福音の丘
                         

神さまの知り方

年間第4主日
カトリック上野教会
第一朗読:エレミヤの預言(エレミヤ1・4-5、17-19)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント12・31~13・13)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ4・21-30)


ー 晴佐久神父様 説教 ー


 何とか今日もまた、こうして教会に集まる事ができました。感謝です。コロナ感染についての連日の報道で、ほんとに気が重いです。私の親しい友人もコロナに感染しちゃって、肺炎で肺が真っ白になって、集中治療室に入ったんですけど、これがなんと、医者から「デルタ株ですね」って言われたとか。「今どきめずらしいですね」って言われたそうで、めずらしいって言われても嬉しくもない(笑)でしょうけど。もう一人、これまた親しい友人がオミクロンで高熱出して、今も品川のホテルで療養しております。他にも次々と感染の報告が来てますから、他人事だと思わずに気をつけましょうね。
 それにしても、連日連夜オミクロン、オミクロンって、あのカタカナの字を見てるだけで気が滅入るというか、もし次に何か流行るんなら、ただの記号じゃなくてせめてアンジェラとかベルナデッタとか(笑)、意味のある名前にして頂きたい。これ、実を言えばただの無機質なウイルスじゃなくて、なにかを僕らの社会に語りかけてるわけですからね。みなさんは、その声、聞こえてますか。人間性を失いかけているこの現代社会に、何か語りかけてますよ。

 昨日、路上生活者支援のうぐいす食堂、やりました。迷ったんですけどね、こんな時にやっていいのかって。でもまあ、ある人にとってはライフラインですから。十分に感染対策をして、工夫しながらやったつもりです。ただ昨日は、ご飯炊くのに失敗してお弁当作るのが遅れちゃって、みなさんに謝りました。お招きしておきながらね、寒い中待たせちゃってすみません、ていう感じで。練馬区から来た人もいましたからね。言ってましたけど、練馬って凄く寒いんですって。そうなんですか? 練馬は暑い時は凄く暑いし寒い時は凄く寒いんだって言って。それでも練馬には縁があって、離れられないとか。それぞれに、がんばって適応してるんですね。
 しかも、他の人が言ってました、今年は特に寒いと。その人は寝袋で寝ているんですけど、夜中に突然、気温がゴン、と下がる時があるんですって。段々冷えるんじゃなくて、風の加減なのか何なのか、寝ている間にゴン、って下がると。最近は最低が零下ですから、いきなり下がると体が反応して目が覚めちゃうんですって。で、いったん目が覚めちゃうと、あまりの寒さで、もう眠れない。そんな時に、中には酒飲んだりする人もいるけど、それは凄く危険だって言ってましたね。その酒が醒めた時に、体がますます冷えて、凍死しちゃうこともあるらしい。
 そういう話を聞くと、当然、想像力が働きます。想像してみてください、氷点下の路上で寝袋で寝ているときに、夜中に気温がゴンと落ちて、寒くて目ざめてもう眠れない、そんな夜。ちょっと想像してみただけでも、それはなかなか辛いものがあるなっていう、理解が深まります。ひとことで路上生活って言っても、そこで暮らすようになってしまった、やむにやまれぬわけがあるんです。一人ひとりにほんとにいろんな事情があって、そういう生活になっているわけですれけども、それは本人の話を聞かないと、なかなか身近に感じられないというか、あったかいベッドで寝てるとなかなか想像もつかないというか。「自分で選んでそういう暮らしをしてるんだから、自己責任でしょう」って言う人がいますけど、それは、その人の本当のところを何も知らないから言えることで、逆に言えば、知ってるつもりになってるから、想像力が働かないんです。

