福音の丘
                         

聖なる家族を見るまでは

聖家族
カトリック浅草教会

第一朗読:創世記(創世記15・1-6、21・1-3
第二朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ11・8、11-12、17-19
福音朗読:ルカによる福音(ルカ2・22-40)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 いろいろあった2020年も、いよいよ終わり。今日が、今年最後の日曜日になりました。どういう一年でありましたでしょうか。コロナ、コロナでしたけども、他にもいろいろなことが一人ひとりあったでしょう。私にとっては、今年一番心に残ったのは、やはり「福音家族」のことです。この説教壇でも、福音家族のことをいっぱい話してまいりましたけれども、やっぱり2020年は、現実に助け合う家族がどれほど大事かっていうことが、はっきり浮かび上がってきた。ほんとは今年に限らず、いつだってそうなんですけどね。ただ、今年はコロナのおかげで、それがはっきりと目に見えて来たんです。一番大事なことは、なんていっても困ったとき、危機のときに助け合う家族だってことが。

  ただ、この場合の家族っていうのは、血縁や法律上の家族のことじゃなくて、血はつながっていなくても必ず助け合うコミュニティのことです。逆に言えば、現実に助け合う仲間をこそ「家族」と呼ぶべきで、それが、福音家族です。この話も、何年間もずっとしてきましたけれども、今年はまさしくそれがはっきりとしてまいりました。コロナ時代は、その家族が本物か偽物かが、隠しようもなく見えてくる時代として、試金石のような2020年になったと思います。どうでしょう。みなさんは、どのような家族をお持ちでしょうか。ほんとに困ったとき、一番つらいとき、孤独なときに、具体的に助け合い支え合う、そういう家族をちゃんとお互いに大切に守り育てていますでしょうか。それは、2021年に向けてね、ぼくらが一番考えなきゃならないことだと思います。

 昨日は「うぐいす家族」をやりましたけども、みなさん、ありがとうございました。先日の呼びかけに応えて、たくさんお菓子も集まった。パンツも集まった。靴下も集まった。おかげさまで、たくさんのクリスマスプレゼントを路上の方たちに配ることができて、みんな、とっても喜んでましたし、改めまして、協力してくださったみなさんに感謝いたします。
 コロナのせいで路上で暮らさざるを得なくなった人は、確実に増えています。そのうえ社会不安のせいか、彼らに対する偏見や差別意識も高まっていて、彼らの置かれた状況はいま、ほんとに厳しいものがあります。いつもうぐいす家族を手伝ってくれている方から、つい先日、幡ヶ谷の路上で殺された方の続報を聞きました。このニュースはご存じですよね? 幡ヶ谷のバス停で夜を過ごしていた64歳の女性が、近所の男性に殺害された話ですね。
 その女性は毎晩、終バスが出た後のバス停のベンチに座って眠り、翌朝の始発の前にそこを去っていたんですが、近所の48歳の男性が、レジ袋にペットボトルと石を入れて、座っていた彼女の頭を殴って殺した、という事件です。「目障りだったので、痛い思いをすればいなくなるだろうと思った」と供述したそうです。以前から目障りに思っていて、「どけ」と言っても無視されたので腹が立ち、抑えきれなかったっていうことらしい。
 世の中がすさんでいるのは確かですし、この事件はその象徴のような気もして気になっていたんですが、うぐいす家族を手伝ってくれている方の同僚が、事件のあったバス停の近くに住んでいて、色々周辺情報を伝えてくれたんですね。亡くなった女性を見かけている人も多く、「だいじょうぶですか?」とか「何か必要なものありますか?」とか、声をかける人もいたんですって。結構身なりがきちんとしていたようなんですね。というのも、おそらくはコロナの影響で路上に出た方なんです。今年の2月まで、派遣でスーパーの試食販売をしていたんですって。しかし、この状況下で仕事を失い、家賃も払えなくなったんでしょう、路上に出るしかなかった。亡くなったときの所持金が8円だったそうです。
 泊るところもなく、深夜のバス停のベンチで過ごす一人の女性。たぶん屋根があるバス停なんじゃないかな。夜は寒かったでしょうね。いつもキャリーバッグにもたれて寝ていたそうで、始発前にはいなくなっていたと。他人事じゃないですよ。みなさんがもし、同じ境遇になったら、どうしますか。仮に路上に出たなら、どこで過ごしますか。滅多なところで過ごせませんよ。「目障りだ」って殴り殺されちゃうんだから。じゃあ、どうすればいいんですか。路上に出ないで済むように、あるいはたとえ出ても誰かが迎えてくれるように、みんなで福音家族を造っておくべきじゃないですか。必ず助け合う、本物の家族を。
 それは、加害者のほうにも同じことが言えると思う。殴った人をただ責めるだけじゃ何も変わりません。社会がすさむと、弱い人がさらに弱い人を傷つけ、傷ついている人がさらに傷ついている人を虐げるっていう、人間の中に潜む悲しい暴力性がむき出しになるんです。我々は、人をそこまで追い込むこの社会をなんとかしようって考えるべきでしょう。この加害者だって、もっと温かな人間関係、助け合う福音家族がいたら、そこまで苛立って、暴発しないで済んだんじゃないですか。

