福音の丘
                         

人里離れたところの希望

年間第16主日
カトリック浅草教会
第一朗読:エレミヤの預言(エレミヤ23・1-6
第二朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ2・13-18)
福音朗読:マルコによる福音(マルコ6・30-34)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 梅雨が、明けました。・・・というこの私の声ですけど、いつもより若干明るいなって感じるならば、それは梅雨明けのせいです。私、何が好きって、夏休みより好きなものはない。こんな歳になってですけど、でも、染みついてるんですよね、「7月20日」って数字が。明後日ですね。今は地域によって違いますけど、ぼくが子どもの頃は、ともかく7月20日から8月31日が、夏休み。
 で、また、これがぴったり、東京の平年の梅雨明けの日なんですよ。梅雨が明けて夏休みが始まるのが、7月20日。なんと美しい数字だろうっていう、これはもう染みついてるんです。12月25日とか、1月1日とかよりも、ぼくの中でははるかに美しい。これは、なんていうんでしょう、「教室からの解放のとき」っていうか、「新しい冒険の始まり」っていうか、「どんな楽しいことが待っているんだろう」っていう、要するに「ワクワク」ですよ。あの、もしかして私について、「楽しいこといっぱいやってきたんだろうな、この人は」っていうイメージをお持ちだとしたら、それは、当たってます。(笑)もう、ワクワクだけで生きてきたようなもんですし、そのシンボルなんですよね、7月20日っていう数字は。
 梅雨が明けて、夏のまぶしい光降り注ぐ中、私たちは主のみもとに集まってまいりました。希望を新たにいたしましょう。この夏の日々も、きっと何か素晴らしい救いにつながってますよ。「梅雨から梅雨明け」みたいにね、「四旬節から復活祭へ」みたいにね、これまで確かにそれぞれの十字架の日々があったわけですけど、あるいは今もあるかもしれませんけど、それは必ず救いの復活祭に向かっています。ワクワクする日が待っていますから。それを信じて、今日この日から、希望を新しくいたします。

 こうして福音書を読んでいても、なんだかワクワクしてきます。イエスさまが「さあ、人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」(cf.マルコ6・31)と言い、「一同は舟に乗って、人里離れた所へ行った」(cf.マルコ6・32)と。「人里離れた所」っていうだけで、ワクワクしませんか。私なんかはどうしても、無人島キャンプのことを思い起こしちゃいます。無人島くらい人里離れた所ないですし、まさに舟に乗って行くわけですから。
 ただ、ここでいう「人里」って、地理的な話だけじゃないでしょう。「人里」って、要するに人間の造った世界のことですね。いろんな計画とか、身勝手な欲望とか、つまるところ傲慢な人間の思いが支配しているってことです。そこから離れるってことですから、神の思いが支配している現場のことでしょう。ですから、舟を降りたら先回りして駆け付けた群衆がいて、結局人里になっちゃったじゃんって思うとしたら、それは違う気がする。人里ではいろんな利害関係も渦巻いて、そこにはイエスを快く思ってない人もいたでしょうけど、そこを出て、はるばる荒れ野に集まって来た人は、いわば、本当にイエスを求めている人たち、本当に弱く貧しい人たちです。そこには神の思いにのみ信頼して生きている人たちだけが集まっているわけですから、当然、相当天国なんですね。そして、そういう人たちとともにいるときが、一番「休み」になるんです。
 教会って、本来そういう所なんじゃないですか? 人里離れた所であるはずなんですよ、教会は。現に弱い私たち、貧しい私たち、こうしてはるばるイエスさまのもとに集まってきたじゃないですか。で、そこにこそ、真の安息がある。天国の入り口がある。だからこれ、休むために舟に乗って行ったら、先回りした群衆が大勢いて休めませんでしたって話じゃない。敵意すらある町で語るのと違って、福音のもとにみんなが集って感動し、希望を新たにしているところ、その場にいることこそが本当の「休み」になっているっていう話でしょう。休めなければ、教会じゃないんです。みなさんも、普段は人里で生きているんでしょうし、そこで休暇を取ったりもしているんでしょうが、それは真の休みじゃない。万難を排して教会に集まってくる、このイエスのみもとでのひとときが何よりの休みになっているという、そういうミサを大切にしてまいりましょう。

