福音の丘
                         

第二の人生

復活節第2主日(神のいつくしみの主日)
カトリック上野教会

第一朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録4・32-35)
第二朗読:使徒ヨハネの手紙(一ヨハネ5・1-6)
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ20・19-31)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 「神のいつくしみの主日」という美しい名前の主日、復活節第二主日を共に過ごしております。大きな恵みです。去年はこれ、公開では出来なかったからね。その意味でも、今年の復活祭、そして今日の第二主日、これは「復活祭の復活」でもあるんですね。二重の意味で嬉しいです。去年は集まることも出来ずにさみしい思いをしましたし、これからどうなるんだろうって思ったかもしれませんけど、私たちの日々は神の国に向かう人類の旅路ですから、どうにかはなるもんなんですよ。どうにかなる。なんとかなる。そう信じて、一年また一年と越えてまいりましょう。
 まあ、一年経ってもまだこんなとはねえ、あのころは思いもよりませんでしたけれど、それでも復活していきます。復活していくもんなんです。復活っていっても、元に戻るって事じゃないですから、別の言い方をすれば、我々人類は、常に進んでいく。新しい段階に入り続けるんです。人類の歴史って、これは神さまがずーっと造り続けている歴史なんで、いつだって今までなかった世界なんですよ。常に新しい。そしてそれは、良い方に向かっているんです。常に。
 もちろん、浮き沈みはあるでしょう。でもそれも、人の感覚ですからねえ。人によってまあ色々と、浮いたり沈んだりはあるのかもしれないですけど、大きな目で見れば、神さまの御業はちゃんと神の御国に向かって実現しておりますし、私たちはどんな現実にあっても、日々創造の御業の中を進んでいるんだと信じ続けます。去年から今年にかけて、そして又来年に向けて、希望を新たに致します。私達の内に、そのような新しい力はもうすでに宿っておりますし、それを信じ続けます。
 復活祭に、植木鉢を一つ頂きました。小さな小さな紫色の花がいっぱい咲いていて、名前はわかりませんけど、とっても可愛らしい。日の当たる窓際に置いといたんですけど、水をやるのを四、五日忘れてたら、すっかり枯れてしまいました。日に当てようとして、レースのカーテンの向こう側に置いたのがいけなかった。はたと気づけば、葉っぱも茎も花も全部萎れて植木鉢の周りに垂れ下がってしまってて。まあ、可哀想な事したなと思いましたよ。私、割とそういう、取り返しがつかない事をした時にしょげるタチなんですね。で、そういう思いに囚われると、引きずるんですよ。「もっとああすればよかった、なんでこんなことが出来ないんだろう。ああ、もう取り返しがつかない」とかって引きずる、あの何とも言えない喪失感、わかりますか。でもまあ、ふと思いついて水をかけてみたら、あっという間に元に戻りました(笑)。・・・当たり前なんですか? いや、だけど、嬉しかったですねえ。もう無理だと思っていたのが、全然平気で大丈夫だったっていうときの、何ていうんでしょう、救われたというか、大もうけしたというか、喪失感が全て吹き飛んで、お花に向かって「もう決して悲しい思いはさせないからね」って話しかけましたよ。
 それにしても、いのちの力って凄いですね。ほんとにもう萎れてて、枯れちゃったと思ってたんですよ。それがもう、一時間たたないうちに何事もなかったかのようにピンとね、元気に立ちあがって葉っぱを蘇らせて。命って、凄いなあと思う。その本質に、何かとてつもない力を秘めていて、我々はその力をちゃんと知らずにいて萎れたような顔してるけれども、実はそれこそ命の水、聖なる霊の働きをちゃんと吸い上げたら、途轍もない力を発揮出来るんですよ、我々。そこのところを、まだ誰も、一人ひとりの内なる可能性について知らないんじゃないですかね。五十年、七十年生きてきたからもうそろそろ知ってるかっていうと、そんな事ないと思う。自分が本当に輝いて、みんなの中で神さまの力を発揮する、その力は全ての人の内にちゃんとあるんだけども、肝心の水をやってないので、萎れたままの人生ってことあると思う。この場合の「水」は、もちろんこの世にはない、天の水ですね。神さまの力ですから、神から注がれる水でしかありえない。復活祭の恵みの日々、そのような、神から来る命の水をしっかりと吸い上げて、元気に美しい花を咲かせましょうよと言いたい。

