受難の主日(枝の主日)
カトリック浅草教会
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ50・4-7)
第二朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・6-11)
福音朗読:マルコによる主イエス・キリストの受難(マルコ15・1-39)
ー 晴佐久神父様 説教 ー
受難の主日をご一緒に迎えることができました。神に感謝、です。
この受難の主日は復活の主日直前の主日ですから、言うなれば復活の始まりでもあります。受難から復活へ、これを私たちは今日からの聖週間で体験いたします。救いのプロセス、ですね。「受難」だけ見たってしょうがない。「受難があり、その先の復活」と。これがセットだってことを、お忘れなく。
私たちいろんな受難を体験しますけども、たいてい受難だけ見ちゃうんですよ。それで苦しんだり、恐れたりするわけですけど、実際には「受難復活」なんであって、セットなんです。復活だけ、なんてこともありえない。だって、受難がなければ「復活」って呼ばないわけですから。この世界は何事においても、そんな「受難復活」、「受難復活」の繰り返しですし、さらに大きな意味で言えば、だれもが死という受難をくぐり抜けて、決定的な真の復活に向かっているというプロセスを生きています。大いなる永遠の世界に向けての「受難復活」を、人生の一つひとつの小さな「受難復活」で体験しているともいえる。そんな、「大いなる受難復活」をイメージしますし、そういう神の恵みのプロセスを生きているんだと励まされる聖週間。そういうことですね。
昨日は羽生結弦くんのフリーを観てましたけども、あれも受難でしたね。最初のジャンプを降りられずに手をついちゃって、その後もよろける、ふらつく。どんな王者でも、やっぱりみんな、受難復活を生きているんですよ。ライバルのネイサン・チェンだって、昨日は完璧に跳んだり、はねたりで素晴らしかったですけれど、いつもそうとはいかない。現に、ショートのときは彼が受難で、フリーで復活。羽生結弦はショートが完ぺきでしたけど、フリーは受難。人にはそれぞれ波というものがあって、結弦くんも次は復活するでしょう。
考えてみたら、彼は3.11のときに被災して、避難所暮らししているんですよね。大怪我をしたこともありました。でもその度に復活して、何度でも復活して、いつも受難ばっかり見つめてしょんぼりしているようなぼくらに、美しい希望を与え続けてくれています。今回も確かに受難でしたけど、次に向けて、「クワッドアクセルを準備してる」なんて口走ってましたよ。来年のオリンピックに向けて、なんとクワッドアクセルですよ。四回転半です。あれって、一秒間に六回転してるんですけど、それで四回転半するって、どんだけ空中にいなきゃなんないのってことなんだけども、もしかしたら来年、人類初のとんでもないものを我々は観て、またまた励まされることになるのかも。
いずれにしても、まずは受難が大事。そりゃ、人間ですから怪我もします、病気もあります、人生にはいろんな困難がつきまといますけど、すべてはとっても大切な出来事なんですよ。それは、「受難復活」をセットで受け止めたときにようやく明らかになる。ぼくらの信じるキリスト教の核心は復活信仰にあるわけですけども、その意味では、キリスト者はどんな受難の向こうにも復活を見なければなりません。復活なしでは、ただの受難。そんなの、寂しいしつらいし、出口がない。もちろん、時には希望を失って苦しむことも確かにあります。でも、振り向けば何度も、復活してきたじゃないですか。今までもそうだし、これからもそうだし、究極的には、ぼくらのどんな想像も超えた真の復活が待っていると、聖週間はそれを信仰において体験する日々です。キリスト者は、ほんとにもう人生最悪っていうようなときにこそ、「神の恵みがここにある」ってね、そう思うべき。
先週、興味深いニュースが流れました。去年、自民党の元法務大臣が、選挙前になんだか随分いっぱいお金を配ってまわったとかで、逮捕されましたよね。まさに人生最悪って時を迎えたわけです。その彼が、ずっと「私はやってない。私は悪くない。私は辞職しない」って言い続けていたんだけども、この度観念して「白旗を上げた」ということで、裁判の席で「私が悪かった、議員も辞職します」って言ったというニュースです。それはいいんですけど、ご存じですか、そのきっかけになったのが、彼と親しいカトリックの神父からの忠告だったそうなんですね。その神父が彼に進言したために、改心した、と。
