと言える本質。それは、なんでしょう。みなさんだったら、どう定義しますか、「家族」を。
 血縁なら家族だってわけでもないですよね。お嫁さんなら、夫とも姑とも血はつながってないですし。法律の定義も現実にそぐわないと思いますよ。法律的に言えば、福音家族なんて、全然家族じゃない。じゃあ、一緒に暮らしていれば家族かというと、そうでもない。早く出てってくれみたいなこともあるし。そう考えると、冷蔵庫を勝手に開けていい仲って、まあ、だいぶ家族っぽいですよね。
 一つ言えるのは、最近で言えば、「家族葬」っていうのが流行ってますけど、「家族葬に並ぶ人」って言う定義はありかもしれないですね。すごく親しい、家族同然って人もそこにいたりしますし。法律上とか、血縁とかでなく、愛する人を失った悲しみを共有する関係、それは相当家族ですよね。「悲しみや苦しみを共有する間柄」っていうのは、家族の定義として外せない気がします。それこそコロナで言うなら、マスクしないで会う相手ってことです。みなさん、そうでしょう? 夫婦で、家の中でマスクして会話してないですよね。「もう、いいわ。あんたとならウイルス共有するわ」っていう、そういうことでしょう? 「たとえうつしてもうつされても、その苦しみは共有しあおうね」っていう、それくらい一心同体である間柄、これは、家族ならではですね。そんな意味でもコロナ時代って、家族ってなんだろうっていうようなことを、すごく思わされますね。目の前のこの人は、家族であるか、ないかを問われた日々だったような気がする。

 もうひとつ、家族の定義として、持続可能ってことも言うべきじゃないかと思うんです。
 昨日のクリスマス、ベトナムの子たちがほんとに家族みたいに集まってきて、楽しそうにはしゃいでてよかったですね。彼らは私のことを「チャー」って呼んでくれるんですよ。ベトナム語で「お父さん」って意味ですね。昨日はサプライズもあって、ミサの最後に「チャー、この一年ありがとうございました」と、「ベトナム人グループをを受け入れてくれて感謝します」ってね、立派な箱に入ったプレゼントをくれました。縦長のね、ちょうど重いビンが二本入るくらいの重さと大きさの箱でした(笑)。中身は秘密ですけど(笑)、うれしかったですねぇ。思わず、「ベトナム、大好き!」なんて叫んじゃいましたけど、家族っぽいんですよね、ベトナムの子たち。教会の仲間たちがまるで家族みたいにつながってるし。ちょっと古き良き日本のコミュニティ感があって。だからね、君たちは日本みたいにならないでね(笑)。あったかい家族的な集いを、ずっと保ち続けてほしい。
 ミサのあとは庭で音楽流して、みんなでダンスして、プレゼント交換までして、その笑い声とか、キャーキャー叫んでいる声っていうのが、なんだか「教会、甦る」って感じで。あんなふうに、若い子たちの歓声が上がる教会って、最近もう少ないんじゃないですかね。どこの教会も、人口ピラミッドのグラフの形で言うなら逆さピラミッド? いや、それどころじゃない、上のほうだけ膨らんでて下のほうが細ーい、ワイングラス型?(笑)みたいな感じ。それじゃあ、いくら家族って言っても、家族にならないですよ。
 家族って、今だけ同年代で楽しく過ごして、やがて歳とって消えていっていいもんじゃない。やっぱりこう、姑、嫁、子どもたち、孫たちって、次へ次へ、受け継がれていく流れの中でこその家族、じゃないですかねえ。そのために年配の人たちが百歩譲って、次の世代のために犠牲を払わないようなら、それ、家族じゃない。そこに、家族の秘密というか、大切なポイントがあるだろうと思う。一緒ごはんとかやってても、相当忍耐と犠牲が必要ですけど、次の世代のために家族を造っていくのって、キリスト教の本道でしょう。そんな流れの中でこそ、ぼくらは家族だって言えるんじゃないですか。
 昨日も、ベトナムの子たちが庭で大騒ぎしてるのを、隣のマンションの人がじーっと覗いて見てるんですよ。あ、これ苦情来るかもって思いましたけど、そのままやらせときました。だって、年に一度のクリスマス、若い子たちがはしゃぐのを大目に見るのも大事ですから。苦情が来たら責任者として謝るつもりでしたけど、結局来ませんでした。若い子たちが「キャー」も「ワー」も言わなくなったら、未来はありませんよ。自分たちも若い頃はずいぶんはめ外して周りに迷惑かけてきたわけで、上の世代はやっぱり、犠牲を払う、忍耐する、譲る、受け入れる、それがあっての家族ってことでしょう。次の世代が元気に育っていく、持続可能なコミュニティーであることは、家族の定義として外せないと思う。
 さらに言うとですね、ぼくは、恐らく一番重要な家族の定義は、「弱さ」に関わることだと思うんですよ。
 先週、ある牧師ご夫妻が訪ねてきたんですね。私のことを慕ってくれていて、ときどき訪ねてくるんです。以前、長野県のプロテスタント教会で講演会をしたときに、その牧師夫妻が、「長野に来るなら、前晩はうちの教会に泊まってください」って招かれたのが出会いのきっかけです。同じ長野ってことで、もっと近くかと思ったら相当遠くでしたけど、一泊して、講演会当日は車で送ってくれました。
 それがですね、このご夫妻がずーっともめてるんですよ。言い争いばかりする。講演会場に送ってもらった朝も、ご夫人が先に出て、わざわざ私へのお土産を買いに行ったんですね。あとからご主人と私がその店に車で行って、合流してから講演会場に向かうって話だったんですけど、お店に行ってみたら、いなかったんです。携帯もつながらない。そんなときは、そこで待ってるのが鉄則ですよね。なのにご主人は、「教会に帰ったのかな」とかって、戻っちゃったんです。でも、いない。「おかしいなあ」とか言いながら、講演会の時間もありますし、あせって車で街中を回り始めた。だけどそんなの、絶対会えるわけないですよね(笑)。ぼくは心の中で、「それ、無理でしょう」とか思ってましたけど、余計なことも言えず、結局だいぶたってまたお店に行ったら、会えました。
 そのとき、ご夫人がカンカンに怒ってるわけですよ。「なんでお店で待っててくれないの」って。で、ご主人は「だっていなかったじゃないか」って怒ってる。そんな言い争いが車の中でずーっと続いて、これがまた、講演会場までの道のりが長いんですよ(笑)。私、ずーっとそれ聞かされて、しまいに二人、黙りこくって冷戦状態。どんな話題持ち出せばいいのかって、困り果てました。先週、ご夫妻が来たとき、そのときの話になって、「神父さん、あのとき、一生懸命とりなそうとしてましたよねえ」とかって笑ってるの、二人で。こっちはたまったもんじゃなかったのに。
 それがですね、このご夫妻はその後、海外宣教に行くって決めて、二人でチャレンジしたんですけど、案の定というか、海外でのストレスもあったんでしょう、二人の関係は行き詰まって、破綻しかけました。で、離婚してもう家族を終わりにするか。それとも、ワンチャン立て直すかって段になって、当事者能力を失った二人、現地でカウンセリングを受けたんです。そこで、ご主人にどうも、発達障害的な傾向があるってことが分かった。まあ、みんなそれぞれの個性ですから、障害っていう言い方もどうかとは思うけど、誰もに得意な分野、不得意な分野、強い部分、弱い部分があるわけですね。お互いの、その色々の個性が組み合わさるから面白いんであって、大事なことは、お互いのその弱さを受け入れ合うってこと。そういうことに気づくのが大事って意味ではカウンセリングも大事です。
 ご主人は、自分の弱さを理解し、受け入れることができるようになりました。ご夫人も、相手の弱さを理解し、受け入れることができるようになりました。そうして、まるで「ここから新たな結婚生活が始まる」かのような思いで、日本に戻ってきたんですって。それで、そのことを報告に、私に先週会いに来てくれたってわけです。私、「よかったですねえ」って言いました。「神さまがそこまで見越して出会わせてくれてるんだから、『もうだめだ』って諦めなくてよかったじゃないですか。ここからは、同じように弱さを抱えている人、あるいはまだその弱さに気づかない、受け入れらないで苦しんでいる人とか、そういう人たちのことがよーくわかる牧師として、神さまに用いられることでしょう」って、励ましました。

