福音の丘
                         

教会はあなたを選別しません

年間第2主日
カトリック浅草教会
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ62・1-5)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント12・4-11)
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ2・1-11)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 この、イエスさまの最初の奇跡が「水をぶどう酒に変える」っていうのが、なんかちょっと手品みたいな奇跡でピンとこない人もいるかもしれませんけど、これ、とっても重要な奇跡なんですよ。テーマで言うなら、「どんな問題のある現場でも、喜びの宴に変えることのできる、神の愛のわざ」っていうようなことでしょうか。あらゆる人が互いに受け入れ合って、助け合って、一緒にいて喜びを分かち合っている、そんな神の国の宴です。この生きづらい世界を、イエスさまが神の国に変えてくださる、そういうテーマです。福音書に出てくる「ぶどう酒」は「神の救い」を表していますから、みんながその救いを一緒に飲んで、救いの喜びを分かち合います。誰も見捨てられることなく、みんながそこで自分らしくいられて、みんなが一緒に生きることを楽しめる。それって、最高じゃないですか。そういう宴をつくり出すのがイエスさまですし、イエスさまと共に働く私たちの仕事っていうことになりますね。
 この場合、ここには隠されたテーマもあって、それは、そんな愛のわざを人知れず、謙遜に行うっていうテーマです。確かにイエスさまが奇跡をおこなっているんだけれども、その宴会の参加者は、そのこと知らないでしょう? 現にこの世話役だって、「よくこんなおいしいワインを今まで取って置きましたね」って言ってますし(cf.ヨハネ2・10)、ましてそれを飲んでいる人たちは、ただ喜んでね、「おお、さらにおいしいワインが出てきたぞ!」「なんて素晴らしい宴だ」って、花婿と花嫁をほめたたえたんじゃないですか。
 婚宴においては、ワインは喜びのシンボルとして重要な役目を果たしてますから、そのワインが無くなるなんていうのは、これはもう不祥事なわけです。「これでおひらきね」っていう意味でもあり、せっかくの宴が台無しになっちゃうわけですね。これ、新郎新婦にとっては一生一度の宴ですから、そんな不祥事は大変な不名誉なんだけど、そんな状況下で、イエスさまが「おひらき」を防いでくれているわけです。みんなが帰っちゃって、バラバラになっちゃうのを人知れず防いで、誰も知らないところでちゃんとその宴を守ってくれている。この「人知れず奉仕する」っていうテーマは、大事です。こうして、教会にみんな集まって楽しくやってますけど、実は我々が知らないところでイエスさまが働いて、救いのワインを用意して、みんなに飲ませてくださっているし、それでみんな喜んでいるんだし、そのイエスさまの働きに支えられて、神の国のしるしである私たちの教会が成り立っています。