 昨日のNHKスペシャル、感動しちゃいましたけど、池江璃花子さん、見ました? いや~、何かこう、「もうオリンピックの開催は無理でしょ」って言ってた人も、微妙に気分が(笑)、変わったりしてるかもしれませんね。彼女の存在は、やっぱり萎れている日本国民を励ましてくれていると思いますよ。
 池江さん、ご存知のとおり、日本一の記録保持者だったんですよ。東京オリンピックではもちろん金メダルってみんな信じていたのに、白血病でしょう? 誰もが思ったんじゃないですか、「神さまは、なんて残酷なんだろう」って。だけど今となってみると、決して残酷じゃないんですよね。彼女は復活してきたし、むしろその試練をくぐったからこそ、次の段階、新たなステージに上がってるんです。復活って、「元に戻る」じゃないんです。新たな段階なんです。彼女の心、生き方、そしてこの世界との関わり方が、その前も別に悪くはなかったけれど、いっそう素晴らしいものに進化してるんですよね。それを、昨日はNスぺで目の当たりにして、とっても励まされました。
 日本一の記録を持って、金メダル間違いなしって言う人が、オリンピック出場は無理だってことになって、いったいどんな気持ちだったのか。番組では、「何か肩の荷が下りたようなちょっと解放されたような気持ちになった」というようなことも言ってましたから、重圧というか緊張というか、まだ十代から背負っていたストレスがあったんだろうなとは思いますけど、それにしても白血病ですからね。あんな若くしてね。「もう死にたいと思った」とまで言ってましたよ。「生きているのがこんなに辛いなら、もう死んだ方がいいと思ったこともある」、って。よほど辛かったんだと思う。お母さんが「そんな事言わないで、一緒に頑張ろう」って言って、二人で泣いたそうで、家族もほんとに辛かったでしょう。ある意味、天国から地獄のように苦しい試練の日々だったと思う。
 だけど、そこから復活するんですよ。凄いですよね、人間の力というか、神から人に与えられている、その可能性。彼女はまず、「今、目の前の事を一つひとつやる」っていう、地道なチャレンジを始めました。これ、凄く大事だと思う。「もう、過去は振り返らない。過去を振り返ると、昔はあんなに出来たのになんで今は出来ないのか、とか自分の記録はこうだったのに、とかって事になるけれど、それは意味が無い。生きているのは、今の私なんだから、私は前を見る」っていうようなことを言ってましたよ。
 現実に生きているのは、今のこの、病気を抱えた現実の私なんだ、と。過ぎた昔を振り向いたって、その私はもういない。現実の私はここから先を見る、と。今出来る事を一つ一つ、ただひたすらにやっていく、と。すごいですね。嘆くでもなく、あきらめるでもなく、病の現実を受け入れて、目の前の一つひとつの事に精一杯取り組む生き方です。
 トレーニングを再開しても、最初は腕立て伏せ一つ出来なかったんですよ。ぶら下がっても、懸垂一回さえ出来ない。15キロもやせて、最初にプールに飛び込む時、飛び込み台からだと、高くて怖くて飛び込めないので、一段降りたプールの縁から水に入ってんですよ。そうして小学生みたいにパチャパチャと泳ぎ始めたその変わり果てた姿に、息をのみました。でも、そんなところから一つひとつの練習メニューをこなしていって、一日、また一日と出来る事を精一杯積み重ねていくと、記録が段々と伸びていくんですよね。そして、退院してからたったの1年と4か月で、先週の日曜日の折しも復活祭に、日本選手権で3年ぶりの優勝を果たし、東京オリンピック出場を決めました。すごすぎます。人に秘められている、神から与えられた力。「神は残酷だ」なんて、簡単に言っちゃいけないんじゃないですか。
 そうして彼女は今、おおよそですが、こんな事を言っています。
 「私は今、第二の人生を生きている。第一の人生は三歳から十八歳まで。それは栄光の人生だった。でも、闇をくぐり、これ以上ないっていうくらい辛い体験をくぐり抜けて、今自分は第二の人生を生きている。この第二の人生は、自分のためではなく、誰かのための人生なんだと思う。今までは、泳ぐ事が当たり前だと思っていたけれど、その当たり前の事が出来なくなったところから立ち直っていく途中の私としては、同じように当たり前だと思っていた事が出来なくなった人達の希望になりたい」。
 今、特にコロナの時代ですし、それこそ、何でも当たり前にできていたことが出来ない世の中になっている。以前は旅行したのにとか、みんなで楽しく飯食ってたのにとか。それどころか、仕事がなくなったとか、大切な人を失ったとか、当たり前だった世界が当り前じゃなくなって暗い気持ちになってる、そんな私たちにとって、まさに彼女は希望だと思う。
 昔の事を、振り向くな。生きているのは、この今の私が、生きてるんだから。どんな現実であろうと、今のこの環境で、今のこの状況の中で、精一杯一つひとつ出来る事を積み重ねていこう、と。当たり前の事が出来なくなっても、そこからまた一歩ずつ歩き始めて、新しい世界を造っていこう、と。そんな、みんなにとっての希望になりたいんだ、と。ありがたいですよね。ああいう人こそ、カトリック用語でいうなら、「秘蹟的な存在」っていう事になるんでしょうね。神さまの栄光、復活の神秘を、目に見えるしるしとして見せてくれる存在。

