年間第29主日
カトリック浅草教会
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ45・1、4-6)
第二朗読:使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(一テサロニケ1・1-5b)
福音朗読:マタイによる福音(マタイ22・15-21)
ー 晴佐久神父様 説教 ー
みなさん、棟方 志功(むなかた しこう)っていう版画家、ご存じですか。私は大ファンですけれども、木版ですね。普通、「版画」は出版社の「版」という字を書くんですけど、彼自身は、木へんの「板」の画、「板画」と書く、木版です。もう、本当に自由で、真っすぐで、青森出身なんで、まさにねぶたの大胆な色使い。原色がしみじみ、さえざえ、ほのぼのして、日本が生んだ、二十世紀を代表する世界的に有名な版画家です。ヴェネツィア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞しています。
私が彼を知ったのは高校生のころですが、特に美大時代には版画を学んでいたんで、シルクスクリーンが好きでしたけれども、棟方志功の作品は、その自由さ、その真っすぐさ、その色彩感覚に、本当に魅せられました。なかでも、彼の宗教的なセンスが実に素直で、普遍的で、この世の本質を素朴に受け止めた上で自分なりに自由に、美の世界、信仰の世界を描き切っているところが、かっこいいんです。様々な仏さまの版画とか、お釈迦様のお弟子たちの版画とか、あ、イエス・キリストの版画もあるんですよ。
そんな天才版画家を敬愛しておりましたが、あるとき、テレビで特集番組があったんですね。そこで彼の幼い頃の話が紹介されてました。なんでも、子どもの頃、家の近くに飛行機が落ちたとかで、それを走って見に行ったんですって。「飛行機が落ちたぞ」っていうんで、みんなで走って見に行った。
ところが棟方少年は、田んぼで足をとられて、バッタリ倒れちゃったんですね。そのときふと見ると、目の前に一輪の花が咲いていた。その花があまりにも美しかったんで、彼は感動して、「この世にはこんなに美しいものがあるんだ。ぜひともこの花を表現したい」と思うようになったそうです。それが彼の、美術への目覚めの重要な第一歩なんですね。その後彼はゴッホの絵に出会って、「俺はゴッホになる」って決心して、本気で美術の道を歩き出しました。思えばゴッホもね、世界の本質を自由に、まっすぐに表現した画家です。そんなゴッホに自分もなりたいって決心して、情熱のままに板を彫り続けて、ついには世界的な版画家にまでなるわけですけども、その原点が「一輪の花」だっていうところに、私は非常に感銘を受けたというか、その逸話は忘れられない私の原点にもなっています。
だって、一輪の花ですよ。どこにでも咲いてる野の花です。普段、誰でも見てる。気にも留めずに、通り過ぎていく。だけど、転んでバッタリ倒れて、まあ、泥まみれでしょうね、田んぼで倒れたっていうんだから。倒れた目の前の、一輪の花の美しさに打たれて人生が変わる。まあ、その花をつくったのも神ですから、その神の御業としての美しさを表現する者になり、美と宗教を融合させる芸術を生み出すに至る。こういう出会いっていうか、その一瞬って、それはほんとに身近で、当たり前で、小さくて、みんなが気付かずに走り去ってしまうような一瞬なんだけれども、まさに「見る人が見れば見える」っていうことなんですね。ぼくもそのころは、生涯美術をやっていきたいと思っていたわけですけど、世界に秘められたそんな美しさを、みんなには見えなくとも、自分だけはちゃんと見てとって、まっすぐにそれを表現する者になりたいって、そんな憧れを持ちました。その後美術の世界からは離れましたけど、今もなお、世界の内に秘められた美しさを信仰の世界において表現したいと願い続けているのも、彼のおかげと言っていい。
