福音の丘
                         

もしも自分だったら

年間第30主日
カトリック浅草教会

第一朗読:出エジプト記(出エジプト22・20-26
第二朗読:使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(一テサロニケ1・5c-10)
福音朗読:マタイによる福音(マタイ22・34-40)

 

ー 晴佐久神父様 説教 ー 

 

 ルカの福音書ですと、このあと、この律法の専門家が「じゃあ、隣人って、だれですか」と聞き返して、イエスさまが「そんなこと当たり前だろう、目の前に倒れてる人がいたら、隣人となって助けてあげなさい」と、いわゆる善いサマリア人のたとえ(ルカ10・25-37)をお話しされたっていうところです。
  「神を愛し、人を愛せ」と。それだけやっていれば、我々は生まれてきた甲斐があったということです。この場合、「神を愛する」っていうのと、「人を愛する」っていうのがおんなじことだってことを、強調しておきます。神を愛しているのに人を愛さないなんて、ありえない。逆に人を愛すれば、神を愛していることにもなる。だから、「第一と第二の掟は同じように重要だ」(cf.マタイ22・39)っていうのは、この二つの掟は分けられない、そういうことですね。神を愛したかったら、人を愛すればいい。神を拝んで、人を愛さない、これはありえない。イコールなんですね。神を愛する。人を愛する。
 律法の専門家は、「じゃあ、人を愛するってどうしたらいいんですか。隣人っていうけど、だれのことですか」みたいな思いで聞き返したわけですけど、それについては、イエスの言い方の中に答えが秘められています。つまり、「隣人を愛せ」と言うにあたって、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22・39)。この、「自分のように」が肝心です。
 入門講座でその話をしてたら、「そう言うけど、私はその自分を愛せないんです」って言った人がいました。「こんな自分が嫌いだし、そんな自分を愛せない。だから自分のように人を愛せって言われたら、他人も愛せなくなっちゃう」と。これはたぶん、「愛する」っていう言葉が抽象的過ぎて、意味があいまいで、そう思っちゃうんじゃないか。イエスが言いたいのは、そういう抽象的な愛の定義ではなく、具体的な愛の行為のことです。「目の前で倒れてるんだから、助け起こしなさいよ」と、それだけなんだと。非常にシンプルですよね。それが愛するってことなんで、実際、「自分が嫌いだし、自分を愛することができない」っていう人だって、もしも目の前に人が倒れてたら、思わず「だいじょうぶですか?」って駆け寄るわけじゃないですか。そのときに、自分を愛するとか、他人を愛するとかっていう観念はどうでもよくって、「関わって助ける」という実際の行為に、意味が生まれる。
 なので、聖書の中に「愛」っていう言葉が出てきたときは、ともかく「実際に出会って、関わって、つながること」をイメージしてほしい。まず、つながること。つながって相手のことを知らないと、助けられませんからね。「だいじょうぶですか?」って声を掛けたら、「昼寝してるんだから邪魔しないでくれ」って言われるかもしれない。でも、それを知るためにも、まずは相手に近づいて、関わって、つながらなくっちゃ何も始まらない。つながって話を聞いていると、「あぁ、それは大変だ、なんとかしてあげたい」っていう気持ちが生まれる。ほんとに困ってる人、傷ついた人の話を聞いて、心がピクとも動かない・・・って人は、いないと思うんですよ。もちろん、「ちょっと面倒だな」とか、「自分には助けてあげられそうにないな」とか反射的に思っちゃうのは正直あるかもしれないけど、その奥に、「なんとかしてあげたいな」っていう気持ちを、だれもが持っているはず。それは、自分も助けてもらって生きているからこそであり、それが「自分を愛するように、人を愛する」っていう掟の根本構造です。
 だれだって、逆の立場なら助けてもらいたいと思うでしょう。ここが、肝心。つまり、困っている人がいる、倒れている人がいるっていうときに、「これ、もしも自分だったら」ってね。あるいは「自分の大切な娘だったら」とかね、「自分の愛する母だったら」とかね。そう思えば、「自分を助けるように、人を助けなさい」ってことがよくわかる。人はホントに困ったとき、だれかに助けてもらいたい。同じように、「この人も自分と思って助けよう」って、そういう非常にシンプルな話だと思いますよ。

