福音の丘
                         

神さまも二刀流

聖ペトロ 聖パウロ使徒 
(本来は
年間第13主日。聖パウロ浅草教会ゆえ)
カトリック浅草教会
第一朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録12・1‐11
第二朗読:使徒パウロのテモテへの手紙(二テモテ4・6‐8、17-18)
福音朗読:マタイによる福音(マタイ16・13-19)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 私の所にもついにワクチン接種券が届きまして、まあ、ひと安心って言えばそうなんだけれども、正直な思いを言うと、なんだか気が進まない。この「気が進まない」っていうのは私にとっては結構大事で、でも、だからと言って打たないわけにもいかない。神父、人に会う仕事ですし、ご存じのように「ワクチンは自分のためならず」ですからね。みなさんを守るためにも、打たなきゃならないんだろうなぁと思いつつも、う~ん、なんだか、気が進まない。
 変な陰謀論にやられてるわけじゃないですよ。ちなみに陰謀論の中で一番びっくりしたのは、ワクチン打った人は、一年後にみんなゾンビみたいになるんだとかっていうのがあって、(笑)だとしたらそろそろ最初に打った人がゾンビになり始めているころです。じゃあなんで気が進まないんだろうって考えていて思い当たったんですけど、私、「打つのがイヤだ」って言ってるんじゃないんです。かといって「ぜひ打ちたい」ってわけでもない。「どっちかにしろ」って二者択一を迫られるのが嫌いなんですよね。「天邪鬼あまのじゃく」ってやつですね。「必ずこうしなきゃならない」とか、「いやそうすべきでない」とか、どっちにしろ単純に決めつけて「さあどっちか決めろ」って言われると、「ほんとにそうか? そうじゃない方法はないのか? あらゆる可能性を求めて最大限の工夫をしたのか?」と、突っ込みたくなるんですよ。深く考えもせず、きちんと調べもせず、「みんな打ってるから打つ」とか「副反応怖いから打たない」とか簡単に決めちゃうのが、なんだか気持ち悪い。
 要するに、「どっちか選べ」って迫られるのがイヤなんでしょうね。ひねくれてるっていうか、いつも「どっちでもない」っていう「第三の道」を考えたがる趣味というか、特技というかがあって。「はい、はい」って従って、どっちかを取ってどっちかを捨てるっていうのが、あまりにも乱暴で、もったいなく感じちゃうんです。だけどこれって、皆さんの人生でも、そういうこといっぱいあったんじゃないですか? 「仕方ない」と思い込んで、どっちかを捨てちゃったってこと。でも、ほんとにそれでよかったのか。「捨てないでもよかったんじゃないか」とか、「もし捨てなかったらどうなってたんだろう」っていう思いが残るのって、イヤじゃないですか?

 おととい、司祭館の浴室を修理してもらいました。私、毎日お風呂にお湯入れるんですけど、湯舟出るときに栓をポンと抜くと、排水溝から水が溢れて、浴室内に水が溢れるんですよ。ユニットバスなんで、これはちょっと困るわけです。仕方がないんで、栓を全部抜かずにちょっと傾けて隙間を作って、チョロチョロ流してしのいできたんです。だけど、そのうち別の神父が使う所ですし、このままじゃまずいわけで、ちょっと前に相談したら工務店の人が調べてくれて、「これは、構造上の問題で直らないですね」って言うんですよ。もしかして詰まってるのかもと思って、ちょうど全館の高圧洗浄をしたときにやってもらったんですけど、解決しなかった。それで結局、「もう三十年以上経ってることもあるし、バスルームを改装するか」、「このまま栓を傾けて対処し続けるか」、どっちかしかないってことになって、とりあえず見積もりをとりましょう、なんて話になりました。
 ところがですね、それにしてもなんかいい方法はないかっていうことで、そもそもこのバスルームを作った業者さんに無理言って、おととい来てもらいました。そうするとですね、排水口のぞいて、「ここに穴の開いたステンレスのごみ取り入ってませんでした?」って聞くんです。排水口の奥に、レンコンみたいに穴の付いた銀色のヤツがあるじゃないですか。あれがないって言うんですよ。「いや、来た時からなかったですよ」って言ったら、車に戻って持ってきて、ポンとはめたら、全部解決しました。(笑)そんだけの話だった。
 あの銀のレンコンは、大きなゴミを流さないためだけじゃなく、排水の勢いを適正にする働きもあるんですって。おかげで溢れなくなったんで、昨日の夜なんか、お風呂あがる時に思いっきり「ボンッ!」って抜いてやりました。(笑)こういう、「全取っ換えするのか、諦めて我慢するのか、どっちかしかない」っていうのはね、実はとっても雑な二者択一なんですよね。もちろん、二者しかないことも多いですし、それしかないって言うんなら百歩譲りますけど、いったん座ってよく考えて、その道のプロに頼むとか、もう一回調べてみるとか、試しに実験してみるとか、何らかの第三の道って必ずあるはずなのに、みんな、そういうのめんどくさいからなのか、二者択一にしたほうが楽だからなのか、「どっちかしかない」って言うんですよ。これ、時には暴力のような気もしてくるし、それですごく損してることもいっぱいあるような気もするし、どうお思いになりますか。

