年間第3主日(神のことばの主日)
カトリック浅草教会
第一朗読:ネヘミヤ記(ネヘミヤ8・2-4a、5-6、8-10)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント12・12-30)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ1・1-4、4・14-21)
ー 晴佐久神父様 説教 ー
今度はオミクロンとかが広まって、フェーズが変わってしまって、また一緒に唱えたり歌ったりできなくなってしまいました。この二年間、ずっとそんな繰り返しで気が滅入りますけど、そうでなくても気の滅入ること、いっぱいあるじゃないですか。生きていれば、気の休まる時がないというか。そんな私たちですから、今日の福音書で読まれたように、イエスさまがひとこと宣言してくださるのはホントにありがたいし、その宣言は、実際に朗読していてもホントに感動いたします。
「この言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(cf.ルカ4・21)。
その「今日」は、この今日の「今日」ですし、その「言葉」を、実際に私たち耳にしました、今ね。「神の言葉は必ず実現する」ってこと、ご存知ですか。神の言葉、原語は「ダーバール」って言うんですけど、これはただの言語としての言葉じゃなくて、すべてに意味を与える本質的な「ことば」です。この言葉は、語られたならば、必ず実現します。「ああ言ってたのに、そうならなかったね」なんてことがない。そういうのは、いい加減な人間のことばです。そういう相対的なことばじゃない。絶対的なことばです。神の「ダーバール」は、必ず実現します。神が「光あれ」って言ったなら、そこに必ず光が現れる。
会堂で、イザヤの預言をイエスさまが読みました。「捕らわれている人に解放を、見えない人に回復を、圧迫されている人に自由を、主の恵みの年が告げられる」(cf.ルカ4・18)。この「恵みの年」っていうのは、ヨエルの年のことですけど、この年、奴隷は解放され、借金とか全部チャラになるんですよ。最高でしょ? 自分を今まで縛り付け、苦しめていたこと、思い出したくもない過去の失敗とか、そういう縛りから解放されて、全部まっさらに。初期化って感じですかね、パソコンで言えば。いろんな困難な問題が起こって、人間の力ではもはやどうすることも出来ない状況、「ああ、万事休すだ、どうしよう!」なんてときありますでしょう。画面がフリーズしたパソコンみたいになっちゃって。それが、新品のパソコンに生まれ変わりました、みたいな感じです。神さまがそうしてくださるって、こんなうれしいことないでしょう。
いろんな問題を、我々抱えてますけど、コロナやら災害やら、どうしても気が滅入りますけど、そんなとき、み言葉を聴きます。神さまは、常に救いの言葉を語ってくださってるんだから、それをちゃんと聴きます。神のことばは、実現する。みなさんは、今、その救いの言葉を聴きました。実は、「ああ、このみ言葉は救いの言葉だ。この言葉は実現するんだ」って、みなさんが信じたこと自体が、まさに実現なんですね。この言葉は、だから、ほんとにまごころから聴いてほしいと思います。
司祭はこうして、実際に福音書を朗読しますけれども、読んでいるときって、それは自分の言葉じゃない。神さまの言葉なんです。ただ、だれかの口がその言葉を実際に発音しないと、だれの耳にも届かない。さらにはその内容を、だれかがちゃんと解説しないと、心に届かない。今、こうして福音書をミサできちんと読み、その内容を解き明かすとき、み言葉が実現している、世界が救われているっていう、その高揚感っていうか、リアリティは、私にとっては、自分自身を励ますっていう意味でも、大切なことなんですよ。
「SEKAI NO OWARI」(せかいのおわり)っていうバンド、ご存じですか。セカオワって呼ばれてる、4人組のバンドです。先週、ライブコンサートに行ってきました。デビューして間もないころからのファンで、ツアーのたびに聞きに行ってますけど、ちょうどデビュー十周年なんですね。今回、二年ぶりのコンサートです。2020年のドームコンサートがコロナで延期になっちゃったんで。国立代々木競技場でしたけど、うれしかったなあ。久しぶりにFukaseの声を生で聴けて。Fukaseの声が、大好きなんです。しかも、今回はアルバムの発表順にヒット曲が並んでいる、ベストアルバムみたいな構成になっていて、ファンにはたまらないセットリストだったんですよ。
