福音の丘
                         

ハウスレスでもホームフル

年間第15主日
カトリック上野教会
第一朗読:アモスの預言(アモス7・12‐15)
第二朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ1・3‐14)
福音朗読:マルコによる福音(マルコ6・7-13)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 イエスさまが12人を旅に遣わしたという箇所を読むと、個人的にはこういうチャレンジにすっごい憧れがあるんで、ときめきます。イエスさまから命じられて旅に出るなんて、最高じゃないですか。そもそも旅にわくわくするし、しかもミッションを受けて出かけるわけでしょ。単に珍しい景色を見たいとか有名な観光地に行くとかっていうんじゃなく、聖なる使命を与えられて遣わされて行く、新しい出会いに向かって旅に出るっていう、これはもう自分的にはわが人生のテーマみたいなところもあるんで、羨ましい限りです。
 神学校に飛び込んでいくちょっと前に、教会の仲間たちと手刷りの雑誌を創刊したんですけど、その雑誌名を「旅旅風風」っていう風変わりな名前にしました。漢字四文字で、「たびたびふうふう」です。発刊のことばとして、「人生は旅だ」と書いたんですね。まあ当時、松尾芭蕉に傾倒しておりましたから。例の「片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず」ってやつですよ。奥の細道にありますでしょ、「ちぎれ雲が風に誘われていくように、どうしてもさすらいの旅に出たいという思いを抑える事ができない」という、あれです。芭蕉はそうして旅に出て、各地でいろんな人に迎え入れられ、新鮮な出会いを重ねながら旅をして、歴史に残る句を残し、紀行文を綴るっていう、そういうのにすごく憧れてました。実際に、神学校に入る前に1年間、日本全国を歩いて周る計画を立ててたんですけどね。残念ながら父親が急に死んじゃったんで計画は流れ、そのまま神学校に入っちゃったんですけど。
 でも、振り返ってみればずいぶん色々なところに旅してきました。行ったことのない都道府県はありませんし、海外も50回以上出かけてきた。こうしている今でも実は旅の途中なんですね。特に、神父なんか自分の家がありませんから、リアルに各教会を旅して周ってるわけですし。行く先々で色んな出会いがあり、共に過ごす日々があり、やがて又そこを去っていく。文字通り、「人生は旅だ」っていう日々ですし、それはもとをただせば、神さまがこの私を、この世界という旅先に遣わしてるんだって言う実感が強烈にあります。
 もちろん、長く同じ所に住んでる人もいるでしょうけど、場所は変わらなくとも心はいつでも旅の空であるべきでしょう。キリスト者は「地上では旅人」なんですから。同じ部屋で目覚めても、新しい朝は、新しい旅の出発ですよね。今日誰に出会うんだろう、どんな感動が待ってるんだろうっていう感じで。神さまから戴いた使命として、出会った人と恵みを分かち合い、出会えた感動を共有して、究極の目的地に向かって歩んでいく、そういう「旅の心」が、とっても大事。というか、神さまのお造りになったこの世界を旅していくこと以上の幸せなんて、ないんじゃないかと思うんですよ。どっかに住み着いて、もうここでいい、これでいいと満足して、あとは同じ日々を繰り返すだけなんて、人間ってそれを喜べるようには造られてないんだと思いますよ。毎日新しい朝は来るし、新しい一日、新しいところ、新しい出会い、すべてのその先に神の国の入り口があるっていう信仰があるからこそ、あらゆる試練を越えていけるわけですし。
 みなさんは今、どこにいるんですか。そうしてみなさんの人生の旅は、どこに向かってるんですか。「人間はどこから来てどこへ行くのか」ってよく言われますけど、キリスト教は、明確な答えを持っています。人間は、神から生まれてきて、神の国に向かっているんです。すべての人はそういう旅に呼び出されて、今この世界に神によって遣わされているんです。あなたは今、旅の途中ってことです。

