福音の丘
                         

コツは、心の凪

年間第12主日
カトリック浅草教会
第一朗読:ヨブ記(ヨブ38・1、8‐11
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(二コリント5・14‐17)
福音朗読:マルコによる福音(マルコ4・35-41)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 今日はもう、どうしても大谷翔平の話をさせてください。コロナ、コロナが続く中、大谷翔平のニュースを見るのがほんとに楽しみで。ともかく、今見ている現実が歴史に残るわけですし、まさに歴史の証人になれるんだと思うと、ワクワクします。
 歴史の証人と言えば、私は子どもの頃は文京区住まいのジャイアンツファンで、後楽園球場でONアベックホーマーを見たこともあるし、学生時代は東村山に住んで西武ファンになり、所沢の西武球場の芝生でビール飲みながら全盛期の西武を応援してました。野茂英雄がメジャーリーガーの草分けとしてアメリカで大活躍始めた時には、野茂の雄姿を拝みにロサンゼルスのドジャー・スタジアムまで行ったこともある。そんな私としては、「いやあ、長生きするもんだね」って思いますよ。大谷翔平なんていう夢物語を、漫画ではなく現実に見ることができるっていうのは、ほんとにワクワクするし、人間の内にはまだまだ未知の可能性が秘められているって感じられて、勇気もわいてくる。だってねえ、二試合連続でホームランを打って、その翌日には勝利投手、その翌日の昨日は一試合二ホーマー打ってるんですよ。勝利投手が翌日に二ホーマーって、それ何よって話ですけど、リアルです。
 「メジャーで二刀流なんて絶対無理だ」とか言われていましたけど、反対してた人たちは今、何も言わなくなりました。まあ、あの活躍見たらそうでしょうね。結局、大谷の何が一番すごいかっていうと、やっぱりそのチャレンジ精神につきると思う。失敗を、恐れない。そこですよね。もしも彼が失敗を恐れてたら、今のあの「100年ぶりの記録」とかをそっくり見れないんだから。野茂英雄だって、メジャーに飛び込んでいく前はいろいろもめましたし、あれこれ言われてたんですよ。「日本人はメジャーでは通用しないだろう」とか、今では笑い話ですけど、草分けってのは、いつでもそう。そんな「恐れ」の雑音に耳を貸さず、自分に働く力を信じてチャレンジすれば、新しい世界が始まる。大谷翔平の素晴らしいところは、恐れを超えて「信じた」ってところなんじゃないですか。恐れに負けてたら、その先の歴史がそっくり消えるわけですから。
 そう考えると、「恐れる」って、ちょっと怖いことでもありますよね。ついつい恐れただけで、なにかとんでもなく素晴らしいことを消してしまうことがあるってことだから。ぼくら、今までの人生でいっぱい恐れてきましたけど、たぶんいっぱい素晴らしいものを消してきちゃってるんじゃないですか。神さまが用意してくれていたリアルを、大谷もまさに「リアル二刀流」なんて言われてますけど、そんな素敵なリアルをいっぱい失くしてきてるんでしょうね、きっと。もったいないというか、惜しいというか。もちろん、「いや、私は今の現実で十分です」って言うなら、まあ、それでもいいんですけど、本当にそれでいいんですか。「もしも信じてチャレンジしていたら見ることのできたはずの世界を、見てみたかった」っていう思いは、ないですか。自分の人生において、今とは違う自分、もっと違う人間関係、こんなんじゃない違う世界を見たかったなって思いませんか。もしも思うなら、それってまだまだ間に合うんですよ、みなさん。信じて、チャレンジするなら。コツは、「恐れない」です。失敗したっていいじゃないですか。「信じて、チャレンジ」です。ぼくらだったら、いまさら野球じゃないですから、やっぱり人間関係のチャレンジしかないでしょう。どんな相手でも、恐れずに、信じて、関わりを持つ。直接会って、もっと知り合って。