 さて、オリンピック、あるんだかないんだか、それこそ神のみぞ知るですけども、いずれにせよ、がんばってる人をやっぱり応援したくもなるし、試練の内に生きているお互いに、応援しあいたいですよね。だって、池江さんに応援してもらうだけじゃ申し訳ないでしょう。私たちも、今出来る事を、精一杯一つひとつ重ねていけば、それが誰かを励ます事になるわけですから。特に、当たり前だった事が出来なくなっちゃった、そういう環境、そういう状況にある人たちを励ます事になりますから。
 それこそ、先ほどの朗読ですけど、トマスは何でみんなと一緒にいなかったんですかねえ。恐らくは、他の弟子たちにも増して辛かったからじゃないですか。とてもみんなと一緒にいられないほどにショックを受けて、苦しんで、絶望していたんじゃないですか。イエスと一緒に活動したあの幸せだった世界はもう消えた。当たり前に思っていた栄光の世界がもう無くなった。日本一の記録保持者が泳げなくなったみたいに、萎れて枯れた植木鉢みたいに、二度と元の世界には戻らないと思ってたんですよ。残酷な神を呪って、もう何も信じないと思ってたんじゃないですか。ユダは自殺しちゃいましたけども、たぶんトマスも、自分も消えたいと思ってたと、私にはそう思えます。みんなで閉じこもって、なんとか励ましあって生き延びていた他の弟子たちとは一緒にいなかったトマスこそ最も苦しんでいたし、恐らくは俺も死のうって思ってたんじゃないですかねえ。
 そんなトマスに、先に復活体験をした弟子たちは、「ほんとに主は現れたんだ、新しい世界が始まったんだ」って福音を語ったと思うし、そんな仲間のおかげでトマスも八日の後にはみんなと一緒にいて、神の国の真の始まりを体験する事になります。優しいですよね、イエスさまも。「見ないで信じる者は幸い」だとか言ってますけど、トマスにはちゃんとご自分を見せてんですもんね。そうは言いつつも、「私を見なさい、私に触れなさい」、と。神は、残酷ではありえないんです。トマスは言います。「私の主、私の神よ」。
 全く新しい世界の始まりです。それはトマスの、そして弟子たちの、第二の人生って事じゃないですか。つまり、洗礼を受けたキリスト者は、みんなもう第二の人生を生きてるんですよ。第一の人生も悪いもんじゃなかったでしょう。先週洗礼を受けた方がここにおられますけれども、それまでのね人生だって、まあまあ、それはそれなりの人生だったでしょう。だけど、復活の主と会って洗礼受けてから先は、僕ら、第二の人生なんです。それは、時にはもう死のうと思っていた、もう全てが終わったというような闇をくぐり抜けた先の、決して滅びる事のない、もう二度と闇に落ちる事のない、神の国を生きる人生。同じように苦しんでいる誰かを励ますための、復活の人生が始まっています。
 オリンピック、見てみたいですけどね。でも、たとえオリンピックがなくっても、私にはもう、闇を超えた人が精一杯泳いで、最高の記録を出して、涙を一つこぼして、かけがえのない笑顔を見せて、それに励まされる人たちみんなが喜んでいる、そんな秘蹟的な瞬間が見えています。私たちもまた、困難な現実の中で、今を一つひとつ積み重ねて、だれかを力づけることが出来るような人生を生きて行けば、目には見えないけれども、天上の光輝くメダルを、神さまがかけて下さいますよ。



2021年4月11日録音/2021年5月28日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英