福音の丘
                         

完全無力状態

年間第2主日
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ49・3、5-6)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント1・1-3)
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ1・29-34)
カトリック浅草教会

 こうして、元気にミサを司式できるのも、ホントに神の恵みのうちにあるなと、今日は心から、そう思っております。というのは、先週はインフルエンザで相当まいっておりましたから。先週の今頃は、一応治ってはいましたが、お医者さまからまだ接触禁止って言われてたんで、浅草教会に引きこもってました。で、日曜日にはもう元気だったので、実は先週のミサ中、そっと2階に出てきて、(笑)あそこの、聖堂を見下ろせる2階の窓から覗いておりました。幽霊のように。まあ、下をウロウロしたらいけないと思って。いや、でも、なかなか、不思議な体験です。初めてですよ。自分がいつも司式している教会で、他の司祭が司式しているのを、共同司式せずに眺めるなんてこと、今まで一度もないですから。「いるんだったら、やれよ」って話ですし、いないから他の神父さんが来てるわけで。不思議な感覚でした。
  それにしても、その日お手伝いいただいた竹内神父さんですけど、なんて格調高いお説教! 神父って、ひとの説教ってめったに聞く機会ないんですよ。竹内神父さんは、大学で教えてる方ですしね、説教が分かりやすくて、格調高い。「こんなお説教するんだぁ」と感心しましたし、いろんな意味で勉強になりました。いいですね、みなさん、毎週、次々いろんな神父来て。(笑)ずっと私の説教だけだったら、退屈ですもんね。「先週、あんな人が来た」とか、「昨日、こんなことあった」とか、そんなのばっかりで。
 いやー、でも、不思議な体験でした。自分がここにいるのに、いないかのような、幽霊にでもなったような。でも、みなさんが、こうして一緒にミサを捧げている姿を2階から見ていて、そこに働いている見えない力をひしひしと感じて、ホントに不思議体験でありました。

 不思議体験って言うなら、インフルが一番酷かったとき、夜、高熱が出て、首から下がまったく動かないっていう体験しました。金縛りみたいな、あれは熱のせいなのか、不思議体験でした。水を飲みたくても、飲めないんです。喉が渇いて、脱水症状になっちゃいけないから、「飲まなきゃ、飲まなきゃ」と思っても、体が動かない。1.5メートル先のサイドボードにペットボトルが置いてあるんだけど、取りに行けないんですよ、そこまで。ど~しても行けない。ようやく右手をね、すこ~し動かしてみて、ベッドから手を出せば重力で落ちるはずだと、じりじり動かしてみて、やがてベッドから右手がストンと下に落ちて、で、そのまんま。今度、この手をどうやって上げようかっていう感じ。(笑)
 あれはなんなんですかね、ああいう症状ってあるんですかねぇ。頭ははっきり起きているんだけども、体が全然動かない。まあ、朝になったら動けてね、お水飲めましたけども。あれは不思議な体験で、しかしそのときに、さすが神父、転んでもただでは起きない。この体験は、何かすごく神秘的な、「しるし」に違いないって思って、いろんなことを考えました。
 一番思ったのが、「人間って、初めもこうだし、終わりもこうなんだな」っていうこと。考えてみたら、そうでしょ? みなさん、赤ちゃんとして生まれてきたとき、1.5メートル先の水、取れないんですよ。何か月も。何もできないから、しょうがないから泣き叫んで、「水―!」とか、「ミルクー!」とかって、泣き叫ぶわけですよね。言葉もまだしゃべれませんから。あの完全無力体験っていうのを、人は、生まれてきてすぐに、全員もれなく、必ず体験してるんですよ。そんな、何か月も身動き一つとれないような生きものが、なんで生き延びられるかっていうと、誰かに助けてもらってるからですね。ここにいるみなさんも、間違いなく、かつて、ミルクを飲ませてくれる、着せてくれる、オムツ替えてくれる、身動き一つとれない何か月もの間世話してくれる、誰かがいたんですよ。普通は親でしょうけど、親じゃないかもしれない、誰か。
 そうして誰かの世話になって生き延びて、「完全に無力でありながらも生きる」っていうことを知ったんです。人類だけでしょうね、こんなに長期間無力っていうのは。虫だって、犬猫だって、生まれたらすぐによちよち歩くじゃないですか。人間は、生まれてまず、それなりに脳を発達させながらも体は全く身動きとれないという、完全無力体験をさせられるんです。

