福音の丘
                         

神の国の開会式

年間第17主日
カトリック浅草教会
第一朗読:列王記(列王記下4・42-44
第二朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ4・1-6)
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ6・1-15)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 さてさて、いろいろありましたけれども、ついにオリンピックの開会式、行われましたね。先週ここで、「来週は開会式の話をいたしましょう」なんて言いましたので、じっくり拝見しましたけど、いろいろな意味で感動のツボがありました。もちろん、なんだか地味目でね、がっかりするところもあったし、たけしなんかはテレビで「金返せ」なんて言ってましたけど、まあ、それでもそれなりに意味があったというか、ともかくいろいろ考えさせられたんですね。特に思ったのは、「儀式」の力ってことです。あれもお祭りですし、その開会式っていえば、全体を表すシンボルというか、大事な儀式ですよ。私もこうしてミサという祭儀を司式しているわけですから、「みんなが集まって、心を一つにして、元気になるために儀式をする」ってことの意味をいつも考えているので、今回、すごく考えさせられました。
 儀式って、目に映るところが目立ちますけど、実は目に見えないところが大切なんです。目に映るところでは、例えば私、ドローンにびっくりして、あんなこと出来るんですね、今どきは。1824台のドローンが国立競技場の上を飛んだそうで、最初はオリンピックのエンブレムの形に平面で光ってたのが、とつぜん球に膨らんで、地球になったんです。同期してるんですよ。私、「同期」っていうのに興奮するタチなんで、夜空の光が一斉に動いてピタッと美しい球になったときには、UFO好きってのもあってワクワクしました。
 とまあ、だけど、そういう目に見えるものってのは、実はたいしたことじゃないんです。カトリックにおいては「目に見えないものの目にみえるしるし」という、「秘跡」を大切にするセンスが大事なんで、目に見えるものの向こうに何を見るかが大切なんですね。目に映るものだけ見てる人は、「なんだかショボいな」とか、「金返せ」とかって言い出すわけですけど、目の前のものの向こうに秘められた、「見えないもの」を見る目っていうのがないと、実は見ていることにならない。その意味で、今回の開会式を、儀式として見た場合、いくつかのポイントを指摘できると思います。