 ということで、どうもそのへんが、家族の定義の終着点じゃないですかね。「お互いの弱さを受け入れ合って、一緒にい続ける人たち」。
 相手の弱さを受け入れられないなら、もう家族崩壊でしょう。逆に自分の弱さを受け入れてもらえないなら、そこにはいられないし、いても意味ないし。私もあなたも、弱いままで、安心して一緒にいられる。たぶん神さまは、神の国っていう究極の家族をつくるために、弱さっていうものを与えてくれたんじゃないですか。だってさあ、強い人たちが集まって「俺たちは家族だ」とか胸張ってるとこなんて、なんか、やじゃないですか。居心地悪そうですよね。むしろ、弱ければ弱いほど家族になれる。
 その意味では、赤ちゃんを授かるのって、家族が家族になる一つの大事な方法かもしれない。究極の弱い存在だし、それを受け入れることでお互いに結ばれる。赤ちゃんでなくても、障害を持っていたり傷ついたりしているメンバー、ほんとに弱い誰かをみんなで受けとめるとき、家族が生まれる。介護なんていうのも、そういう意味では、神さまが授けてくれたチャンスなんでしょうね。血縁を超え、法律を超え、家族が家族になって神の国が成長していくようにって、神さまが「弱い人」を私たちに贈ってくれているんです。
 
 聖家族。これ、弱い三人なんですよ、実を言うと。ヨセフなんてね、マリアに子どもができたってことでショック受けて、いったんは離縁しようと決心したわけでしょ。それでも「一緒にいよう」って決心したのは、夢でお告げを受けたからですけど、やっぱり愛するマリアなしで一人じゃ生きていけなかったからじゃないか。マリアだって、離縁されたらシングルマザーですからねえ、あの時代に到底生きていけないはず。イエスに至っては、ただの丸裸の赤ん坊。旅先の飼い葉おけの中で泣いてるだけ。
 ヨセフは、一人で生きていけない。マリアも、一人で生きていけない。イエスも絶対に、一人では生きていけない。実際このあとすぐ、ヘロデ王に殺されかけて、難民になってくわけでしょう? 弱い弱い三人がね、その弱さゆえに寄り添い合って、一緒にい続けることで、家族になっていく。それが「聖家族」です。わたしたちの教会もまた、弱い誰かを受け入れることで、聖なる家族になっていくんでしょう。現代世界に最も必要なのは、聖家族です。
 二〇二一年も、おしまいです。来年はわたしたち、どんな家族として成長していくんでしょう。もしも、弱い弱い誰かが現れたら、それは、わたしたちが聖家族になるために神さまが贈ってくれた、尊い贈りものなんじゃないでしょうか。

 


2021年12月26日録音/2022年3月5日掲載 Copyright(C)2019-2022 晴佐久昌英