福音の丘
                         

さあ、ここからが出発

年間第14主日
カトリック上野教会
第一朗読:エゼキエルの預言(エゼキエル2・2‐5
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(二コリント12・7b‐10)
福音朗読:マルコによる福音(マルコ6・1-6)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 今日もまた、大谷翔平の話をしたいんですけど、いいですか。また、というのは、実は先週と先々週、浅草教会の説教で大谷翔平の話をしておりました。上野ではまだしてなかったんで、上野のみなさんともこの感動を分かち合いたいと思って。ご存知、大谷翔平の活躍が、止まりません。暗いニュースばかりの中で、彼の活躍を見るのは本当に楽しみですし、励まされます。昨日のオリオールズ戦なんかは、まさにショータイム。翔平の「ショー」にかけて、彼の活躍をショータイムって言うんですけど、文字通りのショータイムでした。一人で打って走って、そしてサヨナラホームインという、劇的な勝利でした。
 あれは、何て言うんでしょう、ちょっと現実離れしてましたよ。日本にいたときの大谷翔平も素晴らしかったんですけど、メジャーに参戦してから、さらに秘められていた可能性が覚醒し始めた、みたいな感じです。昨日のことを言えば、2本のホームランも素晴らしかったですけど、そのあとの走塁がカッコよかった。相手も打たれたくないんで最近はフォアボールが多くなってますけど、フォアボールはフォアボールで、いったん塁に出しちゃうと彼は走るんで、これまた厄介。昨日も出塁後、すかさず盗塁してました。あれも、一度成功したかに見えて、味方の守備妨害で一塁に戻されちゃったのを、すぐに再チャレンジして成功させてるんです。なかなかできないことですよ。7対7の同点で、大事なサヨナラの走者ですから。それをやってのけて、本当にびっくりです。結構なクロスプレイでしたけどね。でもそのおかげで、サヨナラホームインしたわけですし、しかも普通なら3塁ストップのタイミングを、翔平は足が速いから一気に狙って、これまたクロスプレイでホームイン。先発投手がホームランを打ち、盗塁し、決勝ホームインで地面にひっくり返って両手を天に突き上げてるという、ありえないシーンに、ただもう胸熱くなるというか。
 すいません、なんで熱く語ってるかって言うと、昨日の勝利には個人的な感慨があったんです。昨日の試合、オリオールズ戦だったでしょ。実は、ちょうど今から50年前の1971年、私、オリオールズ戦を見にいってるんですよ。中学2年生でした。その年のメジャーリーグ優勝のボルチモア・オリオールズが、そっくり日本にやってきて、同じくその年の日本シリーズで優勝した読売ジャイアンツと戦ったんです。「日米野球」ってやつね。あの頃のジャイアンツ、強かったんですよ。V9のさなかでしたし、向かう所敵なしでした。スター選手がそろっててね、長嶋茂雄も全盛期で、その年のMVPでした。名監督川上哲治のもと、皆がやるべきことをやって、圧倒的だった。だから、ジャイアンツファンだった私としては、アメリカから大リーグだかなんだかがやってきても、ジャイアンツに勝てるもんか、オリオールズなんてなんぼのもんじゃ、思いっきりやっつけてやるとまあ、そんな浮かれ気分で見に行ったんですよ、後楽園球場に。
 ところが、第一戦から見に行ったんですけど、試合開始直後の一回に、あっという間にオリオールズに5点取られるんです。もうね、打たれ放題。ショックなんてもんじゃないですよ。見るからに体も違うしパワーも違うし、なんていうか、自信に満ち溢れていてね。球も速くって、ジャイアンツは三振の山。このとき全部で七戦したんですけど、最後の第七戦なんか、ノーヒットノーランで負けたんですよ。手も足も出なかった。あの時の体験は、衝撃でした。初めて見ましたからね、大リーガーなんて。こんなに違うのか、と。天下のジャイアンツが、歯も立たない。残念ではありましたけれども、でもまあ同時にですね、大リーグっていうのはすごいもんだなっていう畏敬の念を持ったし、その意味ではある種の感動さえありましたよ。世界は広いねえ、っていうか。