 そんな使命を与えられた人類は、今や宇宙にまで飛び出して行くようになりました。そういえば、ついこの前、宇宙飛行士の野口さんが地球に帰って来て、インタビューで面白い事言ってましたよ。インタビュアーから、「このコロナの時代に、閉じこもってやりたい事をできずにいる、閉塞感を抱いている国民に励ましの言葉を」、みたいなこと言われて、こう答えてたんですね。「自粛が大変とか旅行に行けないとかっていうけど、宇宙船の中なんてもっとどこにも行けないし、食べたいものも食べれない。会いたい人にも会えないという、文字通りの閉鎖空間なんです。だから、そこで一番大事な事は『無いものを、嘆かない』ってこと。今目の前にあるものの価値を見いだして、それを大切にしていきましょう」。言われてみればそのとおりで、買い物もできないとか会いたい人に会えないとかって嘆くのではなく、今目の前にあるもの、たとえば缶詰1個でも、あるいは何十年も一緒に暮らしてきた人でも、現にそこにあるものの真の価値を見出だして大切にする、それも旅の途中の楽しみですよね。
 本当の旅の楽しさは、豪華な観光旅行とか、贅沢な食事とかっていうのとは違うんですよ。やっぱりね、新しい発見でしょう。思いがけない出会いでしょう。それを体験することで自分が変えられていくこと、何かに目覚めていくこと、それはもう、旅の醍醐味ですね。特に、宇宙にまで行った人なんかは、それこそ「神に出会った」みたいな体験をして、宗教的な生き方に変わっていくとか、この前亡くなった立花隆さんの「宇宙からの帰還」に記してあるじゃないですか。我々も、いつもと同じ事を繰り返すだけでなく、「今、ここ」にありながらも精神の旅路というか、宇宙を旅するような思いで、新しい出会いを受け入れて目覚めていく、そんな旅路を歩んでいったらいいんじゃないですかねえ。よく考えてみたらこの地球だって宇宙の一部ですから、地球上のどこにいようとも宇宙旅行してるみたいなもんですし、この地上で、今目の前にある小さな一つひとつのものに出会うために生まれて来たんじゃないでしょうか。

 イエスさまがね、旅に出る時には何も持っていくなって言いました。よく読むと、杖1本はいいと。ただ、パンは持つなっていうのは、これはなかなかスリリングですね(笑)。で、袋も金も要らないし、下着も2枚着るな。これは重ね着する必要ないよってことで、つまり野宿の準備なんかいらないよ、と。行けば誰かが必ず宿を貸してくれるから、神のはからいを信じて出発しろって言ってるんです。行けば何とかなる、神が助けてくれる、だから恐れるな、ってわけです。
 旅行に出る時、旅先であれが足りないかもしれない、こんな事もあるかもしれないって心配して、段々スーツケースが膨らんでいくっていうのはみなさんも体験してるでしょう。でも、旅は身軽が一番。足りなければ足りないで、さてどうしようかって工夫して、そうだ、ホテルのタオルを縛ってつないで洗濯物を干そうとか、そういうのが逆に楽しいし、いよいよほんとに困った時に、誰かに親切にしてもらったことが生涯の思い出になるっていう、そういうのもあるじゃないですか。全部予定通りに進んで、観光バスの中で寝てるだけっていうんじゃ、何しに行ったんだか、ってことですよね。思えば人生の旅路って、すべて予定通りじゃないし、そもそも、神さまからいきなり「さあ出発だ!」って言われて人生始めさせられて、この地球に遣わされてきちゃったんだから、これ、遣わした方にも責任があるし、その責任、神はちゃんと取りますよ。つまり、旅先には、必要なものを神がちゃんと用意してありますよってことです。

