福音の丘
                         

炊き出しの行列に並ぶイエス

年間第18主日
カトリック上野教会
第一朗読:出エジプト記(出エジプト16・2-4、12-15
第二朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ4・17、20-24)
福音朗読:マルコによる福音(マルコ6・7-13)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 今日から、8月。神父になってからは8月はいつも加計呂麻島で青年たちとキャンプをしているので、本来ですと今日もいなかったはずなんですけど、コロナで出かけられませんでした。それにしても、最近の東京は暑いですね。島って、案外涼しいんですよ。南の島は暑いかと思いきや、海洋性気候ですから、あまり気温が上がらない。朝夕はすごく涼しいですし。この東京の暑さは、本当に参ります。まあでも、せっかく今年の夏は東京で過ごすんですから、何か福音のために働くチャンスはないか、神の国のために工夫できないかと、毎日のように考えています。コロナの中でも、きっと何かいい道があるはずだ、ってね。
 昨日は、ホームレスのためのうぐいす食堂をやりました。と、翌日にこうして上野のみなさんに報告できるのは珍しいんですよ。うぐいす食堂は最終土曜日なんで、翌日はいつも浅草教会ですから。ところが、年にほぼ一度だけ、最終土曜日の次が第1日曜日になる日があって、今日がそれなんですね。いつもうぐいす食堂でいろんな感動を味わうんで、その翌日に浅草で「いやあ、昨日うぐいす食堂でね…」って話をしてるんですけど、そもそも上野でやってることなんで、今日はそれを上野のみなさんにお話できて嬉しいです。
 もちろん、感染症対策は十分気を付けてやってるんですが、本来はテーブルでスタッフも一緒に食べるんですけどそれが無理なんで、今は手作りのお弁当を大体50食作ってお持ち帰りしていただいてます。とは言ってもみなさん遠くからお腹すかせて来てるんで、せめてその場で何か一口召し上がっていただこうと、昨日はおそうめんを茹でてお出ししました。茹でたおそうめんをおわんに入れて、おつゆを注いでネギをちらしたものです。屋外の壁際にテーブルを並べて、距離を開けて5~6人ずつ壁に向かって座って、黙食していただくという方式です。結構「おかわり、おかわり」で好評だったんで、おそうめんをずっと茹で続けて、ずっと出し続けました。うぐいす食堂は招待状をお渡ししてお招きする方式なんで、だいたいいつもお弁当の数がぴったりなんですけど、昨日は突然来た方も多く、何人かお弁当が当たらない人が出ちゃったんですね。申し訳なかったですよ、やっぱり。暑い中を歩いてくるわけですから。それで何にもありませんていうのは申し訳なかったんで、「ごめんなさい」、「ごめんなさい」って謝るばかりでしたけど、幸いおそうめんはいくらでもあるんで、とりあえずそれをお腹いっぱい食べていただけたんで、そこはよかったかなあと。
 だけど、昨日も迷ったんですよ、おそうめんを出すか出さないか。これだけ感染が増えていると難しいかなあと思いつつ、でも、たとえば緊急事態宣言のおかげで外で酒飲めないって文句言う人たちなんかは、別に飲まなくたって生きていけますけど、昨日来た方たちは、今日食べる物がないっていう方たちですよね。やっぱりまずはおそうめんでお腹を満たしていただいて、お弁当はあとでゆっくり召し上がっていただきたいな、と。お腹すいてると、ほんとに情けない気持ちになりますから。
 実際に昨日、並んでる方の中に「今日、初めてです」っていう人がいましたよ。うぐいす食堂がじゃなく、炊き出しに並ぶの自体が初めてですって。人生で、初めて炊き出しに並ぶ。どんな気持ちでしょうか。結構ちゃんとした身なりの方でね。聞けば最近、コロナの影響で住む所を失い、行政の援助を受けて今はホテルに泊まっているとか。でも、ホテルでは飯は出ませんから、人づてに聞いて来ました、と。この方、もう74歳なんですけど、本当に済まながるんですよ。「こんなことになっちゃって、すみません。こんなこと初めてなんです、本当に申し訳ない、申し訳ない」って済まながるんで、「全然申し訳なくないです。困った時はお互い様だし、私たちは神さまが出会わせてくれた家族だと信じて、分かち合って一緒に食べましょう」って申し上げました。
