年間第33主日
カトリック上野教会
第一朗読:ダニエルの預言(ダニエル12・1-3)
第二朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ10・11-14、18)
福音朗読:マルコによる福音(マルコ13・24-32)
ー 晴佐久神父様 説教 ー
みなさん、ショパンコンクール、ネットでご覧になっておりましたでしょうか。今年は日本人が大活躍ということで、先月は浅草教会でその話を熱心にしたんですけど、実は先週、今回優勝したブルース・リウ君の演奏をさっそく聴いてまいりました。今、もう日本に来てるんですよ。誰が優勝するにせよ、その優勝者がN響バックにコンチェルトを弾く演奏会っていうのがあるんですね。一ピアノファンとしてそのチケットをあらかじめ確保してあったので、彼が本選でも弾いたショパンの「ピアノコンチェルト第1番」を実際に聴くことができました。で、今までもショパンで優勝したピアニストの演奏をたくさん聴いてきたんですね、ツィメルマンとかアルゲリッチとか、ダンタイソンとか。だけど今回は、コンクールでの演奏が高画質高音質で配信されていたので、様々なピアニストの演奏を聴き比べることができたわけで、その上で今回優勝したリウ君の演奏をナマで聴いたということもあって、いろんな意味で勉強になったし、深く感じさせられた事もあるので、ちょっと分かち合わせてください。
と言いますのは、「ルバート」の話なんですね。ルバートっていうのはピアノの演奏の用語で、「自由に、自分が思うように」みたいなニュアンスです。たとえば、「テンポルバート」っていう指示があれば、楽譜をその人なりに解釈して、自由にテンポを揺らす事ができる。音楽って、楽譜通りに弾くとつまんないですよね。メトロノームみたいに機械的に弾いても退屈ですから、どこかちょっと早めたり、少し間をあけたりするわけです。これは、特に指示がなくても、そういう揺らし加減が個性でもあるわけで、そこは演奏者の感性と工夫が問われるところです。
これはですね、しかし本当に微妙なんです。例えば日本人で言えば、2位の反田恭平も4位の小林愛美も、みんな同じコンチェルトの1番を弾いたわけですけど、それぞれにそれぞれのルバートを用いて、情感たっぷりに演奏していました。ただ、二人ともその思い入れがたっぷりすぎるというか、間がありすぎるというか、まあ、日本人って「間」が好きだっていうのもあるのかな、もしかすると審査員たちにとってはちょっとその「間」が耳について、やり過ぎに聴こえたかもしれません。
それに比べて、ナマで聴いたブルース・リウ君の演奏は、ある意味あっさりとした、しかし実に格調高いルバートなんですよ。「自由に」っていっても、そこは好き勝手に弾いていいってわけでもなくて、たとえば左手の方はちゃんとインテンポで弾いてるんだけども、右手のメロディをそれに気持ちよく乗せつつ、少しずらしたりする、でもそれをとても自然な流れの中でまたインテンポに回収していく、そのさじ加減っていうやつなんですね。私にとっては、ブルース・リウ君のルバートは品格があって、ホントに心に深く響いたんです。なんか、曲の秘めてる魅力を、自然と沸き立たせるような感じ。無理がないんです。はじめっからそうだったっていう感じ。
ルバートってモーツァルトの時代からあるんですけど、実は楽譜に明記したのはショパンが最初だって言われてるんですね。ただその解釈が案外誤解されていて、好き勝手に弾けると思っちゃう人もいたようで、ショパン自身もその辺を危惧して、弟子たちにはインテンポの中での揺らし加減を指導していたとかで、肝心なのはその「加減」なんですよ。私、ブルース・リウ君の演奏を聴いていて、どうして彼のルバートにこんなにグッとくるんだろうって思ったときに、ハタと気がついた事があるんです。
それはね、時間って、どんどん過ぎてっちゃうじゃないですか。で、音楽ってまさに時間の芸術ですから、ある時始まって、ある時終わるわけですよね。そうするとですね、うっとりと聴いてるその心の中で、無意識の内に、「こんなに素晴らしい感動の時間を終わらせたくない」っていう思いが、当然出てくるわけです。ああ、これをもっと味わっていたい、時よ過ぎないで、みたいな。誰もが持っているそんな想いにそっと寄り添ってくれるから、ルバートがグッとくるんじゃないかって、そう思い到ったんです。ただ同時にですね、そこをあまり強調すると、かえって意識しちゃうじゃないですか。「ああ、過ぎないで、行かないで!」って。そこを、そっと、自然に寄りそわれると、切ない思いを抱きつつも、その切なさ自体、過ぎ去っていく現実全体を肯定できるというか。
