福音の丘
                         

神の国は、造れます

主の洗礼
カトリック上野教会
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ40・1-5、9-11)
第二朗読:使徒パウロのテトスへの手紙(テトス2・11-14、3・4-7
福音朗読:ルカによる福音(ルカ3・15-16、21-22)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 まだ駐車場に雪が残ってましたけど、随分降りましたね。私はもう、子供の頃から雪が大好きですし、わくわくしますし、こういう気持ちっていうのはいくつになっても消えないもんですねえ。降り続ける雪を、ずっと眺めておりました。私の母なんかも、札幌の生まれ育ちなのに、東京に来てからも雪が降ると「あたし、雪が降ると、血沸き肉躍るのよ」って言ってました。札幌なんか、半年は雪に埋もれてたでしょうに、それでもわくわくするんですよね~。雪に秘められた不思議な魅力ってのがあるんでしょうね。
 たぶんね、日常が、ちょっと非日常に変わるときの魅力なんでしょうね。いつもより街がきれいで、静かで落ち着いてるというか、何かに包まれているというか。それこそ神さまの愛が全てを覆って、私たちは何かとてもいいものに包まれている、そんなことを思い起こさせてくれるような。何か、とてもあったかいものに包まれてる感覚です。
 雪って平等でしょ。雪の朝、よく報道のヘリコプターが飛んでますけど、大体この辺撮ってますよね。川向こうのスカイツリーを撮りたいからでしょうけど、ああいう映像見てると、屋根という屋根に雪が積もってて、全部真っ白で、きれいですよね。全ての屋根、屋上に、平等に積もってるっていう、あの圧倒的な感じが好きです。ふだんはね、偉そうなビルだとか豪邸だとかが目立ってますけど、全くお構いなしに、雪は平等に降ります。細い枝1本の先に至るまで、全部。まるで神さまから何か特別な、普遍的な恵みが注がれているかのように、きれいに、くまなく、差別なし。あの感じがいい。
 浅草教会の庭もきれいでしたよ。今まだ、ベトナムの子たちが作ったイルミネーションが残っててね、雪の夜、綺麗でしたよ。1本1本の電飾のロープに雪が綺麗に積もって、それが光るもんだから、雪がぼんぼりのように光って。植え込みの上にしつらえた電飾の上にも雪が積もって、様々な色の光がぼうっと表面に現れるわけですよ。何とも幻想的で美しくって、思わず動画に撮りましたけど。イルミネーション自体も綺麗なんだけど、雪が降るとそれがいっそう綺麗になる。
 我々の生活、街、暮らし、みんなそれぞれ精一杯やってますけど、そんな人間の努力を鎮めて、平等に包んで、その本来の良さを一層際立たせてくれる。それを目に見える形で表してくれる。なんか、神さまの愛を感じさせるんですよ。神の愛なんて言ったって目には見えないし、神の恵みが注がれるなんて言ったって確かめようもありませんけど、そんなの雪見りゃわかる、みたいな感じで、圧倒的に、一方的に、積もりました。

 この、イザヤの預言でね、「山と丘は身を低くせよ」とか「狭い道は広い谷となれ」とか、「険しい道は平らになれ」とかね、この「平均化」ね。こういうの好きです。デコボコしてたり、深い谷だったりを全部平らにしちゃう。平等化。で、何で平らにするのかっていうと、そこを通って神さまの恵みが来るからですよね。福音を伝える者が、やってくる。これ、言うまでもなくイエスさまのことを言ってるんですけど、究極の救いがやってくる、その前に、神さまは全部平らにするんです。こういう普遍主義のイメージ、大好きです。
 人って、背伸びしてちょっと目立ってみたり、私なんかは価値がないとかってしゃがんでみたり、それぞれにデコボコしてますけど、神さまから見たら、みんな平らなんです。もちろん、それぞれの個性はあっていいし、あった方がいいんですけど、それは人間の見方の中ででの話であって、神さまのみ前にあっては、背伸びしたってしゃがんだって、何にも意味がないんです。神さまはそれぞれの良さを全部、平等に愛して、それぞれに惜しみなくご自分の恵みで満たして、すべてをひとつに結んでくださるんです。まるですべてに雪が積もって雪原になるように。一人で頑張ってるんじゃない、みんなで一緒に生きてるんです。一人で落ち込んでるんじゃない、みんなで励まし合うんです。「私」が、「私たち」になっていくんです。聖書は大体、そういう普遍的な恵みの事を語ってるんですけど、それをいくら読んでても、相変わらずみなさんは細かなデコボコにこだわってて、高いものを羨ましく思い、低いものは情けなくなって。
 国語の教科書に載ってた詩を思い出します。
  太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
 三好達治の「雪」ですよね、二行詩です。とりあえず二行ですけど、これ、三郎も四郎も全部そうだって事でしょ。みんな眠らせて、みんなの屋根に雪降り積む。我々生きとし生けるものみんなの屋根に降り積む。みなさんも、昨日はよく眠れましたか? みんな、雪降り積む中、すやすや寝たじゃないですか。神さまの愛は、全存在に降り積もって、分け隔てがない。気持ちいいですね。何かこう、自分の出っ張った部分やへこんだ部分も、神さまが全て包みこんで、等しく美しく飾って、等しく守って下さるっていう福音ですね。それを信じて受け入れることを、洗礼っていうんですよ。