ただですね、Fukaseの声が、なんだか調子悪いんですよ。かすれてるっていうか、元気ないって言うか。声が抜けちゃったところもあったりで、「だいじょうぶかな?」って、心配しちゃいました。アンコールで「Diary」っていう一番新しい曲を歌ってくれて、これ、ホントにいい曲で、これを生で聴きたかったっていうのが今回の一番の目的なんで飛び上がるほどうれしかったんですけど、歌い終わったあとで、Fukaseがポツポツとしゃべり始めたんですね。「さっき、『RAIN』を歌っていて、『あぁ、なんていい歌詞なんだろう』って、自分で励まされちゃいました」みたいなこと言うんですよ。もちろん、自分で作った曲ですよ? 自分でっていうか、「RAIN」はバンドのみんなで作った曲ですけど、ともかく自分の曲に励まされた、と。アニメ映画の「メアリと魔女の花」の主題歌ですね。レコード大賞の優秀曲にもなりました。
確かに、いい曲なんですよ。サビのところにね、「虹が架かる空には雨が降ってたんだ 虹はいずれ消えるけど雨は草木を育てていくんだ」っていう歌詞があるんですけど、いい歌詞でしょう。みんな、虹が出ると「ああ、きれいだね」って見てるけど、考えてみると、それまでどしゃ降りだったから、虹が出るわけでしょう。雨がなきゃ、虹もない。確かにひどい雨だったし、災害もあって大変だった。でも、その雨が草木を育ててるんだし、そんな試練を越えたシンボルとして今、虹が出てるんだ、と。そんな歌を本人が歌いながら、自分で励まされちゃった、って言うんですよ。そして、そのわけをステージの上で告白し始めたんです。「実は、今とっても調子が悪い」って。「何をやってもうまくいかない、みなさんもそんなときあるでしょう」と。「そんな時でも、アーティストはステージに立って、歌わなきゃならない」と。「だけど、そんな最悪なときが、今の自分をつくっているし、その最悪なときが、今の自分につながっている。・・・最後に、最悪なときに作ったんだけど、だからこそ最高の歌になった『RPG』を歌います」って。「RPG」って、セカオワの大ヒット曲ですよね。これ、メンバー内で対立してバンドが危機に陥ったときに出来た曲で、ある意味バンドを救ったような意味を持つ曲なんですけど、アンコールの最後にその「RPG」を歌ってくれて、これにはこっちも思わず泣かされました。
聴いているファンたちもそれぞれに最悪な時を体験してるわけだし、これはもう共感なんてもんじゃないですよ。もう思わず「Fukase、がんばれ」って思ったし、「オレもがんばんなきゃ」みたいに励まされたし。グッときたし、泣かされたし、神父である自分のことを思ったわけです。っていうのは、私もですね、当然調子悪いときがありますから。だけど、ミサをしなきゃならないんですよ。ステージに立って身をさらさなきゃならないんです。なんかね、いつもケロっとしてね、神だ、愛だ、信仰だって語ってますけれど、当然人間ですから、落ち込むこともあるし、「えー、これからミサするの? こんな気持ちのままで?」ってときがあるんですよ。ちなみに今は元気ですよ(笑)、ご心配なく。
だけど、そんなときでもですね、入祭の歌が始まれば出て行かなきゃならないし、みなさんの前で福音を読んで、説教するわけですよ。これが、結構きつい。ところがですね、がんばって口を開けば、そんなときに限って、自分が読んでいる福音書のみ言葉に、ビンビン励まされるんです。「いやあ、そうだよねえ、そのとおりだよ」って。「ああ、もうだいじょうぶ。そのとおり、み言葉は実現する。自分はもう、救われてるんだ」って。そして、説教で福音を語る。まさに自分を励ますためにも。だから、Fukaseが自分の曲歌いながら、自分で励まされたって言ってるのが、私には我がことのように感じられて共感しちゃったし、そんな自分の弱さを、ありのままにファンの前で語るFukaseを、ますます好きになりました。