それはいいんですが、ただ一点、「そのときに彼が見た花は、なんていう花なのか」っていうのが気になっていたんですね。おそらく、田んぼのあぜ道に咲いているカタバミかなんかだろうなくらいに思ってました。まさか田んぼに薔薇が咲いてるわけないんで、「美しい」って言っても、素朴な花でしょうけど、それはなんなのか。ずっと気になってたんですけど、その謎がつい先日、解けたんですよ。それが嬉しかったんで、報告しますね。
先週、縁あって青森に行って来たんですけど、棟方志功記念館に立ち寄ったら、「棟方志功の文学と美術」みたいな特別展をやっていて、彼が自分の詠んだ和歌を版画で表現した作品が並んでいて、その中の一枚に目が釘付けになりました。その歌はこういう歌です。
「あおもりは かなしかりけり かそけくも 田沼に渡る 沢瀉(オモダカ)の風」
その版画の解説に、「これは棟方志功が子どもの頃、田んぼで転んだときに一輪の花を見て美術を目指すきっかけになった、その花を詠んだ歌と版画だ」みたいなことが書いてあったんです。「ああ、オモダカっていう花だったのか」って、ついに謎が解けました。
ご存じですか。私は全然知らなかったんで、その場でスマホで調べました。湿地や田んぼによく生えてるそうですね。水生なんですよ。茎が長くって、真っ白い三弁の花びら。真ん中に黄色い雌しべだか雄しべだかがあって、ちっちゃい花ですけど、実に清楚で美しい花です。葉っぱは、Yの字を逆さにしたような形で、クワイの葉っぱに似ている。実際、このオモダカを改良したのがクワイなんだそうです。
このオモダカの花っていう、純白の花、田んぼの中にいっぱい咲いていて誰もが見てる花ですけど、棟方少年は目の前のその一輪を見て、その白い輝きに打たれたんですよ。白い花って、赤や黄色に比べてあんまり目立たない。でも、彼はこの花を見た瞬間に「なんてきれいなんだろう」って思った。まあ、改めてそう言われればそうなんだけれども、普通に見たら、言うほどの花でもないっていうか、薔薇だ、ダリアだっていうのと違って見過ごしちゃうような野の花です。オモダカの花。
版画にはその歌が彫り込んであり、真ん中に一人のふくよかな半裸の女性が長い髪をはらりと垂らしていて、その周囲にオモダカの白い花と葉っぱがちりばめられています。「あおもりは かなしかりけり」って、つらくて悲しいっていう意味の悲しさじゃないですね。愛おしいっていうかなしさ。愛と書いて、かなしいと読むやつです。「かそけくも」って言うのは、まさに消えてしまいそうな儚さのことで、「田沼に渡る沢潟の風」って言うのは、初夏の故郷を吹き抜けるさわやかな風の事でしょう。故郷で体験した、儚い一瞬の、しかし永遠の感動を、彼は生涯忘れなかった。そして、それを表現する者になりたいと決心し、精一杯板を彫り、自らの感動と単純に、まっすぐに向き合いました。
他の番組だったと思うんですけど、インタビュアーが棟方志功に、「健康の秘訣はなんですか?」って。おじいちゃんになっても猛烈なパワーでボリボリ彫ってましたからね、「健康の秘訣はなんですか?」って聞かれて、「うんこを我慢しないことです!」って即答してました(笑)。本人、大真面目にね。「この人、ほんと正直で、真っすぐな人だなぁ」って感心しましたけど、でも、なんかよくわかるなって思うのは、「我慢しない」って、そういう人なんですよ。遠慮しない。忖度しない。自分が本当にそうだと思うことを、「誰がなんて言おうとも」っていう。その自己表現っていうのが普遍的だし、世界的にも共感を呼ぶし、それを思うとね、やっぱり一輪のオモダカの花の美しさを本当に真っすぐに受け止めて、一生かけてもそれを真っすぐに表現するって、人として、なんて幸いなことだろうと思うし、いやあ、それって、我々もできるんじゃないの? やるべきじゃないの? って思いますよ。
イエスさま、一輪の花のこと、なんて言いましたか。
「足元の、この小さな花を見なさい」(cf.マタイ6・28-30/ルカ12・27-28)
