福音の丘
                         

いい子だね、いい子だね

年間第32主日
カトリック上野教会
第一朗読:列王記(列王記上17・10-16
第二朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ9・24-28)
福音朗読:マルコによる福音(マルコ12・38-44)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 死者の月ということで、先日11月3日は、浅草教会の共同墓参にまいりました。谷中の墓地、多磨霊園、そして府中のカトリック墓地の三か所を一日で回りました。それぞれの墓地にそれぞれの御家族が集まっておられて、いいお天気だったせいもあって爽やかな一日でした。いつも思うんですけど、墓参の時って、亡くなった方を思い出して彼らのためにお祈りするというよりは、天に召されて、今も天で生きている方たちが、私たちのために祈りかつ働いていることを感じとる時なんですね。彼らは、今もいつも私たちを見守ってくれています。こっちはそれを普段忘れていますけど、墓参のときは彼らの愛を思い出して、励まされ、力をもらいます。
 今日はまた、七五三の祝福式ってことで、お集りの子供たち、かわいいですね。これから素晴らしい人生を生きて行ってほしいと願いますし、今日もそんな子供たちを御両親がにこにこしながら優しいまなざしで見守っていますけど、実を言えばその御両親の両親もそのまた両親も、今は天で生きている方たちも、みんなにこにこ見守っています。彼らはこの地上を生きていた時よりも、いっそう愛情深く見守ってくれています。
 府中のカトリック霊園には東京教区の神父たちの墓がありますから、まずはそこからお祈りを始めました。墓碑を見れば、東京教区の亡くなった神父様の、そうそうたるお名前が並んでいるわけで、ああ、この人にはお世話になった、この人とも楽しくおしゃべりしたって、いろんな思い出が蘇ってくるわけですよ。私もすでに神学校入ってから40年以上になるんで、知っている方が大勢いるんですね。話したことがあるっていう人だけでも、数えたら50人以上いました。彼らもまた、精一杯生きたわけですよ、神父っていう人生を。泣いたり笑ったり、文句言ったり文句言われたり、いろんなことがあったでしょうけど、今は天上で私たちを優しく見守ってくれている。そうするとですね、やっぱり思うわけです。「さて、この墓に、私はいつ入るんだろう」、と。「いつかここに、ペトロ晴佐久昌英って刻まれるんだなあ」、と。精一杯生きた神父様方のことを思い出しながら、自分も一日一日、精一杯生きて行こうって、思いを新たにしてまいりました。

 ふと思い出すに、昨日11月6日って、私にとっては記念日なんです。個人的なことですけど、私の召命記念日なんですね。私が神父になろうと決めたのは、1977年の11月6日です。正確に言うと、5日の深夜から高熱を出して、6日の早朝まで全く眠れなかったんですね。で、もうろうとしながら召命について考えてました。それまでも司祭職についてチラリと思ったり、いやいやこんな俺は全く向いていないしとか、もやもやと考えたりはしていましたけど、その夜、熱にうかされながら、突然決心しちゃったんですよ。司祭職以外には考えられなくなっちゃった。目から鱗が落ちるみたいに、「ああ、俺は神父やるしかない、他の道はない」って。20歳になってまもないころです。その思いを書いた日記が今でも残ってますけど、そう決心してから昨日で44周年です。
 で、その日記にも書いてあるんですけど、自分にとって一番気になっていたというか、障害になってたのが、虚栄心の問題なんです。虚栄心といっても、ビッグになりたいとか、ほめそやされたいとかいうほどのことでもなくて、ともかくも人々から認められたい、批判されたり責められたりしたくない、褒めてもらえる神父でありたいと、そんな程度の話です。言ってもまだ20歳ですからね。やっぱり自分がどう思われるかっていうのは大きいじゃないですか。本当を言えば、イエス様の道を行くんですから、自分がどう言われようとどう扱われようと、批判されようと見捨てられようと、神のみ心を信じて生きる道のはずなんですけど、20歳そこそこの自分としては、自分にその道を行く覚悟があるんだろうかっていう、そこが一番のネックでした。たぶん神は褒めてくれるだろうけど、この世の人からも褒められたいとか、認められたいとか、もっと言えば愛されたい、ですね。そういう囚われがあるわけで、信者は慕ってくれるだろうかとか、この神父は間違ってるって石投げられるようなことはないだろうかとかね。そういう自己実現というか、承認欲求への囚われみたいなものを捨てて、誰から何を言われようとも、誰にどう扱われようとも、神のみ心にのみより頼めるのかっていう、その覚悟です。
 熱にうかされたその夜、その覚悟を決めました。「もういいや」、と。なんだかよくわかんないけど、神が望んでるならそれでいい、後はこんな自分を神がなんとかかんとか使ってくれるでしょ、と。司祭職に自分が向いている理由もわからないし、向いてない理由もわからない。どっちもどうでもよくなって、「あとは神様どうぞご自由に」って、そんな感じです。そこに思い至った時に、振り向くのはやめました。あの夜、熱にうかされて、ベランダで火照りをさましながら、じっと夜空を見上げてそう決心したのを、よく覚えてます。