 「野宿の準備なんかいらない、行けば宿を貸してもらえる」というのは、ほんとうです。実際に今、ここで、実現しているんですよ。今日もこの教会のホールで、路上生活の方に泊まっていただいてますから。教会は、誰も野宿しないですむ神の国の実現のために、存在してるんです。まあ、そういうのがどこでも普通な世の中になるといいんですけどねえ。この前、私の早稲田での教え子が就職して大手町の勤務になったっていうんで、「ぼくの友人も大手町に住んでるよ」って言ったら、「えー、大手町になんか住めないでしょう、あんな地価の高い所に住宅あるの?」って言うんで、「住んでるよ。路上だけど」って言ったら、「そうかあ、それは盲点だった!」って、気づけなかったことを悔しがってました。というのは、彼は建築科だったんで、かつて早稲田の授業で南青山あたりの再開発ビルの課題が出た時に、路上生活者などが身を寄せる余地のあるビルっていう、先進的なデザインをしたことがあるんですよ。これはもう実現不可能ってことで評価されなかったそうですけど、私に言わせれば最高点を差し上げたい。だって、これからの世の中は相互扶助が中心課題ですし、誰だっていつ住居を失うかわからないわけですし、そういう共生の発想がスタンダードになっていくしか、人類が生き延びる道はないですから。
 多様な人が、共有スペースを持って、それぞれ自由に色んな形で身を寄せて、人生の旅を歩んでいくって、ステキじゃないですか。わが家に鍵かけて閉じこもるんじゃなく、お互いに受け入れ合い、フリースペースで雑多な人に出会って情報を分かち合い、共に成長していく、そういう街じゃないと。コンクリートの壁だらけの中じゃあ、人類ほんとに窒息死しちゃいますよ。これからの時代、まさに旅する街になっていくと思いますよ。野宿を怖れる必要もなく、どこに行っても迎え入れてくれる人や環境が整っていて、お互いにもてなしあう、信仰というか、文化というか、遊動生活の香る街。みなさんの心にだって、何も持たずに飛び出していきたいっていう思いがあるでしょう? 飛びだす前には想像もしなかった出会いの感動や成長があるよっていう神からの呼びかけ、みなさんの中にありますか。地理的な移動に限らない、精神の遊動っていうかね、漂泊の思いはありますか。出かけるべきですよ、今世界は劇的に変化していますから。

 「ノマドランド」っていう映画ご存じですか。ぜひご覧いただきたい。今年のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、主演女優賞の三冠。ベルリンでも最優秀作品賞取りました。これ、ジェシカ・ブルーダーっていう作家が4年前に書いた本が原作なんです。「ノマド」っていうタイトルの本ですけど、現代社会について色々考えさせられて、面白いですよ。普通に本屋さんに売ってます。映画の方は見る機会なくても、原作の方が面白いくらいです。これ、アメリカの車上生活者の話なんですね。特に、高齢者で住む所を失って、キャンピングカーとか改造バンみたいので暮らしながら、季節労働者みたいに働いて、各地を回って生き延びてる人たちがいるんです。映画の主人公も、改造バンの中を住居にして、普段はアマゾンの倉庫で働いてます。夏はキャンプ場に集まったりしてなかなか楽しそうなんです。実話ですよ。ジェシカ・ブルーダーっていうノンフィクションのライターが、その実態を取材して、なんと24000キロ、3年間かけて付いて回って取材したその本が余りにも面白いんで、映画化されたっていう事です。
 映画はもちろんフィクションですけど、もうほとんどドキュメンタリーって感じなんです。実際、フランシス・マクドーマンドっていう女優が主演女優賞取ったんだけども、後はほぼ、正真正銘の車上生活者なんですよ。だからリアリティもあるし、共感もするしで、私も、確かに車上生活は大変な面もあるんだけども、ある意味理想の生き方にも思えて、憧れさえ抱きました。まだ足腰立つうちなら、好き勝手なところを周りながら暮らす車上生活も悪くないかなと。
 というのは、実はこの人たちの間にも、ちゃんとコミュニティがあるんですよ。これが中々素敵なんです。いい距離感の家族的な相互扶助があるんです。夏場はキャンプ場に集まって、一緒に暮らしてるんですね。そこでパーティーを開いたり、フリーマーケットみたいなので物々交換をしたり、朝になると「コーヒー沸きましたよー」なんて言いながらコーヒーふるまう人がいたり、車上生活の思想や実践の知恵をレクチャーする講座まで開かれてる。なんといっても、何か困った事があったら、当然のように助け合うんですよ。パンクしたら、誰かが町まで一緒にタイヤを買いに行ってくれたり。夜になれば焚火を囲んで歌ったり乾杯したりするし、火を見つめながら亡くなった仲間の思い出話を語り合ったり、祈ったり。ああいうの見ると、街で立派な家で暮らしてる人々の方がよっぽど孤独だと思わされますよ。
 映画の主人公は、夫が亡くなって、暮らしていた荒野の中の小さな町も消滅しちゃって、車上生活になったんです。アメリカの企業城下町って、企業がつぶれると町ごと消えちゃうんですね。主人公はその街で教師をしてたんですけど、あるところで偶然教え子とばったり会って、教え子から聞かれるんですね。「先生、ホームレスになっちゃったの?」って。すると彼女はこう答えるんです。「ホームレスじゃないのよ。ハウスレスなだけ」。つまり、「ホーム」っていうのは、ふるさとであり、家族的なチームであり、そこが自分のいるべき、愛と分かち合いと助け合いのある居場所の事であって、その意味で彼女は、「ハウスレスでもホームフルだ」って言うんです。そう言いきれるだけのコミュニティを持ってるってことですよ。さて、みなさん、どうなんですかね。ハウスはあるけどホームがないっていう人も多いんじゃないですか、今の時代。
 ついでに言えば、車上生活って、この災害の時代には賢い選択かもしれないですね。こっちが危ないとなったらあっちに移動し、そっちが豪雨になりそうだと言えばこっちに避難しとかできますからね。暑くなったら涼しい方に、寒くなったら暖かい方にっていう、何だろう、人類本来の遊動性があって、キッチンカーとかなら商売しながら回れますしね。