 ただ、よく考えてみると、それはあっちゃいけない状況じゃなく、人の基本形なんです。そのプロセス抜きに人は育たないし、人になれない。身動きとれないからこそ助け合うっていうことでこそ、人はお互いに心を通わせ合ったり、支え合ったりするということを学んで、人類になってくわけでしょう?
 そういう原点から出発してずっと生きて、で、最後もまたそうなんですよねぇ。完全無力状態に還っていく。昨日、あるおばあちゃんの追悼ミサをしましたけど、私、何度もその方のおうちに行きましたし、そこでミサをしたこともある。ほとんど動けなくて、車椅子を押してもらう生活ですけど、その方、ケーキが大好きなんですね。根津にある有名なケーキ屋さんのケーキで、もちろん行けば私もご相伴に与るわけで、これがおいしんですよ。その、ケーキ大好きなおばあちゃんに、娘さんがケーキを食べさせるその様子がとっても微笑ましくて、なんか、天国的な光景だなって。自分ではケーキ一つ食べられない、完全無力状態だけれども、だからこそ助け合うし、人生の最後にそのような原点に還るわけでしょう。
 生まれたときも無力、最期の時も無力。無力が基本形なんです。うつの方なんかもそうですよ。ご存じですか? うつの方って、ホントに身動きとれなくなるんです。布団から出てこれない。周りの人は、よくわかってないから、「たまには少し、外の空気でも吸ってきたら?」とか、「自分の下着くらい洗いなさいよ」とか、平気で冷たいこと言っちゃうけど、ホントにうつでつらいときっていうのは、動けそうに周りからは見えても、ビクとも動けないんですよ。で、「こんな自分はもう役に立たない」「こんな自分は、みんなの迷惑になるだけだ。生きていても意味がない」と自分を責めてしまうという、完全に無力状態。
 人は生まれてきたとき無力、インフルエンザにかかって無力、うつになったらホントに動けないし、そして最後も、誰かから、「あ~ん」ってしてもらわなければ、大好きなケーキ一つ食べれませんっていうところまで、完全無力が、スタンダードなんです、人間は。でもそれは、情けないことでも苦しいことでもなんでもない。神さまが、そうなさっているという、人類の基本形です。無力な人を、動ける人が支え合うという基本形。
 「私がシーツ洗ってあげるから、だいじょうぶよ」って、家族が言ってあげられる。
 「ごめんなさい」
 「あやまることないよ。困ったときはお互い様。ゆっくり休んでてね。必ずよくなるから」
 周りはそうやって、受け止めて、支えて、そうしてみんなで助け合いながら、神の子として成長して、やがてみんなで神の国に入っていく。それが、人間。

 だからまぁ、元気で何でもできるときって、実は無力こそがスタンダードだってことを忘れてるときでもあるんですよ。元気がスタンダードだと思っちゃいけないんです。だって、そう思っちゃったら、ちょっとでもうまくいかなくなったとき、できることができなくなったときに、ただガッカリして、ただ不安になるだけでしょう。自分の本来はあの赤ちゃんの完全無力だったんだし、やがてそこに戻るってことから、離れちゃいけない。
 逆に、完全無力がスタンダードなのに「今はこんなに動ける」と思ったら、嬉しくないですか? 「無力な自分が、少しでも人の役にも立てる」と思ったら、「もっとやろう」って思うじゃないですか。全く「ゼロ」の状況でありながら、神さまがいのちを与えてくださり、出会いを与えてくださり、生きがいを与えてくださり、そしてやがて、本当の自由、本当のからだ、決して滅びることのない、永遠なる喜びの世界に入っていく。神さまは、このプロセスを与えてくださった。
 私、ですから、首から下が全く動かないっていうような状況の中で、「いや~、こういうときこそが、神さまの霊に満たされるときなんだな」っていうことをすごく思いました。神の霊にこそ、満たされて生かされているという原点。体は動かない。心も不安。でも、人は体と心だけじゃないんです。体と、心と、あとなんですか? 体と、心と、魂があるはず。魂の世界だけは、神の力に満ちていて、決して滅びない。体は滅びます。心も変化します。でも魂は、完全で、永遠で、そこには神さまの霊が注がれて、神の力に満たされて、私たちはそこにおいて、他者と結ばれて、まことの喜び、真の希望を持つことができる。

