福音の丘
                         

弱者の総合デパート

四旬節第5主日
カトリック浅草教会

第一朗読:エレミヤの預言(エレミヤ31・31-34)
第二朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ5・7-9)
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ12・20-33)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 浅草教会での主日のミサ、私の司式は何か月ぶりになるんでしょうか。久しぶりに主日をこうしてみなさんと迎えて、感無量でありますよ。やっぱり、いい眺めです。みなさんが続々とやって来て、嬉しそうに検温したり、消毒したり・・・って、別に嬉しくないか。(笑)でもなんか、受付するのが楽し気に見えましたよ。いいもんですよね。教会っていうのは、神の子がみんなちゃんと結ばれているっていう、その目に見える「しるし」ですから、やっぱり直接集まってないと、かたちつかないですね。
 日曜日に、なんにもない聖堂に一人でいるときの様子、みなさんに見せたいですよ。ガランとして。虚しいというか、寂しいというか。それがこうしてね、みなさんがちゃんと集まって共にあるこの一瞬、まさに神の国。神の国の、始まり。だれもがこれを見て、「いいねぇ、やっぱり『神の国』はもう来てるんだねぇ。ここからいっそう、完成に向かっていくんだねぇ」と思うでしょうし、「コロナがなんだ」という、まさに我々は神に選ばれし、「しるし」となる者、キリスト者たちなんです。
 そう、復活祭に洗礼を受ける方もここにおりますよ。もう再来週ですね。そうなんです、復活徹夜祭が、ここでできるんですよ。聖週間、ぜひみなさんいらしてくださいね。ようやく私もこの聖堂で、復活徹夜祭を司式できます。実は、去年ここでやるはずだったのが、去年の聖週間はなくなった。ほんとなら今年は私は上野でやるはずですけど、おととしが上野でしたから、そうすると来年までの丸4年、私はここで聖週間の司式をしないことになっちゃう。それもさみしいな~っていうことで、去年のは「中止」ではなくて、「延期」っていうことにして、今年はここでやらせていただくことにしました。「キリストの光~♪」ってね。そうして水を聖別して、徹夜祭の洗礼式。実際に神の国が始まっているという、目に見えるしるしです。
 まあ、消毒したり、距離を開けたりと工夫しながらですけど、だけどこうしてみんなで確かに集ってるじゃないですか。つながってるんですよ。バラバラなようでいて、見えない世界では神さまがちゃんと結んでいるし、週に一度でもそれが目に見えるかたちでこうして共に座っているっていうのは、美しい。別に、立派なことしなくてもいいんです。「そこにいればいい」ってことですよ。私たち、ここにいるだけで、こうして互いに顔が見える、それだけでも神の国の目に見えるしるしなんです。美しい光景です。

 さっきの福音書に「雷が鳴った」(ヨハネ12・29)とありましたけど、それって、天から直接私たちに声が響いたってことで、神さまの親心、神さまの愛のみ言葉が、大サービスで直接神の子たちに語りかけられたっていう話ですね。だから、イエスは「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、みんなのためだ」って、そう言っているわけです。(cf.ヨハネ12・30)
 何を語りかけたのかというと、「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」(ヨハネ12・28)って言うことで、じゃあどんな栄光かといえば、今度はそれをイエスさまが分かりやすく語りかけてくださっている。そのイエスさまの、今日みなさんの心に届くひと言、覚えておいてくださいね。
 「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12・32)
 イエスを通して、これを言いたいんですよ、神さまはね。天から響いた、この福音。それが聖書で、教会で伝えられて、今日も私、心込めて朗読いたしましたけれど、みなさんの心に届きました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。
 ありがたいじゃないですか。すべての人ですよ。一人残らずです。いい子、悪い子、関係なし。全員です。「地上から上げられるとき」って言うけど、いまやもうイエスは地上から上げられてますし、言うなれば「十字架復活」という救いのわざは、もうこの地球上で実現していますし、だから我々も含め、すべての人はイエスによって神の国に引き上げられているところなんですよ。嫌だって言ったって、しょうがない。もう、ずるずる、ずるずると、みんな引き上げられる。芋づる式って言葉ありますよね。もう、つながってんですよ。ずるずる、ずるずるって、いやでも応でも引き上げられていく。
 「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」っていうんだから、私たちは今すでにイエスに引き寄せられてるんです。逆らっても無理だし、むしろ逆らおうとすることこそが、悲しみ、苦しみ、虚しさを生み出す。芋掘りのときにですね、お芋自身が「いやだ、抜かないで。いつまでも土の中にいたい。出ていきたくない」とか言って逆らって、つるがプチっと切れちゃったら、さあ大変。もちろん、イエスさまは絶対切れないように引き寄せてくださってるんでしょうけど、ともかく、逆らおうとするから苦しみが生まれるんです。むしろ、全て委ねて身を任せて、するするって引っ張られて、自分の生きる世界はここしかないなんて思い込んでいた暗い土の中から、陽光のもとへと引っ張り出される。そこで初めて、真に仲間たちとひとつになる、そんなイメージね。
 我々、脳みそで考えてるとき、つまり自分勝手に思い込んで「こんなもんだ」って決めつけているときって、闇の世界なんですね。土の中の世界です。真実の見えない、暗い世界。もちろん、土の中でもちゃんと神とつながってるんだから、水も栄養も流れてきて知らずに少しずつ育ってはいるんだけども、いずれにしてもやがてはみんな、ずるずるずるっとね、陽光のもとに引っ張り出されるんです。抵抗しても無駄なんです。お任せして、安心して、みんなとつながっていればいい、と。
 このミサなんかは、まさに、みんなバラバラで暮らしてるつもりでも、根っこでちゃんとつながってる、お芋畑なんです。しかも神さまのお芋畑ですから、たったひとつの株にみんなつながっている。イエスさまとつながって、安心して育ってください。見ていても、実に美しい眺めですよ、お芋がいっぱい(笑)。芋だ、芋だって言ってすいませんが、このミサは、抜いた芋を全部入れた、大きな籠みたいなもんですよ。神の国にはどんな人だろうが全員入ってるってことの、しるしなんです。みんなつながってるし、みんな救われていることのしるし。ミサのすばらしさは、神の国が実際に目に見えるってところにある。