 ひとつには、「集まる」ってことの意味です。やっぱり儀式においては、集まるってすごいことなんですよ。これだけ「やめろ、やめろ」と言われてね、それでもやるんだったらそれはなぜなのか、っていうことですね。確かに国の経済効果だとかIOCの利益だとかいう、はしたない理由もあるにせよ、それだけだったら実現しなかったと思う。一番奥に、「それでも集まりたい」っていう熱い思いが秘められてるんだなーってことを、思いました。我々だって、「緊急事態宣言」だ、「出かけるな、集まるな」とか言われながらも、今こうして集まってるじゃないですか。そこまでして、何で集まるんですか。危険を冒してまで、ここで何をしてるんですか。目には見えないその本質、この仲間たちが集う儀式がどれだけ素晴らしいことなのかっていう本質を信じてるから目に見える聖堂に集まっているんだし、アスリートたちが集まる姿の内にも、それを信じる力が輝いていたんじゃないですか。
 先週、開会式の中心は入場行進だと言いましたけども、ご覧になりましたでしょう? あれこそまさに「多様性の一致」ですよね。いやあ、こんな国もあるのか。こんな衣装もあるのか。こんな旗もあるのかって。はしゃいでいる人たち、整然としている人たち、お国柄もいろいろで、ともかく「みんな集まる」っていう、そこに意味が生まれます。
 クリエイターの降板騒ぎとかで、急遽ゲーム音楽が流れたのには、グッときました。世界中のゲームファンが大喜びしたと思いますよ。ドラクエの序曲で始まってね、ファイナルファンタジーの「勝利のファンファーレ」、勝利したときに「パパパパン♪」って鳴るやつね。モンハンの「英雄の証」とか流れる中、文字通り勇者たちが入場してくるってのがツボでした。だって、勇者って「救う人」ですからね。お姫さまを救うんだか、この世の破滅から救うんだかはともかく、確かにこの世を救う力はあるし、みんなそれを求めてるんです。この世を滅ぼすゲームなんてないでしょう? もう、希望のファンファーレに聞こえちゃって。
 「オリンピックゲーム」っていう言い方があるくらいで、そもそもが、ゲームっちゃゲームです。しかも、希望のゲーム。確かにそこには「世界を救う力」が秘められているし、誰もがそれを直感してるし、みんな、「あそこに集まることに意味がある」って信じてるんです。その信仰によって、全世界の人が、現実世界で一か所に集まった。こんなの、オリンピックの開会式以外、どこにもないです。205の国、地域が、こんなに集まれなさそうなときに集まった。そこにしるしを感じましたし、そこに何か人の力を超えたものを感じないと、おかしいでしょう。金かけりゃできるってことでもないし、政治家がうまいことやればできるってことでもないんです。あのアスリートたちが、単に自分の利益だけじゃなく、「あそこに集まることはこの世界にとって意義があるんだ」って信じたから、実現したんです。
 その意味では、私、一番感動したのは、最初にギリシャが入ってきましたけど、その直後にどこの国が入ってきたか、見ました? (会衆から、「難民」という声)そうなんですよ。どこかの国じゃなく、「難民選手団」が入ってきた。あれには、思わずウルっときました。各国に避難している難民たちは、自分の国からは出られないんですよ、逃げて来たんだから。だけど、そのアスリートたちが難民という共通項で一致して、難民選手団として参加してるんです。オリンピックならではです。
 個人的には、ちょうど開会式の日に、上野教会で、もう一年八か月も一緒に暮らしている、私にとっては家族同然のラリットさんっていうスリランカ難民の方のためのイベントをやったんですよ。彼の一年分の生活費を捻出するために、48万円集めましょうっていうことで。神学生だった彼が、弱者のための市民運動をしてスリランカ政府から弾圧され、どんなにひどい目に合って日本に避難してきたか、そして、コロナで仕事がうまくいかず今どんな苦労をしているかなど、本人が話してくれました。それを聞いた夜に難民選手団が出てきたんで、グッときたんですね。「みんな集まらなきゃ意味はない、でもさすがに難民は無理だ、難民のことまでは考えなくていいだろう」じゃなくって、「苦難を背負っている難民のアスリートがいてくれないと、オリンピックの意味がない」っていう、その理念です。まあ、オリンピックが終わったら悲惨な避難先に帰っていくわけですから、束の間の偽善と言われればそうかもしれませんけど、全世界に難民の尊厳を意識させたという大きな役割を果たしたという意味でも、彼らも集まれたことには意義があると言っていいと思います。