 そんな思い出があるんで、昨日はそのオリオールズとエンゼルスが戦って、我らが大谷翔平が、あのオリオールズをやっつけてくれた、しかも全米を魅了する圧倒的なパフォーマンスでホームイン、両手を天に突き上げたってことで、「見たか日本の底力を! 江戸の仇をアメリカで討ったぞ」みたいな気分でありました。…とまあ、そんだけの話ですが、でもね、みなさんも、今は実況をABEMAとかで見れますし、ぜひ大谷翔平の試合見て応援してください、歴史の証人になれますよ。私はちなみに、かつて野茂英雄の雄姿を拝みにロサンゼルスのドジャー・スタジアムに行ったこともあるくらいで、結構いろんな試合を見てるんですが、そんな私にも、昨日の試合は「こんなのありか、もはや漫画を超えてる」っていう感じでしたし、おまけに昨日は、翔平が月間MVPを取ったっていうことで、勝手にお祝いのワインなんか開けておりました。

 さてさて、福音書ですけど、この、イエスが自分の故郷では全然力を発揮できなかったという出来事、実に興味深いです。「このように、人々はイエスにつまずいた」(マルコ6・3)とあります。「なんだ、あいつ、マリアんとこの息子じゃないか」っていうことですよね。故郷の人たちにとっては身近すぎるというか、すぐそこに身内、親戚がいて、要するに、あいつのことはよく知ってると思いこんでるんですよ。だけど、本当は、何も知らないんです。なぜなら、「知ってる」っていうのは、ある特定の環境の、特定の情報の中で、特定の理解をしてるってだけのことだから。そんな貧しい理解で、「こいつはこんなもんだ」って決めつけるっていうね。私たちはいつもそんなふうに、「これはこういうものだ」とか、「ここではこうでするしかない」とか、非常に狭い世界で、決まりきった思考で、そう思いこんでるだけなんですよね。
 これはね、そもそもは人類は狩猟遊動生活でしたから、世界を遊動して回って、常に新鮮で多様な情報に触れながら生き延びてきた、その頃からの遺伝子を持ってるんで、今みたいに定住して貯め込んで、決まりごとに縛られて、狭い世界の限られた情報しか入ってこなくなると、心が腐るとまでは言わないけれど、澱んじゃうというか、カビ臭くなるというか、変化についていけなくなるというか、そういう世界ではだれも力を発揮できないってことなんです。これって、特定の場所の話じゃないですよ。生き方というか、多様なものと共生する人間関係へのチャレンジの話です。もちろん、日々の生活とか仕事とか、生きていく上での大切なことは忍耐強く続けて行かなきゃならないんでしょうけど、でも、どこかでやっぱり、もっと広く、もっと多様な、生き生きとした関係をつくりださなければならない。だれもが常に変化していかなきゃならないし、そのためにはもっといろんなところに出かけて、いろんなものを受け入れて行かなければならない。
 大谷君のことで言うんだったら、故郷の日本にいたら、果たしてどうなっていたかですよね。日本でもある程度は活躍したでしょうけど、果たしてそれでいいのかってことですよ。現実には、彼はアメリカにチャレンジしました。そのおかげで、大リーグのパワーに触れて衝撃も受けたでしょうし、新天地に適応するために筋力アップして、体をでかくした。それをやると体のバランスが崩れるってこともありうるけれど、チャレンジしたんです。さらには向こうでは主流になっているひじやひざの手術も受けて、未来を信じてリハビリした。故郷にいたら、おそらくそんなことしなかったんじゃないかな。日本でそれなりの成績を残すのもいいんですけど、やっぱり出かけて行かなくっちゃその先の世界は見れない、ってことなんです。引き留める人々に向かって「他の町や村にも行こう。そこでもわたしは宣教する」って言うイエスは、故郷にいたんじゃ駄目なんですよ。故郷でそれなりに人を助けて故郷の英雄になる、なんていうんじゃ駄目なんですよ。それが、神のみ心だからです。
