福音の丘
                         

御国の福音のために

年間第3主日
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ8・23b~9・3)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント1・10-13、17)
福音朗読:マタイによる福音(マタイ4・12-23、または4・12-17)
カトリック浅草教会

 この「御国の福音」(マタイ4・23)を、分かち合いたいと思います。神の国の福音、ですね。キリスト教の本質です。本質なんですけど、じゃあ、「神の国って、なんですか?」って聞かれたら、みなさんはなんて答えますか。どんなイメージなんですか。
 「いろんな人が一緒にいる」
 私に言わせれば、これに尽きると思います。仲いい人たちだけで固まって、楽しく過ごしてるって話じゃない。どんな人でも、なに人であっても、なに教であっても、いろ~んな人が一緒にいて、みんな幸せ、と。このイメージ。「神の国」って言えば、まずそれをイメージしてくださいね。そうじゃないと、たとえば「キリスト教って何を教えてるんですか?」って聞かれても、パッと答えられませんよ。神の国を求める教えなんだから、神の国のイメージなしには、何も言えない。多様な人、どんな人であっても一緒にいて、みんなが幸せな国をイメージしてください。もちろん、究極的には、それは天上の国がそうなんでしょうけども、まずはそれを、地上で始めるっていうのが、「御国の福音」です。
 ひとりぼっちの人に、「さあ、ここに、家族がいますよ」
 排除されている人に、「あなたも一緒にやっていきましょう」
 そう言ってお招きし、なに人であれ、なに教であれ、ニコニコして一緒にいる。それでいうなら、私たちは神の国ですか? わが浅草教会。私は、神の国だと思いますよ。
 浅草教会、実はミサのとき以外も、ほんとにいろんな方、来てるんですよ。今日の午後だって、フィリピンの方たちが来ます。先週の日曜日なんか、夕方から「サンタ会」っていう、ベトナム人技能実習生の福音家族の集まりがあって、司祭館の1階でベトナムのお鍋を食べてたし、同じ時間にこっちのエントランスホールでは、エチオピア人を囲む会をやったんですよ。エチオピア系の難民のお世話をしている方が中心になってやっている集まりですけど、エチオピア料理を並べてね、大勢のエチオピア人と食事会をしました。
 あっちでベトナム人、こっちでエチオピア人。なかなかいい光景でしたよ。エチオピアの人がベトナムの子たちに、「エチオピア料理のスープが余ったから、どうぞ」って、お鍋を差し入れたら、何を勘違いしたかサンタ会の日本人の青年がそのスープをベトナムのお鍋に入れちゃったんで、(笑)まあ~、変な味になっちゃった。(笑)そんな出来事も、いい話でしょう? だって、ベトナムの鍋にエチオピアのスープが混ざるなんて事が起こる教会が、この世にいくつあるか。象徴的ですよ。教会は、混ざるところなんです。
 明日の月曜日に至っては、ウズベキスタン人の集まりがあるんです。「ウズベク家族」と呼んでいるんですけど、ウズベキスタンってどこだかわかりますか? 帰って、調べてみてくださいな。ウズベキスタン人、この辺のコンビニでいっぱい働いてるんです。ロシア語を話せる信者の青年が、コンビニでウズベキスタン人に話しかけて、ぜひ福音家族をやりたいから、教会で一緒ごはんしようって招いたんですね。「日本人から、仕事以外で話しかけられたのは、初めてだ」っていうウズベキスタンの子たちですけど、ご存知ですか、ウズベキスタン人は、ほとんどイスラム教徒です。明日は、その友達のイラン人も来る予定ですけど、イラン人も、もちろんイスラム教徒です。当然、ハラール食を作るわけです。豚肉を使わないし、ハラール認定の食材しか使えない。それを、日本の若者とウズベキスタンの若者が一緒に食べる。
 すごいですね、浅草教会。混ざり合って食事してるんですよ。フィリピン、ベトナム、エチオピア、ウズベキスタン、イラン、他にもスリランカの若者たちもよく来てますし。こんな所って、他にどこがあるでしょうね。これはやっぱり、神の国でしょう。少なくとも、神の国の入り口だと思うし、教会はそうでないと役に立たない時代が来てるんです。事実、ほかにも100か国以上の人が日本に来てるわけで、日本人だけで集まってること自体が、もはや罪なんじゃないですか。
 「神の国」って言うなら、ともかくまずは、「多様な人たちが一緒にいる」っていう、そのイメージを第一にしてください。抽象的な観念じゃない。いろ~んな方たちが、具体的に、一緒にいる。国でも、民族でも、宗教でも、貧富の差でも、どんな違いでも、全くおかまいなしに、一緒にいる。神の国を目指すっていうのは、そういうことですよ。最終的に言えば、天国では何人も何教もありませんから、そこへ向かう準備期間に、今、この世で「混ざる」練習しているようなもんですね。