 今日は「聖家族」のお祝い日ですけど、聖家族ってマリアとヨセフとイエスですよね。だけど、考えてみればヨセフとイエスって血縁じゃないんですね。マリアは聖霊によって身ごもったっていうんだから。最初から血縁家族を超えているんですよ、聖家族って。福音家族の原型と言ってもいい。もちろん、血縁の家族は大事だし、仲良くしたらいいと思うんですけど、我々が最終的に目指すべきは、血縁を超えて助け合う聖家族なんじゃないですか。あの聖家族だって、ベツレヘムに着いてもホームレス状態で、馬小屋かなんかで子ども生んでますからね。血縁を超えて助け合う仲間だったんです。
 一人ぼっちでバス停で眠る人、いらいらして暴力をふるう人、みんな一人ぼっち。どうしちゃったんでしょうね、この世界。聖家族をやっていきましょうよって、言いたいです。この一年、まあ自粛、自粛で家に閉じこもっていたわけですけど、そこにはどんな家族がいたんでしょう。家に閉じこもって、血縁家族に暴力を振るわれた人も大勢います。一緒に暮らしていたって、殴る人、殴られる人。一緒にいても、一人ぼっちなんです。一人でいる時間が長くなったっていう人も多いと思います。それはやっぱり、よくない時間ですよ。もちろん、感染症のことは大変ですけど、工夫して、連絡取り合って、聖家族を目指そうじゃないかって、この一年の最後の日曜日に、つくづくと思います。