 やっぱり、出かけていかなくっちゃ。キリスト教なんて、宣教師の話を持ち出すまでもなく、出かけてなんぼの宗教なんですよね。これは遺伝子がそうなってるんです、出かけて行くイエス・キリストの遺伝子が。止めようがない。上野教会だって、日本にやってきた宣教師が作った教会ですからね。それがねえ、来てくれて作ってもらったはいいけど、自分たちは出かけない、どこにも作りに行かないじゃあ、辻褄が合わない。遠い国に宣教に行け、とまでは言いません。ちょっと出かけて、ちょっと出会って、ちょっとチャレンジしようよっていうだけ。それはキリスト者の生き方の問題であり、信仰の本質の話です。ともかく自分の「今」の囚われ、「ここ」の常識から抜け出していこうとする姿勢です。そして、出かけて行った先でいろんな刺激を受け、もちろん苦しい試練も体験して、しかしそれによって鍛えられて、花開いていく。誰の中にも、そんな、神が与えてくれた豊かな可能性が十分秘められているのに、慣れ親しんだ環境でいつまでも同じようなことを繰り返し、何も変わらない死の世界を生きてるだけでは、無駄というか、もったいないというか。神から与えられた、まだ眠っている素晴らしい可能性が、まだまだ皆さんの中にあるんですけどねえ。

 まあ、そんなこんなでね、浅草では先々週、大谷翔平が、自分の中に眠っている力を信じて出かけたっていうね、「信じる力」の話をいたしました。福音の丘に載ってますから、ぜひ読んでいただきたいです。我々がどうしてチャレンジしないかって言うと、恐れに囚われてるからだっていう話です。まさに、出かけようって言ったって、恐れてたら出かけて行きませんからね。恐れたら二刀流なんてやらないし、アメリカにもいかないし、手術も受けないし、そうやって安全なこと、失敗しないで済みそうなことだけの中で、どんどん小さくなっちゃう。それを超えて、「自分は神に選ばれてる、やってみよう」って信じる力こそが、キリスト教を根底で支えてるんです。
 パウロなんかそうですよね。ともかく出かけて行く。恐れを超えていく。パウロとしては、全く問題がなかったわけではない。「自分には弱点がある、刺さったトゲのようにそれから逃れられない、これさえなければもっと頑張れるのに。神よ、このトゲを取り去ってくれ」って神様に祈るんですね。でも、神の答えは、「いいや、私の恵みはあなたに十分与えてある」と。「力は、弱さのなかでこそ、発揮される」と(cf.ニコリント12・7-9)。それを信じて実際にパウロが出かけていけば、まあいろんな事件に巻きこまれるわ、苦しめられるわ、殺されかけるわで、本当に苦難の人生を歩んでいくわけですけど、そのおかげで今こうして、私たちは福音に触れ、救われてるじゃないですか。トゲを恐れちゃいけないんです。
 これ、パウロが抱えていたその弱点、トゲの正体が何であるかは聖書には書いてませんが、書いてないおかげで、読む人みんなが自分の弱点に当てはめて受け止めることができるんじゃないですか。私たちも、「この欠点がなければなあ」とか、「こんなダメな自分じゃなければなあ」とか、「あんな出来事さえなければなあ」とか、「こんな心の傷、こんな不安、こんな苦手な出来事、これがなければもっと輝けるのになあ」なんて思うことがありますけど、なんと神さまは、「そんなものは、何も影響がない、何の問題もない、恵みは十分に与えてあるから、恐れるな」と言うんですね。むしろ、「あなたの弱さであれ欠点であれ、コンプレックスや囚われにいたるまで、むしろあなたのそのトゲにおいて、恵みは十分に発揮される」と。
 それはもう、神がやっているわけだから、こっちサイドで何考えても、もう関係ないんです。弱点だとか、これさえなければとか、それはこっちが思ってることで、選んでる方としては、「そんなあなたを私は使っている、むしろその弱さを利用するために、わざわざみんなに弱さを与えてるんだ」、くらいな感じですよ、神にしてみたら。それを、パウロは、信じます。それを受け入れて、出かけます。喜んで自分の弱さを誇りますとさえ言います。「私は確かに弱いし、侮辱されるし、窮乏するし、迫害さえ受けて、そして、もうダメだっていうほどの行き詰りの状態になるんだけれども、でも満足しています。なぜなら私は弱い時にこそ強いからです」、と(cf.ニコリント12・9-10)。こうなるともう、「トゲ上等」、ですよ。ザ・キリスト教です。なにせ、びくとも動けない十字架の上で世界を変えた教祖ですからね。最悪に駄目な時ほど、私は神の役に立てるという、思えば過激な宗教ですよ。駄目な時ほど、失敗した時ほど、希望が湧いてくる。
