福音の丘
                         

リアル「みんなの家」

年間第31主日
カトリック浅草教会
第一朗読:申命記(申命記6・2-6
第二朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ7・23-28)
福音朗読:マルコによる福音(マルコ12・28b-34)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 今日はいよいよ、選挙ですね。みなさん、もう行かれましたか? 私、今日は午後に堅信式がありますし、そのあとすぐに心の病の方たちのためのミサもあるんで、昨日、期日前投票をやってきました。誰に入れようか迷いましたけどねえ、えいっと決心して、投票しました。帰ろうとしたら、ボランティアで座ってる男性が、私にだけわざわざ、「ティッシュをお持ちください」って言うんですよ。見れば、ご自由にお持ちくださいっていうティッシュが積んであったんですけど、一瞬「どうしようかな」って立ち止まったら、また「どうぞ、ティッシュをお持ちください」。(笑)なんで、そんなに強調するんだろうと思って、ふと顔を見たら、浅草教会の信者でした。(笑)
 投票、迷います。私は結局、「一番弱い者の味方してくれるのは誰か、孤立している人を救ってくれる人は誰か」みたいな決め方になるんですけど、私が選んだ人って大抵当選しないんですよ。いつもそれで、むなしい気持ちになる。キリスト者として誰に入れたらいいものか、あんまりふさわしい人もいないし、いつも迷うところです。「NHKをぶっ壊す」とか言う人もいますけど、正直、壊すべきものは他にあるだろうって、思うわけですよ。この世界を支配している、冷酷な悪の力、人々を分断する格差の壁、利益を最優先にする社会の仕組み、そういうのを本気で「ぶっ壊す」っていう、そういう人はいませんかねえ。この閉塞状況、格差社会、若者たちの自殺が劇的に増えているっていうのが現実ですから。こんな世界に、未来、ありますか。今回も一応、精一杯選んだつもりですけど、帰り道々、ポケットのティッシュを握りながらつくづく思ったんですよ。こうなったら、選挙でだれか選んで「じゃあ、よろしくね」って言うんじゃなく、まずはこの私がキリスト者として、みんなと一緒に社会を変えていかなきゃならないんだよなってね、そう思いました。

 イエスさまが、「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12・31)って言うわけです。これ、一見難しいことのようで、非常にシンプルなことではあるんですよ。「自分のように人を愛する」って、要するに他人と自分の間の壁がない状態ですね。まあ、母親と子どもだったらね、一心同体ですから、子どもの痛みは自分の痛みで、隔たりがないんだけれども、他人となるとそうもいかない。いろんな壁があって、それを越えていくことができないでいる。「自分のように隣人を」っていうのは、なんとかその壁を越えていくってことですね。キリストは、それを越えた。まずはその越えていくことに憧れるのが、大事。イエスの模範を信じて、その真似をして越えていく、その力を願う。そういうことじゃないですか。
 第二朗読では、キリストが「常に生きていて、我々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことができる」(cf.ヘブライ7・25)と。「ご自分を通して神に近づく」って、つまりキリストの内には壁がないんですね。神と人の間の壁も取り除き、人と人の間の壁も取り除き、そこにいる人々をひとつに結び、そのまま神に結んで、完全に救うことができる。そういう、執り成しの仕事をしている。
 さっき、イエスさまが、「神を愛し、人を愛せ」って答えましたでしょ?(cf.マルコ12・29-31)「第一に、神を愛せ。第二に、人を愛せ」と。まあ、第一も第二もつながっていて、神を愛することが人を愛することだし、人を愛することが神を愛することですから、一緒です。神と人を結ぶはずの祭司たちの荘厳な儀式は、かえって隔たりを生んでしまう。むしろそういう隔たりを全部なくして、透明に神と結ばれること。隔たりなく、まっすぐに人と結ばれること。キリストがそのように全部を一つに結んでくださるんです。
 あれですよ、エフェソの手紙の有名な言葉。2章でしたか、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊してくださった」(エフェソ2・14)という、キリスト教の本質。「御自分の肉において」っていうのは、自分を捨てて犠牲にすることで、二つのものを一つにして隔ての壁を取り壊してくださったということで、これこそ、ザ・キリスト教です。現に目の前にいろんな壁があるんだけども、その壁をぶっ壊して、人々がちゃんとつながることができるようにする。これをキリスト教は目指しているし、そこにチャレンジし続けています。