アネモネだかヒナゲシだかの原種みたいな、素朴な野の花のことですね。今でもイスラエルに行くとね、赤や黄色のちっちゃい花がいっぱい、野原で揺れてますけど、「あぁ、これかぁ」って、私も行ったときに見て、感動しました。立派な薔薇とか百合とかとは違う、一輪の野の花。
聴いてる人はみんな、ガリラヤの野原に座ってるわけだし、そこでイエスさま、説教してるんで、「あなたのその足元の花、見てみなさい」と。カタバミだか、ヒナゲシだか、いうなれば人々が踏んづけているその花を「見なさい」と。あのソロモン王だって、こんなに着飾ってはいなかったよ、と。神さまはこんな一輪の花を、これほど美しく飾ってくださる。生かしてくださる。今、輝かせてくださる。あなたたち神の子たちはましてそうだ、と。
この説教はね、イエスの説教の原型で、原点の、一番言いたかったことでしょうね。みなさん自身のことですよ。輝いているんですよ、なんの汚れもなく。神から与えられた、美しい存在。永遠のいのち。今一瞬のその輝きは、神がそう輝くようにおつくりになったんだから、ぜひ輝いていただきたいっていう。みなさん、そうなんです。今日、ここに座ってる一人ひとり、ほんとに美しい花もビックリっていうような、輝く存在として、神さまの恵みの中で、光を浴びて、ほんとに神さまの喜び、神さまへの捧げものになっている。
イエスさまにしてみたら、弱い人々が傷ついて苦しんでいるとか、強い人が争い合って互いに呪っているとか、そんな世の中で、「みんな、神の子だ。本来汚れのない、清く美しい存在なんだ。なぜそんな馬鹿なことをしているんだ。人類の尊さに気づいてほしい!」っていうね、熱~い思いがそこにあったんだと思う。ですから、確かに目立たない、かそけき存在であっても、「私は神に造られた、汚れのない美しい存在なんだ」っていう真実を受けとめて、やがて神さまの御園で永遠の花として開花するそのときまで、この世界で、神の子の美しい輝きを輝かせて生きてまいりましょうっていう、それがキリスト者の基本的なあり方ですし、その出発点が洗礼式なんです。
今日は、このあと洗礼式ですけど、受洗者のみなさんも、今まで色々傷ついて、自分は恵まれていないと思ったこともあったかもしれない。自分なんか汚れていて、価値のない存在だと思うこともあったかもしれない。でもそれは、自分の美しさにまだ気づいていないだけ。イエスさまに教えていただいて、ひとたび気づけば、「自分は神によって造られた完全な存在だ。何一つ汚れのない、美しい光を光らせているんだ」という、喜びに満たされる。洗礼式には、その喜びが溢れています。
だからこそ、受洗者の胸にはきれいなお花のコサージュを付けていただきましたけど、美しいですね、手作りですか? どなたがお作りになったの? あ、そこにおられますね。ありがとうございます。きれいなお花を飾りましたけれども、まあ、折角作ってくれた人がいるのに申し訳ないんですけど、人の作ったものなんて大したものじゃないんですよ。(笑)大したものじゃない。それでも飾りたくなるほど、本人が価値がある、美しいってことなんです。さっきの続きでイエスさまが「ソロモン王でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」って言いましたけど、それは、ソロモン王が着飾っているものって、人が作ったものだからです。まあ、美しかったとは思いますよ、金糸銀糸でね。見るものだれもがびっくり仰天、憧れてやまないような、そんなお美しいお衣装だったんでしょうけど、どんなに美しい服を着てたって、それは人が作ったものであって、神がつくったものはそれ以上なんだって言っている。神がつくったもの。それは、あなたです。