 先週、大谷翔平の話をここでしました。「大谷くんの素晴らしいところは、恐れを越えて信じたところだ」って話。あれだって、じゃあ、彼が何を信じたのかっていったら、「二刀流でもきっとやれる」って信じたんだし、実際にそれを証明したんですよ。「打者か、投手か」っていう二者択一は、これは誰もがそれしかないと思い込んで、どっちか選んできたわけですね。高校野球だったら、四番でピッチャーとかっていくらでもいますけど、プロになったら、打者なら打者、投手なら投手、どっちか選べって言われるわけで、両方やりたいなんて言ったって、「そんな甘いもんじゃない、絶対無理だ」と言われ、仕方なくどちらかを捨てたわけですね。それを、大谷翔平は「どっちも!」って、ねぇ、無邪気な少年のように言い続けて、実際に始めて、それをメジャーリーグでもやり続け、なんと百年の歴史に記録を残すようなことをやってのけてる、そこにぼくらは感動するんだと思うんですよ。
 それは、どっちかを捨ててきた我々にとっての、大きなメッセージなんです。我々は、「どっちかにしなきゃいけない」って思わされてね、何らかの可能性を捨てて生きてきていますから。だから彼のあの姿に、もしかしたら自分も「どっちも」があったんじゃないかっていうような、そんなワクワクする思いを取り戻してるんじゃないかな。ちなみに大リークでは、今なお「大谷はやっぱり二刀流やめたほうがいい」っていう論調もあります。「打者に専念すれば、あの打者に匹敵するような記録を残すことができるんじゃないか」とか、「ピッチャーに専念すれば、今のアメリカの最高のピッチャーに匹敵するピッチャーになれるんじゃないか」とか。確かに両方だと、通算の記録は多少減るかもしれません。だけど、どっちかの記録だったら、今までも様々な記録があったわけで、そこにもう一人加わってもねえ。考えてみてくださいよ、大谷翔平がどっちかに専念して、歴史に残る名ピッチャーか名バッターになったとしても、ぼくらはずうっと後悔し続けることになるんですよ、「もしも両方やってたら、どうなってたんだろう」って。これはやっぱり、この先どうなろうとも、他の誰とも比較できない大谷翔平であってほしいし、ぼくはやっぱり、「どっちも」を見たい。そうして、自分だってそうできるかもっていうワクワクを持ち続けたい。
 みなさんもね、結婚するために仕事を諦めたとかね、経済的な問題で進学を諦めたとかね、親の意見で芸術の道を諦めたとかね、そういうのっていっぱいあるじゃないですか。だけど、「どっちも」っていう可能性があったなら、人生はどうなっていただろうって思いませんか。もっと工夫して、もっと説得して、もっと援助してもらって、ともかくあきらめずに第三の道を探し続けて、たとえば「結婚も仕事も、どっちも」にチャレンジしていたら、自分が見れなかった何かを見れたかもしれないなって。その後悔が悔しくって、私なんかは、「どっちもやってやる」みたいな、そんな生き方をしてきたような気がする。まあ、ワクチンくらい打ちますよ。(笑)打ちますけど、コロナだって、もっとみんなが心一つにして、感染症抑えようって思ったら、一週間で終わるわけですよね。でしょう? 全員が一週間、全く会わないでおとなし~くしたら、全世界のウイルスは消えるんですよ。世界中で、「命か、経済か、どっちなのか」って、この一年半ずーっと言い続けてますけど、みんなで身近に助け合えば、あっという間に解決するんじゃないかっていう、そんな第三の道を私はずっと思考実験してる日々なんですけどね。どうお思いになりますか。