 今日の午後は堅信式ですけど、堅信の秘跡って、そのような、壁を壊すキリスト者になる力を聖霊からいただくっていう、そういうことだと思っていいですよ。水の洗礼、油の堅信、パンの聖体と、三つ一緒にして入信の秘跡なんですけど、幼児洗礼でいうなら、生まれてすぐに水の洗礼を受けて、7年たったらパンの聖体を受けて、さらに7年たったころに油の堅信を受ける、と。洗礼は、神に愛されること、恵みを受けること、教会に招き入れられることですから、どちらかというと「受ける」イメージが強い。それに対して、堅信は、「与える」イメージが強調されます。神を愛し人を愛すること、人々に仕えて恵みを分配すること、人々を教会に招き入れること。一人前のキリスト者となって、自分も愛されたんだから、恵まれたんだから、受け入れられたんだから、今度は自分が隔ての壁を壊す側になって、みんなを愛し、受け入れ、分かち合うという、「与える側」になる。
 今日は、ここの聖堂に大司教さまが来られて、堅信式です。浅草教会百何十年の歴史でも、そう多くはない恵みの日です。ちなみに、菊地大司教さまはここに初めて来られるんですけど、何しに来られるんですか。私たちの司牧者として、「みんな、一人前のキリスト者として出発しろ~!」ってね、励ましに来られるんです。大司教さまはキリストの代理者でもありますから、キリストがいろんな壁を壊す、そのお手伝いをなさってるんですね。浅草教会も、隔ての壁を打ち壊して、新たに出発するときがきてるってことです。その意味では、浅草教会自身の堅信式なんです。宣教協力体という意味で言えば、浅草、本所、上野の三つの教会自身の堅信式なんです。浅草も創立百何十年ですけど、神の目から見ればほんの一瞬ですし、まだまだ子どもだったわけで、そろそろおとなの信仰を持たなければなりません。受けるばかりでなく与える信仰、守るばかりでなく打ち壊していく信仰。そんな、一人前の教会に成長する機会なんだって思ってほしい。

 おととい、以前いた教会の一人の高校生が私を訪ねてきたんですね。私、この教会に来る前はそこに7年間いたんですけど、その教会を去っていくときは小学生だった一人の男の子が訪ねてきたんですよ。立派な高校生になってて、背が伸びて声も低くなっていて、「おまえが、ほんとに?」っていう感じでしたけど、「どうしてもハレレに会いたくって、会いにきました」って言ってくれて、うれしかったです。
 思い出すのは、私がその教会を去っていくとき、教会学校の子どもたちに、「じゃあね、みんな、元気でね!」って去っていったわけですね。ところが、引越してこっちに来た夜、その小学生から電話がきたんですよ。きたんですけど、電話口でずっと黙ってるの。「どした? だいじょうぶ?」とか言っても、黙ってる。そのうち泣き出しちゃって、しゃくりあげながらようやく言いました。「・・・ハレレは、さびしくないの?」(笑)。まあ、気持ちはわかる。おととい、彼自身も言ってました。「自分は物心ついたときから、晴佐久神父しか知らない。その神父さんがいなくなっちゃって、さみしくって、さみしくって電話をかけてしまった」って。「あのとき、泣いてたねぇ」って言ったら、恥ずかしそうに笑ってましたけど、それがいまや、立派な高校生になっていて。
 それで私、「折角来たんだし、もう高校生だし、君には一人前のキリスト者になってもらいたいから、話しておきたいことがある」って、話しました。「あの頃はずいぶん君の世話もしたし、おかげで君も楽しい思いをしたんだから、今度は、みんなを喜ばせる側のキリスト者になってほしい。みんなに奉仕する、みんなを受け入れる、一人前のキリスト者になってほしい。この6年間会うことはなかったけれど、その間に神さまの導きで立派な高校生になれたんだから、そろそろ君にも『みんなの家』を作り始めてほしい。そのために、『みんなの家』が、実はどんな家だったかをお話ししたい」って。