 というのも、昨日のうぐいす家族で、衝撃の出来事があったんですよ。これまた、おとといのクリスマスの日のニュースで流れたんですけど、ちょっと前に上野公園の近くの歩道に置いてあったホームレスの荷物が燃やされたっていう事件があったんですね。その犯人が捕まったんです。28歳の男性でした。「路上に物を置いちゃいけないと思った」って供述したそうですけど、そう思ったからって、火つけるだなんてあんまりですよね。よほどいらいらしてたのか、他にも近くのお寺さんの所でも火をつけたらしい。まあ、どういういきさつなのか詳しくはわかりませんけど、これもやっぱり一人ぼっちで孤立している青年なんだろうなぁと想像します。
 実はその荷物、私も何度も見てるんです。あそこです、国立博物館と噴水の間の道、ありますよね。あそこの、上野教会から行くと、左側。イチョウの街路樹のところのガードレールに沿って、きちんとブルーシートかけてひもできっちりしばってある荷物が置いてあった。ぼくね、いつも通るたびに、どちらのホームレスさんのお荷物なんだろう、本人はどこにいるんだろうって気になってたし、一番の興味は「中身、なんなんだろう」って思いつつ通り過ぎてましたけど、それなんですよ。放火されて、全焼しました。
 その犯人が捕まったというニュースの翌日だったんで、昨日のうぐいす家族でその話をしたんですね。というのも、今、上野教会で何人かのホームレスの方のお荷物預かっているんですよ。ブルーシートかけてね。その荷物を置いてた所を追い出されちゃって困ってるっていうんで、預かってるんです。そんなこともあって、集まったホームレスの方たちにお話ししたんですね。「みなさん、荷物も気をつけてくださいね。置く場所に困ったらお預かりすることもできますから、相談してください。ご存知ですか、昨日犯人が捕まったんですけど、上野公園近くで荷物を燃やされちゃったホームレスさんがいるんですよ」って言ったら、目の前にいた方が、「それ、私です」って(笑)。いたんですよ、本人が。私、あんまりびっくりしないたちなんですけど、それにはびっくりしました。
 72歳の男性でした。燃やされたのは、毛布、寝袋、冬物の厚手の上着、下着類とかで、「全部燃えちゃいました」って言ってました。まあ、ちょっと、いくらなんでもかわいそうな出来事ですよ。ホームレスの荷物なんて、大した中身じゃないだろうって言えませんよ。むしろ逆でしょ。もう、それしかないんだから。全財産なんだから。毛布と寝袋、厚手の上着燃やされちゃったらどうやって年を越すのってことでしょう。
 私、とっても胸が痛くなって、その方の帰り際にそっと、「失礼でなければ、お見舞金、受け取っていただけますか」って差し出したら、「ああ、ありがとうございます」って喜んで受け取ってくれました。で、燃やされちゃったものもね、毛布とか、寝袋とか、何でも用意しますからぜひ言ってくださいって申し出たら、「いやぁ、何もいりません」って言うんです。「え? 大丈夫ですか?」って聞いたら、なんと、燃やされたあとすぐ、必要なものは全部仲間たちが持ってきてくれたって言うんです。いやあ、すごくないですか。だからもう、全部揃ってるんですって。路上の仲間たちが、みんなそれぞれ予備も含めて荷物持ってるんでしょうね。もしかしたら上野教会で預かっている荷物の一部もそこに行ったかもしれない。「仲間たちが持ってきてくれた」って、私それ聞いて、感動しちゃいました。だって、それって、聖家族じゃないですか。弱い者どうし、ちゃんと助け合ってるんですよ。最も貧しい人のなけなしの荷物に火をつけるやつもいれば、自分も貧しいのに分け合う人たちもいる。なんにも持ってない路上生活者のようでいて、いい仲間を持ってたりするんですね。

 ・・・さて、2021年。どんな年になるんでしょうか。お互いに助け合う、本物の家族でありたいと思います。今頃はよくね、「よい年をお迎えください」なんて挨拶し合ってますけど、「よい年」ってなんですかね。コロナがおさまるのがよい年か。コロナがおさまっても、路上の荷物燃やされる人がいるんじゃねえ。なにがいいんだかってことでしょう。昨日はその話になったとき、他の路上の方が言ってました。「荷物だけならいいほうだよ。俺の知り合いは、段ボールハウスに煙草の火を投げ込まれて焼け死んだよ」って。ほっといていいんですかねぇ。48年生きてきて、ホームレスを殴る人。64年の生涯をバス停で殺されて閉じる人。28歳になってホームレスの荷物を燃やす人。72歳を迎えてから全財産を燃やされる人。そんな一年が過ぎていきます。これ、そのままにしながら「よい年をお迎えください」なんて言っても、何の意味があるのかなと思う。
 来年、よい年を造りましょう。一緒に、聖家族を目指しましょう。その意味ではいい機会ですよ、コロナの時代は。ほんとにみんな困ってるし、助け合わなければ生き延びられないんだから。お互いに良く祈って考えて、何か具体的に工夫して分け合って、「助け合う」ってことを具体的にやってみましょう。そうすれば、そこに聖なる家族があらわれる。それこそは、イエス・キリストそのものなんです。福音書で読んだとおり、シメオンは「わたしはこの目であなたの救いを見た!」って言ってますけど、シメオンはその目で何を見たんですか。聖家族を、救い主を見たんです。それで、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこのしもべを安らかに去らせてくださいます」(ルカ2・29)、と。「これで死ぬに死ねる」って言ってるんですよ、シメオンは。同じでしょう。救いの現場で、聖なる家族を見るまでは、この世を去るに去れないんですよ、私たち。


2020年12月27日録音/2021年2月4日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英