 考えさせられたもうひとつは、祈りの力です。集まるのはいいけど、集まったからには絶対に祈りが必要です。あの開会式見ていても、どうにも物足りないのは、「やっぱり祈りは必要だよなぁ」ってことですね。みんなの心を一つにする儀式。みんなの思いを一つにする言葉。もちろん、特定の宗教の祈りのことじゃなく、祈りの本質を理解した式典を演出しないと、どうにも締まらない。オリンピックの本質である普遍主義、それを普遍的な形でどうやって表現し、みんなを祈りの心で一つにするのか。追悼のダンスとかはありましたけど浮いてたし、すごくもどかしい気持ちになりました。
 あえて言えば、あそこで祈りの司式をするべきは、天皇ってことになるんですかね。普段から国民の幸いを祈って宮中祭祀やってるわけですから、宗教を超えた普遍的な意味で、「全世界の幸せを祈ります」って、手を合わせて静かに頭を垂れたらかっこよかったんですけどね。そう言えばあれですね、天皇が開会宣言で起立したとき、隣で我が国の総理大臣、ぼんやり座ってましたね。ああいうのっていうのは、事務方がちゃんとしてないってのもあるでしょうけど、それ以前の、儀式のセンスの話なんですよ。象徴天皇が隣で立ちあがったら自動的に立つとか、それは儀式の象徴を常に意識するっていう、センスの話なんです。私、あれ見てて、「おいおい、立たんのかい、打ち首もんだ!」って、叫んじゃいましたけど、ぼくがそう言った瞬間に立ち上がったんで、(笑)聞こえたのかもしれない。
 なんでそんなとこに敏感かっていうと、私がいつも司式してるからですね。ご存じですか、司祭が立っているとき、侍者も立ってなきゃいけないんです。司式司祭が立ち上がったら、侍者は必ず一緒に立つし、司式司祭が座る前に先に座っちゃいけないっていうルールがあるんですよ。(座っている侍者を振り向いて)今は、いいんですよ?(笑)説教の初めに「どうぞお座りください」って言ってるんだから、いいんです。そんな儀式をすでに一万回くらいやってきてると、思わず「おいおい、立たんのかい!」って思っちゃう。こういうのって、「これはそもそも、全世界の平和を願う式典なんだ」とか、「みんなが集まって、祈りの心で一致するときなんだ」みたいな霊性というか、目に見えない世界を重んじるセンスがないと、なかなかまともな式典を演出するのも難しいわけですよ。ぼんやり座ってるとかって、結局は、心が形に出ちゃいますから。まあ、みなさんそんな修行もしてないでしょうし、演出家や政治家を責めたってしょうがないんですけど、う~ん、にしても祈りの心がほしかったなぁ。祈りの言葉も、ほしかったなぁ。
 まあ、バッハ会長がやたらと長い挨拶して、それでも難民選手団に「ようこそ」って言った時は、「よくぞ言ってくれた」って思いました。「あなたたちを、私たちは両手を広げて、受けいれます」と。「ここが、安心できる、あなたたちの家です」と。「オリンピック・コミュニティへようこそ」って、彼らに向かって語ったんです。「オリンピック・コミュニティ」って言いましたよ。全世界の人たちが集まって、同じルールのもとで、心を一つにする時間、空間を共有するコミュニティ。とりとめのない開会式でしたけど、その向こうに期せずして浮かび上がった、何かとても美しい、目に見えない世界を感じ取りました。
 イエスさまもね、みんなを集めて祈ってますね。「五千人」(cf.ヨハネ6・10)集まってますでしょ。で、集まったその五千人のことを気にかけてるわけです。「この人たち、疲れてるだろうし、お腹すいてるだろうから、お腹いっぱい食べさせたい」って。それが、祈りでしょう。祈りは愛からしか生まれません。その祈りに、天の父は応えるわけです。集まって愛し合い、祈り合う。イエスさまの周りにいつもあったことですし、それが今日まで続いていると言ってもいいです。こうして、みんなが集まって祈る、その真ん中で司式しているイエス・キリスト。今日だって、天皇が国民のために祈るように、ここで我々のために祈っているのは、イエス・キリストなんです。全世界の祭司ですね。地球祭祀です。イエス・キリストがみんなを一つにしたいと願い、みんなの希望となって、みんなを救っていく。実際にみんなのお腹をいっぱいにして、愛の集いをもたらす、イエスの祈りです。
 特定の宗教を超えた、本当に透明な、大いなるミサが全世界で捧げられることを私はやっぱり夢想しますよ。ここに集まっている私たちは、少なくともこの時間はケンカなんかしないわけですし、お互いの幸せを祈り合うわけでしょう? 可能なんじゃないですかね。そういう、みんなを一つにする力をこそ、キリストって呼んだらいいと思う。そんな救いがイエスのうちに秘められているし、特定の宗教や、特定の儀式じゃないかたちでそれが開かれていく。「オリンピック・コミュニティ」があるんならば、現実の世界で難民をトップに歩かせるような「全人類・コミュニティ」を、キリスト者はきっとつくり出せるはずなんですけどねぇ。