 福音書に、「聖霊による洗礼」(cf.ヨハネ1・33)という言い方が出てきました。洗者ヨハネの洗礼は、水による洗礼ですから、ある意味、目に見えるこの世の洗礼ですね。受ける人と受けない人がいる。しかし、イエスが授ける聖霊による洗礼、これはとても本質的な洗礼で、ある意味、イエスの十字架と復活によって、すでに神の子であるならばだれでもが受けてるんですよ。この世で水による洗礼を受けていようと、受けていまいと、みなさんはもうすでに、聖霊による洗礼を受けているんです。ただ、それを知らないで苦しんでいる人たちが、それを知って救われたとき、そのしるしとして水による洗礼を受けるんです。
 ここにいるみなさんは、魂の世界で神の霊を受けていることに目覚めた人たちであるはずです。体は動かなくても、身じろぎ一つできなくても、気持ちがふさいでいても、魂の世界では、聖霊による洗礼によって、滔々と、滝のように神の愛が注がれています。イエスは、十字架上で完全に無力でした。それによって、全人類は結ばれたんです。私たちは、イエスの十字架から与えられた、限りない恵みの霊を、もういただいております。いただいているんだけれども、体が弱ってくると、気持ちがふさぐと、もうだめだと、落ち込んじゃう。魂の世界での洗礼を知らなければ、教会での洗礼なんて何の意味もありません。

 今日、信徒総会ですよね。みんなで一つになって、聖なる霊に満たされて、幸いな教会を証ししていただきたい。先日、ある教会の、何十年史みたいなやつ、あるじゃないですか、五十年史とか、百年史とか、そんなようなものを渡されたんで、持ち帰ってよく見たら、びっくり仰天。確かに教会の歴史の小冊子なんですけど、「教会分裂の歴史」みたいなタイトルなんですよ。(笑)教会の中に、あることで賛成派と反対派がいて、対立して、弱い方は排除されて、みたいないきさつについて詳しく書いてある。結構立派な印刷の冊子なんですよ。写真入りで。どうしてそうなっちゃうんでしょう。何がいけないんでしょう。聖霊の働きに気づいてないんです。私、浅草教会に来て、すごく感心したのは、まあよく、話し合いますよね、なんでもね。言いたいことは、なんでも言い合って。(笑)そして、決めたら、「みんなで決めた」ってことで、それでやってく。ホントに感心します。でもそれって、実はすべて、聖霊の働きなんですよ。
 教会なんて、これ、営利の企業でもないし、学校でもないし、町内会でもないし、ただもう、聖霊によって集められてる集いなんですね。確かに無力だし、弱いし、自分勝手だし、時には人の話もちゃんと聞いてないし、傷つけあうし。まあ、そんな弱い私たちですよ。でも、罪びとであり、弱いけれども、「それでも私たちは一緒にいますよ」って言えるのはやっぱり、聖霊の働きですね。弱いけれども、心と心が通い合う瞬間。弱いからこそ、助け合う。完全無力なものをこそ、一番大切にする。まずは聖なる霊によって満たされて、一番弱い人、一番声の小さい人、そういう人たちのことが大切にされる、そのような教会にしていきましょう。みんな、聖霊による洗礼を受けてるんだから。