・・・私じゃないですよ。(笑)でも、その神父の思いはよくわかります。神父ってやっぱり、いい意味で浮世離れしてますから、現金配って当選するだの、党に迷惑かけないようにだの、そういう「この世」を超越してるんですね。その神父は彼に言ったそうです。「神のみ前に誠実であることが大事です。自分の内面をよく見つめてください」と。ある意味「受難復活」のすすめですよね。たとえこの世で受難を引き受けても、神のみ前に誠実であることが、真の復活をもたらす。彼も今、復活し始めてるんです。すごく大事なことです。この世ではね、いろんな決まりごとがあります。いろんな立場もあります。いろんな体面もあります。だけど、「自分の本心を見つめ、神のみ前に誠実であること、それが一番大事だ」、と。
突然神父が登場してきたんでネットもざわついて、「カトリックの信者なのか?」とか、「その神父には、安倍元首相にも会ってほしい」(笑)とか、いろんな声が上がってますけど、どうやらカトリック校の出身で、お母さまがカトリックの教会で葬儀ミサをしているそうですし、教皇フランシスコ訪日の時もバチカンに何度も通って訪日に尽力していますから、少なくとも神父のことばに敬意を持っていることは確かでしょう。拘置所で二百日以上自分の内面を見つめ、最後は神父のひと言が天の声だったわけですね。「神のみ前に誠実であること」。それはもう、人間の基準とか自分の感情とか、そういうものの奥に、神さまの場所があるんですね。誰にでも。そこを見つめ、そこに誠実でなければ、この世の誰に忠誠を尽くそうが、この世でどれだけ成功しようが、大したことじゃない。そこに向かい合った彼は今、受難を潜り抜けて、今までの人生で一番安らかな時を迎えていると思いますよ。
この、「神の前に誠実である」っていうのは、「嘘ついちゃいけないよ」とか、そういうことではあるんですけども、実はすごく本質的なことを言ってるんですね。自分の内側に確かに存在している、神がお造りになったそのままの自分を受け入れるってことです。言うなれば、「裸の自分」ですね。何も着てない、ごまかしていない、「これが私」っていう、その本当の素っ裸の自分に、まっすぐに向かい合うことです。みんなそれが嫌だから、色々着込んだり、飾ったりして、ごまかすんですね。ブランドもの着たり、立派なマンションに住んだり、それ自体は悪いことじゃないんだけれども、立派な服を着ていればいるほど「あらあら、中身がないのね」って思われちゃうっていうのも、事実です。鎧をつけるっていうのも、そういうことでしょう。自分がさらけ出されるのが怖いから、厚い鎧をつけるわけですよね。でも、どんなに覆ったところで、中身は変わらない。自分で自分を見ないふりしたって、裸の自分は確かにいるんだし、それを覆い隠すことに人生使い果たすの、ほんとにもったいない。拘置所に入らないまでも、我々もそろそろね、「裸の自分」と正直に向かい合って、「これこそ神さまがおつくりになり、神さまがよしとし、神さまが優しく見てくださっている私だ」と受け入れましょう。「この私を、神さまは生かして、育てて、やがて復活の栄光の世界へと誕生させてくださる」って認めましょう。ごまかさずに裸の自分と向かい合うこと。それが、神のみ前に誠実であるっていうことです。
ただ、それがですね、「誠実にしないと罰せられる」なんて思うとしたら、それもちょっと違う。「人の目はごまかせても、神はだませない。神に罰せられるのが怖いから正直に認めよう」とか、そういう「恐れ」の話とも違うんです。裸であり、かつ恐れがないんです。自分そのままで神に受け入れられているという「安心」の話なんです。自分のままで、なおかつ、恐れがない。・・・自由でしょう? こんな気楽なこと、ないじゃないですか。何も着ないでいいんだから。