 その構造は、さっきの聖書朗読にも、はっきり書いてありましたよね。「寄留者を虐待するな」、と。出エジプト記ね。で、「なぜなら、あんたたちも寄留者だったから」と(cf.22・20)。確かにユダヤ人はエジプトの地で寄留者でした。いじめられたし、奴隷状態だった。そこから助け出されたんだから、今度は、あなたたちの所に来た寄留者も助けてあげなさい。だってあなたたちも、そうだったんだから、ってことです。それどころか、そのうちに立場が逆転するかもしれない。ありえますよね。助ける側だったつもりが、いつ、運悪く被災者になるかもしれない。「コロナにかかった人は出ていけ、自己責任だ!」とか言っていた人でも、ひとたび自分がコロナになったら、立場逆転ですよ。みんなから白い目で見られて、「あんな冷たいこと、言わなきゃよかった」とか、「あんなふうに無神経に排除しなければよかった」とか思うんじゃないですか。運が悪ければ自分もそうなっていたし、これからそうなるかもしれない。コロナの時代、同じ苦しみを抱えてる仲間じゃないか、というわけです。「寄留者を虐待するな。あんたたちだって、寄留者だったろう」あるいは、「寄留者を虐待するな。あんたたちもいつ寄留者になるか、わからんよ」って話ですね。
 朗読された出エジプト記の教えは、そのように自分自身と関わる話だし、とても身近な隣人の話だってことをイエスは言っているわけです。身近な例をいくつかあげましょうか。

 たとえば、「寄留者」って難民ですけど、私も現に上野教会で、一人の難民と一緒に暮らしております。これが、なんとものどかな話でね。スリランカの方ですけど、スリランカにいられなくなって逃げてきた、いわゆる政治難民なんですね。最初は、そんなこと知らなかったんですよ。教会の入り口にポツンと見知らぬ外国人が立っていて、日本語がわからないんで、英語のできる人に通訳してもらったんですけど、「仕事が見つからない、泊まるところがない」っていうんです。「じゃあ、今晩は教会に泊まっていいですよ」って、和室に泊めたんですけど、それ以来行くあてもなく、もう半年も一緒に暮らしてるんです。
 その間にコロナになったっていうのもあるんだけど、仕事もないし、でも食べていかなきゃならないからっていうんで、毎週五千円ずつお渡ししています。生きてかなきゃならないからね、一緒にいる以上ほっとけませんし。ただ、面白いなと思うのは、「この人が、いったいどういう人で、どうして日本に来て、これからどうしようとしているのか」っていうことを私、ほとんど知らずに半年一緒にいたんですよ。全然日本語しゃべらないんで、にっこり笑ってあいさつするだけで。当然、上野教会の人も、この人だれなのかよく知らない。
 それで、いよいよ半年経って、先日臨時のミーティングが開かれました。本人を囲んで、委員さんたちと通訳の人とで、「あなたはだれですか?」って。あなたはだれで、なんでここにいて、いつまでいるつもりなのかって、聞いたんです。だけどこれ、のどかな話でしょう? 教会に見知らぬ人が半年間住んでいて、ようやく「あなたはだれですか?」って、主任司祭もよく知らない。実にのどかで、いい話だと思う。そんなことして、なんか起こったらどうするんだとか、だれが責任取るんだとかって言われればそうですし、もっとちゃんと先に話し合えよって言われれば、まあそうかもしれませんけど、なんだか知らずに半年一緒に住んでるなんてことがこの世にあってもいいんじゃないですかねぇ。
 で、このたびちゃんと聞いてみたら、なんと彼、スリランカの神学校にいたんですよ。カトリックの盛んな村の出身で祖父母もカトリックの熱心な信者。でもその村の港が中国資本に買い取られて、地元の産業が壊滅的になり始めて、彼は熱心に反対運動をしてたら、政府に睨まれて迫害を受け、逃げてきた。そんなわけで、これからちゃんと日本語を勉強して、日本で働きますっていうことで、仕事が軌道に乗って自立できるまで、どうぞもうしばらく教会でお暮らしくださいってことになりました。
 みなさんはどうお思いになりますかねぇ。実は元神学生で、人々を救う活動に身を投じたために追われて逃げてきた一人の難民が、目の前にいるわけです。そんなこと知らなくとも、生き延びるお世話をするのは当然ですよね。事情もわからないうちに、「日本語もしゃべれない怪しいやつだ、泊めるわけにはいかない」って断ったら、生きていけなかったかもしれない。自分も逆の立場だったらと思えば、信じてあげよう、寝るところがないならなんとかしてあげようって思うの、普通のことですよね。

