福音の丘
                         

黒板五郎は今も生きている

復活の主日
カトリック上野教会

第一朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録10・34a、37-43)
第二朗読:使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ3・1-4)
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ20・1-9)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 復活祭、喜びの日を迎えました。さてしかし、みなさんは「復活」って信じてるんですかね。
  もちろん、信じてるから信者になって、復活祭をこうして御祝いしているわけですけれど、じゃあ、誰かから「復活を信じるって、何を信じてるんですか」と聞かれたら、どう答えるんでしょう。イエスが死者のうちからよみがえったこと、弟子たちが復活の主に出会ったこと、そして今も主は教会のうちに生きておられること。その主と共に私たちも闇から光へと復活していくこと。そういう、復活の大きなイメージがあって、それを大まかに信じてるって感じじゃないでしょうか。だって、細かいことはよくわかりませんから。4つの福音書だって、それぞれ別のことが書いてある。今日の福音書だと、マグダラのマリアが一人で墓に行っているけど、他の聖書だとみんなで墓に行ったとある。一体どっちなの、と。そもそも、「現れる」ってどういうことなんだろう。弟子たちから何mくらいのところに現れたんだろう。そんなことを考え出したら、謎ばかりで、事実は何もわからない。だから、弟子たちのそれぞれの証言を素直に受け止めて、復活っていう特別な出来事の大まかなイメージを信じているわけですし、それでいいんじゃないでしょうか。
  大事なことは、神様の語る、「大いなる復活の物語」が確かにあって、それがこの世界を根底から支えているという事実です。私たちはそれを様々な形で体験しているし、少しずつ発見しているし、何度も闇をくぐればくぐるほど、神のわざとしての復活への信仰が増してくんです。神さまはこの世界において、「復活」という最高の物語をちゃんと語っているし、実行しておられるってことです。ここが大事。
 「天地の創造主」とよく言いますけど、創造って言っても、実は物を創ったわけじゃない。大きな物語を創ってるんですよ。物はその物語の小道具にすぎない。だって、ただ物を創っただけだったら、原子と星がぐるぐる回っているだけの話じゃないですか。神は、その原子と星たちが語る、大いなる物語を創ったんです。これが、天地の創造ということです。本当の意味で物語を創ることが許されているのは、神だけ。ですから、神の物語だけが本物ですし、それを信じていればいい。
 人間も物語を作りますし、「作り話」なんて言葉もあるように、いい加減な物語がいっぱい溢れてますけど、どんな物語であれ、この神の大いなる物語とちゃんと繋がっているかどうかが、その物語の真価を決めます。神の大いなる物語に小さな物語として連なり、合流していく、そういう物語は本物だし、人を救います。そうでない自己本位な物語は、作ったところで意味がないし、時に人を苦しめます。不思議だと思いませんか。いい物語は多くの人を感動させますけど、なんでみんな感動するんでしょうか。それは、私たちがその物語を受容するちからを持ってるからだし、同じセンスを共有しているからです。辛くて悲しい物語や、この世の闇を暴き出すような重い物語もあるんだけど、その闇を超えていく大きな物語があることを作者もわかっているから語っているわけでしょう。だからみんな、闇の物語にも感動するんですね。その先の光を、ほのかに感じながら。人類は、物語を語る存在なんです。物語を語ることの素晴らしさを知っているんです。人間は、宇宙の果てから人の心の奥底に至るまで、すべてを語りながら、神の大いなる物語に加わろうとしている。これが、人類の意味です。どれだけ素晴らしい物語を語るのかが、人間の素晴らしさの本質なんですよ。
 復活という物語、復活という創造のみわざは、確かにこの宇宙の真ん中で輝いております。それが、イエス・キリストの十字架と復活という事実において、最高の物語として光り出して、僕らはそれ以降、あらゆる物語の根底に「復活の物語」を置いて語ることができるようになりました。「もはや死はない」「不滅の命」という最高の物語を2000年間語ってまいりました。

