福音の丘
                         

はい、ここにおります

年間第5主日
カトリック上野教会
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ6・1-2a、3-8)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・1-11)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ5・1-11)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 この箇所は、普通には、私たちも弟子たちにならってイエス様のお言葉通りにいたしましょう、というふうに読まれます。私たちキリストの弟子は、イエス様から「こうしなさい」って言われたら、ちゃんと従いましょうね、と。弟子たちがイエス様から「網を下ろしなさい」って言われたとき、「今からじゃ魚なんか取れっこないです」とか決めつけたりしないで、みことばに信頼して従ったように、私たちもキリストの弟子なんだから、「おことばどおりに」と言って従いましょうと、そんなふうに読まれます。
 それはそれでいいんですけれども、よく考えてみると、「キリストの弟子なんだからそうしましょう」というのは、ちょっと違うような気もする。だって、網を下ろした時点では、この漁師たち、まだ弟子じゃなかったわけですから。むしろ、言われるとおりにしたこの漁師たちを、イエスは弟子にしたんですよね。つまり、信じて「はい」って言う人を、イエスはお召しになる。そういう読み方のほうが近いのでは。実際、イエス様が声をかけても「はい」って言わなかった人達も大勢いたと思うんです。イエスから「私についてきなさい」と言われても、財産が気がかりで悲しみながら去って行った青年もいましたよね。去って行っちゃう人達には、「あなたを人をとる漁師にしよう」とは言えないわけで、イエス様は「はい」って言う人を選ぶわけです。
 もちろんみんな神の子ですから、大きな意味では神に選ばれていますし、救われるべく定められています。従わなくても、すでに救われています。それはいいんですけれども、「みんなそのような大いなる救いにあずかってますよ」という福音を広めるために、イエス様が特別に選ぶ人たちってのもいるわけですよ。12使徒がそうですよね。じゃあ、それをどうやって選んだかというと、これはもう、まずは「はい」って言う人を選ぶ。ごちゃごちゃ言わずに素直に「はい」って言う人。ペトロが、「わかりました。お言葉ですから網を下ろしましょう」って言ったとき、イエスは「こいつだ」と思ったんじゃないですかね。そういう読み方のほうが、私はいいと思います。「イエスを信じたキリストの弟子なんだから、従いましょう」というのとはちょっと違って、まだ弟子でもないし、さらにはちゃんと信じたわけでなくとも、何であれ、かんであれ、まずは「はい」って答えて、チャレンジし始める人を、神は喜んで使う。
 さらにいうとですね、同じ人でも「はい」って言える時と言えない時がありますよね。そうすると、イエス様的には、呼びかけても「はい」って言ってくれない時は、「ああ、今日はこの人は使えないな」と思って、別の「はい」って言う人を使う。もちろん、使えないからって裁くわけでもなんでもありません。人にはそういうときもあるってイエス様も知ってますし、全然構わない。ただ、イエス様も探しているわけですよ。今ここで「はい」って言う人を。ですから、ずっと「はい」って言わなかった人が、何を思ったかあるとき「はい」って言って手伝ってくれると、「おお、ありがたい、ついに応えてくれたか」って、喜んで使うわけです。