 『みんなの家』というのは、その教会で、クリスマスに教会を挙げて公演したミュージカルのタイトルです。私が脚本、演出をして、作曲も演奏も出演も衣装も大道具も、すべて教会のメンバーで作り上げました。二年連続してやったんですけど、初代の主人公が、その彼なんですよ。なかなか度胸があって、歌も上手でね。主人公の少年は、お母さんとうまくいかなくて家出しちゃうっていう設定なんですけど、そんな子どもの気持ちを歌い上げた『ねえ、ママ』っていう曲を上手に歌ってくれました。「ねえ、ママ。こっちを向いて。ぼくを見て。話を聞いて。このままじゃ、ぼくはぼくじゃなくなってしまう」ってね、きれいなボーイソプラノで、思いを込めてね。(歌う)「ねぇ、ママ~♪」って。子どもがお母さんとうまくいかなくって、さみしい思いをしているのに、お母さんは忙しくて、子どもの気持ちがわからない。そんなママを思って、だれもいない聖堂で歌うシーンです。「ねぇ、ママ。こっちを向いて。ぼくを見て。話を聞いて」って。まあ、客は泣き出すし、本人も涙ぐむし。グッとくる瞬間でした。
 で、このミュージカルは二部になっていて、後半はその十年後っていう設定なんですね。十年たって、前半に出ていた子どもたちが青年になっている。その主人公も二十歳になっていて、これはもちろん別の青年が演じてるんですけど、その彼が、離婚した父親の死をきっかけにうつを発病して、苦しんでるんです。バンドのボーカルだったんだけど、歌えなくなってしまう。相変わらず母親とはうまくいかなくて、家には帰らずに彼女の家に転がり込んでいます。そんなとき、アル中ぎみだったお母さんも、突然亡くなっちゃうんですね。そうすると、事情もあって母親のアパートに帰れなくなり、彼女の家からも追い出されて、住む所がなくなっちゃうんです。天涯孤独になって、公園のベンチで寝泊まりするようになり、やがてこの世から消えようとする。そんな彼を、教会の仲間たちが助けて、神父さんの配慮で教会の一室に住まわせてもらいながら、病気が治って自立できるまではみんなで支援していくことにしたという、そんなような話です。
 『みんなの家』っていうのは、「教会がみんなの家だよ」っていう意味だし、正確に言えば、「みんなの家であるところこそが教会だよ」っていう、そういうテーマのミュージカルなんですね。これを、その教会を去る直前に、置き土産みたいに残してきたんです。そこには教会学校の子どもたちも、十年後の彼らを演じた青年たちも大勢関わっていましたし、教会のみんなが心をひとつにしましたし、大成功しましたし、主役の彼にとっても忘れられない体験だったわけです。だけど、まだ子供だったし、そのテーマの本質は分かっていなかったと思うんで、そこのところをお話ししました。
 「あのミュージカルは僕の創作だけど、実は、実話をもとにしてるんだ。あのときキミは小学生だったから知らなかっただろうけど、第二部に出ている青年たちのモデルになってる青年たちは、一人ひとり、実際に教会が受け入れてきた人たちなんだよ。主人公役の彼自身、実際に家出して、教会で保護してるうちにうつになって苦しんだけど、みんなに支えられて立ち直ったし、当時は精神病院の中でぼくが出会って教会に招いた青年もいたし、引きこもりだったけど、教会の仲間に出会って救われた青年も、何人もいる。そんなふうに、一人ひとり、教会に出会って、教会をわが家のように思った仲間たちがモデルだし、それが教会の本質だってことがテーマなんだよ」、と。
 現にその頃、青年会のメンバーの中にはうつも多かったし、統合失調症もいたし、引きこもりもいたし、親とうまくいかなくって荒れてたのもいたし、それこそ教会と出会わなかったら、どうなってただろうっていうような仲間たちで、支え合ってたんです。
 一人、また一人と、みんなで協力し合って家族のように招き入れたし、そういう「ここはみんなの家なんだ」ってことを共有してもらうために、あのミュージカルをやったんだってお話しして、「君も高校生になったんだから、お世話になった教会とか、面倒見てくれた神父とかいうだけじゃなく、今度は、まさに今、居場所を求めている人たちが大勢いるんだから、そういう人が教会の外を通り過ぎていかないように、お招きする側になってほしい。招いた人に寄りそって、お互いに無理せずに安心してつながっていられる、そんな『リアルみんなの家』を一緒につくっていこう」って話をしたんです。感動してたし、喜んでくれたし、「もっと話したい」って言ってくれました。
 偶然ですけど、おとといの夜には、そのミュージカルの第二部で主役をやった青年が訪ねて来たんで、「さっき、君の子ども時代の主役が来てたよ。立派な高校生になってたんで、『これからは、リアルみんなの家をやっていこう』って話してた」って言ったら、「あいつなら出来るよ」って言ってました。そういう彼も、教会に救われた一人として、いまはちゃんと彼なりの『みんなの家』を作っているところです。
 キリスト者ってね、「もう一人の誰かを受け入れる人たち」のことなんですよ。「もう一人の誰かと関わって、みんなの家をつくる人たち」なんですよ。みなさん、すでに仲のいい人たちもいるでしょうし、それはそれで素晴らしいことなんだけれど、仲のいい人のいない、さみしい「もう一人」が山のようにいるわけですよね、周囲に。「それをみんな救え」とは言いません。「すべての人を自分のように愛しなさい」とも言いません。だけど、「あなたの人生において、あと一人くらい、なんとかなりませんか?」っていう、その程度の話なんです。「せーの!」で、十人一度に受け入れて一度に愛するなんて、マザーテレサでも難しいんじゃないですか。まず、目の前のこの一人、それからあの一人っていうことでしょう? 今日、堅信式ということでもありますし、壁を壊して、もう一人の誰かを受け入れるというチャレンジに憧れていただきたい。
 まさに、さっきお話ししたエフェソの手紙の、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において隔ての壁を取り壊す」っていう、「隔ての壁」ですね。人間と人間を隔てる、その壁をぶっ壊すのが、キリスト教なんです。「人間を・隔てる・壁」をぶっ壊す。頭文字を取って、「N・H・Kをぶっ壊す・・・」(笑)。すいません、ずっとこれをオチにしようと思ってて。(笑)
 壊すべきものが、誰もの目の前に、確かにあります。壊すべき、壁。それって、なんですか。みなさんの目の前のその壁は、なんですか。人間と人間を隔てる壁。敵意、欲望、うらみ、怒り、恐れ。その壁を、ぶっ壊す。それこそはイエスさまのみわざであり、一人前のキリスト者の、使命です。



2021年10月31日録音/2022年1月5日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英