 今日、このあとの洗礼式において、受洗者は、人は永遠の命を生きているという最高の物語の目に見えるしるしとなります。素晴らしいことです。受洗に至るまで、それぞれに恐れていたし、迷ってきたことを私はよく知ってますから、本当に感動しています。長い年月迷った末に、ついに実が熟してポトリと落ちるように洗礼を決心して今そこに座っておられますけど、それまで受洗者が語ってきた様々な物語を、私は聞いてきましたから。こういっちゃ失礼ですが、皆さんが語ってきたのはどれも、大した物語じゃないんですよ。もちろん、本人はそういう物語だとしか思えずに自分の物語を語っているわけですし、その苦難の人生や、傷ついた過去を軽んじるつもりはありません。ただ、そこには決定的に足りないものがあった。それがなければ、ほんとうにつまらない物語になってしまう、物語の決定的な核です。それは、復活物語です。
 「全ての闇は光に向かう。全てのつらい出来事は、よいものへと変えられる。主は復活し、私も共に復活する。私は死に向かっているんじゃない、永遠の命への誕生に向かっている。すべてのひとは復活において結ばれているし、あらゆる恐れは吹き払われ、あらゆる病は癒され、あらゆる罪は許される」。
 そのような神の物語を信じて洗礼を受ける者は、今後の人生のすべての出来事において、この物語を中心に生きていくことになります。これからも嫌なことがあるでしょう、絶望したくなるような辛いこともあるでしょう。しかし、この復活物語を魂の深みに装備した者は、何があろうとも一日一日を素晴らしい物語として語ることが出来るのです。実はそれを語っているのは、神であり、感動して味わうのはあなたなんです。
 司祭はいろんな相談事聞きますけど、正直言うと私は心の中で、「変な物語だなあ」と思って聞いてるんですよ。「ひどい親だった、悪い時代だった、自分には才能がない、人からひどい仕打ちを受けた、なんで自分がこんな病気になったのかわからない、大事な人を亡くしてもう生きていけない」、などなど。それに同情できないって言ってんじゃないですよ、それは事実じゃないって言いたいんです。それは、あなたがそう語ってるだけなんです。その物語の中核に、復活の物語を置いてほしいんです。「この辛い思いを誰かに聞いてもらいたい」という気持ちはわかりますけど、いくら語ってもその物語自体が変わらない限り、救いに目覚めることはありません。素敵な希望の物語を語ることができるのに、それをつまらない物語にして語っていることの虚しさについては、本人が気づくしかありませんし、それに気づかせるのが福音の物語、復活の物語です。