 僕らはイエスの弟子ですし、その呼びかけに「はい」と言うために召されているわけですけど、なんだか義務のように、あるいは「弟子として」とか理由をつけてではなく、何も考えずにともかく「はい」って言っちゃう素直さというか、単純さというか、そういう所を神様が使ってくださるんだと思いますよ。歳取るとね、あれこれ経験しちゃってね、「それは無理でしょう」とか、「よく考えてから」とか、「前例がない」とか言い出すわけですけど、やっぱりどこか幼子のように、素直に「はーい」ってママの言うことを聞く、そういうノリが大切です。イエス様が言いたいこと、やってほしいことなんてもうすごくシンプルなことで、「愛し合いなさい」につきるわけですから、いろいろ言わずにやってみましょうと、そうすると聖霊が怒濤のごとく働いて、魚はいっぱいとれるし、人もいっぱい救えるし。すべては、私たちの「はい」の一言から始まります。

 さっきの旧約の朗読で、とてもいいところ読みましたでしょう? イザヤの預言の、イザヤ自身の召命の個所です。神様がイザヤをお召しになろうとするんですね。そのときイザヤは、「わたしは汚れてるから無理です」って言った。「いや、わたしなんかは神様の尊いお言葉を語るような者ではございません」と(cf.イザヤ6・5)。素直に「はい」って言わなかったんです。「わたしの唇は汚れている」みたいなこと言って。すると天使がやって来て、炭火でイザヤの口を焼いて、「さあ、今唇に触れたから、あなたの汚れた罪は赦された」とか言う。で、再び神様が「さあ、誰を遣わそうか」って言うんです。面白いですね。いくら「わたしは汚れています」とか言っても、神様が炭火でジュッと汚れを取り去って、「さあ、行ってくれるか?」って聞くわけですよ。「誰が行くだろうか」と。もはやイザヤは迷いません。単純ですよね。素直なもんです。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)。これなんか、ほとんど「はい」って言わせられてるようなもんですけど、神はイザヤのその素直さをご利用になって、彼を用います。実際、その後のイザヤが、どんなに美しい預言をして、人々を救い、救い主を準備したことか。
 ちなみに、「わたしがここにおります」っていうこの言葉は、司祭叙階式の儀式の中で候補者が呼ばれた時に、こう返事するって、本来の式文ではそうなってるんですよ。それを翻訳した時に、「わたしがここにおります」っていうのは、ちょっと日本語らしくないってことなのかな、シンプルに「はい」って答える儀式にしてあるんですね。私も35年前、叙階式の時、「司祭候補者は前に出てください。晴佐久昌英、東京教区」って呼ばれたときに、大きな声で「はい」って答えて立ちあがりました。この「呼名」は、ある意味神が呼んでいるわけですから、神から呼び出された者として、私は、ただもう、「はい」と答えました。これはもう、神に向けての「はい」であって、美しい儀式だと思いますけど、原文では「わたしがここにおります」なんですね。
 私にとっては息子のように思っている大切な神父がいるんですけど、彼が叙階した時に、叙階式でこの言葉を使ったんですね。「わたしがここにおります」って。あれは、かっこよかった。私、感動して、洗礼式で使いました。日本語っぽく主語を省いて、「はい」も加えて、「はい、ここにおります」にしたんですけどね。「洗礼志願者は前に出てください」って言われて自分の名前を呼ばれたら、「はい。ここにおります」って立ちあがる。かっこいいでしょ?
 だけど、それはなにも儀式の時だけじゃない。いつでも、どこでも、どんな場合でも、私たちはそう答えるべきなんです。だって、神が探してるんですよ。神としては、すべての人に「あなたを愛しているよ、キリストにおいて救っているよ」って伝えたいわけで、そのために遣わす者を探してるんですよ。ホントに今、みんな苦しんでいるし恐れているし、神としてはどうしても福音を伝えたいんだけど、空から叫ぶわけにもいかないし、手を伸ばして助け起こすわけにもいかないから、「誰か私の代わりに福音を語って救ってあげてほしい、私の代わりに手を伸ばして助けてほしい。わが子があんなに辛い思いをして、孤立して悲しんでいる、誰か助けに行ってくれ」って、探してるんです。そんなときに、たとえみんながそっぽ向いていても、「私がここにおります。」って言う人が一人でもいたら、「ああよかった! すぐに行ってくれ」って、神は喜ぶでしょう。繰り返しますけど、「はい」って言わなくても、神は裁きません。言わない人は救われないとか、そういうことじゃないですよ。でも、神の国を実現していくためには、だれかが「はい。ここにおります」って言わなきゃならないし、そういう人を神様は常に探してるんです。今も。だって、救いを求めている人、山のようにいるわけですから。