 だけどね、これ、他人事じゃないですよ。あり得る話なんですよね、誰にだって。家族を失くして一人ぼっちになりましたとか、運悪く住む所を失いましたとか、いろんな理由で。大きな病気をして働けなくなったとか、騙されて蓄えを失くしたとか、それこそコロナで、天災でと、理由なんていくらでもありますから。だけど、そんな時に「炊き出しがあるからいいや」って簡単には思えないんですよ。だれだって、やっぱり行列に並ぶのってね、どうしても申し訳ないっていうか、恥ずかしいっていうか、情けない気持ちになるっていうか、それは当然だろうと思います。だからこそ工夫してね、ここがみなさん気兼ねなく安心して来られる家族的な場所ですよっていうことを何とかわかってほしくって、おそうめんをゆでたり、いろいろ工夫するわけです。初めてだというその方も、お腹いっぱいおそうめん食べていただきましたし、お弁当をもらって喜んでお帰りになりました。
 ちなみに、今月8月は毎年お休みにしてるんで、「次回はお休みでーす」なんて、こっちは簡単に言うわけですけど、路上生活の方から言われちゃいました。「いやあ、だけど、今年の8月は都の公園清掃事業が全部お休みになっちゃったんで、仕事がないから大変なんだよ」って。彼らは普段は、都が管理する公園施設なんかのお掃除をして生計を立ててるんです。私たちが散歩する公園がいつも綺麗なのは、そういう方たちのおかげなんですけど、それが8月は全部お休みになっちゃうと。うぐいす食堂も、むしろ8月こそ何かしなくっちゃと思わされました。もっともっと工夫しなくちゃなりません。

 でも昨日は、ホームレスのみなさんにいいプレゼントが出来ました。新司祭の叙階記念カードを差し上げたんです。ちょうど一昨日、以前から親しくしている新司祭が会いに来てくれたんですよ。今年の4月29日に叙階した、とても人間味のある素晴らしい神父です。あんなに優しい神父、いませんよ。若い頃は引きこもりの経験者ですし、アルコール中毒を患っていたこともあります。今はすっかり乗り越えましたけど、そういう人間の弱さや痛みを抱えているからこそ、同じように苦しんでいる人に寄り添うことができるんでしょう。実際、長く引きこもりの自助グループのお世話をして来たということですし、自分自身もそういう仲間たちに助けられてきました。だからでしょうけれど、記念カードの裏の聖句に、パウロの言葉を引用していました。『神は知恵あるものに恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました』(1コリント1章27節)という箇所です。きっと、彼自身の本音の思いなんでしょう。自分には知識もないし力もないし、いままで人のお世話になって生きてきたし、時には問題を起こしてみんなに心配をかけたし、でも、神はこんな私を選んでくれた。だから、私は精いっぱい、神の国のために働きたい。神のみ心に沿って生きていきたい、と。そういう思いです。
 そのカードの表の絵が、そんな思いのこもった、とっても印象的な絵なんです。ドイツ人の作家が描いた、白黒の木版画なんですけど、炊き出しの行列の絵なんですよ。暗い顔した貧しい身なりの人たちが炊き出しの行列にじっと並んでるんです。並んでるってことはまだ食べてないってことですから、お腹をすかせて情けない気持ちで並んでいるわけですね。その、寒そうにボロ布にくるまったりしている人たちの中に、なんとイエスさまも並んでおられるんです。タイトルが、『炊き出しの行列に並ぶイエス』っていう絵なんですけど、これを叙階式のカードに選ぶのって、覚悟がいりますよね。私、一目見て感動しちゃいました。
 それを彼が、「みなさんに配ってください」って何十枚か持ってきたのを預かったのが一昨日で、それを今日、みなさんにお配りするつもりだったんですけど、ほんとに申し訳ない、昨日のうぐいす食堂で全部配っちゃったんです。ホームレスのみなさんに。だって、カードの絵そのまんまに、実際に炊き出しの行列に並んでるんですよ、ホームレスのみなさんが。これはもう、この人たちにこそ配らなくっちゃと思って、配っちゃいました。何枚かは残ってるんで、聖堂の外に貼っておきますから、後でぜひ見ていただいて、この新司祭のために祈っていただきたいんですけど、そんなわけで、カードはなくなっちゃいました。