 夏休み、ついにオリンピックが始まりそうです。なんだかんだ言いながら、ほんとにやるんですね。謎のオリンピックが謎のまま始まるようですけど、まあ、やるからにはともかく無事に終わってほしいです。私はかねてより申し上げてきたことですが、オリンピックが大好きなんですよ。「商業主義だ」とか、「政治利用だろう」とか言うのはもちろんそうなんでしょうけど、それでも、「世界中のほぼすべての国の人が、一か所に集まる」っていう事実が好きなんです。それって、実はオリンピック以外にないんですよね。国連で代表が集まって議論してます、なんていうのはあるけれども、みんなが平和を願いながら、一般の人たちが平等に同じルールで、ほぼ全世界から一か所に集まっている場所って、あのオリンピックしかないんですよ。特に、開会式。全員揃う。それがシンボリックというか、まさに、「人里離れた所」の雰囲気があるんですよ。人里では戦争してるじゃないですか。そこから離れて、せめてここでは人類みんな一緒だよね、というところに集まる。「ちっちゃい国は隅っこのほうね」とか言わずに、みんな平等に並ぶ。
 9年前、ロンドンオリンピックの開会式っていうのに、私、行ってきたんですよ。物好きですよね。オリンピック好きとしては、一度は開会式に居合わせてみたいって思って。ポール・マッカートニーが歌うからとか、エリザベス女王も臨席するとかいうことでワクワクしながら参加しました。実際、演出がユニークで素晴らしかったし、すぐ目の前では有名な「オリンピックおじさん」が日の丸の扇子持ってはしゃいでたりで、開会式独特の雰囲気でしたけど、実は一番感動したのは、選手の入場行進だったんです。正直言って、選手入場は長いですし、それほど面白いものでもないから「その間にトイレ行こう」くらいに思ってたんです。だけど、各国の名前がアナウンスされて、様々な国の選手が、次々と、ほんとに嬉しそうに入場してくると、なんだかじーんとしちゃって。少ない人数の国、多い人数の国、それぞれのユニフォーム、それぞれの旗で、笑顔で入場してくるんです。一つ、二つ、三つ、・・・百五十、二百、と。
 それぞれの国、それぞれの文化、それぞれの歴史、それぞれの苦難、それぞれの希望、それを持ってみんな集まって、全員揃うっていう。最後にホスト国のイギリスが入ってくるわけですけど、いよいよ「全員揃いました」っていう瞬間に、「ドカーン!」って大きな音がして、天井から信じられない量の紙吹雪がね、ホワイトアウトするくらい降ってくるんですよ。で、アナウンスがあるんです。「これは、世界の全人口と同じ数の紙吹雪です」。って、七十億枚降らせたんですよねぇ。思わず一枚拾って、「これは、どこのだれだろう」って。
 まあ、お祭りですし、演出ではあるんですけど、感動しました。全世界から集まって、「平和が大事だよね」と。「争うのは愚かだよね」と。「集まろうと思えば、集まれるじゃん」っていうことですよねぇ。実際にみんな揃ってるという不思議な空間に、ぼくはとてもキリスト教を感じました。普遍主義。みんなが天の父のみもとに、それを神と呼ぶか仏と呼ぶかはともかくとして、みんなが大いなる力に導かれて一つに集り、同じ人類、平等の存在として直接会えることを喜ぶ。「あぁ、いい空間だなぁ」と。
 東京オリンピックの開会式のコンセプトには、「これまでの日々を共に進んできた世界中の人々への感謝や称賛、未来への希望を感じてほしい」という願いが込められているそうで、まさにコロナで共に苦しんできた全世界にとって、希望を感じられる時間になるといいですね。開会式、夜ですけど、なんか時間が延びたらしいですね。入場行進が長引いたからですって。選手同士の間隔を2mにしたんで、延びちゃったと。でも、じゃあ「なんで2m開けてるのか」ってわからない人が全世界に誰もいないって、そういう意味ではすごく普遍的な出来事なんですよ、コロナって。全世界の人がコロナのことを知っているし、その苦しみ、その不安、その不自由、全員が体験してる。それがわからないっていう人が、一人もいないんですよ、世界中に。すごくないですか。だから、みんなわかってるんですよ、そんな中でオリンピックやるっていうのがどんなに大変かって。たとえ無観客でもやるって言いだしましたけど、それでも集まりたいっていうその気持ちはわかります。遠い国から、ワクチンを打ち、あらかじめ自主隔離し、何度も検査して日本に入国して、またホテル待機をし、検査をし、そして自分の競技の練習もしなきゃならない。食べ物のこと、健康管理、いろんな苦労を重ねながら、それでも全員集まってくるんですよ。私は、そこに感動します。「よく来たね」と、「よく集まったね」と、「そこまでしても集まることは尊いよね」と。そこに、何か、もし本当に未来に向かっての希望が見えるんであれば、それをチラリとでも見たいなっていう気持ちもあります。まあ、開催の是非については置いとくとして、やるんであれば、全世界の人が揃う姿をやっぱり、見たいなと思う。来週もここで説教ですかね。ぜひ、開会式についての感想を話させていただきたい。