 昨日の夕刊の一面に、面白い写真と記事が載ってました。一匹のコオロギの写真なんですけど、これは、卵のときから他のコオロギとは隔離して、ケースの中で一匹だけで育てたコオロギなんです。その特徴って、なんだと思います? 「驚くべき凶暴性」なんですって。そのコオロギを別のコオロギと一緒にすると、相手にいきなり飛びかかって殺して、死体をバラバラにしたそうです。怖くないですか。これって、社会性が全く育ってないってことですね。普通に育ったコオロギがそんなことをしないのは、生まれたときから他のコオロギと一緒に育ってるからなんですよ。だから、その凶暴コオロギも、他のコオロギと一緒に育て続けると、凶暴性がだんだん減って社会性を身につけたそうです。
 その記事読んで、ふと、他者と触れ合う機会が極端に少ない中でインターネット相手に育った子どもなんて、このコオロギに近いものがあるんじゃないかって思っちゃいました。この記事でも、芸能人をSNSで誹謗中傷して、「おまえなんか死んじまえ」みたいなことを書きこんでアカウントを凍結された男性の証言が載ってましたけど、一日五時間も六時間もネットをいじってると、頭の中がマヒしてきて、他の人の投稿を見てもその真意がわかんなくなるんですって。孤立した脳みその中で言葉がグルグルと回り、生身の他者と関わっていないから感情も制御できず、攻撃性が激化する。恐ろしいですね。
 その記事では、やっぱりお互いに表情を見て、真意を分かち合って、同じ空間に一緒にいる中でこそ、人間は健全に成長していくものなんだと指摘してましたけど、おっしゃるとおりです。結局、他者を恐れるって言うのは、要するに「知らないから、わからないから」なんです。わからないものって、本能的に怖いですよ。だけど、相手が何を考えているのか、どう感じているのか、真意はどこにあるのかって、そんなの触れ合ってなければ絶対わからないじゃないですか。信じて触れ合あうっていう当たり前のチャレンジをしていないから、怖くなっちゃうんです。ちゃんと知り合って、恐れを越えて初めて、攻撃性も制御できるんです。聖書で言うなら「人が独りでいるのは良くない」、ですよ。
 もう少し、人間関係のチャレンジをしていきましょうよ。他者を恐れず、信じて関わっていく。人を恐れるからこそ、閉じこもって、安全なところでSNSで攻撃って話になるんでしょう? 直接会うことを恐れずに、めんどくさいと思っても、でもきっとわかりあえると信じて、ナマの関係にチャレンジしていく。もっと多様な人と、自由に関わる、そんな自分を見たいって思いませんか。

 「独りでいるのは良くない」で思い出したのは、先月、「上野の最寄りさん」のお話をしたじゃないですか。覚えてますか、隣の壁をドンドンって叩き合って、結局路上にまた出てきちゃった方のこと。昨日、その上野の最寄りさんにごはん持っていったんですね。鮭のおむすび三つ。塩鮭を混ぜ込みご飯にしたおむすびです。あと、かぼちゃの炊いたのと鶏肉の煮たのと、頂き物の山形のさくらんぼ、佐藤錦。今はまた、教会裏の高速下で寝てるんで、昨日お訪ねしたら、なんとお隣さんができてたんですよ。私、最初気づかなくてね、あれ、なんだか持ち物が増えたなと思ったら、隣にもう一人寝てた。で、持ってったもの差し上げたら、「隣の人にも分けていいですか」って聞くんです。「もちろん、どうぞ」と申し上げましたけど、親切ですよね、最近知り合ったとかで、二人、仲よさそうでした。次回からは二人分用意してきますねって言いました。
 でも、面白いですよね。簡易宿泊所では、隣がうるさいって怒って壁をドンドン叩いて、結局出てきちゃった人ですよ。これ、象徴的でしょう? なんで隣ともめるかって言うと、部屋に閉じこもって、お互いの顔が見えないからです。ケースの中のコオロギと一緒ですよ。知らないから恐れも増すし、怒りも増す。だけど、互いの顔の見える路上で、二人で並んで寝てれば、「お隣にも分けていいですか」って言う。これが人間関係ってことじゃないですかねぇ。なんだか複雑な気持ちになりましたよ。せっかくお世話して部屋に入ってもらったはいいけど、部屋に一人でいるより、路上で二人で並んでる方がいい人間関係つくれるんだから。確かに、最も大切なことは、部屋や食べ物じゃなくて、人と人が本当に分かり合って一緒に生きていくことですからね。それを信じて求めるのが、最も大切なチャレンジじゃないですか? 怖がってるとますます怖くなって、みんなバラバラになっちゃうんで。