 籠と言えば、聖堂の後ろにミカンの入った籠がありますから、ご自由にお持ちください。浅草教会の庭の夏ミカンの木に素晴らしいミカンが百何十個か実りました。いつもその下通ってて、気づいたら急にいっぱい実ってたんで不思議に思って、いつもミカンの木に肥料まいてる方に聞いたんですよ。「なんで、こんなに急に実ったんですか?」って。まっ黄色の大きな実が突然現れて、魔法みたいだったから。そしたら、「それまで青かったから気づかなかっただけです」って。(笑)なるほど、一斉に色が変わったんで、いきなり現れたように見えただけでした。自然界はすごいね、一斉に実る。つながってるんです。これ、私は先週ジャムにいたしました。石垣島のザラメと奄美大島のザラメをブレンドして作った夏みかんジャム。完全無農薬。おいしかったですよ~。酸味と苦味の強い、野趣に富んだ味。安心安全ですよ。まったくの有機農法ですからね。
 ミカンだって、他の命と全部つながってんです。空中でいきなりミカンができるわけじゃない。葉っぱには太陽の光が注ぐし、地面からは水も肥料も吸いあげます。一本の木ですから、ひとつのミカンと隣の枝のミカンも、つながってんですよ。だから、一斉に色づく。人間だって、みんなバラバラに生きていて、自分だけ悩んでるような顔してますけど、実はみんな、つながってる。その、つながってる全体をイエスさまが引き上げようって言ってるんだから、あまりこう、自分だけに籠らず、みんなとつながって一緒に救われましょうよ。人とミカンも、ミカンと桜も、みんなつながってんですよ。それこそ地球全体、宇宙全体、ちゃんとつながってるし、そのすべてを神さまはイエス・キリストによってご自分のみもとに引き寄せようっていう・・・、これこそ「福音」ですよねぇ。
 みなさん、ほんとにキリスト教に出会えてよかったですねって言いたいです。今の時代、なかなかこういう普遍的で透明な教えに出会えませんから。世界中で、政治も経済も宗教も「まず自分第一」みたいに原理主義的になっている中で、「みんなつながっていて、みんな救われる」なんていう真理を語ってるとこ、少ないですからね。うちの教皇さま、ついこの間、イラクにまで行って、イスラム教のトップと「一緒に暴力をやめていきましょう」って話し合ってたじゃないですか。あれこそ、普遍主義です。すべての人を神のみもとに引き寄せるという神のわざです。キリスト者のつながりこそは、その神の業の目に見えるしるし。美しいと思う。
 バラバラでいると、つながりに気付けずに、ついつい排除したり、裁き合ったりしてしまう。そんなときに、先ほどイエスさまが言っていた、種のたとえを思い起こしてほしいんです。一粒の種、それは、殻に包まれているときは、死の世界です。だけど、殻を破って、世界と、他者とつながったら、多くの実を結ぶ。もちろん、つながるっていうのは、最初は怖いものです。種は大地に蒔かれれば、日の光に温められて、水分を、養分を吸い上げて、まずは根が出て、芽が出ます。それは確かに、種のときから見れば一度も体験したことのない世界なんで、怖いって言えば、怖いんですよ。「このあと、どうなっちゃうの?」みたいな。だけど、そこは信頼して、すべてを委ねていれば、どんどん成長して多くの実を結ぶ。自分を守って一粒のままじゃ、死んだままじゃないかって、イエスさまは言いたいんです。つまり、殻が割れてそこから次の世界に出て行くのは、「死」じゃなくて、実は「誕生」なんですよね。むしろ殻に籠ってバラバラでいるほうが死の世界なんであって、そこからいのちの世界に、「みんな、出ておいで」と。つながりの世界へ。殻の中での日々なんて、まさしく「千年の孤独」でしょう。いつまでも、ひとりぼっち。