 今日、主の洗礼のお祝い日ですけども、私たちは主につながって救われている者ですから、みなさんの洗礼のお祝い日でもあります。先ほど読まれたパウロの言い方ですと「この救いは聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」と(テトス3・5)。「聖霊によって新しく生まれさせる」。美しいフレーズですねえ。「新たに造りかえる洗い」っていうのも、いい。「新しく」。「新たに」。それまでのあれやこれやを全部真っ白に包んじゃう。
 しかも、この最初の一行を見てください。「愛する者よ、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(テトス2・11)。こういう普遍主義の一行、いいですね。励まされます。「愛する者よ」っていうんだから、今、ここにいるみなさんに語りかけてるんですよ。「すべての人々」っていうんだから、一人残らずです。100人いたら100人、1000人いたら1000人の事です。すべての人々に、完全に分け隔てなく、です。そのすべてのひとに、「救いをもたらす神の恵みが現れました」と。人間がデコボコしてようが何してようが、神さまの救いは、もう現れました。イエスさまは現われましたし、イエスさまとつながっている喜び、イエスさまと結ばれている神の国、そういう恵みが「現れました」って、これ、過去形ですよ。もう現れたんです。
 もうすぐ洗礼式ですけど、それはもうすでに表れている神さまの恵みを、目に見えるかたちで表す、そういう恵みの時なんです。そもそも受洗者も、他のすべての人にも、すべての人に神さまの救いの恵みは現れてるんだけども、みんなそれを見ていません。気づいていません。だから、それを見える形で表す、これが秘跡であり、洗礼です。実際ですね、洗礼の時に「天から声が聞こえた」ってありますけど、何て言ったんですか。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3・22)。この声、イエスだけが聞いたんですか? 神さまの親心、聖霊が降って、「あなたはわたしの愛する子」って、みんな聞いたんです。今も聞いてるんです。「すべての人に救いが現れた」っていうんだから、私たちみんなに語りかけてるんですよ。イエス自身が、そのしるしなんです。現に、今も目の前で、こうして可愛い幼子がね、説教壇の前にトコトコ歩いて来ましたけど、ほらね、神父が話していてもみなさんの目はそっちに(笑)いくわけですよね。目に見えるってのは、凄い事なんですよ。目に見えるイエスによって、私たちは、神の愛を見て、神のことばを聞くことが出来るようになりました。「あなたはわたしの愛する子」っていう呼びかけを、イエスにおいて、洗礼によって、ミサの恵みで、こうして私たちは聞いております。