 イエスさまが今日、私たちを導いてくださってます。「向こう岸に渡ろう」(マルコ4・35)ってね、これ自体もうチャレンジですよ。新しい世界に向かって出発だ、って。もちろん、チャレンジに試練はつきものですから、嵐も起こるわけですけど、イエスはぐっすり寝ている。弟子たちがあわてて「先生、助けてくれ」って起こすと、「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に『黙れ。静まれ』と言」うわけです。(マルコ4・39)ただですね、これ、「黙れ。静まれ」って風や湖に言うのはおかしいというか、だって風や湖はもう何万年も何十万年もの間、吹いたり、波立てたりしてるだけのことで、なんの責任もない。人間の都合で「黙れ。静まれ」って、それは筋違いってもんで、だからこれ、実を言うと「黙れ。静まれ」って、弟子たちに言ってるんですね。弟子たちの騒ぐ心、波立つ思いに向かって、「黙れ。静まれ」。
 私たちの心も、いつもザワザワ波立ってるし、風にゴウゴウ揺れ騒いで、まあ、ほんと落ち着かない。凪のような、静かで優しい気持ちになりたいなって思うけれども、なんかひとこと言われただけでザワザワするし、誰かとぶつかるとゴウゴウだしで、大変です。そんな私たちに、イエスは、「黙れ。静まれ」と言う。イエスの心はほんとに穏やかで、何があろうと静かだから。どれほど周りが波立って吹き荒れても、イエスのうちには静けさがある。そして弟子たちに、「なぜ怖がるのか。どうして信じないのか」(cf.マルコ4・40)と。この波風こそが「恐れ」なんです。凪は「信じる」ってことなんです。みなさん、心静かにしたいでしょう? もう、あのイライラやムカムカを体験したくないでしょう。実はそれすべて、恐れの波風であって、それを収めるのがイエスであり、イエスへの信仰であり、信じて初めて訪れる凪なんです。「いや、きっと、この人とうまくいく」と信じるんです。「この試練もなんらかの訳があるんだから、忍耐しよう」と、「この人もきっと一匹で育てられて攻撃的になってるかわいそうなコオロギなんだから、排除せずに関わろう」と、神の御業を信じるんです。

 昨日、「こころの時代」の再放送で、ある精神科医を紹介してました。ホームレス支援で働いている方ですけど、その中で「オープンダイアローグ」を紹介してました。本人がそのオープンダイアローグに救われたっていうことで。オープンダイアローグって、今、精神医学の世界で重要視されている治療法です。本当に信頼できる人たちと心を開いて語り合う、ある意味それだけの療法です。当事者と共に、精神科医やケアするスタッフとか、親とか友人が、輪になって、当事者の幸せのためにゆっくりと語り合う。責めたり決めつけたり裁いたりせずに、その人そのままで安心してそこにいられる環境を作る。それだけでも、劇的な効果があるんです。逆に言うと、みんな、責められたり理解してもらえなかったり、しまいには排除されたりで傷つき、病気を悪化させてきた人たちなんですね。無理やり強制入院させられたとか、強い薬でひどい目に合ったりとかで、もう恐れでいっぱいなんです。その恐れを取り除くために、「もうだいじょうぶですよ、私たちはあなたそのままを受け入れてますよ、何があっても一緒にいますよ」って語りかけ、その人の話をゆっくりと聞くわけです。実際、そういう仲間たちと一緒にいると、劇的に状態がよくなっていく、と。
 その精神科医は、オープンダイアローグの研修に参加して、そこで大きな成長を体験しました。それまでは「助けてあげよう」みたいな、上から目線だったのが、相手と対等になって、「医者と患者」じゃなくて、「人間と人間」として向かい合えるようになったと。彼が言うには、「今までは、人を救おうと思って、いろんな武器を手に入れようとしてきた」、と。でもそれって、結局恐れなんですよね。「自分の力は弱い、だから武器が必要だ」ってことだから。そうじゃなくって、「自分の弱さも全部受け入れた上で、弱い者同士、信頼して一緒にいればきっとよくなっていく」って、それこそは、「信じる」ってことじゃないですか。
 それで彼はまず、自分の恐れと向かい合ったわけです。振り返ってみれば、彼の両親がいつも喧嘩ばかりしていて、父親が母親に暴力をふるうのを目の当たりにしながら育った。そういう過去の経験に彼は蓋をして、そこから逃れるように精神医学を勉強したし、ホームレスのケアを始めたのも、「人を救うことで役に立つ私」みたいに、自信を持ちたかったからだってことに気づくわけですよ。自分の過去を肯定できず、今の自分に自信を持てないからこそ頑張ってきたわけです。
 さらには、最も思い出したくなかったことを見つめました。それは、母親がストレスのせいか、重いがんになって亡くなったんですけど、入院中、父親が病室でも母親にひどいことを言ったりしてるのを見るのがいやで、なかなか病院に足が向かなかったんですね。それはお母さんとしたら、さみしかったんじゃないですか。亡くなる前に見舞いに行ったとき、だれかが「優しいお子さんですね」みたいなことを言ったら、母親が「いえ、この子は優しくないのよ」って言ったそうです。それが、母親から聞いた最期のひと言になったんですね。それは彼にとっては相当なショックで、その後も苦しみました。冷たい自分、ダメな自分、母親から優しくないと言われる自分、そのショックを覆い隠してその後生きてきたし、「そこには蓋をして開けてこなかった」そうです。
 だけどね、母親って、「この子は優しくないのよぉ」とかって、わざと身内をけなしたりするじゃないですか。でも言葉って、残りますからね。だれがどこで傷つくかわかりませんから、だれでも1.5割増しくらいで褒めておいたほうがいいですよ。(笑)いいこと言ってあげたほうが、いい形で残りますから。その点、日本には「うちの愚息が」みたいな言い方もあって、かわいそうにね、彼はそれがトラウマみたいに残っちゃった。だけど、彼は、そのオープンダイアローグの研修の中で、だめな自分、役に立たない自分を受け入れようって決心した。彼の言い方だと、「I forgive me」、すなわち「私は私を許します」っていう自己受容をしたんです。向き合うのが怖かった自分の傷と向き合うチャレンジをしたら、真の平和が訪れました。
 これ、みなさんもできることです。ありのままの自分と向かい合って、その自分を受け入れて、静けさを取り戻す。それさえ出来れば、だれと向かい合っても、一緒にいることができる。許し合うキリスト教の、本質です。なんか上手なことを言ったりね、治療法とかプログラムとかを考えなくてもいいんです。互いに信じて、一緒にいればいいっていう。

