福音の丘
                         

どん底に大地あり

神の母聖マリア
カトリック浅草教会

第一朗読:民数記(民数記6・22-27
第二朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ4・4-7
福音朗読:ルカによる福音(ルカ2・16-21)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 新年明けましておめでとうございます。
 こうして共に2021年を迎えることができました。感謝いたしましょう。新年を迎えることができなかった方も大勢おられますし、苦しみの中で迎えた方も大勢おられます。お互いのために祈り合いましょう。2020年という苦難の一年、ときには希望を見失ってしまいそうにもなった一年を、それでも仲間たちで励まし合って、祈り合って、支え合って、こうしてわれわれ、新しい年を迎えることになりました。新しい年を迎えた者として、神からの使命というか、招きに応えるという思いを持ってスタートしたいと思います。

 みなさんはどんなお年越しだったんでしょうか。紅白とか、ご覧になりました? 私、見ましたよ。MISIAのファンなんで、今年は大トリでしたから。聴きました? あんな素晴らしい歌声を聞かされると、なんでしょう、まさに歌には希望があるってつくづく思ったし、あの歌声には本当に励まされました。何度も彼女のコンサートに行ったこと、あるんですよ。伝説の武道館コンサートだって行きましたから。MISIAの歌声は、ホントに素晴らしい。
 それにしてもNHK 、今年は大変だったでしょう。紅白って生放送がウリっていうか、面白くて感動を生むんだけれども、今年は無観客ってこともあって、生放送って感じがあんまりしませんでした。ただ、裏方は大変だったと思いますよ。スタッフの人たち、今頃全部終わって、燃え尽きてるんじゃないですかね。感染症対策で大変な時代、良くも悪くも去年一年をよく表した紅白だったと思います。

 紅白といえば家族みんなで見るっていうイメージですけど、ぼくは例年、福音家族のみんなと見てました。無人島キャンプの仲間たちと、毎年大晦日に30人とか40人で集まって、カウントダウンで盛り上がったりね。だけど今回は、コロナで大人数の集会は無理ですし、中止したんですね。その上浅草の0時ミサも中止ということで、昨日は上野に泊まったんですけど、今年は一人で紅白かと思ってたら、ちゃんと「家族で紅白」になりましたよ。
 というのは、年末に訪ねてきた路上生活の方3人に、「年はどこで越すの?」って聞いたら、「路上です」っていうんで、年末年始はものすごく寒くなるって聞いてましたから、「一緒に紅白見て、お年越ししましょうよ」って誘ったらすごく喜んでくれて、昨夜来られたんですよ。せっかくだからってんで、友人に頼んで年越しそばも用意してお迎えしました。部屋も消毒してアクリル板吊るして、感染症対策もしてね。ちゃんとお出しからとったおそばを一緒に食べながら、紅白を見たんです。彼らも結構芸能通でね、いろいろ詳しいんですよ。スポーツ新聞読んでますしね、ラジオなんかもよく聞いてるから、最新情報も教えてもらえて、ホントに楽しかった。おせち料理を差し入れしてくれた方も交えて、おいしいお酒もいただいて、なんとも幸いなお年越しになりました。でも、よかったですよ。昨日、ホントに寒かったですからね。おとといなんか氷点下で風も吹きましたでしょ。風が吹くと体感温度下がりますから、「寒くて死ぬかと思った」って言ってました。だから昨日は暖かい部屋に泊まっていただけて、まあ、この3人は良かったなとは思いますけど、路上でお年越しをした人は他に大勢いるわけで・・・それを思うと、なかなか心に引っかかるものはあります。