 でもね、みなさん喜んでくれましたよ。いつもお弁当を配る前に、ホームレスのみなさんにちょっとだけ福音のお話しをして、一緒にお祈りするんですけど、昨日は50人くらいいたのかな、このカードを見せながらお話しました。「これからみなさんに、このカードをお配りします。これは、神学校を卒業して神父になる時に、新司祭が記念に作って配るものです。私の友人が先日神父になってこれを作ったんですが、今日はこれをどうしてもお配りしたくなりました。っていうのは、この神父は引きこもりも経験していますし、アルコール中毒だったこともあるんです。だけど、イエスさまに出会って、どんなに苦しい時でもイエスさまが共にいてくださると知って、救われました。それで、神父になった記念のカードに、こんな絵を選んだんです。ごらんのとおり、ホームレスたちが炊き出しに並んでるんですけど、その中にイエスさまも一緒に並んでるんです。『炊き出しの行列に並ぶイエス』というタイトルです。みなさんも本当につらい思いをすることがあるでしょうけど、みなさんの間にも、必ず救い主がおられます。今日もこうして並んでいただいてますけど、この行列の中にも、必ずイエスさまが一緒にいてくださるって、信じてほしい。イエスさまは、みなさんの苦しみを知っておられます。それを知るためにこの世に生まれて、みなさんと一緒に苦しむために十字架を背負っておられます。天の父である神さまがみなさんを我が子として本当に愛しておられるしるしです」
 みんなうれしそうにカードを受け取ってくれたんですけど、ある人が、私がそう話している間、一羽の鳩が私の話を首をかしげながらじっと聴いていましたよって、教えてくれました。鳩といえば聖霊のシンボルですから、きっとこのカードには聖なる霊が働いてるっていうサインじゃないですかね。たとえば、カードをもらったホームレスの方が、何かとってもつらい思いをしたりしたとき、ふっとポケットからこのカードが出てきて、「ああ、救い主が一緒にいてくれるからきっとだいじょうぶだ」って安心したり、「そうだ、久しぶりにうぐいす食堂に行ってみよう」って思い出してくれたりとか、きっとそういう働きをするんじゃないかな。

 今日読んだヨハネの福音書ですけど、大勢の人が一緒にパンを食べた翌日、みんなイエスさまを追いかけて湖の向こう岸まで行くわけですね。するとイエスさま、こう言うんですよ。「みんな、食べて満足したから、もっと食べれるかと思ってきたんだろう」ってね。まあ、追いかける人々の気持ちはわかります。空腹はつらいですから。でも、食べたパンは、朽ちる食べ物だから、やがてなくなる。そうではなく、朽ちることのない、永遠の命に至る食べ物があるからそれを食べなさいとイエスさまは言います。その上でイエスさまは「私を食べなさい」と言うわけですから、よくこれは御聖体のことだと言われます。もちろんそういう読み方もできますし、ある一面そうなんでしょうけど、それだけじゃないでしょう。
 ただお腹いっぱいになるパンを食べるんじゃなく、永遠の命に至るイエスを食べるって、それはどういうことですか。これが御聖体のことだけだったら、例えば、昨日の行列でいうならば、ホームレスのみなさんがおなかいっぱい食べました、だけどそれは朽ちる食べ物だから、またお腹かがすく。そういう朽ちるパンじゃなくて、永遠の命に至るご聖体を頂きましょうってことになっちゃう。うぐいす食堂に来てお腹いっぱい食べたんなら、次は洗礼を受けてミサで御聖体をいただきましょうねっていう話になる。これはいくらなんでも狭すぎる読み方なんじゃないですか。そもそも、イエスさまが最後の晩餐で、「これは、私のからだである」とか、「これを私の記念として行いなさい」とか言いましたけど、その「これ」って、単に手にしている物理的なパンや儀式のことじゃないと思うんですよ。「これ」っていうのは、そのパンを囲んで共にある愛の集いのことでしょ。この愛の集いを食べなさい、この愛の集いを続けなさい、この愛の集いを世界中でいつまでもやっていこうよ、そういう意味じゃないですか。御聖体っていうのは、そのような愛の集いがここにあるという恵みのシンボルなんであって、まずは、最後の晩餐がそうであったように、貧しい弟子たちの集い、傷ついている人たちが集まって一緒にご飯を食べるような愛のコミュニティ、分かち合い、許し合い、助け合う共同体こそが、「これ」なんですよ。