 さっき、テレビ見てたら、グレタさんがまた叫んでました。今、ダボス会議っていうのをスイスでやっていてね。地球温暖化をなんとか防ごうと。この、環境問題っていうのも、まさに神の国に向かうための練習問題だと思う。だいたい、環境問題って、貧富の差で起こってんですよ。貧富の差がなくなったら、環境問題もなくなる。みんなで分かち合えばすべて解決するんです。だって、貧しいから、仕方なく環境を犠牲にするんだし、富んでいる方はいっそう富を増やすために環境を犠牲にするわけですから。だから、みんなが幸せにこの地球上で生きていくっていう「御国の福音」のために環境問題に取り組むってことと、貧富の差をなくすってことは、同じ話なんですよ。
 グレタさんは、ちょっと尖ってますけど、ああいう風に、強く言う人、激しく言う人って大事ですよ。そもそもイエスが、そうだったじゃないですか。「貧しい人を虐げて、苦しんでいる人を見て見ぬふりなんて、おかしいだろう」、と。みんなから煙たがられても、迫害にあっても、しまいに「殺すぞ」と言われても、やっぱり「おかしいものはおかしい」って言う。現に、殺されちゃいましたけど。グレタさんなんかは、そういう意味で、御国の福音のために声を上げているイエスの弟子だって言って、いいんじゃないですかね。プーチン大統領が、「世界はそんな単純じゃないってことを、誰か、彼女に教えてやれ」って言ったり、ほかにも、「大学に入って経済の勉強をしてから、ものを言え」って言った人もいた。だけど、そう言うなら、「じゃあ、権力者のあなたは、専門家のあなたは、どれだけ世界を救ってるんですか」って、言いたい。
 とんがって、弱者のために声を上げる人こそが、御国の福音を語っている人だと、私は思う。すでにダボス会議の50年前に、ローマクラブがありましたけど、もうその時点で「宇宙船地球号」っていう言葉が生まれてました。環境問題のために地球ワンチームでやってこうって言い出してから、すでに50年。人類は何やってきたんでしょうね。世界は、環境問題に関しては、ちっともよくならない。むしろ悪化した。誰も止められなかった。