 イエスさまがね、何をするかと言えば、結局はみんなを集めるんですよ。イエスを囲む集い、そこにある平和っていうのは、これ、やっぱり平等からきてるんですね。イエスさまのとこに集まってくる人って、誰も排除されない。どんな人でも、イエスは受け入れる。何人なにじんであってもいい、障害を背負っていようが、差別されていようが、罪びとだろうが、「アイツだけはここに来てほしくない」とみんなから思われている人であろうが、イエスのもとには集まります。集まれます。ということは、それこそオリンピックもそうですけど、ほんとに平等で、みんなが排除されずに共にいる場があれば、そこにイエスがいるんです。人を出会わせ、結び合わせ、神の国を生み出す、そういう力をこそ私は「キリスト」と呼びたい。ある特定の宗教の教祖で、ある特定の儀式のうちにイエスがいるって話じゃない。みんなが一緒にいられる喜びの場。安心して、共に分かち合える平和の場。それを生み出すのがキリストのわざであり、そこにイエスはおられる。コロナ時代にあってなお、未来に希望を感じられる場。開会式がそうなるなら、そこにはイエスがおられるんです。そういう力のことだから。そういう希望の話だから。
 バラバラでいちゃいけないんです。我々も、こうしてミサをしているっていうのは、そういうキリストの集いを世に現す、目に見える希望のしるしでもあって、ある意味、毎週神の国の開会式してるようなものなんですよ。どんな人でも無条件に集まって、共に集う平和を感謝して、恵みを平等に分かち合って、そして未来に希望を感じながら、「行きましょう! 主の平和のうちに」って出発していく。ここは、まさにキリストのおられる場ですし、ここから出発して、また4年後のオリンピックならぬ、毎週のオリンピックのように、集まってくる。

 早くみんなひとところに揃う日が来るといいですね。あの方この方、もう一年以上会ってない方もいますけど、「直接お顔を見たいなぁ」と思います。私もようやく一回、ワクチン打ちました。「どうしようかなぁ。なんだか気が進まない」なんて言ってましたけど、やっぱりなるべくみんなと集まりたいですしね。もっとも、ワクチン接種を決心した一番の理由は、教皇さまも打ったっていうことがあって、パパさまも打たれたんなら迷ってもしょうがない、みたいな思いもあって。それにしても、どうなんでしょう、クリスマスには全員で開会式できるんですかね。無理ですか。復活祭も難しい? みんな揃ったら、天上から人数分の紙吹雪降らしましょうか。
 希望って大事ですよ。ワクワクする気持ちがなかったら、「なんのために生きてるの?」ってことじゃないですか。現実には心ふさぐこと多いですけど、だからこそ、キリスト者はもうちょっとワクワクいたしましょう。何があろうとも笑顔で集まって、「だいじょうぶだ、必ず神の国は完成する。ご覧ください、ここにその先取りとして恵みの集いが実現していますよ」って、世に示さないと。全員が笑顔で、敵意の壁が取り払われている、聖なる集い。今日のこのパウロの言葉ですよね。「あなたがたは、以前は遠く離れていた」、と。つまり、みんなバラバラだった。でも、「今や、イエスにおいて、近い者になった」(cfエフェソ.2・13)。そうなんです。イエスが集めてくれたんです。「実に、キリストはわたしたちの平和だ」と。「二つに分かれていたものを、隔ての壁を壊して、規則と戒律ずくめの律法を廃棄して、一人の新しい人に造り上げてくれた」(cf.エフェソ2・14-15)
 この、「隔ての壁を壊し」っていうのがいいですよねぇ。オリンピックの開会式なんて、アメリカも中国も、ロシアもイランも、ミャンマーもアフガニスタンも、みんな、勢揃いでしょう。揃い踏みですよね。みんな揃って初めて意味があるっていうことって、あるんですよ。いろんな理由で、私たち、排除し合ってバラバラになっていきますけど、「ここは、ここだけは違う」っていうね、そんな誇りを持ちたい。このぼくらは、ちょっと人里とは違うんだぞっていう誇りをもって、みんなが集まれる場、誰でもがいられる場、みんな揃って感謝と賛美を捧げられる場としての教会をつくるっていう。人里離れたところの希望を示すことは、神の国のしるしに奉仕するキリスト者のつとめです。
 なかなか聖堂に来られないでいる人たちとも、祈りのうちに一つであるっていう、そのミサの心を分かち合いましょう。イエスさまは、大勢の群衆を見て、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」(マルコ6・34)ましたけど、飼い主のいない羊はそのまま死を意味するわけで、今、この浅草教会のメンバーの中にだって、うつになって、心ふさいで、暗い気持ちで今この時を耐えているっていう人が現実におります。しかし、みんなが祈るこの集いのうちに、イエスはおられます。飼い主はちゃんと守ってくれます。そのイエスさまの力によって、そして祈りにおける一致によって、この浅草教会が未来に向かって希望を感じられる場になりますようにと祈って、このミサをお捧げいたしましょう。特に、こうしている今もつらい気持ちでいる方のことを、一人ひとり思い浮かべていただいて、そういう方たちとも一緒にここでまたミサを捧げられるときを、心から祈ります。



2021年7月18日録音/2021年8月11日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英