 今日、成人式ミサっていうことですけど、「成人」って、お若い方たち、どういうことだとお思いでしょうか。これは、ひとことで言うなら、「これまでは受ける側だったのが、これからは与える側になる」っていう、そういうことです。先日の堅信の秘跡のときも同じテーマでしたね。堅信は、言うなればキリスト者の成人式みたいなところがありますから。それまでは福音を受けていたんだけども、堅信を受けたからには、福音を与える側になる。成人って、そういう、「受けて与える」という流れの中での大切な節目ってことです。成人式ミサで強調したいのは、そこです。信仰を頂いた者として、信仰を伝える者となる。今まではイエスさまから救ってもらっていた。でもこれからは、イエスさまと一緒にみんなを救う側になる。しかも、誰も知らないところで、人知れず奉仕する。これがやっぱり、準備期間を終えて成人になるってことでしょう。世の中は成人を二十歳から十八歳に引き下げるようですけど、教会も成人式ミサの対象を十八歳にした方がいいかもしれませんね。十八歳ならばもう、十分キリスト者として働けますから。
 十八歳と言えば、昨日、十七歳が事件を起こしましたね。あれは、痛ましいです。ほんとに痛ましい。切られたほうも痛ましいけれど、切ってるほうも痛ましい。「なんていうことだろう!」って思いますけど、ただ、今の世の中からすれば、起こって当然の出来事でもあるなとも感じます。ご存じですよね、昨日、東大の門前で、試験の当日に、十七歳の少年が刃物で受験生を切りつけて、二人怪我したという出来事です。「自分も来年は東大を受けるんだ」って叫んだとか。供述では、大きな事件を起こして自分も死にたかった、と。東大の医学部を目指していたようですけど、最近、勉強が振るわなかった、と。だから、もう多分、無理だって思っちゃったのかもしれません。何もかもぶち壊して、自分も死にたいという、いわゆる「拡大自殺」にあたるのかもしれませんが、こういう事件が最近多いですね。なんか大きな事件を起こして、自分も死にたいって、十七歳が十八歳を切りつけてるんです。
 これ、特別に異常な人の事件じゃないですよ。結構多くの若者が共感してるはずだし、そこまで追い詰められてるんじゃないですか。何がそこまで彼らを追い詰めてるかというなら、今の社会って、人を選ぶじゃないですか。試験とかね、就活面接とかね、あるいは婚活のマッチングに至るまで、人が人を選ぶじゃないですか。この、「人が人を選ぶ」、逆に言えば「人が人に選ばれない」っていうこと自体が、恐らく本質的に、もっと言えば遺伝子レベルで人間の脳には耐えられないんだと私は思うんですよ。
 元々、人類って、お互いに選んだりせずに一緒に生きていたわけでしょう。何十万年も、そんな社会だったはずです。パートナーだって自由恋愛とかは最近の話で、本来は小さなコミュニティの中で、ほぼほぼ相手って決まってたわけでしょ。いいなずけみたいなマッチングがあったりで。そうして生まれた子どもは授かりものだし、親は選べないし、家族ってそういう、ある意味人知を超えた天から与えられた集いなんです。かつての村落共同体だって、別に募集してつくったわけじゃない。最初からそういう仲間だっていう、逆に言えばそこから排除されることはあり得ないって言う、そんな伝統的な仕組みを大前提に、安心して生きている。何かの作業をする時に選抜するなんてことはあったでしょうけど、それはその時その場だけの、適材適所の話なんだから、たとえ選ばれなくとも納得するし、ちゃんと根底の共同体に所属していれば、そこには何のストレスもなかったと思う。
 それが、現代社会は、人を選ぶじゃないですか。まあ、学校も定員があるし、企業だって才能ある人材を採りたいわけで、しょうがないと言えばそれまでですけど、だけど選ぶってことは選ばれない人も出てくるってことですし、選ばれないっていうことくらいつらいことないですよね。しかも今の子たちは、そういう社会に選ばれなければもう人間として価値がないみたいに洗脳され切ってますから、選ばれないという恐怖を前にして、「大きな事件を起こして死にたい」なんて思っちゃっても、不思議はない。根底の共同体が機能してない以上、選ばれないってことは死を意味するわけですから。今の社会がそんなふうに、やれ成績だ、金だ、ばっかりになって、学歴で選別、能力で採用、しまいには家庭ですらそんな選別に加担するとしたら。「自分は、この世界から選ばれないなら、この世界から外されちゃうなら、もはや生きていくことができない」って思い込んでいる若い子たちが増えていくのは、当然だろうと思う。
 ってことはですよ、逆に言えば、今最も必要なのは、決して選ばずに、「誰でもここにいていいんだよ」っていう場所、そういう集いなんじゃないですか。そういうところが救いになるし、私は、それこそが教会だと思う。今こそ宣言するべきでしょう、「教会は、あなたを選別しません」、と。家庭にも適応するに条件があり、社会にも受け入れられるに選抜があり、もはやこの世にはどこにも居場所がないって言うときに、「ここでは、あなたに何一つ条件をつけません」、と。それが、イエスさまのお造りになっている宴なんです。

 もちろん教会もね、洗礼を受けた人たちが、「私たちはキリストの共同体です、信じる仲間です」、なんて言ってるわけですけども、それはそこに加わりたいって望んだ人たちが言ってるわけで、望んでいるのに拒否したらね、その時点でそこは教会じゃなくなっちゃうんです。もちろん、これがどういう共同体かちゃんと説明もし、教会体験をしていただいた上で洗礼を授けるわけですけど、本質的に無条件でなければ、神の国の宴のしるしではなくなってしまう。この世界で排除された人が、教会ならと思ってやってくることも多いわけで、それを何らかの理由をつけて拒否したら、本人にしたら神から見捨てられたことになる。
 ちなみに、受洗前は洗礼面談っていうのをやります。そこできちんと動機を伺って、主任司祭として判断して、洗礼許可証にサインするわけです。今も、洗礼志願する方との面談を何人もやってますけども、みんな、ドキドキしながら来るわけですよ。「わたしの志願を、許可してくれるだろうか」って。でもね、種明かししちゃうと、私、もう司祭生活三十四年ですか、「あなたは、ダメです」って言ったこと、まずないですね。もちろん相談の上、「来年にしましょう」とかはありますし、その人が何か勘違いしてるから、ちゃんと説明したら「ああ、そうだったんですね、よくわかりました」と引き下がるなんてこともありますよ。でも、ああ、この願いは真摯な思いだ、聖霊の働きだと思ったら、もう無条件に受け入れます。当たり前ですよね、これって、神が選んでるわけだから、邪魔したら神の選びに逆らうことにもなっちゃう。こっちが色々細かい条件出すのは律法主義になっちゃうし、もし何か条件が必要なように感じるとしたら、それはもはやすべての人を救うキリストの思いではないし、まして「この教会には合わない」なんて言い出したら、そこは教会ではなくなるっていう、そういうことだと思う。
 特に今の若い子たち、もうほんとに居場所がなくなってるし、「ここから見捨てられたら、もう終わり」とか、「ここに適応して生きていけなかったら、もはや生きていても仕方がない」とか、そんな現場にすがりついて苦しんでる人が大勢いいるし、今まさに、教会が一番必要になっているってことですよ。