 また、「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない」(出エジプト22・21)とありましたが、そう聞くと、これも身近な隣人のことを思い出します。数日前に刑務所に行きましたけれども、ある女性のことを相談しました。
 私が教誨師として一番最初にお話しした方ですが、彼女は拒食症になって、地方の刑務所から私の通っている刑務所、ここは医療刑務所なんですけど、そこへ移送されてきたんですね。私はその日が教誨師として初めての日だったので、「いったいどんな犯罪者に会うんだろう?」って、ちょっと緊張していたんですけど、出てきたのは車椅子の女性で、しかも拒食症。がりがりに痩せていました。そんな彼女が、私に会うなりボロボロ泣き出したんですね。聞けば、父親に虐待されて、本当につらかった。刑務所を出ても、父親には会いたくない。他に家族もいないし友達もいない。この世界には自分のいる場所がないし、生きている意味がないと、そう言うんです。それで私は、「いや、必ず、あなたを迎えてくれる人たちがいる。私は、血縁を超えた家族づくりをしているし、その人たちがあなたを待ってるから、安心して出てきてください。だいじょうぶです、みんないい人たちだし、あなたはそんな福音家族を知らなかっただけですよ」と、励ましました。
 その後もそんな福音を毎月話し続けているうちに、彼女は、少しずつ太っていって、笑顔も見せるようになり、やがて元の刑務所に戻っていきました。どうしてるかなと思っていたら、先日手紙が届きました。こんな内容です。「このたびついに仮釈放の話が出たけれど、そのためには身元引受人が必要だ。でもそれが、見つからない。身元引受人を斡旋するNPO法人に三千円を払ったのに結局見つからず、絶望してしまった。そんなときにふと、東京の医療刑務所で会った神父さんのことを思い出した。神父さん、ぜひ身元引受人になってください。お願いします」。それで、刑務所に相談したわけです。
 でも、それはできません、教誨師は受刑者の身元引受人にはなれませんということだったので、浅草と上野の朝のミサで「どなたかなってくれる人いませんか」って声をかけたら、もう2回目のミサで、「私、なります」っていう人が現れました。よかったです。あとはその受刑者を囲む家族をつくって、出てくるのを待っていて、一緒にごはんを食べたり、どこか住むところのお世話をしたりしていきましょうということになりました。こういう方と一緒ごはんをするつもりのある方はお申し出ください。喜ぶと思いますよ。あの人の本来の笑顔を見ることになるでしょう。
 やもめとか孤児とか、つまりは居場所がない、だれも迎え入れてくれない、みんなから排除されて、生きている意味が見つからない、そういう苦しんでいる人が大勢います。だけど、我々だって、いつやもめや孤児にならないとも限らない。自分だって、この世で誰も迎え入れてくれないなんて立場になったらどんなに不安だろうって思えば、何とか迎え入れて差し上げようと思うの、これまた普通のことじゃないですか。