これ、みなさんもぜひやったらいいと思いますよ。神の言葉を、だれかにきちんと語ること。それも、相手はもちろん、自分を救うみ言葉として語ること。みなさんもぜひやったらいいと思います。つらいときに聖書を読んで「ああ、ほんとにそうだ」って思うのは、それはそれでいいんですけど、それを自分だけのことにしないで、もう一人の誰かに、時には大勢の人に、きちんと伝えるっていうこと。これ、「つらい気持ちを抱えたままで」ってとこが大事です。それでも語る、それだからこそきちんと語るっていうこと。それでだれかが元気になれば素晴らしいし、何よりも自分が元気になれるんです。そうやって、み言葉がみんなを共感で結ぶって、それこそは、神さまの言葉が実現してるってことでもあるんじゃないですか。この、コロナ、コロナで暗い気持ちの時にこそ、福音を語りましょう。虹がかかる空を想いつつ、「きっと、この雨が大切ななにかを育ててるんだ、つらいけど、信じて一緒に生きて行こう!」ってね。
今朝、トンガの海底火山の噴火のニュースでビックリしたんですけど、噴火で起こった津波に流された人が生還したっていうニュースです。57歳の男性ですけど、足が不自由なんですね。だから、波にのまれて流されちゃって、うまく泳げないし、何度も水に引き込まれたそうです。「8回引き込まれた」って言ってましたよ。水に引き込まれては浮かび上がり、また引き込まれては浮上しを繰り返したわけで、まあ、それは恐怖だったでしょうけど、だけど彼は、「神さまが必ず救ってくださると信じてた」って言うんですね。「その信仰によって、自分は恐怖から逃れることができました」と。
で、なぜ生還できたかというと、浮き沈みしているうちに丸太が流れてきて、その丸太にしがみついたからなんです。ただですね、その丸太にようやくつかまった時に、岸から、彼の息子が父親の名前を呼ぶ声が聞こえたんですって。流された父親を探してたんでしょう、必死に呼ぶ声が聞こえたんですけど、なんと、彼はそれに答えなかったんです。なぜなら、「ここだ!」って叫んだら、息子が海に飛び込んで助けに来ちゃうからって。これは、すごいですよね、愛する息子が危険な海に飛び込むのを防ぐために、声を出さずにそのまま流されて行ったと。いやあ、「親の愛」っていうことなんでしょうね。で、そのまんま27時間漂流して、だけど、神を信じ続けて助かりました、と。
Fukaseの言う「最悪なとき」って、だれにもあります。それは確かにあるんだけれども、そんな最悪なときに、「自分は必ず、助けてもらえる」っていう信仰、これは大きいですね。「神は、必ず救ってくださる」。その信仰があるからこそ、助かったっていうことなんでしょうけれど、その信仰を呼び覚ますのが、「神のみ言葉」なんです。今日の福音書のことばで言うならば、今も私たち、実際に捕らわれておりますし、圧迫されておりますし、見えておりません。時には、「もう万事休すだ」っていうような、「さすがにこうなったらもう救いはないだろう」っていうような、窮地があります。今までもあったかもしれない。今、そう感じている人もいるかもしれない。これから、いや、明日にでもあるかもしれない。でも、そんな最悪なときこそが、まさしくみ言葉の響くときです。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
その聖書の言葉を、今日、私たちは耳にしました。その聖書の言葉を、お互いに語ります。そのみ言葉によって励まし合い、信仰を新たにします。特に、何もかもうまくいかずに、人前では到底語れないっていうようとき、おぼれそうなほどに最悪なときにこそ、語ります。「神のことばは、実現する」と信じて。そんなふうに、自分をとおして、自分の口をとおして神が働くっていう感動をね、キリスト者であるならば、体験してほしい。
最悪なときって、実は、人に福音を伝える最高のチャンスでもあるんですよね。語る自分は最悪でもいいんです。Fukaseのように、弱っている自分として、無防備に、「自分は今、とっても調子悪い。何もかも、うまくいかない」って、一万人を前に語るっていうのもなかなか勇気のいることですよ。だけど、だからこそ、その言葉は、救いのみ言葉のように、そこにいた全員を励まして、力づけておりました。もうすぐ虹がかかるよ、そのときには雨の意味も分かるよって。
2022年1月23日録音/2022年3月28日掲載 Copyright(C)2019-2022 晴佐久昌英