 ですから、イエスさまが「私のもとに来なさい、私のもとに来るなら決して飢えることがない」って言う、その「イエスのみもと」って言ったって、それはご聖体のそばとか聖櫃の周りとかじゃない。そういう物理的な話なら、聖堂の隣の部屋で暮らしている難民のラリットさんなんか、一番イエスのもとにいることになる。距離の話ならね。本当の「イエスのみもと」っていうのは、たとえばそのラリットさんで言うんだったら、ちょうど先週、この教会でラリットさんを支援する集いをやりましたけど、ああいう集い、そこに集まってくる仲間たち、苦しんでいる人と共にいて具体的に支え合う共同体こそが、「これ」なんです。イエスのみもとなんです。イエスイコール愛の集いであって、そんなのどこかの場所でもないし、組織でもないし、神学的な定義でもない。単純に、愛をもって人が集まっている所。家族的な集い。具体的に人を救う仕組み。そのような工夫。そのようなチャレンジ。そのような情熱。それが「イエスのみもと」なんであって、そのイエスのもとにさえ行けば、飢えることも渇くこともない。それだけの話です。
 イエスさまは炊き出しの中におられます。だから、イエスのもとに行きたかったら、炊き出しの行列の現場に行けばいいんです。もちろん、炊き出しだけじゃないですよ。愛の集いなんていっぱいありますし、それは普通にはキリスト教と関係のないと思われている集いなんじゃないですか。でもそこにこそイエスさまはおられますし、そこに行けばイエスを食べ、イエスと一致し、イエスと共に働ける。「私が命のパンである」っていうその「私」って、愛の集いそのもののことだし、愛の集いこそが生きる糧だってこと。イエス=教会=愛の集い=具体的にちゃんと分かち合っている現場。そういうことになる。それで言うなら、今日の私たちのこの集いは、イエスのみもとですか。教会ですか。愛の集いですか。どうなんでしょうね。
 そういえば、さっき一人の侍者さんが、ミサの直前に聖堂の中を鳩が飛んでたって言ってましたけど、昨日の鳩なのかな。二階席のどこかで、この話も聴いてるんじゃないですか。コロナ対策で一日中聖堂の窓を開けっぱなしにしてると、いろんな方が入ってきてくれて、いいですよね。開かれた教会。内と外をバチっと壁で仕切るんじゃなくてね、だれでも入ってこれるイエスさまのみもと。この美しい集いを、守っていきましょうね。神さまのおつくりになった、素晴らしい集いです。イエスに出会える、愛の集いです。最近、特に若い人が、こういう集いを求めてるんです。たぶんコロナのせいで人生を考える若者が増えてるのを、肌で感じますよ。教会に道を求めて訪ねて来る青年が、確実に増えてます。それはもう、神の愛に導こうとする聖霊の働きでしょう。一応お会いしていろいろ福音を語りますけど、それよりなにより、まずはうぐいす食堂を手伝ってもらうことにしてます。それがイエスに出会う、一番の近道ですから。
 昨日も、3人手伝ってくれました。もちろん信者じゃないんですけど、さっきのカードをもらって、私の話も聞いてましたし、路上の方々とずっと話し合ってましたから、イエスさまに出会ったんじゃないですか。そのうちの一人とはその夜一緒にご飯を食べ、夜遅くまで福音について語り合い、ついにはラリットさんの隣の部屋に泊まりました。英語が話せるんで、ラリットさんともおしゃべりできて、すごく喜んでました。その青年、ホントにびっくりしてましたし、感動してましたよ。「路上生活の方も集まって来るし、難民の方も住んでるし、教会ってすごいですね」って。道を求める大勢の人が、「イエスのみもと」を探してます。路上の方、難民、心を病んでいる人、みんなをお迎えして、これからもお世話してまいりましょう。彼らがここからいなくなったら、青年たちも来ないでしょう。鳩もいなくなるでしょうね。



2021年8月1日録音/2021年10月1日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英