 イエスさまがですね、故郷の人々から崖から突き落とされそうになってますけど、これ、何でそんな事になっちゃったんですか。すべて「思い込み」のせいですよね。「この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4・22)とか言って、何もかも知ってる気になっている。彼らにとっては自分の生まれ育った故郷がすべてであって、他の広い世界を知るとか、新しい教えに興味を示すとか、一切ない。せっかくイエスが、聖書のことばが実現したって宣言しても、それが今の、ここの、この私たちのことだっていう想像力が働かない。むしろ、知り合いなんだからなにか自分たちにとっていいことをしてくれるだろうとか、そんな低レベルの思い込みしかないんです。だから、イエスから「預言者は、自分の故郷では歓迎されない」(cf.ルカ4・24)とか、「かつての預言者も自分の故郷の人たちは救わなかった」(cf.ルカ4・26-27)みたいなこと言われて、腹を立てます。身内だと、かえって自由な想像力が働かないんですね。結局、人々は憤慨して、イエスを町はずれの崖まで連れてって突き落として殺そうとしたっていうんだから、穏やかじゃない話です。思い込みって、怖いですねえ。
 以前に巡礼旅行でイスラエルに行った時、この崖見ましたよ。バスの中でガイドさんが、「右手にみえます崖が、故郷のナザレの人々がイエスを突き落とそうとした崖です」とかって。一瞬ほんとかなって思いましたけど、ナザレの会堂から追い出して、町の外まで連れて行くとしたらこの辺だっていうところに、ちゃんと崖があるんですよ。突き落とすのに丁度いい具合の(笑)、切り立った崖で、確かに二千年くらいじゃ大まかな地形はそうそう変わりませんから、「この崖です」って言われて、リアリティを感じました。思い込む人々の怖さなんて、いつの世も変わりませんし、きっと史実なんでしょうね。興奮した人たちの顔が思い浮かびます。
 故郷の人たちが、「あいつはヨセフんとこの息子じゃないか」って、知ってるつもりになっているからこそ、その本質が見えない。想像もできない。まあ、確かに、身内であればあるほど分からないってこと、ありますよね。先日も、「他の誰にでも優しくできるけど、自分の夫だけは許せない」(笑)って言ってる人がいましたけど、これ、身内だからなんです。身内だから、もうすべて知った気になってるからです。逆に言うと、他の人は愛せるっていうのは、余りよく知らないから愛せるんですね。だけどそれは、相手の本質を知らずに、都合のいい相手だと思い込んでいる、その自分のイメージで愛してるだけですから、ホントの愛じゃない。当然、知れば知るほどイメージと違ってくるから愛せなくなるわけで、それは、自分の思い込みが壊されるから愛せなくなるだけです。
 おそらく、身内で知ってるつもりでも、実は何も知らないんでしょうね。自分の基準で測って、自分の色眼鏡で見て、自分の知識で理解しているつもりでいても、それは相手そのものではありませんから、愛せない。しまいには、都合が悪いからと、排除する。じゃあ、どんな基準で測ればいいか。どんなまなざしで見て、理解すればいいか。それは、ただもう無条件で、目の前の人間を1人の神の子として見る、それにつきます。言い換えれば、その人を、まことの親である神のまなざしで見れば、そこに自然と愛が通いだす。
 ってことは、変な話、下手に相手の事を知らない方がいいんですね。私たちは、自分の狭い知識や貧しい経験で相手を知ろうとしますから、下手に知ると思い込みを増幅するだけだったりするんで。むしろ、神はすべて知って愛してるんだから、そういう神のまなざしで相手を知るって言う知り方が大事なんでしょう。第一朗読でも、神さまの言葉がありました。「わたしは、母の胎内に造る前からあなたを知っていた」(エレミヤ1・5)。凄い言葉ですよね。これが、神さまの知り方です。私の事を、良いも悪いも、全部知ってる。私の弱さも私の欠点も、私の良いところも、私の私らしさを何もかも知っている。その全てを知った上で、愛してるんですね、神さまは。そういう知り方です。
 自分がそのように知られている、まさにその神の知り方で相手も知られていることを受け入れると、愛が生まれます。どのみちその人の全てを知る事はできないわけですから、知らない全ても含めて受けとめて、「この人は神の子だ、神はこの人のいいところも悪いところも全部受けとめて愛しておられる」と信じて、私もそんなあなたのすべてを受け入れたいと願うところから、ようやく愛っていうものが湧いてくる。