 もうひとつ、「貧しい者に金を貸すとき、利子取るな」とも、ありましたよね。「上着を質にとったら、日暮れまでに返せ」って。じゃないと、「夜、何を着ていいかわからないじゃないか」(cf.出エジプト22・24-26)。まあ、そういうことを出エジプト記は言っているわけで、神さまがこう言うんですね。「その彼が叫ぶなら、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからだ」(cf.出エジプト22・26)
 だいぶ寒くなってきましたけれど、先週、いつも一緒にご飯食べてる路上生活の方が相談に来たんですよ。いよいよ今のテントを追い出されると。丸の内のガード下ですけど、結構長く暮らしていたのに、いよいよ追い出される。11月中に出て行けと最後通牒が来た。ひどいよね。なにも11月にね。これから冬ですよ? 「代わりにこちらへどうぞ」って言うならわかるけど、急に「出てけ」って言われても困るわけですよ。それで、次のところが見つかるまで荷物を預かってくれないかって言うんです。路上生活でも、それなりに荷物があるわけですよ。スーツケースが2つ3つと、ダンボールが3つ4つって言ってましたけど、置いておくところがないのですごく困っている、頼めるところはここしかない、と。それでまあ、教会って結構広いんでなんとでもなりますから、「だいじょうぶですよ。預かりますから、安心してくださいね」と申し上げました。あとは、なんとか次の居場所を考えなくっちゃねぇ。「生活保護、受けましょうよ」って言ったんだけど、いろいろ事情があって今は難しいんですね。もしみなさんの中で、「こんな部屋が空いてるから」みたいな話があったらお願いしますね。まあ、「わたしは憐れみ深い」っていう神さまがね、きっと憐れみを示してくださるとは思いますが、その憐れみだって、天から降ってくるわけじゃない、誰かがまずは荷物をお預かりしないと始まらない。コロナで路上生活になっちゃったって人、現に増えてるのご存知ですか? 自分だって、運が悪ければ寒空で過ごすことになるかもしれないと思ったら、少しでもお役に立とうとするの、普通のことじゃないですか。

 身近な寄留者、身近なやもめ、身近な貧しい人、それは私であり、あなたです。教会に集う私たち、いきなり百人は難しくとも、まずは一人、またもう一人って、みんなで助け合って、みんなで協力し合っていけば、もう一人、もう一人って関わって行けるはずです。
 「神を愛し、人を愛せ」、「自分のように人を愛せ」っていうその掟は、掟というよりは、そういうことをするためにこそこの地球の上に生まれてきたんだし、そういうことをしているときが一番人として幸せだし、それによって神の国が到来するという、救いの道です。いいとこですね、教会は。ほんとにいいところだと思う。ここに頼れば、なんとでもなるっていう、最後の受け皿みたいなね。イエスさまがそういう教会をちゃんと用意してくださったことに、私はほんとに感動するし、そういう現場に関われるっていうことにも感謝するし、さあ次はどんな人が教会を頼ってくるんだろうと思いながら、新しい一週間を始めます。
 先週ここで、復活の大ろうそくを立てて、お香なんか振っちゃって、「キリストの光~♪」なんてね、まあ、特別大サービスでもないですけど、ちょっと遅ればせながらの復活祭をやって、新受洗者を迎えました。コロナとも上手に付き合いながら、さあ、そろそろ、教会の使命を果たすために、本格始動ですよ。今まさに本当に苦しんでいる人、今もう自殺したいとさえ思っている人、そんな人たちがこれから増えてきますよ。それは、私だったかもしれない。未来のあなたかもしれない。忘れないでほしい。「もしも自分だったら」。
 まずは一人、もう一人と、関わって、受け入れて、お助けすることといたしましょう。新受洗者を迎えた喜びに満たされて、新しい出発をいたします。

 

2020年10月25日録音/2020年11月22日掲載 Copyright(C)2019-2020 晴佐久昌英