 北京オリンピックの開会式で、聖火の点火式を見てて、ちょっと複雑な気持ちになったんですよ。聖火、びっくりしましたね。聖火台どこにあるんだろう、シュルシュルドカンって派手に点火するのかな、なんて思っていたら、なんと火のついたトーチをそのまま刺して、これが聖火台ですって。演出のチャン・イーモウ、映画監督なんですけど、さすがに芸術家は考えることが違うね。エコの時代にゴンゴン燃やしてどうすんのって感じで、小さな炎のトーチそのまんま。かっこいいなあと思ったし、復活徹夜祭のことを思い出しましたよ。「キリストの光」ってね、復活のろうそくを掲げるじゃないですか。見た目は小さな炎ですよ、だけど全ての人の心を照らす。・・・で、私が複雑な気持ちになったっていうのは、14年前の北京オリンピックを思い出したからなんです。
 私、聖火とかそういうシンボルが好きで、14年前の夏の北京オリンピックのとき、聖火を見に行きました。2008年です。ちょうど半年間パリで暮らしていたときに聖火が回ってきたんで、それを見にパリ市庁舎前に行ったんですね。実は聖火もさることながら、私が尊敬するベルトラン・ドラノエっていう当時のパリ市長を一目見たかったってのもあって。尊敬すべき人格者の市長なんですけど、彼が、聖火が到着したときに市庁舎前でスピーチをする予定だったんです。彼はそれに合わせて、市庁舎の壁面にどかーんとでっかく横断幕を掲げました。これがまたかっこいい内容で、大きな文字でたったひとこと、「パリは全世界の人権を尊重する」って。そう言う資格のある町なんですよ、パリは。ご存じのとおり、1789年、世界初の人権宣言を全世界に向かって宣言した街ですから。
 ドラノエが、なぜそんなことをわざわざしたかっていうと、これ、中国に向かって宣言してるんですね。ちょうどそのひと月前にチベット騒乱があって、それを中国が軍隊で押しつぶして、死者がでました。その時全世界は、中国のチベット弾圧に対して抗議の声を上げたわけで、特にフランスはその中心的存在でした。なにしろ平和の祭典オリンピックの直前に、その開催国が暴力による弾圧をしてる中、平然と聖火が回ってくるわけですから、人権派は激しく抗議したわけです。ドラノエ市長のことばに、「全ての人権の中で最も大切なのは自由である」っていうのがありますけど、その彼が市庁舎に「パリは全世界の人権を擁護する」って横断幕を下げて、そこでスピーチするっていう。
 で、その日市庁舎前に行ったら、もうすでに最前列にパリ在住の中国人たちが赤い旗を立てて、到着する聖火を守ろうとしてるんです。というのは、聖火は前日、ロンドンから来たんだけれど、ロンドンでは抗議活動が激しくって、大混乱になったんですね。チベットを解放しろっていう意味で、「フリーチベット、フリーチベット!」って叫ぶ群衆が聖火の行く手を阻んで、警官隊と衝突して大騒動になった。その翌日だったんで、パリも厳戒態勢で、結局、黒塗りの車の中のランタンの聖火が通り過ぎただけだったし、ドラノエさんは出て来ませんでした。あたりでは、黄色い旗を立てたチベット系の人たちや人権擁護派の活動家達と、赤い旗立てた中国系の人達が小競り合いをしてて、活動家たちが次々と警官に連れていかれて、そのたびに周囲からブーイングが起こってました。私、そのときね、日本のことを思ってたんですよ。日本ではこんなに熱く、人権を守ろうっていう人たちが大勢集まってるんだろうか。なによりも、教会自身が、「わたしたちは全世界の人権を擁護する」って掲げているだろうか、と。キリストの弟子たちは、自由を守るために選ばれた者たちですからね。パリの人たちの熱さが、なんだかうらやましいような気がしたのをよく覚えています。「チーベ、チーベ」ってね、チベットのことをそう呼ぶんですけど、大群衆が叫んでました。