今日、実はこの後ちょっと異例ですけど、洗礼式の冒頭に光の祭儀をやるんです。洗礼式って、本来復活徹夜祭にやるものですけども、ご存じの事情で、半年遅れになっちゃった。公開の復活徹夜祭もやらなかった。正確に言うと、非公開の復活徹夜祭はやりました、たった三人で。でも誰もそれを見てませんし、せっかく洗礼式を半年遅れでやるなら、復活徹夜祭の光の祭儀も半年遅れでやってみようか、と。言うなれば、みなさんが本来洗礼を受けるはずだったあの非公開の復活徹夜祭から、今日までずーっと、この洗礼式が続いていたようなもんだと思ってください。復活の大ろうそくに、祝福された火を灯して、司祭が「キリストの光」と歌い、聖歌奉仕の方に「神に感謝」って応えてもらいます。それは何をしているかというと、神さまが与えてくださったこの世界の美しさ、一人ひとりの美しさ、それに目覚める洗礼式の美しさ、それを目に見える光で、なんとか表現しようとしているんです。典礼ってそういうことです。表現する。そうしないと、だって棟方志功だって、一輪の花を見なかったら、芸術の道に行かなかったかもしれないじゃないですか。やっぱり「そこに一輪の花がある」って、どんなに大事か。一本のろうそくの光と、洗礼式という美しいしるしを、確かに目の前で見て、我々は「あぁ、本当に神はおられる。本当に人々は救われている。神の愛は、人間が作ったどんなものよりも尊い」と、信仰を新たにいたします。
今日、この美しい式を目の当たりにしたならば、みんな励まされてほしいし、特に受洗者は、もう今日からはなんの心配もいらないですよ。洗礼を受けても、心に色々と迷いや恐れや忍び込んでくるのは、これはまあ日常ですけれども、たとえどうあろうとも、もはやこの私は神さまの美しさを表す存在になっていると、信じていただきたい。
みなさんは、神がつくったものである以上、本来的に言って汚れはありません。神さまに間違いはありません。神がつくったものは、何一つ欠けたところのない存在です。みなさんの脳みそが、勝手にいろんな迷いや恐れを付け加えて汚してしまうけれど、人間が作ったものでは、神を汚すことなどできないのです。すべては神のもの。すべてを神におゆだね致しましょう。
今日の福音書で、イエスがはっきりと言ってます。「神のものは神に返しなさい」(マタイ22・21)。このとき、ローマに税金払っていいかどうか、みたいなね、まあ、悪意のある罠をかけてきた人たちがいたんですね。それに対してイエスは、「税だの貨幣だの、そんなことはこの世の話、人間のつくったものの話だろ」と言うかのように、ここにその貨幣を持ってきなさい、と言います。そして、そこになんて書いてあるんだ聞き返します。当然皇帝の名前が書いてある。顔まで彫ってある。「これは、誰の名前、誰の顔だ?」「皇帝です」、だったら、こんなもの皇帝に返してやりなさい。しかし、「神のものは神の返せ」と。
じゃあ、「神のもの」って、何か。すべてが神のものじゃないですか。オモダカの花一輪だって、その花びら一枚一枚に神のお名前が記されているんですよ。それは、みなさんもそう。みなさんの細胞一つひとつにまで、神さまの美しいみ顔とそのお名前が記されているんです。全部、神さまのもの。
だから私たちは、すべてを神さまにお委ねいたします。「私はあなたのものです」と。その神さまが本当にこの私たちを愛してくださっていて、そしてまことの平和に、永遠のいのちに導いてくださっているんですから、まあ、そのことを今日は「信じます」と言っていただきたい。このあと、洗礼式で信仰宣言をしていただきますけれども、「信じます」と、三回、言っていただきますよ。それは、なんでしょう、受洗者が、生涯口にする言葉の中で最も美しいひと言です。だって、神を信じますって、つまりは「神の愛を信じます」ってことですからね。まあ、それを言うために生まれてきたし、それがひと言でも言えたから、もう安心っていうような、そのような宣言をしていただきます。
それでは、洗礼志願者のお名前の呼名をいたしましょう。呼ばれた方は心を込めて返事をして、祭壇前に進んでいただきたいと思います。お名前を呼ぶのは晴佐久神父ではなくて、神さまです。神があなたを呼んでおられます。
2020年10月18日録音/2020年11月14日掲載 Copyright(C)2019-2020 晴佐久昌英