 昨日、上野教会で癒しのミサをしたんだけども、これがい~い光景だったんですよ。いい光景っていうか、いい状態っていうか。っていうのは、昨日ミサしながらふと気づいたら、同じ時間に三階の和室には住む所を失ったスリランカ人が住んでる。これは一年前からお引き受けしている方です。二階の聖堂では心の病で苦しんでいる人や、様々な病気を抱えている人たちが集まって、癒しのミサをしている。さらに一階では、ホームレスの人が三人泊まってたんです。雨の日は泊まりに来るんですよ。昨日も夜中、雨がすごかったですね、嵐みたいで。彼らはそれをしのげない。って言うのは、それまでテントみたいなので住んでたんだけど、そこを行政から追い出されて、今は仕方なくその前のベンチで寝てるんで、雨だとずぶ濡れなんですよ。それで「雨の日は泊めてくれませんか」って来るんで、「どうぞ、どうぞ」って招き入れて、ホールに泊まってます。昨日はファンヒーターの前で靴下乾かしてました。
 三階は難民同然の方、二階は病を抱えた人たち、一階は路上生活者。なんか、いいじゃないですか。弱者の総合デパートみたいで。なかなかそんな教会ないですよね。でも、それこそ教会ってことじゃないですか。み~んなつながってるんだっていう「神の国」の、目に見えるしるし。だれかがそれを見れば、「ああ、教会って、そういうところか。難民が住んでいて、心を病んで苦しんでる人たちが集まっていて、路上の人たちが避難している。なるほど、これが教会か。素晴らしいとこだね、教会は。キリストの教えは本当に普遍的なんだねぇ。神はすべての人を救うっていうのは、こういうことなんだねぇ」と、見ればひと目でわかる。
 そういう教会を、みんなで、いっそう目指しましょうよ。だけどこれ、コロナのおかげで決定的に「そういうもんだよね」っていうことが明らかになって、早まってるんじゃないですか。みんなが平等に体験したコロナのおかげで、世界の不平等がはっきり見えてきて、為すべきことが明確になってきた。これ、世界が神の国になる勢いが少しだけ早まったと思う。

 浅草教会のミサ、こうして再開しましたけれども、ただの再開であってほしくない。やっぱり、去年までとはどこか違う、ほんもの志向の、ちゃんとみんなとつながっている教会でありたい。だれとつながるかは、考える必要がない。つながるべき人、救いを求めている人は、向こうから来ますから。
 イエスさまのところにだって、ギリシア人がやって来たから、イエスさまも「ついに時が来た」って言ってるんですね。(cf.ヨハネ12・23)ギリシア人が「会いたい」ってやって来て、たぶん、ギリシア語をしゃべるフィリポやアンデレが取り次いだってことじゃないですか。イエスさまにしてみれば、「ついに異邦人も直接会いたいって来るようになったか」、と。「ついに、ユダヤ人のつながりが、全世界レベルでの普遍的なつながりになっていくんだ、今、その時が始まってるんだ」、と。「こうなったらもう、私が十字架を背負って、それによって全世界が結ばれるしかない、そこに向かって出発するしかない、それが神のみ心だ」って悟ったときなんですよ。だから、「今、わたしは心騒ぐ」(ヨハネ12・27)って、言ってるんです。「わたしの教えは、全世界を救う教えになっていくんだ、天の父の普遍性を現すしるしになるんだ、そのためには自分のすべてを捧げつくさなければならないんだ。ひと粒の麦が死ぬ時が来た」、と。そうしてイエスの十字架は多くの実を結んで、キリスト教は普遍教として始まりました。民族も宗教も超えて、病んでいるとか、貧しいとか、国境がどうだとか、そういうこと全部超えてつながるキリスト教が、そこから始まりました。
 つながるべき人、救いを求めている人は、ほっといても向こうから来ます。もう来てます。その人たちと結ばれて、神の国を始めればいいんです。今日はベトナムの実習生も来てますけど、雇い止めになって困ったり、アパートに住めなくなって、一時的に保護してほしくなったら、ぜひぜひ、浅草教会にも和室がありますんでいらしてくださいね。上野教会はもうスペースなくなってきたんで。
 「神の国はここにある」、そんな聖なるミサを、再開できました。大きな恵みです。来週はもう受難の主日ですね。枝をふって、イエスさまをお迎えいたします。みなさんはもう選ばれておりますから、このような恵みのつながりにちゃんと結ばれている自分を誇りに思ってください。みんなバラバラになって苦しんでいるコロナの中、本当につらい思いをしている一人ひとりを思い浮かべながら、「どうぞ私たちにつながってください」という思いでこのミサを捧げます。



2021年3月21日録音/2021年5月7日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英