 人権弾圧の現場って、リアルを知れば愕然とするわけですけど、それがどれほど悲しいこと、屈辱的なことか、私たちはちゃんとわかってないんじゃないか。フランスの人権宣言の一番最初にありますね、「人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する」と。すべては、ここから出発すべきなんじゃないですか。全ての人は生まれつき、自由。権利において、平等。当たり前っていえば当たり前。それこそキリスト教の基本でもありますから。イエス様は、徹底して自由と平等を訴えてたわけでしょう。一人ひとりが神の子どもであり、かけがえのない存在であり、この世の誰もその自由を奪って支配してはいけないし、この世のすべての人が互いに平等なんだからすべてを分かち合えと、命がけで訴えたわけでしょう。それで殺されたようなもんですよね。なのに、教会が人々を支配して自由を奪い、神の子たちがちっとも平等じゃなくなっていたから、フランス革命が起こったんじゃないですか? フランス革命って、実のところは宗教改革なんですよ。人権宣言なんて、内容はある意味、聖書じゃないですか、言ってることは。だから、今なお、人が本当に自由に生きること、権利においてみんな平等であることを教会が生きていないなら、さらなる宗教改革が必要だってことでしょう。
 それにしても、今回の北京オリンピックの開会式で、ジョン・レノンのイマジンが流れてましたけど、あれだけは出してほしくなかったな。だって、「国家なんてないんだって想像してほしい、すべての人が世界を分かち合ってるんだって想像してほしい」っていう歌ですからねえ。香港や新疆ウイグルのリアルをみんな知ってますしね。「おいおい」って突っ込んだ人、多いと思いますよ。

 まあ、実際のところ中国がどうこうって言える資格が日本にあるかっていうかというと恥ずかしい限りですし、さらに言えば我らが教会に人権がどうとか言える資格があるかって言われれば、もっと恥ずかしい限りですよ。つい数日前、私の親しい友人が、若いカトリック信者ですけど、「相談したい」ってやって来たんです。そういえばしばらく連絡ないし、どうしたのかな、なんかあったのかなって思ってたんですよ。以前はよく来てたんで。なんだろうと思ったら、こんな相談でした。
 彼が通っている教会に、彼をいつも面倒見てくれる恩人がいて、その人が重い病気になったんですって。で、彼は心配して祈ったり支えたりしていたんだけど、その教会の人たちがその人にとっても冷たいって言うんですよ。普段は立派なこと言ってても、いざとなったらまるで他人事みたいな態度で親身になってくれない、訪ねてもくれないと。まあ、もともと冷たい教会だと思っていたそうですけど、今回は相当ショックだったようです。そんな時に、その恩人が知り合いに紹介されて、とあるプロテスタントの教会に関わるようになったんですね。そうしたら、そこの教会がとっても親切で優しくて、このコロナ禍に、病床を訪ねて来てくれるは、世話をしてくれるは、みんなで祈ってくれるはで、その恩人のためにチームまで組んで助けてくれたんです。で、彼もその教会に行ってみたら、同世代の若い仲間が結構いて、みんなで福音のために活動しようっていうことで盛り上がっているし、牧師先生のお話もあったかくて福音的で、最近はずっとその教会に通ってたんです、っていう事でした。おかげでその恩人も救われているし、自分もその教会に通いたいので、しばらくカトリック教会を離れるつもりですがどう思いますかっていう、そういう相談でした。私は、なんて答えたと思いますか。お分かりですよね。「よかったね、イエス様に出会えたね、生きた教会を見つけることが出来たね」と、申し上げました。
 教会は、イエス様に呼ばれて、「はい」と言って従う人たちの集いです。苦しんでいる人、困っている人、自由と平等を奪われている人達のために、誰か一緒に働いてくれないかって呼びかけられて、「はい、ここにおります」と答えた人達のいるところが教会です。「はい」と答えて実際に網を下ろし、具体的に人を救う現場を、教会と呼びます。ですから、そこが「教会」かどうかなんて、ひと目で分かりますよ。そこには助ける喜びと、助けられる安らぎがありますから。


2022年2月6日録音/2022年5月14日掲載 Copyright(C)2019-2022 晴佐久昌英