曲ってね、最初の一音から始まって、ラストの終止形までメロディが流れていくわけで、終止形がやってくると、どこか「ああ、帰り着いた」みたいにほっとするように造られてますよね。逆に言えば、その安心の瞬間を、様々なフレーズで引き延ばして、その途中のグッとくる時間を楽しむ芸術でもあるわけで、私は、この終止形に向かう旅がね、音楽のだいご味だと思ってるわけですけど、その旅自体を肯定してくれる演奏って言うのもあるってことです。
ショパンの「ピアノコンチェルト第1番」、これって、まだ彼が若干20歳の時の曲ですよ。彼は生涯にピアノコンチェルトは2曲しか作っていません。最初に19歳の時に第2番を作って、これは楽譜の出版が逆になったために数字が逆になっているんで、第1番の方が後で作ったんですね。20歳の時です。どちらも第2楽章がうっとりするようなメロディで、私はどちらの2楽章も大好きです。これ、うっとりするのには訳があって、その頃ショパンは恋愛をしていてですね、まあ、10代の青年ですから当然ですけども、コンスタンツィアっていう憧れの人がいたんです。彼はその恋ごころを第2番に託していて、特にその第2楽章はコンスタンツィアのために書かれたということもあって、ほんとに美しい曲です。ところが、この恋愛は破綻するんですね、19歳で。それで今度は2曲目の第1番の方を書くわけです。で、この、恋愛が破綻した後の第1番の第2楽章も彼女に捧げられてるんですけど、これがですね、破綻する前に捧げた曲よりもいっそう甘美で、美しいんです。っていうのもですね、これは本人が友達にあてた手紙に書いてるんですけど、自分はこの曲を、美しい想い出を見つめて書いてるんだって言ってるんですね。つまり、第2番の時はまだ渦中みたいな感じだったけど、別れた後にその美しい想い出をじっと見つめて書いた、その方がいっそう美しいってことなんですよ。そこには、まさに「時よ過ぎないで」だけじゃなく、さらにその先に、「過ぎてゆく時こそが美しい、過ぎていくからこそ尊い」っていう、全肯定の美しさがあるんじゃないですか。
演奏でも、そこのところが出るわけですよ。たとえばですね、この第2番の第2楽章の冒頭の主題なんか、これもさっきの言い方で言うなら、終止形に向かう旅、ドレミで言うなら「ラシド」に向かう旅なわけですね。そこへたどりつくまでの、装飾音とかオクターブの跳躍とか、ともかくもメロディーの流れ自体が、あの甘美な日々をじっとみつめてるわけです。それはもう切ないというか、それこそキュンです、って感じで、ショパンの想いが込められていますし、その想いを弾くブルース・リウ君の演奏、これはyoutubeに本選の時の演奏があがってますから、ぜひ聴いてみてください。
確かに、日々は過ぎていく。あの美しい想い出。胸を焦がして愛した日々。まさに「時よ過ぎないで」なんだけど、それを大きなまなざしでじっと見つめる芸術家の想いの詰まったメロディーなんです。これを、ただインテンポで単調に、(歌いながら)「ミーミファミード、レーソ、ミーミファミードレー」って演奏しちゃったら、何だか子供っぽい音楽になっちゃうんで、時よ過ぎないでっていう思いを込めて、たとえば「ドレドシドレミファソラー」の後、間を取って「・・・ソ、ラーレーレミドーラシド」って弾くから、グッとくるわけです。
ただですね、それをたとえば小林愛美のように、情感込めてたっぷりと間を取って弾くと、ただもう「時よ過ぎないで」だけになっちゃうような気がするんですよ。それに対して、ブルース・リウ君は、もっとその思いを奥に秘めて、さらに高みから弾くんですね。「時よ過ぎないで」だけじゃなく、「時は過ぎて行ってしまう。しかし、だからこそ美しい」って。その大きなまなざしを持った時にこそ、ほのかに、過ぎ去らないものが見えてくる。
福音書の最後のところでイエスさまが「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ13・31)って言ってますけど、この「滅びない」は、文字通りに翻訳すれば「過ぎ去らない」です。つまり、「私の言葉は決して過ぎ去らない」。じゃあ、過ぎ去らない「私の言葉」って何でしょう。イエスの言葉ですから、神の言葉なわけですけど、言葉の最も本質は愛を伝えるところにあるわけですから、神という親がわが子である我々に語りかけてるんですね、「愛してるよ」と。イエスはその「愛してるよ」そのものなんです。つまり、この天地は過ぎ去ってしまうけれど、私たちを愛する神の愛は決して過ぎ去らないって言ってるんです。
さらに言えば、そんな永遠の愛に包まれているならば、我々の愛も過ぎ去らないんじゃないですか。永遠の愛あっての地上の愛ですから。この過ぎ去っていく天地の中で、ささやかに愛し合っている私たちの愛も、決して純粋ではなくっても、過ぎ去らないで輝き続けるんじゃないですか。ショパンが20歳の時に切なく愛したその愛は、たかが恋愛だ、跡形もなく消え去ってしまいましたって、そういうもんじゃないと思う。今日は「貧しい人のための世界祈願日」ですけども、誰か本当に困っている人に「大丈夫、安心してね、よかったらこれ食べてください」って関わる、そういう、誰かをちょっとでも大切に思う事って、永遠なんです。決して消え去らないんだと思う。全てが過ぎ去っていくかに見えて、そこは過ぎ去らないんだと思う。