 一昨日の聖金曜日に、俳優の田中邦衛が亡くなったっていうニュースが流れて、脚本家の倉本聡が「心に穴が空いた」と言ってました。私、天国に持っていくテレビドラマ一本を選べと言われたら、間違いなく「北の国から」と答えます。私にとってスペシャルな物語だからです。まあ、お若い方は知らないでしょうけどねえ。
 北海道の富良野が舞台。そこで生まれ育った「黒板五郎」っていう田中邦衛が演じるお父さんが、東京で働いてたんだけど、いしだあゆみ演じる奥さんと離婚するんですね。奥さんが家を出てっちゃうんです。それで、黒板五郎は小学生の息子の純と娘の蛍を連れて、富良野に帰ります。帰ったって住むとこないんで、原野の林の中で廃屋を修理して住み始める。そこでのいわば自給自足の、貧しくとも人間味あふれる生活を通して、都市生活という非人間的なつまらない物語の闇を浮かび上がらせるという、優れた物語です。不自由だけれども、だからこそ真の自由があるというテーマの脚本で、私は毎回感動して見ておりました。理論社からシナリオが発売されていて、それをドラマが始まる前から読んでました。1981年、神学校に入った翌年です。毎週金曜の夜、休憩室でみんなで見てました。もう、涙もろいんで、人目はばからず毎週泣かされてね、懐かしいです。
  第1話で、純と蛍が初めて原野の廃屋に着いた時、都会っ子の純が文句言うんですよ。「電気がない!」ってね。「夜はどうするんですか!」。すると、おやじが言う。「夜は、眠るんです」。そういうセリフの一つ一つが、何かとても本質的ですがすがしかったし、その後神父になってから毎夏無人島に行くことになる、ひとつのきっかけにもなってます。40年前ですけど、あの時点ですでに食品ロスの問題を扱ってんですよ。人間中心の都会と、いのち中心の自然界の本質。自己本位な人間関係と、家族同然に助け合う仲間たち。物事の優先順位をきちんと語っている美しい物語として、心にストンと入ってきたんです。第2話だったか、お金の話になったとき、純が聞くんですね。「お金がなくて、どうすんですか?」。するとおやじが「必要なものは、自分で作ればいいんです」って答える。純が、「作るって言ったって、そんな面倒くさいことできませんよ」って言うと、おやじが言うんです。「工夫して作るのが面倒くさいと思うようなものだったら、それは必要のないものなんです」。
 名セリフじゃないですか。おっしゃるとおり、本当に必要なものなら、人はどんなに面倒でも丁寧に工夫して作り出すんですよね。実際、無人島キャンプの暮らしなんかまさにそうだし、それって実は楽しいことだし、誰かの役に立てれば嬉しいことでもあるし、そうして道具を使って、工夫して助け合って生き延びるって、人類の本質なんじゃないですか。人類何十万年の物語を、神はちゃんと語っているし、それを忘れかけている現代社会に、いのちの本質の物語の核を与えてくれたドラマとして、忘れられないんです。
 出てったお母さんが、子ども会いたさに富良野まで来るシーンがあってね。お母さんが東京に帰る時に、娘の蛍がね、中島朋子ですよ、かわいかったねえ。あの、すみません、この話ついてこれない人はちょっとだけお待ちくださいね、私にとってはとても大切なとこなんで。で、娘の蛍がお母さんの乗った列車が空知川の鉄橋を渡るときに、堤防の上を走って列車を追いかけるシーンがあるんですよ。お母さんが蛍に気づいて、窓から身を乗り出して手を振るんです、髪の毛が風になびいてね。蛍は、泣きながら追いかける。1981年の秋からの放映で、全24話。このシーンは2月ごろ放映されたんですけど、なんで覚えてるかって言うと、私、感動のあまり「ここに行こう」って思って、翌3月に、富良野まで行ったんです(笑)。まだ放映中ですよ。そういうことするんですよ、この人は。間抜けというか、思い入れが激しいというか、今でいうファンの聖地巡礼ですね。
 「北の国から」は100パーセントのオールロケだったんで、撮影地が全部そのまま残ってたんですよ。ヒッチハイクしたら、親切な地元のヤンキーが紫色の車で、撮影地を順に案内してくれました。黒板五郎の家がそのままありましたよ。原野の雪をかき分けて行ったんですけど、勝手に中に入って、「おお、このストーブだ」とか、せまい梯子登って、「わあ、純が寝てたとこだ」とか。その後観光地に移築されたらしいですけど、当時はまだ放映中だし、誰もいなかった。そこから、丸太小屋にも行きました。ドラマの中ではその後、純の不注意で火事で燃えちゃうことになるんで、あれ、燃える前を見た人ってほとんどいないんじゃないかな。入り口にノートがぶら下げてあってサインしたんで、どっかに残ってるかもしれません。他にも、ドラマで何度も出てくる富良野駅前の喫茶店とか、富良野プリンスホテルでいしだあゆみが振り向いたロビーとか。
 忘れられない巡礼旅行でしたけど、正直言ってどこか虚しさを感じたのは、確かです。ロケに使った建物はあるし、確かに蛍の走った堤防はあるんだけど、当たり前のことですけど、すべては劇作家の頭の中の物語であって、それを役者が演じただけで、ロケ地を巡ったところで純や蛍に合えるわけじゃない。ロケ地はいわば抜け殻であって、本物の黒板五郎は、純も、蛍も、実はここにいるんですよ(自分の胸を指さす)。今なお、自分の中に。この自分を生かし、励ます、素晴らしい物語を、永遠に生きている登場人物として。それは作り話じゃない。事実じゃないけど真実なんです。この僕を、今でいう「持続可能な世界」に目覚めさせてくれたし、無人島に30年通い続けるきっかけにもなってる。自分の中の普遍的な物語を呼び覚ましてくれたドラマなんであって、そのような物語をきちんと語り、それを共有することって、人間の最も人間らしいところなんじゃないですか。