そもそも、創世記にあるように、アダムが「食べちゃいけない」っていう実を食べたあと、自分が裸であることに気づいた、と。ほんとは、裸でいいんです。裸の自分を神さまがちゃんと見守ってくださっている。アダムとイブが裸で向かい合うことだって、素晴らしいことだったはず。なのに、「悪いことしちゃった。こんな自分はきっと怒られる」そう思った時に、彼は裸であることに気づいて隠れたって、そう聖書にあります。いちじくの葉っぱをつづり合わせて覆ったんですね。なんで覆うかっていうと、「自分は恥ずかしい存在だ。自分は汚れた存在だ。到底人さまにお見せするような、存在じゃない」って思いこんだからです。これこそ、罪の始まりです。木の実を食べたことが悪いっていうよりも、隠すこと、隠れることが罪なんじゃないですか? だって、人間なんて裸に決まってるじゃないですか。赤ちゃんは何一つ隠さずに生まれてくるでしょう。究極の裸。お母さんはその究極の裸を「あぁ、かわいい」って抱きしめるわけでしょう? なんか着て生まれてきたらイヤでしょう?(笑)。全部、あからさまにする、わが心のうちなる裸を神さまのみ前にきちんとお見せすること、それこそが誠実っていうことですね。恐れない。隠さない。ごまかさない。これは、気持ちがいい。
今、キリストの受難の朗読をいたしましたけど、イエスは十字架につけられるとき、裸にされるんですね。普通に考えたらそれは恥ずかしいことですし、みじめだとか無様だとか、そう言えばそうかもしれないけれども、実はこれこそ人間存在の原点というべき姿であり、人類史上最も美しい裸でもあるんですよ。ここにもあるように、カトリック教会の聖堂では必ず裸のイエス像をくっつけた十字架を掲げます。実はこれ、ルールなんです。最近、ご像のついていないモダンな十字架をかける教会が増えてきたんで、何年か前にバチカンから「磔刑の十字架を掲げてください」っていうお達しが出たくらいです。以前いた多摩教会でも、それで慌てて掲げました。多摩教会は、シンプルな十字架の前に復活のイエスのオブジェが吊るしてあるっていう、ちょっとモダンなデザインだったので。でも、それだけじゃだめだ、と。それこそ、復活だけってわけにいかないんです。「裸を掲げろ」って。
なんでですか。なぜ、裸を掲げるんですか。それは、神さまのみ前に、すべてをはぎ取られて完全に無力な、でも、だからこそ尊い裸をそのまま捧げる、そのイエスの奉献こそが復活の栄光をあらわすしるしだからです。それこそが、神の目には最も美しい姿として映っているんだ、と。
この信仰は、ありがたいですよ。私たちも、裸でいいってことですから。どこから見ても罪深いし、汚れてるし、それは人々から責められたりもするわけですけど、そんなことはどうでもいい。人からは言われなくとも、自分自身でそう思いこんだりもするわけですけど、それもまたどうでもいいんです。人から「おまえは汚い」と言われても、自分で「わたしは汚れている」と思い込もうと、どうぞご自由にってことです。大切なことは、生みの親である神はどう思っているか、ってことだから。その神さまは、この私の「裸のまるまんま」を、そのまんま愛してくださっている。そんな私の「裸のまるまんま」のまんま、復活させ、ご自分のみもとに迎え入れてくださる。この信仰によって、人は救われるんじゃないですか。だって、もう何も着る必要がないし、何も飾らなくってすむなんて、こんな気楽なことないでしょう。私の一番奥深くに、今もちゃんと裸の赤ん坊のような美しい私がいて、「それでよし」っていう。
聖週間が始まりました。この一週間、全世界の教会が、十字架復活を体験します。神の恵みにのみ、神の愛にのみ信頼をおく一週間です。この一年、いろいろとお困りだったでしょうし、不安だったでしょうし、さみしかったでしょう。しかし、コロナの中の聖週間という、自分の内面を誠実に見つめるいい機会をいただきました。「こんな私」、「そんなあなた」が、クリアに見えてくる機会です。コロナ時代、夫婦や親子が一緒に家にいる時間が増えたら、DVや虐待が増えたっていう統計がありましたけども、確かにね、一緒にいる時間が長いと相手のイヤなとこも見えてくるんですよ。イヤな自分も見えてくるんですよ。裸がさらされる、恵みのときですね。しかし、そういう自分、そのようなこの私そのものが、神さまのみ前に復活していく、そういう希望を大切にしましょう。なかなか普段は見たくないような裸のまるまんまの自分を見つめて、救われた議員さんとも一緒に、「神のみ前に誠実」な一週間を過ごします。
2021年3月28日録音/2021年5月13日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英