 昨日のうぐいす食堂には、議員さんたちも来てくれました。都議会議員さんが応援に来てくれましたし、台東区の区議会議員さんも手伝ってくれましたし、有難いことです。台東区の区議会議員さんが憤慨してましたけど、台東区にはコロナ専用病棟がひとつもないんですって。台東区って、まさに我々の故郷ですから、今時コロナ病棟がひとつもないって、おかしいんじゃないですかって、声を上げないと。だって、結局弱い人が苦しむわけですから。お隣の墨田区ですと、例えば路上の人がもし発熱したら受け入れてくれる病院が3つあって、普段どこの路上で暮らしている人でも、仮に発熱して診療を受けたなら、もう墨田区民として扱って入院させますって言ってるとかで、「倒れるんだったら、川を渡って墨田区の方で倒れた方がいいですよ」って自嘲気味に笑ってました。
 何だか、ちょっと悲しい話ですね。路上生活者もまた、私たちの暮らすこの故郷の、いわば身内なんですけどね。見かけて、「あ、ホームレスだ」と認識したところで、実はその一人ひとりについて何も知らないわけです。身内じゃないと、この人コロナになったらどうするんだろうっていう想像力も働かない。だけど、神はその人のすべてを知ってるわけで、知った上で愛してるわけですから、たとえその人の何にも知らなくても、神は知ってるんだ、神は愛してるんだっていうような知り方はできるはず。ぼくらは、神の知り方でつながってるんです。たぶんウイルスは、人類が、本当はとても深いところでつながってるんだってことを教えようとしてるんじゃないですか。
 よく知ってると思ってる相手ほど、愛することって難しいのかもしれません。愛してるつもりでもでも、ちょっとその人の、今まで知らなかったイヤな一面を見たりすると急に愛が冷めたり(笑)とか、そんなもんなんですよ、僕らの知り方っていうのは。そうじゃなくって、神は全部知っているっていう、神さまの知り方にお任せして、何も知らずとも目の前の人を受け止めるという、超越的な知り方で結ばれること。
 イエスさまを崖から突き落とそうとしただなんて、なんとも恐ろしい話ですけど、だれでもそういう怖い心を隠しもってるんじゃないですか。だれでもの内に、期待していたのに裏切られたとか、自分たちにとって都合悪いとかいうだけで平気で排除しちゃうという、残忍な心とか、興奮状態の集団心理とかがあるんでしょうね。「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」とありますが、今日もイエスさまが、思い込みに満ちた私たちの間を通り抜けて立ち去っちゃわないようにって願うばかりです。