 私たちがこうやって聖書読んでいても、みなさんそれぞれの物語を読み取っているわけですよね。聖書だって作者がいるわけで、マルコが、ヨハネが、それぞれの熱い思いをもって書いたんです。それを読む私たちにもそれぞれの体験と思いがあり、それが響き合って初めて、福音の物語が生まれ出る。それも、若い頃読んだ聖書と、歳をとって重い病気したあとに読んだ聖書だと、またその響き方が全然違うんですよ。この世界の一番奥深くのところに本当に美しい救いの物語があって、その物語を見つけて語ること、その物語を聞いて信じて新たに生まれること、それは人類の使命でもあるし、私たちが生きるということは、そういうことなんです。
 さっき読んだ福音書では、二人の弟子が墓にやってきたけれど、中は空だったと。これだって、どういう物語にでも読めますよ。誰かが盗んだんじゃないかとか、ネズミが食ったんじゃないかとか、幻を見たんだろうとかどんな物語にでも語れる。現に、「二人はまだ、イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を理解していなかった」とあります(cf.ヨハネ20・9)。この時点では、復活の物語をちゃんと理解できてないってことですね。それまで聖書がずっと語ってきた神の救いの物語が、まだわかっていなかった。しかし、復活のイエスに出会って、弟子たちは決定的な物語、この世界の根本の物語を語り始めます。神の愛が、まことの命が、私たちの内に現れた。それを知り、信じて一つになり、私たちもまた永遠なる存在となる。復活の物語とは、死んだ人が生き返ったとかいうつまらない物語ではなく、すべての人を生かす普遍の物語ですし、だれもの心のうちに標準装備されるべき物語です。それを告げ知らせることこそが、福音宣教っていうことでしょう。
 脚本家の倉本聡はね、今でも富良野に住んでるんですよ。よほど富良野が好きになっちゃったんでしょう。そこで彼の始めた「富良野塾」ってのもありました。若い塾生たちに農作業をさせたりしながら、地に足の着いた生きた人間の物語を学ばせたんです。反都会ですよ。反経済至上主義。40年前から食品ロスの問題を、丁寧に扱っていた脚本家です。現代日本を憂いて、「ブレーキもバックギアもないスポーツカーになんて、危なくって乗れるわけがない」と言ったこともある。この、黒板五郎の生みの親が、昨日、田中邦衛の死を悼んでこう言っておりました。
 「田中邦衛は死んだけれども、黒板五郎は今もこの富良野に生きている」。
 そういうことじゃないですか。イエスは死んだけれども、イエス・キリスト、この私を愛して、私を救ってくれた、救い主キリストは、今も私と共に生きている。それは最高の物語であり、かけがえのない信仰です。
 いろいろと辛い思いをした末に、教会に出会って、ここまで来られた洗礼志願者のみなさん。今、素晴らしい物語が始まろうとしています。あなたの存在は、本人の決心とか、教会の指導とかさえも超えた、神さまのみわざです。神に導かれてここに座っておられますけれども、これからお水をかけられて神の子として新たに生まれていく、そのあなたの人生の美しい物語は、ここに居合わせた私たちにとっても、大きな励ましです。なぜなら、あなたの存在は、この世界の根本に大いなる神の物語が確かにあるんだっていうことを証しする、美しいしるしだからです。
 それでは、洗礼を志願する方のお名前を呼びますので、立って前に出てください。


2021年4月4日録音/2021年5月19日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英