 神父なんかは、もうそれしかないんで、ただ一緒にいるだけ。いろんな人のいろんな話聞きますけど、恐れずに向かい合うだけ。「あなたがどんな人でも、そのままでいいですよ」っていう。だから、ちょっといい加減な感じで、友達感覚で聞くくらいがちょうどいい。「司祭と相談者」みたいな感じだと、生きた言葉が響かないというか。私の友人の漫画家が私の似顔絵を書いてくれたことがあるんですけど、私の顔の横に、私の口癖だとかで、吹き出しまで付けてあったんですね。こう書いてありました。「へぇ~、そうなんだぁ。大変だね~」って。(笑)まあ、そんなんでいいんじゃないですか。最近は刑務所に行きますから、殺人犯なんかもいますけど、そんな感じですよ。「へぇ~、殺したんだぁ。大変だね~」(笑)。だけどそれは、「あなたが誰であったって、何をしたんだって、あなたそのままを受け入れて一緒にいるよ」っていう基本姿勢だし、そうして寄り添ううちに、だんだん向こうが、ある意味勝手に元気になっていくんですよ。安心して。
 司祭はね、ついつい上から目線になりますし、精神科医もついつい治してやろうってことになるのかもしれませんが、真のチャレンジはそういう強がりとは違う。イエスのように、あらゆる恐れを超えて神の子たちを受け入れるチャレンジです。そのコツは、心の凪ですよ。自分の中に静けさがないと、人と人がつながれない。イエスさまがせっかく寝てるのに叩き起こしてねぇ、イエスさまも疲れてたんでしょ、これ。かわいそうにね。なんで起こすかと言えば、恐れてるからです。イエスは、「黙れ、静まれ」って、そんな弟子たちに言ってんですね。すると、静けさが生まれ、やがて船は向こう岸に着く。
 弟子たちは、イエスさまに倣って、一緒に寝ちゃえばよかったんですよ。どうなろうと、船は神のみ手の上。安心して、すべてを委ねていれば、向こう岸に着く。その向こう岸にこそ、本当に出会うべき人たちが待っているんじゃないですか。



2021年6月20日録音/2021年7月15日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英