 大みそかのNHKっていうと、昨日の日中は「エール」の総集編も見ました。「エール」はご存知ですよね? NHKの朝の連ドラ。去年一年、コロナの中で頑張って制作して放映してました。あの「長崎の鐘」を作曲した古関さん、有名な作曲家の実話に基づくお話です。ぼくは全然見てなかったんだけど、みんなが「見るといいよ、教会出てくるよ」なんて言われてたんで、総集編の後半見てたら、本当に長崎の教会とか出てきて、思わず引き込まれて見ちゃいました。
 「長崎の鐘」って、原爆で地獄を見た長崎が戦後の復興をしていくときの曲ですよね。古関さんの作曲したこの「長崎の鐘」が、辛い思いを抱えていた人たちを励ましました。戦後の日本を元気づけた名曲です。それこそ、紅白でも何度も歌われたことありますけど、お若い方は知らないでしょうね。「あ~あ~長崎の~♪」(歌う)っていう。「慰め、励まし、長崎の、あ~あ~長崎の鐘は鳴る」。編曲で鐘を鳴らしたりして、焦土と化した長崎に希望の鐘が鳴りわたるイメージが広がる名曲ですよ。
 ドラマでは、この曲を作るに当たって、作曲家が長崎を訪問したっていうくだりがあるんですね。それこそ、浦上天主堂が崩れ落ちて、何もかも埋もれているようなところから、信者さんたちが鐘楼の鐘を掘り出すシーンが描かれていたりして、その鐘が再び長崎に響き渡るっていう、そういう歌詞の曲なわけですね。そんな中、作曲家が永井博士を訪問するくだりがあるんですよ。永井隆はご存知でしょう? 原爆でみんなが傷ついている中、本人も被爆しながら救護して回った、カトリック信者の医師です。日本の教会の聖人のような位置づけになると思うんですけど、この永井隆を、作曲家が訪ねて行くんです。作曲家自身も戦争で心が傷ついていたし、自分を責めて心が折れそうになって苦しんでいたときなので、何か励ましをもらいたくて、博士を訪ねるわけですね。
 そのとき博士は重い病気で寝てるわけですけども、こういうようなことを言うんですよ。「自分のところに、よく被ばくで苦しんでいる人が相談に来る。で、『こんなことになって、これでも神はおられるのか?』と、よくそう聞かれる」と。まあ、永井博士は敬虔なカトリック信者ですし、立派な活動なさってるから、みんな聞きたいんでしょうね。「これでも神はおられるのか?」って。みなさんも、そんなこと思ったこと、あるんじゃないですか。あまりにもむごい状況を知って、思わず自問する。「神は一体何を考えているのか? これでも神はいると言えるのか?」と。そういう疑問とか迷いとか恐れを抱えた人が、永井博士のとこに行くわけです。そんなとき、永井博士はこう答えるんですって。「どん底まで落ちなさい」と。
 酷いこと言ってるように聞こえるじゃないですか。苦しんでいる人に「どん底まで落ちろ」だなんて。しかしここで博士が言いたいことは、「神はおられるのか?」とか、「神は何故?」とか、そういう疑問が心に起こるようだったら、それはまだ余裕があるからだってことなんです。どん底の底まで落ちると、もうその下はないから、そこで初めて希望が生まれてくる。それを言いたいんです。こういう信仰の言葉が、全国放送で紹介されてるっていうのは、なかなか嬉しかったですね。だってこれまさに、キリスト教の本質ですから。十字架こそどん底ですけど、そこまで落ちたらあとは復活あるのみ。僕らもどん底を味わうことがあるわけだし、でも、それでも希望があるっていう、これはキリスト教そのものです。
 その永井博士のことばが、ドラマでも、壁に書いてありました。「どん底に大地あり」。いいですねえ。だから落ちても平気ってことですから。どんなに落ちても、大地がちゃんと支えてくれる。それより下はない。「どん底に、大地あり」。どん底まで行ったら、そこには大地があって、初めてそこで地に足のついた一人の人として、希望を生み出すことができる。
 これはまさに、永井博士だからこそ言えることでしょう。原爆の惨憺たる地獄の中で救護活動をして、目の前で人々が次々死んでいくのを目の当たりにしながら、彼自身も当然、「神よ何故?」って思ったでしょうけど、彼はキリスト者として信じたんです。どん底の大地を。どんな状況にあっても、神の御手のような大地に立つことができるし、そこから歩き出せばいいんだし、そこから天を見上げればいいんです。なにがあろうと、最後はそんな大地に降り立つことができるっていうのは、有難い事実じゃないですか。底より下はないんだから。
 今の世の中って、どん底に落ちることを恐れてね、びくびくしながら必死に金や権力にしがみついて、下見ないようにしながら上の人を羨んで、しまいには互いに落とし合うようなね、そんな世の中じゃないですか。落ちていく人を救わずに、俺は落ちなくて良かったって思うような世の中じゃないですか。そこには希望がないんです。絶望への恐れしかないんです。きちんとどん底の大地に足を付け、すっくと立ったときに、人は本当の希望を生み出すことができる。
 作曲家は、そんな信仰に目を開かれて、真の平和を願う「長崎の鐘」を作曲します。今日1月1日は「世界平和の日」でもあるんですけれど、この新年を惨憺たる現実の中で迎えている大勢の人たちと連帯して、「どん底に大地あり」という真理に信頼して、2021年を希望を持って始めたいと思います。