 だけど、若い子たちが声上げ始めるっていうのは、いい光景ですね。神の国をつくっていくために、10代、20代が声を上げてくれなきゃ困るし、それをおとなたちが応援するっていう流れこそが、本物でしょう。さっきテレビ見てたら、どこかの国の議会で20代の女性の議員が、環境問題について政府に質問しているときに、60過ぎのおじさん議員が口汚くヤジをとばしたんですね。そうしたら、その20代の議員さん、ヤジを全く相手にせず、顔もむけずに片手で制して、ただひと言、「OK boomer.」って言ったんですよ。これ、今、若い子たちの合言葉になってるんですね。「OK boomer.」 boomerっていうのは、今の60代から80代くらいの、日本で言えば団塊前後の世代くらいかな? まあ、要するに、経済第一のおやじたち、ですね。「boomer世代」って言われているんですけど、若い子たちは、それを一刀両断。「オッケー、目先の金の話ばかりで、未来のために何もしてこなかったboomer世代のおやじは、黙ってて」みたいなニュアンスです。
 まあ、私もboomer世代ですからなんとなくわかるんですけど、中には「俺たちだってがんばってきたのに、そんな言い方はないだろう」って思っちゃう人もいるかもしれない。でもね、ほんとに、じゃあ、今まで未来の世代のために何やってきたのか。次の世代に胸はれるような生き方をしてきたのか。どうでしょう。「あなたは御国の福音のために、今まで、何をしてきましたか。今一人ずつこの説教壇に立って発表してください」って言われたら、ここにいるみなさんは、どう答えますか。今までの教会、みんなが一緒に幸せになる具体的な道を、どのようにつくりだしてきたんでしょう。イエスから、もう二千年たってるんですけどねー。御国の福音のために、イエスさまは弟子を集めて、具体的な「教会」の礎をつくってくださいました。感謝しかありませんけども、じゃあその教会、二千年の間、この地球のために、人類のために何をしてきたか。
 その意味では、実は日本は今、チャンス到来ですよ。各国から人々がやってきて、いやでも練習問題を与えられてるわけですから。「黒船襲来」みたいなもんです。日本のカトリック信者って、よく0.3%って言うけれど、ある意味嘘ですね。1%以上いるんですよ、カトリック信者。確かに日本国籍の信者って言うんであれば、0.3%です。でも、神の国において、この世の国籍、関係ないですから、それで言うなら、1%いる。日本人の信者より、外国人の信者のほうが多いんですよ。これは、もっと増えるでしょう、これから。
 黒船襲来です。押しとどめられない。神の摂理でしょう。浅草教会も、そろそろ鎖国をやめて開国しなきゃなんない。開国です。でも、開いた国は必ず、神の国につながっていきます。ですから、いろんな人々をお迎えしようじゃないですか。その人たちにとって、「あぁ、ここに来て、よかったな」「ここが、神の国だ」、そう思ってもらえるような教会を、協力し合って目指してまいりましょう。そうして、ぼくらが多様な人を迎え入れている所にこそ、「ここはいいね」と、日本人もまた、集まってくるんです。ホントにそうです。
 おととい、上野教会で洗礼面談した方がいて、私、洗礼許可出しましたけども、「なんで、この教会で洗礼受けたいと思ったんですか」って聞いたら、「いろんな人たちがいて、居心地がいい」って言ったんですよ。嬉しかったです。「いろ~んな人たちがいて、ここは居心地がいい。自分も個性的だけど、ここなら安心だから一緒にいたい」って言いました。確かにおんなじ人たちがおんなじように集まって、おんなじようにしなきゃならないとしたら、居心地悪いんですよね。いろんな人たちが出入して、もう、初めての人も久しぶりの人も、富んだ人も貧しい人も、なに人でもなに教でも、いろんな人たちが当たり前のように一緒にいられる環境。そういうところにこそ、人って集まってくるんです。

 グレタさんで思い出しましたけど、今日、「こどもの日」なんですよね。ご存じですか。「世界こども助け合いの日」。これ、かつては「カトリック児童福祉の日」っていって、献金集めて、児童福祉のために送ったりしてた。でも児童福祉って、おとなが児童を助けるっていうニュアンスで、ちょっと上から目線。むしろ、子どもたちに、「あなたたち自身がお互いに助け合いましょう」と、名前を変えたんです。「世界こども助け合いの日」。実は先週、日本カトリック映画賞が決定しましたけど、『こどもしょくどう』っていう映画なんです。これが、まさにこども同士が助け合うっていうような話で、いい映画なんですよ。どちらかというと地味な映画ですけれど、このテーマはすごく重要です。
 「子ども食堂」って、普通、おとなが子どもに食べさせてあげるって話じゃないですか。ところが、この映画は、ごく普通の家庭の子どもが、貧しい家庭の子どもがいることに気づいて、なんとかしてあげようと思って工夫する話なんです。子どもってやっぱり、そういうところ純粋ですよね。・・・忘れられないシーンがあって、主人公の男の子が、自宅でトンカツ食べてるんですね。トンカツって、6切れくらいに切るじゃないですか。それを3切れ食べたところで、残り3切れをじーっと見てるんです。橋の下の車の中で寝泊まりしている、女の子のことを思い出したんですよ。で、その3切れを、親に気づかれないようにパックに入れて、その子の所に持ってくっていう。
 子ども、純粋ですよ。おとなになると、なんかちょっといろんなこと考えちゃって、恥ずかしいなとか、そんなことやっても無駄だよなとか、結局偽善だよな、かえって迷惑になるんじゃないかとか、まあいろんな雑念が入ってきちゃう。まあ、おとなは経験豊かだから、逆に恐れもいっぱいあって、身動きとれなくなってる。その点、子どもは、初々しい。
 「そうだ。ぼくの分を半分、持っていこう」
 それに気づく、何かとても尊い瞬間が映し出されていて、いやぁ・・・、私は感動しましたね。日本カトリック映画賞の授賞式で監督さんと私が対談するんですけど、このシーンの話は、絶対したい。
 分かち合うこと。どんな人でも一緒にいて、そこが我が家だって言えるような、そういう所をつくりだすこと。映画では結局・・・、あ、でもあんまり言わないほうがいいですね。(笑)でも、なんでしょう、教会っていう所こそ、まさにイエスさまの言うように、「幼子のように」純粋に神の国を求めて、おままごとみたいなことでもいいから、チャレンジする所であってほしいし、そういうことをする所に、御国の感動が生まれる。