 皆さんには、承認欲求ってありますか。誰でもあると思う。認められたい、受け入れられたい、できれば褒めてもらいたい、こんな私がこの世に存在して、これでもいいってみんなに認められて安心したい。だけど、それって、もうすでに神様がちゃんと認めてくれているんだって気づくまでは、決して満足することがないんですよ。今日の福音書でイエスさまが取り上げている律法学者たち。なんで長い衣をまとって歩き回るんですか。なんで広場で挨拶されることを好むんですか。なんで会堂で上席、宴会で上席に座ろうと望むんですか。なんで見せかけの長い祈りをするんですか。全部、承認欲求ですよね。皆から立派な人物だ、素晴らしい学者だって言われたいからです。たったそれだけのことのために、必死になってるんです。神さまがちゃんと見ていてくださるってわかっていたら、そんな無駄な事、何にもしなくていいのに。律法学者になるのって、大変だったろうって思いますよ。神父になるのもなかなか大変でしたけど、律法学者はその比じゃないと思う。勉強もし、修行もし、でもその努力の目的が、広場で挨拶されることや会堂で上席に座るためならば、それはいくら努力しても、絶対満足できない。だって、広場にはもっと大勢から挨拶されている格上の人がいるし、会堂に行けばもっと上座に座る人もいるし、これ、この世では果てしないですから。
 それに対して、この一人のやもめですよね。持っている生活費を、献金箱に全部入れます。そんなの誰も目に留めていないようでいて、イエス様は見ています。すなわち、神は見ているんです。人前で目立ちたい人は、「私、こんなに出してるんです、すごいでしょ」ってたくさん献金するわけですけど、それを人から見てもらえたらそれで十分なわけで、神のまなざしには全く関心がない。それに対してこのやもめは、誰も見ていなくても、生活費を全部、「これは神様からいただいたものだから、神様に全部お返ししましょう、あとは神様がなんとかしてくださる。神様は私を見てくださっているから大丈夫」って、差し出します。安心して、信頼を込めて、たった100円くらいですけど、彼女にとってなけなしの生活費を捧げます。人を生かすのは金じゃない、人は神の愛によって生まれて来て、神の愛によって生きて、神の愛のうちに天に召されていくのであって、100円あろうとなかろうと、すべてを天の父に委ねますっていうこの信頼は、本当に素晴らしいって、イエスは褒めるわけです。どうでしょう。私たち、人から褒められたいですか。神から褒められたいですか。このやもめは、イエスに褒めたたえられて、本人はそんなつもりなかったでしょうけど福音書にまで書かれちゃって、二千年経って今日も、こんな大勢の前で読まれる羽目になって。天国のやもめさんにしてみたら、もうやめてとか思っているかもしれませんが、神にさえ認められていれば、他の誰からも認められなくても全然平気っていう、これが我々キリスト者の境地の到達点でしょう。