 さっき聖書読みましたけど、考えてみたら羊飼いたちもどん底なんですね。羊飼いにも格差があって、夜通し野宿して羊番してる羊飼いなんて、ほとんど路上生活者ですよ。だけど、そういう所にこそ、天使が現れるんです。最高の恵みの知らせは、他の所に知らされない。いい暮らしをしている人たちのとこに、天使現れないんです。どん底のどん底、まさに大地の上に座って夜が明けるのを待ち焦がれている野宿の労働者たち、そこに天使が来る。まあ、そうだろうねって話でしょう。「人々は羊飼いたちの話を不思議に思った」ってありますけど、羊飼いたちにしてみたら、不思議でもなんでもない。目の前ではっきりと、「あなたがたのために救い主が生まれた。あなたがたはそれを見つける。さあ、行きなさい」って言われて、行ってみたらまさに救い主がお生まれになってる。これはもう彼らにしてみたら、不思議でもなんでもない、リアルですね。だけど、現実を生きているつもりの人たちは、そういう神の働きのリアルを不思議に思うっていう逆転現象があるわけですよ。面白いですよね。
 聖母マリアはそれらの出来事をじっと心に納めて思い巡らしていたってありますけど、何を思い巡らしていたんでしょう。恐らくは、「神さまは、こんな貧しい私を選んで、救い主を与えてくださった。こんな貧しい羊飼いたちを選んで、救い主に会わせてくださった。神さまが、この苦難の世に、特別なみわざを始めた。どん底に希望を与え始めた。いよいよ救いの世界が始まった」。聖母は、そう思い巡らしていたに違いないと思う。

 2021年、どんな年になるんですかね~。どん底はまだなのかもしれませんけどね。年末から感染者数も倍々計算みたいになって、一体どうなっちゃうのかってみんな怯えてます。もしかすると、またしばらくミサがなくなって、お会いできなくなるかもしれません。しかし、2021年、どんなどん底であろうとも、その底に大地がちゃんとあるんだから、浮き足立ったり絶望したりせずに、しっかりと大地を踏みしめて歩んでまいりましょう。天の父がちゃんとどん底に光を与えてくださるから大丈夫なんだという、究極の信仰を持って。2021年の出発は、そこからじゃないですか。聖書には、「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(ルカ2・20)とあります。そんな旅立ちの一年にしたいですね。
  路上の方たち、一晩あったかい所で過ごして、今朝はもう出発して行きましたけど、さっき出かける前に、お雑煮をお出ししました。天然のかつおぶしと利尻昆布を使ってだしを取り、津軽の古い醸造所のお醤油使ったんで、おつゆがホントに美味しかった。鶏肉は、豊後鶏にしました。昨日の午後、谷中銀座のお店で買って来たんです。豊後鶏って、いい味が出るんですよ。お餅は、越後のこがね餅。これもね、舌触りの滑らかないいお餅です。そして、滋味豊かなちぢみほうれん草を入れて、いただいた採れたての柚子を、ちょいと散らして。いや~美味しかったね! 本当に美味しかった。路上の方たちも、「ああ、何年かぶりでお雑煮が食べれた!」って喜んでくれて、大絶賛でしたよ。 「上手い!上手い!」って。「今年はいい年明けになった」とか言ってくれて、よかったです。教会って本当にいい所だなって思っていただけたらいいんですけど。彼らはそれこそ、野宿の羊飼いのように冷たい大地を生きておりますが、今朝は神をあがめ、賛美しながら帰って行きましたよ。


2021年1月1日録音/2021年2月14日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英