 そういえば、大谷君のヤンキース三戦の時の試合なんて、みんな本当にわくわくしながらヤンキースタジアムを見てたんだけど、ピッチャー大谷翔平、ただの一回も持たなかったんですよね。七失点で一回途中降板。悔しかったでしょうね。見てる方も目を覆いました。ところが、誰がどう考えてもこれで負け投手だと思いきや、その後、味方が奮起して、まるで大谷君にプレゼントするかのように、七点取り返したんですよ。大谷が失った七点を。それでなんと、ピッチャー大谷翔平には負けがつかなかったという。なんつうか、持ってる男はすごいね。それどころか、いっときはそんな屈辱、もうダメっていう失敗、弱さ、まさに窮乏を体験し、迫害すら受けて、ヤンキース側のコメンテーターからは侮辱さえ受けましたけれども、実はそのおかげで、昨日の大活躍があったんですよ。関係あるんです。昨日、そうして拳を天に突き上げたサヨナラホームインの直後、グランドでヒーローインタビュー受けたんですね。ホームラン2本打って、2本目の30号は逆転ホームランでしたし、サヨナラホームインをしたってことで。そのとき何言うかと思ったら、「自分はこの前のヤンキース戦で打たれて、仲間のみんなに迷惑をかけた。だけど、みんながそれを取り返してくれた。だから今日は、みんなのために、自分が取り返そうと思った」と。かっこよすぎます。結局、この前の試合では確かに失敗したけれども、それでも負けがつかなかったどころか、次の試合では負けていた試合をひっくり返して、勝つことができたってことで、そうなるとですね、あの七失点降板も、きらりと輝く恵みの出来事に変わっちゃうんですね。胡椒1粒が効いてこそ料理が美味しくなるように、ピリッとした失敗があればこそ恵みが浮かび上がってくる。みなさんの人生の話ですよ。あんなことさえなかったらって言っちゃいけないんです。その弱さ、その失敗、それがあったからこそっていう恵みの世界を神さまはちゃんと用意してくれているんだし、人はその恵みに協力することが出来るんだから。
 50年前のオリオールズ戦の「恩讐の彼方に」はまあご愛敬ですけど、現実に、半世紀たってようやく見えてくる神の恵み、なんてことは無数にあります。人生にはダメダメな時って必ずありますけど、「それもまたよし」と、「私は弱さの中でこそ強い」と、そうつぶやきながら顔を上げましょう。失敗を成功に、十字架を復活に変えちゃいましょう。それが、キリスト教です。弱さや失敗を抱えたまま出かけて行って、その先の新たな環境の中でキラキラ輝いて、さらにまた失敗もあるけれども、また次の輝きを信じて、歩き出す。私も日々、恐れを超えてがんばってる人たちに励まされ励まされて、毎日やっております。

 熱海の土石流で苦しんでいる方たちのために、このミサをお捧げしたいと思います。災害の先にも恵みの世界はちゃんと用意してあると信じて、祈ります。みなさんも、災害の季節が始まりましたから、十分にお気をつけくださいね。東京だって、過信は禁物です。ニュースで地元の人が、「ここに60年住んでるけど、今までこんなことはなかった。」って言ってましたけど、ここではそんなことはありえないと思いこんでいた、ということですよね。故郷って慣れちゃうとそういう正常化バイアスが働きやすいところです。自分の世界や経験が全てだと思って、だんだん人間関係も狭くなり、だんだん情報も限られてきて、だんだん生き生きとした気持ちが減り始め、小さく小さくなっていくとしたら、それはキリスト教じゃないですよね。我々は、いつだってどこだって、どんな状況だって、「さあ、ここからが出発だ」っていう気持ちで前を向きます。
 この現状が当たり前だと思っていると、そこに危険がいっぱいです。もう少し頭を上げて、広く世界を見渡して、危ないと思ったらさっさと避難した方がいい。それも、声かけあって、色んな人と一緒に。それは、自然災害に限らない。いろんな辛い思いをして苦しんでいる人がこの世界にたくさんおりますし、世の中はそういう人を見殺しにしますから、キリスト者はみんなを連れてキリストの御許に避難します。この夏、何が起ころうとも、「ここからが出発だ」っていう希望を新たにして。



2021年7月4日録音/2021年7月29日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英