昨日、あきる野霊園に行きましたけど、上野教会の共同墓地で納骨式をして、お祈りしました。そこで、あきる野霊園の他のお墓のみなさんのためにもって、お水かけてお香振ってお祈りしました。その時に、ご遺族の方に、いつもの陽当たりの話をしたんですね。
以前に、上野教会の墓碑がすぐ裏のお墓の陽当たりを妨げているって話があって、それはすいませんってことで墓碑の両側を切ったら、ちゃんと陽が当たるようになって喜んでもらえたっていうエピソードです。で、あそこには私の両親の墓もあるんですけど、もう50年以上前に、あきる野霊園が出来て間もないころ、父と一緒にこのお墓を見学に来たことがあったんですね。その時父が、坂の途中の南に面したところを、「陽当たりがいいからここにしよう」って言ってそこに決めたんです。だけど私、子供心にね、陽当たりったって石の下に入るんだから関係ないでしょって思ったわけですが、まあそこはご愛敬で、お参りに来る方としては、陽当たりが気にかかるわけでしょう。しかし、当の本人は、もう天国に生まれてるわけで、それはもう陽当たりなんかどうでもいい、輝かしい神の栄光の世界で、永遠の世界に目覚めているんですよっていうお話です。
確かに地上はね、陽が当たったり陰ったり、愛しあったり別れたり、すべては変化し過ぎ去っていきますけど、天上で浴びているのは日の光よりはるかに輝いている、神の愛そのものです。そこでは、地上で我々がお互いに愛し合ったそのささやかな愛もまた、神の愛に照らされて輝いてるんです。さらに言えば、天上では地上よりもさらに深い交わりを持ってお互いに愛し合い、さらには、地上で愛した人を、天上でもいっそう深い愛で愛し続けています。天の国を生きている方達は、過ぎ去ったのではありません。天上の純粋な愛で僕らを愛し続けていますし、これは、決して過ぎ去らない。
この宇宙は、愛でできています。原子と原子が引き合うのも、愛ですから。その愛は、決して消えません。実際には感情的な恋愛だったり、不純な打算の愛だったりかもしれないけど、少なくとも「この人が大切だ」と思って、精一杯尽くしたり捧げたりする、その愛は決して消えません。宇宙なんて、愛のためにあるんだし、もしもそれがただ消えちゃうだけなら、この宇宙自体にそもそも意味が無い。
帰りがけに、その両親のお墓に寄りましたけど、まあ息子は冷たいもんだね、お花も持ってかなかったら、ちゃんとすでにお花が飾ってありました。どなた様が入れてくださったんだか感謝ですけど、そのうちの幾つかはもう萎れてるんですよね。この世は、過ぎ去っていく。だけど、花は萎れても、「あなたは大切な人だ、お花を捧げたい」っていうその思いは、過ぎ去らない。
そういえば、びっくりしたんですけど、お墓が減ってました。墓じまいする人が多いんですね。せっかくお墓建てても、子供や孫が信仰持ってないと、お墓守る人がいなくなっちゃう。私の両親のお墓も、隣のお墓がなくなってんですよ。ここ、買い取って拡げちゃおうかなんて(笑)、一瞬思いましたけど、そんな事したってあんまり意味ないですよね。3代過ぎたら誰も来なくなっちゃったり。上野教会の共同墓地はいいですよ、教会がお参りしてくれますから。でもそれだって、果たしていつまでなのか。
この世は過ぎ去っていくという神秘を、我々は神の恩寵として受け止めるべきでしょう。つまり、過ぎ去った方がいいんです。なぜなら、人は過ぎ去るからこそ、愛し合うからです。過ぎ去らせまいとしてピラミッドみたいに6000年も10000年も墓を守ったところで、冷たい石の下には愛はありません。
今、ミイラ展やってます。国立科学博物館。あれも、過ぎ去らせまいというこだわりなんでしょうけど、本当を言えば千年も万年もミイラを保存したって意味ないですよね。なぜなら、そんなことをしなくても、僕らは過ぎ去らないからです。私が愛された事、これは過ぎ去らない。愛した事、それも過ぎ去らない。天地は過ぎ去っても、愛は過ぎ去らない。母が私を愛してくれた事、過ぎ去っていない。私が誰か困っている人をささやかでも愛したら、それは決して過ぎ去っていかない。この世界はまるで音楽のように流れて行きますけども、時よ過ぎないで、終止形よ来ないでって切なく願う必要がありません。終止形の向こうに、すべてを包んでいる永遠の調べがあるからです。その調べが聞こえますか。天上の歌声。そんな調べに包まれて、希望を新たにいたします。どれほど困難があろうとも。今日の福音書は、「これらの苦難の後に」っていう話ですよ。
2021年11月14日録音/2022年1月22日掲載 Copyright(C)2019-2022 晴佐久昌英