 昨日も、おひとりの方に、洗礼の許可を出しました。二十代の男性ですけども、二十代の男性が教会に入ってくるのって、いいですね。高い所の電灯を直したりとか、(笑)頼めますし。とっても新鮮なことを語ってくれますし。私、昨日の面談で、その彼の思いを聞いて、思わずウルっといたしました。うれしかったし、感動しちゃったんですね。
 彼はもう四年以上前から入門講座に通ってるんですけど、最初の頃は、あまり共同体とか、宗教とかを信じるっていうタイプじゃなかったんですよ。疑り深いというか、まあ、今の時代は誰でもそうだと思います、世の中の宗教とか共同体とか、なかなか胡散臭いですからね。「自分は洗礼は受けない」って、はっきり言ってました。だけど、若い仲間たちの福音家族の集いによく顔を出すようになり、次第に、彼の中に教会への信頼が高まっていくのはわかりましたし、そうして一年、二年、三年経ち、四年目になって、今年、「洗礼受けたい」って言い出した。私はすごくうれしかったし、どこか、「やっぱりね」っていうような思いもありました。本当に求める気持ちが無ければ、四年も通いませんから。その彼の受洗の動機を聞いて、すごくうれしかったのは、こういう内容だったんです。
 「入門講座に来る人たちは、みんな失敗だらけの人たちだった。あるいは、何かしらの闇を抱えている人たちだった。そういう人たちを、入門講座のスタッフたちが、本当に丁寧に対応して受け入れている姿を見ているのが好きだった。私もまた、教会に受け入れられていることを嬉しく思っているし、ここからは、自分が受け入れる側になりたい。」
 確かに、入門講座には、いろんな人が来ます。多種多様、ほんとにいろんな人が来ます。一度見学したら面白いですよ。いろんな方が、いろんな病気や障害や、いろんな闇を抱えていて、時には問題も起こる。でもそれを、教会が人知れず一人ひとり大切に、丁寧に受け入れている。それを見ているのが好きだったって言うんです。で、あるとき、気づいたんでしょう。「ああ、自分もその一人なんだ」と。こんな自分を、ずっと受け入れてくれたし、だから今もここにいる。これからは、自分も教会の一員となって、様々な人々を受け入れていこう、と。これは、洗礼志願の動機としては、まさに王道ですよね。受け入れてもらったからこそ、受け入れる側になりたい。与える側になりたい。
 浅草教会、ほんとにいい教会だと思います。どんな人でも受け入れる教会ですから。ちなみに先週、東京教区の司祭人事が発表されまして、私の名前は載っておりませんでしたので、おイヤかもしれませんが、(笑)あと一年、よろしくお願いします。っていうか、この私も受け入れてもらってるんですよね。ありがとうございます、ですよ。そうして、ここいにいるみなさんも、等しく受け入れてもらってるんです。教会のために人知れず様々な奉仕をしている信者として、お互いに受け入れ合っているんです。「わたしは受け入れてもらって当然だ、正当な権利と資格があって、受け入れてもらってる」なんて胸を張れる人はいません。だれもが失敗だらけで、何かしら心に闇を抱えていて、ここにお集まりのみなさんも、相当変じゃないですか。(笑)相当問題だらけですよ。でも、それでいいんです。そんなの、生きていれば当たり前なんです。私も含め、受け入れてもらえなくてもしょうがないような、非常に個性的なメンバーですけれど、事実として、受け入れてもらってます。そんな浅草教会を見て、その彼は、「ここに、自分も受け入れてもらった。だから、今度はみんなと一緒の、受け入れる側になりたい」って言ったんですよ。ここ、いい教会だと思いますよ。なかなか、そんなことを言わせる教会ってねえ、ありませんから。
 「大きな事件を起こして、死にたい」とか、「自分を受け入れてくれる所なんか、どこにもないこの世界から去りたい」とか、そう思っているお若い方が、この浅草教会に出会ってくれるようにと、心から祈るばかりです。



2022年1月16日録音/2022年3月25日掲載 Copyright(C)2019-2022 晴佐久昌英