 インフルエンザで閉じこもってたとき見てたテレビ番組で、中国の日本語学校で日本語を教えている先生のドキュメンタリーがあったんです。すごい人気で、めちゃめちゃ上手に教えるんですよ。元はお笑い芸人を目指してたけどうまくいかずに、たまたま中国に行ってたときに日本語学校を手伝ったら、その手ごたえにはまってライフワークになったとかってことなんですけど、これがほんとに素晴らしい先生なんです。
 彼の日本語を教える方針の原点に、「言葉じゃないんだ、心なんだ」っていうようなのがあるんです。つまり、うまくしゃべってね、うまく発音したら、それで通じるかっていうと、そうじゃない。本当にコミュニケートするためには、やっぱり、心を伝えなきゃ意味がない。相手のことを好きになって、相手のことをホントに助けてあげたいとか、相手にホントにいいものをすすめたいとか、何かその、「熱い心」が伝わるんであって、それをなんとかして伝えるっていう、それが言葉なんだ、それがコミュニケーションなんだ、と。
 そういう先生なんで、そこを巣立った生徒たち、日本語、上手なんですよ、ホントに。「日本人か?」っていうくらい上手に日本語をしゃべるし、しかもただしゃべるんじゃない。「心」があるから、感動も生まれるし、日本語スピーチコンテストなんかで、結構いい成績をとったりするんですね。やっぱり言葉って、グッとくる熱いものがあってこそ、伝わるんです。
 私たち、確かに意見が違って対立したり、排除しちゃったりするんだけど、それでもなんとか一緒にいて、バラバラにならない、その一番の方法は、やっぱり聖なる霊によって心と心がつながっていればいいんです。一致の霊ですからね、聖霊は。強い者が弱い者を排除するのは聖霊への冒涜だし、弱い者が強い者になんとか復讐しようっていうのも聖霊の働きじゃない。我々は右のほほを打たれたら左も出せっていう宗教ですからね。私たちのうちに満ち満ちている聖なる霊の働きによって、弱い心と心がつながる瞬間こそが、生きている意味なんです。「水、取ってー!」って言えば、水を取ってもらえる。弱い私たちが、聖霊によってのみ、つながっている。教会っていうのは、そういう現場なんです。それがなかったら、もう「教会」とか言ったって、なんの意味もない。
 その日本語学校の卒業生が、中国の放送局に就職したんですね。まだ若い彼が東日本大震災の直後に日本に取材に来て、リポーターをやったんです。そのときの映像も流れたんですけど、衝撃的に感動しました。あれはどこですかね、津波のがれきの中を、お年寄りの男性が一人、歩いてるんです。その人に、その卒業生のリポーターが、見事な日本語で聞くわけですよ。
 「どんな被害に遭われたんですか?」と。
 その男性が答えました。
 「家族を失い、家も流され、仕事も失いました」
 まさに、完全無力です。そこで、リポーターの彼がこう聞いたんですね。
 「では、今、何が一番必要ですか?」
 すると、その男性、たったひと言、「心かな」って言ったんですよ。
 「あったかーい人の心かな」って。
 そのひと言を聞いて、思わず涙出そうになったんですけど、見てたら、それを聞いたそのリポーターも、泣きそうになってるんですね。次の瞬間、そのリポーターの彼、驚くべきひと言を口にしたんです。
「抱きしめていいですか?」
 男性はびっくりしながらも、「ああ」って言って、二人、無言で抱き合ったんです。
 衝撃でした。
 この卒業生、素晴らしい先生に教わったなって、つくづく思った。だって、心がつながれば、すべてがつながるじゃないですか。理屈じゃない。「今、何が一番必要ですか」って聞き、聞かれた方は、まあ、家が必要、仕事が必要、家族も必要、そうでしょうけど、それよりなにより、生きていくうえで一番必要なこと、今、心から願ってることをそのリポーターを信頼して、絞り出すように口にしたわけですよね。
 「心が必要だ。あったかーい、人の心が必要だ」って。
 それを聞いて、メディアとしては、こりゃあいい場面撮れたぞくらいに思って立ち去ることだってできるんだけど、この中国人のリポーター、「抱きしめていいですか」ですよ。日本人のリポーターなんか、絶対そんなことしませんし、できませんよ。そういう教育を受けてませんから。
 やっぱりこう、つながるその瞬間に働く力、すべてを失って完全に無力な状態なんだけれども、だからこそつながって抱きしめ合う力、これを「聖霊の働き」っていうんです。こんなの、宗教を超えてるでしょう? 何教、何宗の話じゃない。このリポーターも、抱きしめられた男性も、クリスチャンじゃないでしょう。でも、そこに、無力なものを結ぶ、聖なる霊の働きが確かにあるんです。完全無力でありながら、全人類の救い主である主イエスからあふれてきて、今、この聖堂にいるみなさんの心をも満たしている、聖なる霊の働きがあるんです。洗礼を受けた私たち、賛成派だの反対派だの対立して責め合うんではなくて、一致の喜びのためにこそ働いて、私たちの教会を輝かせましょうよ。
 今年も、完全に無力な方が教会を訪れてきますよ。その一人ひとりをていねいに迎え入れて、「今、何が必要?」って聞いてさしあげましょう。まあ、聞くまでもない、だれもが本当に必要としている、あったかーい心で、抱きしめましょう。それが、教会です。

 



2020年1月19日録音/2020年2月4日掲載 Copyright(C)2019-2020 晴佐久昌英