 昨日、私の親しい友人が泊まっておりましたけども、実は今日面接があって東京に来てるんですが、これが、イエズス会に入会するための面接なんですね。彼はもとは上智大学の卒業で、地方のカトリック系の学校で宗教家の教員として数年働いてたんですけど、このたび、イエズス会士として司祭になりたいって言い出しました。私としては、親しい友人が司祭を目指すということで嬉しい限りですが、この道ばかりは「向き、不向き」なんて関係なくて、ひたすらそれが神の望みだと信じ続ける道なんですね。自分の選びや面接官の選びとかじゃなく、「神が選んだ」ってことなんで、神が選んだんならもう、誰も文句言えないわけです。
 その彼は、どこかそんな「神の選び」を感じさせるヤツで、とは言っても一応、教区司祭か修道会司祭かってところは考えたようですけど、最終的にはスパッと「イエズス会にする」と。さすがは、教皇フランシスコを生み出したイエズス会、こういう優れた人材が教区ではなくイエズス会に行っちゃうんだなと、ちょっと複雑な気持ちではありますが。でもまあ、司祭が激減している現実の中で嬉しい事ではあるので応援しています。で、今日の10時から面接ってことで、今ちょうど面接が始まったところです。昨日、「それじゃ、明日のミサは君の召命のために捧げるよ」って言ったこともありますし、ぜひみなさんもね、お祈りして頂きたいです。
 昨日はふと、自分が神学校に入る決心した時の事を、思い出したんですね。主任司祭のところに、推薦司祭になってくださいとお願いに行った時のことです。小林五郎神父っていう、60代のちょっとぶっきらぼうなところのある神父で、この自分の事をどう思ってるかも分からないし、不安だったんですよ。教区に推薦してくれるだろうかって。主任司祭が推薦してくれなければ、神学校の受験すらできませんから。だけど、その頃の私は二十歳過ぎたばかりで、想像つくと思いますけど、教会の中で好き勝手な事ばかりやってましたし、ミサ中に抜け出して図書室で本読んでたりしてるようないい加減な信者でしたし、神父さんに迷惑をかけたこともありましたし。小林神父がね、「おおそうか、それはいい、君は神父に向いてるよ、ぜひ応援したい」なんて簡単に言うわけはないと思ってました。
 ある日、決心して朝のミサに出かけて、ミサの後で緊張しながら「ご相談があります」って言ったら、司祭館に招き入れられてソファに座らされました。そこで、思い切ってお願いしたんですね。「来年、神学校に入りたいんですが、推薦して頂けますか」と。すると、普段難しい顔してる小林神父さんが、ニコッとして、「わかった」と。そして、確か、コーヒーかなんか出された記憶があるんですけど、忘れられないのは、神父さんが目の前に座って言ったひとことです。「そうか、それじゃあ、今日から君と僕は、対等の仲間だ」。びっくりしましたし、感動しましたし、生涯忘れられないひとことです。「ああそうか、召命ってそういう事なんだ」って、その一言で、一発で理解したんです。だって、大先輩ですよ? 私より40歳も上じゃないですか。それが、「今日から君と僕は仲間だ」って言ったんです。それはもう、何ていうか、神が選んだんだからそれは絶対いいことだって言う信頼から出る言葉でしょう。君は向いてないとか、もっとこうした方がいいとか、そういう人の思いを超越してるんですね。私、そのとき、「ああそうか、そういう事だよね、信仰って。そういう事だよね、教会って。そういう事なんだよね、召命って。」ということを、あの一言で学ばされた気がいたします。
 だから私、昨日ね、明日面接だって言ってるその彼に、はっきりと「応援する」って言いました。「もう対等の仲間だ」って。これがまた、40歳年下なんですよ。摂理ですね。身近な存在だと、知ってるつもりになっちゃって、ダメなところや弱いところ、もっとこうした方がいいとか、あんな事しなかった方がいいんじゃないのとか、そういう上から目線にもなりがちですけど、その思い込みを越えて相手と対等に向かい合うには、同じ神の子だっていう想像力が必要です。その人の性質とか相性とかによらず、「この人を神は良く知っておられる、知った上で選んでおられる、そうして今、私に会うために神から遣わされてここにいる」と、そういう思いで、対等に向かい合う。
 世の中ってね、年齢とか利害関係とか役職とか、いろんな知り方でお互いに頭が洗脳されちゃってますけど、神のまなざしの中で対等にね、向かい合えば、しみじみとした愛情が湧きおこってきます。小林神父様の、あのニコッとした時の笑顔が忘れられません。この僕をそんなふうに見てくれるんだっていう喜びと安心は、今も消えません。パウロがさっき「愛がなければ無に等しい」(一コリント13・2)って言ってましたけども、考えてみると、誰かが目の前にいないとその愛も生まれないんだから、ある意味、身近な人ってほんとに有難いんですよ。自分の愛を引き出してくれる人として。身近な人に感謝しましょうね。そばにいてくれてありがとうございますって。こうしてミサで一緒にいてくれて、隣に座ってくれて、ありがとうってお互いに思いましょうね。



2022年1月30日録音/2022年4月3日掲載 Copyright(C)2019-2022 晴佐久昌英