 ペトロがですね、「あなたはメシアです」って答える(cf.マタイ16・16)って、これ、大変な答えなんですよ。だって、メシアっていうのは救い主ですから、神から遣わされた特別な存在ですよね。言うなればもう、神と同等なわけです。つまり、今目の前にいる一人の人間、一緒に泣いたり笑ったり、飲んだり食べたり、時には転んだりもするこの一人の人間が「神と同等だ」って言っているようなものなんですね。そのような信仰を告白するっていうのは、キリスト教の原点です。ぼくらがこうして何を信じてるかっていうと、「イエスは、神であり、人である」っていうことを信じてるんです。まさしく「どっちも」なんです。それが可能だし、可能だからすべての人は救われる。
 普通に考えたら、「いや、そんなことないでしょう」って思うわけです。人間の弱さとか限界とかに日々苦しんでいる身としては、「神であり、人である」なんていう存在にリアリティはないし、理解できないし、文字通り「信じられない」。だから、みんなこの世で理解できる存在にしたくて、「イエスもどっちかだ」って言うんです。「人間じゃない、神が天から降ってきたんだ」とか、「神じゃない、素晴らしい人間なんだ」とか。これは実は、どっちも異端として退けられてるんですね。キリスト教はずーっと、「イエス・キリストは、神であり、人である」と言い続け、それを信じます、と告白し続けてきました。これはもう理解することじゃない、信じることであって、そう信じることで世界が救われるっていう、救いの道なんです。そのキリストが私の内に宿れば、私にもあらゆる「どっちも」が可能なんだってことを信じる仲間たち。右も左も。聖も俗も。あらゆる二元論を超える普遍主義です。
 もちろん、人だからね、つねれば痛いし、失敗もあるし、イラっとして「こんなヤツ、いないほうがいいのに」って思ったりする。そんなの全然普通です。そうでありつつも同時に、「神であり人であるイエス」が私の内に宿るなら、その相手を受け入れる可能性がある。絶対無理だって思っていたことができるのかもしれないって、そう思っただけでも勇気が湧くし、まずは気分がいい。そうやって、あまたのキリスト者たちが新しい道を開き、あまたの聖人たちが壁を壊して、本当の道を示して、模範となってきたわけですから、我々も、もうちょっとこう「神であり、人である」っていう方を標準装備してですね、自分の可能性を気持ちよく拓いたらいいんじゃないですか。
 可能性っていうなら、一番憧れていいのは、イエスさまのこの最後のひと言ですよね。「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる」(マタイ16・19)。これが、ペトロに宣言した、ペトロの使命なわけですね。「あなたの上にわたしの教会を建てる」(cf.マタイ16・18)と言ってますけど、じゃあその「教会」って何かと言えば、「天の国の鍵」を預かった教会が果たすべきこととして、「地上でつなげ」って言ってるんですよ。そうすれば、天上でもつながれるから、と。「地上でつなぐ」って、もちろん、「人と人」をですよ。世界中が、敵だ、味方だって二者択一でバラバラになってるときに、教会が「どっちもだ!」って、人々をちゃんとつなげ、と。それが天の国をもたらす、と。二刀流ですよ。「敵を愛せ」(cf.マタイ5・43)ですね。「敵を愛するなんて理解できない」と思うかもしれないけど、「どっちも」って道があるんです。「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛せ」と。「いや、そんなこと理解できません、敵であり、同時に愛するなんてありえない。敵か味方かどっちかだ」ってみんなそう思うわけでしょう。二者択一ですね。「こっちにつくか、あっちにつくか、それしか道がない」と。ところがイエスは、敵であっても、同時に隣人だという「どっちも」の道、第三の道、救いの道を歩み続けて、「んなことできっこないでしょ」っていう人々に、「いいや、できる」っていうのが、「十字架」というしるし、証しです。
 我々は、イエスを標準装備することで、この第三の道にチャレンジできるし、もうそれについては、しっかりしたエビデンスがまさにあるわけですよ。キリスト教二千年の歴史の中でね。みんなやってきたし、私にもできるはず。二刀流は可能なはず。その素晴らしさは、神が保証してくれています。「天の父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(cf.マタイ5・45)。神さまも二刀流なんです。どっちかって言わない。どっちにも。「善人には太陽を昇らせるけど、悪人には太陽を昇らせません。そのどっちかしかありません。さあ、あなたたちは、善人になるんですか、悪人になるんですか」って二者択一を迫る、そんな神は神じゃない。だってそれしかできないなら全能じゃないじゃないですか。神は、善人も悪人も救う。「そんなことできるの?」って言うなら、「神にお出来にならないことは何一つない」と答えるしかない。

 みなさんが諦めてきたこと、何かありますか。いっぱいあるんじゃないですか。思い込みを越えてチャレンジしていくのは、実はとってもキリスト者らしい生き方なんですよ。みんなこの世に洗脳されちゃってて、「これでしかない」「あれは無理だ」「あなたは○○であるんだから、××でなければならない」みたいなことにとらわれている、そんな世界の中で、キリスト者は自由なんです。大谷君のように、「どっちも!」ってね、まずはそう言ってみることから、何か新しい世界が開けるんじゃないですか。「どっちかにしか行けないな」とか、「こいつだけは受け入れられないな」、あるいは「私なんかの出る幕じゃないな」とか、「あの人を助けるのは無理だろう」とか思い込んでませんか。私がこんな弱いままでありながら、永遠のいのちに至る道を歩いていけるっていう、その「どっちも」感がね、キリスト者にとっては、ほんとに爽やかです。
 今日は聖ペトロ・聖パウロのお祝いをしております。私がペトロ、浅草教会はパウロで、後ろにご像がどっちも並んでます。どちらも、弱い自分を抱えてこの世を歩きながら、天の国への道を歩み続けた、どっちもの聖人です。
 みなさんの中には、どんな可能性が秘められているんでしょう。「どっちも!」って言った途端に広がる、その世界を見たいって、ワクワクしませんか。



2021年6月27日録音/2021年7月24日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英