 先週、ベトナムの技能実習生の子が指を落としかけた話、しましたでしょ? 右手の人差し指、無事につながりました。まだちゃんと動くかどうかはわからないけど、ギプスしたまま退院して、日曜夜の福音家族、「サンタ会」に来ました。ダオくん。いつもね、みんなのためにベトナム料理を作ってくれていた彼が、痛い思い、怖い思いをしたけれど、なんとか指もつながって退院できたってことで、「おめでとう」って乾杯をしたんですけど、そのときに、サンタ会の中心人物の一人が、代表して挨拶してくれました。
 「この、技能実習生の、サンタ会の集まりがなかったら、ダオくんはどれほど寂しく、つらい思いをしていたことか。この集まりは本当に家族です。神父さん、この集まりを作ってくれて、ありがとう」
 確かに、一報入った次の日には、すぐに私病院に飛んでいって病者の塗油授けたし、補償や休業中の給料も出るか確かめましたし、サンタ会の日本人の若者たちも、次々にお見舞いに行って必要な物を用意したりしましたし、ホントに家族なんです。私、集まりのたびにみんなに言ってきたんですね。「このサンタ会の集まりは、マフィアだ」、って。もちろん、いい意味でね。「血縁を超えた家族になろう。マフィアの血の掟のように、誰かが困ったら絶対に助け合う仲になるんだよ。日本人もベトナム人も一つの家族になって生きて行こう」。これ、食事のたびに必ず、言います。「俺たちは、マフィアだ。助け合うんだ」って。
 そして、「私たちのチャー、ありがとう」って言うんです。「チャ―」ってベトナム語で、「パパ」って意味ですね。『神父さんのこと、「チャ―」って呼んでいいですか』って、何人もの子に言われましたけど、彼らは親しみこめてチャーって呼ぶんです。だから私も、「コンチャイクワチャ、コンガイクワチャ」って答えます。「我が息子よ、我が娘よ」っていう意味ですけど、そう呼ぶとみんな、ホントに喜んでくれるんです。それで、「私たちのチャー、ありがとう」って言って、「みんなからの感謝の気持ちとして、お礼を差し上げたい」と言って、プレゼントをもらいました。
 それがもう、ほんとに素晴らしい、刺繍で作った聖家族の絵の額縁で、ベトナムの技能実習生の仲間が作ってくれたんだそうです。作るのに、ものすごく時間がかかるんですって。でも、それで「気持ちを表したい」ってことなんでしょう、私にプレゼントしてくれたんですよ。私、もうなんだか、感動しちゃって、そんなものがほしくてやってるわけじゃないけど、その気持ちが嬉しいじゃないですか。「あぁ、ここに、神の国きたな」って思いましたよ。ここに実物があるので、見せてさしあげます。
 (会衆席に額縁を掲げて、見せる)絵じゃないんですよ、これ。刺繍ですよ。(会衆席から、「おぉ~」「すごい」という声が上がる)・・・聖家族。きれいでしょう? なんて、美しい。ここにね、さまざまな気持ちがね、込められてるじゃないですか。
 私は、今年、もっと、もっと、御国の福音のために働くぞって思いました。




2020年1月26日録音/2020年2月22日掲載 Copyright(C)2019-2020 晴佐久昌英