 希望というなら、三つ目に考えさせられたのは、そういう「希望の力」です。イエスさまのもとに集まってきた人たちも、イエスさまが病気を癒してくださるし、「この人は王になって、我々を解放してくれるんじゃないか」って、みんな希望を持ったんですよ。もう、苦難の現実にうちひしがれてたんだから、当時の人たちは。みんなを満腹にさせてくれるこの方に、希望を新たにした。
 オリンピックの希望のシンボルは「聖火」ですけど、私は今回のオリンピックの聖火をぜひ直接見たいと、ずっと思ってました。というのは、前回、1964年の東京オリンピックの聖火を、私、直接この目で見てるんですよ。長生きするもんですねぇ。六歳でした。オリンピックの期間中に七歳になったんですけど。開会式が10月10日の土曜日ですから、おそらく翌11日の日曜日だと思う。「オリンピックを見に行くぞ」って、父親に国立競技場に連れていかれて、こっちはオリンピックなんて知りませんから、「何しに行くんだろう」と思っていたら、国立競技場の観客席の上に聖火台があって、炎が燃えてるのが外からでも見えるんですよ。「あれが、オリンピックだ」って、父親はうれしそうに見上げてました。
 あれから57年、また東京にその聖火が灯ったわけです。「あのとき、親父は何を思ってたんだろう」って思いますよ。札幌から大東京に出てきて、まだ数年です。貧しい暮らしでした。オリンピックの炎を見上げて、希望を新たにしたんじゃないですか。ちなみに、その年の12月8日に東京カテドラルが献堂式だったんですよね。7歳の私、そこで侍者しました。「神父さんが立ったら、すぐに立つ!」とか、(笑)叩き込まれたわけですけれど、そんな時代。カテドラルが建って、新幹線が走って、首都高が開通して。親父としても、この自分がそんな東京でオリンピックを目の当たりにしているっていう高揚感があっただろうと思うんですよ。そんな希望の炎を、息子にも見せたかったんでしょうね。
 そんなこともあって、実は昨日、その聖火見てきちゃいました。開会式終了後にお台場に移されるっていうんで、開会式の翌日に、すぐに見に行きました。不穏なこのご時世、いつ消されちゃうかわかんないですから。「おお、57年ぶりだ、また逢えたね」って、聖火にパン、パンって手を合わせてきましたけど、聖火ってやっぱり希望のシンボルだなあって改めて思って、しばし燃える炎を見つめていました。っていうのはそのとき、池江璃花子のことを思い出していたからです。
 覚えてますか。開会式のちょうど一年前、国立競技場の真ん中で、ランタンの灯を掲げて池江璃花子がスピーチしたんですよ。それを聞きながら、心から祈る気持ちになったのを覚えてます。今思えば、ほんとにみんなを一つにする言葉ってあるんですよね。あのとき、彼女は言いました。「逆境から這い上がっていく時には、どうしても希望の力が必要です」と。「希望が遠くに輝いているからこそ、どんなにつらくても前を向いて頑張れる」と。「私の場合、もう一度プールに戻りたい、その一心で、つらい治療を乗り越えることができました」と。そして、最後にこう言ったんです。「世界中のアスリートと、アスリートから勇気をもらっているすべての人のために、一年後の今日、この場所で、希望の炎が輝いてほしいと思います」。
 彼女にそう言われて、もはや祈るしかなかったんですけど、実際に一年後に開会式が行われ、よもやそこに彼女自身も参加しているとはね、あのときは本人はもちろん誰も想像しなかった。一年前にランタンを掲げた同じ場所に、おとといは彼女もいて、まさに「希望の炎」が夜空に輝いたのを見上げてるんですよ。だからね、いやもう、実はあの開会式を司式していたのは、一年前の彼女なんじゃないですか。あの時の彼女のひと言で、もうすでに開会式が始まってたんじゃないですか。大和の国には、言霊ことだまっていうのがあってですね、委員会の会長だの政治家だののきれいごとじゃなくって、人知を超えて、天が語りかけているかのようなことばってあるし、それは人々を動かします。あれはもう、開会宣言でしょう。オリンピックを開会させたのは間違いなく、ちょうど一年前の、あの儀式です。

 「キリストの光」という希望を、私たちも輝かせましょう。弟子たちは「二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(ヨハネ6・7)とか、「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(ヨハネ6・9)とか、言ってますけども、そういうのは人間の言葉です。イエスはパンを取って、感謝の祈りを唱えて、人々に分け与えられました。(cf.ヨハネ6・11)これが、儀式の力です。二千年経っても、今このミサで実現していることです。最後の晩餐という儀式は、神の国の開会式なんですよ。私たちはこのミサという集いに、ほんとに透明で純粋な希望を見ます。すべての人が平和に暮らす夢のコミュニティを具体的に始めましょう。苦しみを越えてそれは必ず実現するっていう、希望の炎を掲げます。



2021年7月25日録音/2021年8月18日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英