 昨日のチャリティーコンサート、ご協力ありがとうございました。紀尾井ホールまで来て下さった方、ここにも大勢おられますけど、ありがとうございました。ほんとに嬉しかったです。素晴らしかったでしょう? もう、それこそ天から聞こえる神の声もかくやっていうような、澄み切ったソプラノの歌声に感動しましたし、ついに実現できたことに感無量でした。コロナ下で生活困窮してる人が次々訪ねてくる中で、そうだ、チャリティコンサートをやろうって思ったんですね。思っちゃいけないんですよ、私は(笑)。思うのは1秒ですよ、1秒以下かもしれない。「そうだ、チャリティコンサートやろう、大村博美と一緒にやろう」って、思うのはほんと一瞬です。だけど思っちゃったら準備が本当に大変。「注意一秒、怪我一生」っていう(笑)、標語がありましたけど、でも、思ったこと、ついに実現させました。我ながらよくやったと思って、昨日帰ってからの、夜のワインの美味しかった事。ああ、もう二度とやらない。とか思っても、また何か思いついちゃう(笑)。でもね、やってよかったと思うし、あのとき、一瞬思ったのは、やっぱり聖霊だったんだなって思いますよ。
 「チャリティ」って、語源は「カリタス」ですから、神の愛ですよね。普遍的な愛ってことです。言うなれば、愛による富の平均化ですよね。平らにする。持ってる人、少しでも余裕がある人は、持ってない人、余裕がない人と分かち合って、平らに馴らすわけですよ。もとは天からの恵みですからねえ、それこそ「雪降り積む」ですから、太郎は10センチで次郎は5センチって事がない。どの家にも7.5センチ積もるんです。そういう平均化の別名ですよ、チャリティって。みんなで出し合って、みんなで楽しく生きていきましょうってだけの事ですから。
 昨日は、難民の方、路上生活者、技能実習生、生活保護受給者などなどを100人以上招待したわけですけど、これは4000円のチケット代を出した人が、「そんなお金ありません、でも行きたい」っていう人の分を出したってことにもなってたんですね。ある意味、4000円の内の2000円で誰かが座って聴いてたってことで、こういうのが、私はいいなと思うんです。わかりやすいでしょ。
 チャリティーですから、まずはお金を集めて分けあうってことで、昨日の収益の全額、およそ100万円を生活困窮者のために寄付できそうですけど、せっかくですから、チケット代以外にも募金しようと思いついて、出口に箱を置くことにしたんですね。心ある方が、帰りがけにチャリンと入れていただければ、と。素晴らしい歌を聴いて感動すると、思わずサイフもゆるむ(笑)ってこともありますから。置いてよかったです、その箱にいくら入ったと思います? 36万円。びっくりでしょ。これは全額、ホームレス支援のうぐいす食堂で使わせていただきますけど、こういうのって、わかりやすいしるしなんです。
 寄付するときって、みなさんお財布を取り出すわけですよね。入れるところは募金箱です。つまり、そこに36万円入った大きな財布ができたってことです。共用財布とでもいうか、そこから困ってる人のために使うわけで、平均化ってそういう事じゃないですか。箱の中には、2万円入ってる封筒もありました。お互いに決して裕福ではありませんけど、それでもできる限りの平均化にチャレンジする。あの箱は、或る意味神さまがみんなを平等に愛しておられるっていう事の、目に見える美しいしるしなんですよ。
 あの日、カトリック信者でもある大村博美という一人のソプラノ歌手の、祈りの心その歌声が、まさにね、雪のようにみんなに降り積もりました。彼女の声は文字通り天から降ってくるような声で、「歌声が、光る真珠の粒のように天井から降り注いできた」って言った人もいましたよ。まあ、神さまの声とまでは言わないけれども、神さまの愛がみんなに降り注いでいることを証しする、秘跡的な歌声でした。それを、特に試練の内にある人に聞いてほしかったんです。
 彼女の声は世界でもトップクラスのソプラノで、フォルテもピアニシモもホールの一番後ろまできちんと響くんです。あれがなかなか出せないですよ。みんな力んで遠くへ届かせようとするから、外に向かう無理な声になる。彼女の声は、自らの内側に向かって深く豊かに響かせるから、ホール自体が鳴り始めて、聞いてる人も震わせて、歌い手の心の奥の想いが、直接こちらの心に届いてくるんです。あれは、体験しないとわからない。何人もの人に、同じ質問されました。「すごい声ですね、マイク使ってないんですよね」(笑)。もちろん、使ってません。人間に秘められた力っていうのは凄いなと思うし、その力は聞くものを包んで、ひとつに結ぶことができる。
 実は、大村さん、とても親しくて、慕っていた恩人が去年のクリスマスに突然亡くなったんですね。最近会っていたこともあって、とてもショックを受けました。こんな気持ちで歌えるかなっていうくらいショックを受けたんです。ところが、亡くなった直後に、その亡くなった本人から小さな包みが届いたんですね。亡くなる前に送ったものです。開けてみると、ステージで使うイヤリングだった。彼女は当日ステージ上でその話をして、「今日はそれをつけて、彼女のために歌っています」って。そうして歌った祈りの歌やオペラアリアは、本当に胸に迫るものでした。すべての出来事はみんなを結ぶ聖霊の働きの内にあります。
 昨日、難民の方たちも来てくれて嬉しかったし、心の病を抱えてる人たちも涙こぼして聴いてくれた。残念ながら技能実習生は、あんまり来られなかったんですよ、みんな日中働いてますから。今度は夜にしたいな。あ、思っちゃいけない(笑)。でも、私たちは、集まるべきです。みんなで集って、祈りの歌、愛のことばをみんなで聞いて感動しているなんて、ちょっと神の国っぽいでしょ? 昨日は、それを実現しました。神の国は、造れます。ほんの一瞬かもしれませんけど、造れます。共用財布、造れます。工夫して、準備して、真心込めて、祈り続ければ、造れます。コンサートなんて1日限りですし、箱もすぐにカラになりますけど、造り続けることはできます。せっかく頂いた2022年、年末になって「ことしもまた何も変わらなかったね」とか言うのはいやだと、そう思いませんか。
 弟子たちが聞いた天の父の声って、どんな声だったんだろうって想像します。温かくて優しくて、力強くてよく響く、ほんとにみんなを包むようなお声だったんじゃないかな。誇りを新たにしてください。みなさんは、天の父から「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」って言われて洗礼を受けた神の子たちなんだから。みなさんは、愛されています。神さまのみ心に適っています。



2022年1月9日録音/2022年3月15日掲載 Copyright(C)2019-2022 晴佐久昌英