 先週の京王線での事件を思い出します。あれも、承認欲求です。ハロウィンの夜、京王線の中で人を刺して、オイルを撒いて火を点けた。意識不明の重体の方が2名います。本人は大勢殺して自分も死刑になりたかったって言ってるそうで、なんでそんなことになっちゃうのかなって思うじゃないですか。一部の報道によると、家庭に恵まれてなかったみたいです。たぶん、子供の頃から、いい子だね、よくできたね、えらいえらいって言ってもらうことが足りなかったのかもしれません。同級生の証言だと、とっても優しいおとなしい、目立たない子だった。それが何であんなことしちゃうのか、私やっぱり、承認欲求だと思う。
 今年の5月頃に、トラブルがあって会社辞めてるんですね。コールセンターだったとか。コールセンターってご存知でしょう、客から罵詈雑言を浴びせ続けられる仕事です。顔が見えない相手からひどいことを言われたりして、つい言い返したりすると、クレームの嵐になるわけでしょう? それはもう人間の脳みそに耐えられるお仕事じゃないんじゃないのかなと私は思うし、そういう世の中なんだから仕方がない、食うためには我慢しろって言われても、脳みその丈夫な人は何とかなっても、子供の頃から、「もっと僕を認めて、もっと僕のことを受け止めて」って思いながら必死に生きてきた辛い脳みそにとっては、罵詈雑言やクレームは、ほとんど暴力を越えて、虐待に近いものがあったと思う。付き合っていた人にも去られ、がんばっていた会社もなかば辞めさせられるように去ることになり、もう死にたくなっちゃってもおかしくありません。
 彼は、死に場所を探して上京してくるわけですけど、そんな彼の脳みそに火をつけたのが、「ジョーカー」っていう映画です。上京する途中のホテルで見たんですね。「バットマン」っていう映画に出てくる、ジョーカーっていう悪役を主人公にした映画で、彼がなんでそんな悪人になってしまったのかという、その半生を描いています。とっても心優しい若者が、理不尽ないじめにあい、ひどい暴力を受け、社会の抑圧とか不条理な不運とか、いろんな要素が重なって、ついには人を殺し始める、それがある種のリアリティを持って描かれているという映画です。主人公はコメディアンを目指していて、自分がテレビの人気者になるという妄想の中で生きているんですけど、現実のみじめな自分と、有名になってみんなから拍手されたいという願望のギャップが次第に狂気をはらんでくるあたりは、現代社会の闇の面を見事に描いている、怖い映画でもあります。
 この映画は、そんな悪役を、まるで弱者のヒーローのように描いているという意味で、とても危険な映画でもあるんですね。子どもの頃から強者から理不尽な目にあい、権力から迫害され、踏みにじられて生きている人たちからすれば、髪を染め、ピエロのメイクをして、ど派手なスーツを着て、強者の代表であるような有名人を、テレビカメラの前で殺す主人公は、ダークヒーローなんです。そんな主人公に京王線の彼は激しく共感して、自分も髪を染め、派手なスーツを着て、車内で人を刺し、ホームから動画を取っているカメラの前でタバコをくゆらせます。全部、映画の真似なんですよ。今まで誰も認めてくれなかった自分、みじめに生きて来て、もう死のうとしている自分を、最後にそんな形で目立たせている姿は、本当に切ないの一言です。その姿は、「ねえ、僕を見て! だれでもいい、僕を認めて!」って言ってるんじゃないですか。おとなしかった一人の青年の心の奥で、闇の引き金が引かれるその瞬間に、何が起こっているのか。おそらく、それは誰もがもっている引き金であるはずです。
 人は、誰かから認められなければ生きて行けない生き物です。誰からも認められずに絶望し、混乱した脳みそは、たとえ人を殺してでも認められようとするんですよね。彼はそのまた前の小田急線の事件の模倣をして、自分も大きな事件を起こして、メディアで目立とうと思ったんでしょう。サバイバルナイフを買い、ライターのオイルとジッポライターを上野のアメ横のライター屋さんで買い、調布で新宿行きの特急に乗って、特急は長くドアが閉まったままなので、調布を出てすぐに、犯行に及びました。幼稚と言えば幼稚なんですけど、「ねえ僕を見て、僕はここにいるんだよ」っていう叫びが聞こえるようで、これ、他人事じゃないな、多くの若者が追い詰められて、混乱して、絶望している、この現代社会そのものがあらわになった事件だなと思いました。

 こういう事件が増えているような気がしませんか。私たちの社会が自ら招いている、ある種当然の事件だとも思うわけですけど。防ぐ方法はただ一つ。認めてあげることじゃないですか。神が認めてくれてるってことに気付いてもらうために、私たちが認めてあげることじゃないですか。だって、神様は認めてますって言っても、空から「いい子だ、いい子だ」って言ってくれないんですよ。ぼくらが言わなきゃならない。キリスト者こそがみんなに、「いい子だ、いい子だ。君は素晴らしい存在だよ、君にいてほしいよ」って言ってあげなきゃならない。大勢の若者が、孤立して寂しい思いをして、承認欲求をたぎらせているんだから、どんなことでもいい、「よくやったね、偉いよ、上手だね、素晴らしいよ」って、褒めてあげる。認めてあげる。承認してあげる。「死にたいなんて言わないで。君が必要なんだよ。君の辛い気持ち、よく分るよ。これからも一緒に生きて行こうよ。お願いだから、いなくならないで」って、誰かが言ってあげたら、話が全然違ってくると思う。

 今から七五三のお祝いするっていうのに、暗い話をして、すみませんね(笑)。子どもたちは、いっぱい幸せを味わってくださいね。両親に挟まれてね、綺麗な服着て、みんなに祝福されるっていう体験、絶対に必要です。そういう体験が足りない人が、身の回りにたくさんいますから、皆で承認しましょうね。暖かく受け入れて、一緒に楽しく過ごして、「あなたに会えて嬉しい、一緒に過ごせて嬉しい、あなたがいてくれることが本当に嬉しい」、そう言ってあげてくださいね。聖書には書いてませんけど、イエス様、実はこのやもめにもね、あとで何か一声かけたんじゃないかな。「生活費を全部、よく捧げたね。天の父は、あなたのことを永遠に祝福していますよ」とかってね。
 それでは、七五三の子どもたちの上に、神からの祝福を願って祈りましょう。天上の人たちも祝福してくれてますよ。神さまも、「いい子だね、いい子だね」って言ってますよ。


2021年11月7日録音/2022年1月14日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英