 僕が子供の頃、教会学校で、「幻灯機」って呼ばれていたスライド映写機で見せてもらった物語が忘れられない。アフリカあたりの宣教地の子供が、宣教司祭の影響を受けてやがて神父になっていく話だけれど、その子がついに叙階した時、その宣教司祭が彼にプレゼントするのが、キャンピングカーなんですよ。もうほとんどトラックみたいな車なんですけど、後ろの扉を左右に開けると、中に祭壇があって、外に椅子を並べればそのままそこでミサができるっていう。あれはワクワクしたなあ。ほんとにやろうかな。早くしないと天に召されちゃいますからねえ。いいでしょう? 扉を開いて椅子出すだけで、ミサができる。そこで福音を語り、パンを配り、時にはどうぞ中でお泊り下さいって。
 漂泊の思いやまず。人生の旅、どこにいようとも神さまがちゃんと守って下さると信じて、だれかに福音を告げるために、キリスト者は旅に出ます。たとえ定住はしていても、遊動の心で新しい出発を致します。イエスさまが、なんで私たちに旅立てって言うかというと、宣教のためでしょう。神の愛を述べ伝える事、イエスと共に働く喜び、互いに愛し合う事の素晴らしさを宣教するために遣わされるんです。
 「油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6・13)とありますが、実は昨日、ご葬儀ミサを致したんですけど、ご本人が亡くなる三日前に、ご自宅で病者の塗油をいたしました。ほとんど意識はありませんでしたが、感極まったように口を開けて天を見つめているご様子に感動したので、葬儀ミサの説教で、「塗油をしたとき、ご本人は我々の目には見えない天を仰いでました。地上の旅路を終えようとするときに、これから生まれ出て行く先の栄光の天を見つめておりました」とお話ししたんですね。そうしたら、病者の塗油に居合わせた娘さんが、「私も、母が天国を見つめているのが分かりましたので、お説教に感動しました」と言ってくださったんですけど、これはもう、本当に神々しかったんですよ。なんというか、もうこっちサイドで、改まって儀式するだとか、熱心にお祈りするだとかっていう、そんな僭越な事する意味が無いって感じで。まさしく地上の旅路を終えて、帰り着くべきほんとのホーム、栄光の天を見つめている。その方は、戦後韓国に渡って韓国で暮らし、70歳になってから日本に帰ってきたという、波乱の人生を生きた方ですけれど、最後は日本でも韓国でもなく、真のホームに帰って行ったわけです。地上では旅人、どこにいても仮住まい。それが、聖書の教えです(cf.ヘブライ11・13)閉じこもっていないで、魂を開放して、自由に出発致しましょう。天の父のみ元に還るまで、私の魂は安らぐ事がない。


2021年7月11日録音/2021年8月6日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英