福音の丘
                         

これで死ぬに死ねる

主の奉献
第一朗読:マラキの預言(マラキ3・1-4)
第二朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ2・14-18)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ2・22-32)
カトリック上野教会

 新型コロナウィルスが流行り始めて、心配している人も多いのではないでしょうか。でも、必要以上に心配しなくていいですよ。インフルエンザと同じ、ウイルスによる感染症です。そのうちお薬もできるでしょうし、インフルエンザのように、共存していくしかない。私自身、今年最初のミサの後にインフルエンザに罹っちゃいました。日曜日のミサで、誰かにうつされたんじゃないかな。翌日の夕方には咳が出て、翌々日には熱が出た。インフルエンザって、1日か2日なんですよね、潜伏期間が。なので、その潜伏期間中の福音家族で、ある人にうつしてしまいました。ウイルスとは共存していくしかない。怖いのは、恐れ過ぎて、排他的になっていくことです。
 しょうがないんです。この地球の上で生きている以上、いろんな病気があるのは、しょうがないです。病気だけを見つめていても、恐れが膨らむだけです。病気だけじゃない、この世には事故もあります、災害もあります。怖いことはいっぱいある。けれども、この世はすべて神の恵みの内です。神はそういう世界だということを百も承知の上で、この地球の上に私たちを望んで生み、愛して育て、今日もここに集めてくださった。それが、神の御心だから。素晴らしいことです。どんな病も、神のみ手の内です。恐れずに、いっそう助け合う世界にしていきましょう。

 恐れるな、恐れるな、と聖書はそればっかり言うわけですけど、恐れることそのものが罪だからです。病よりも怖いのは、恐れなんです。今日の中国センターのミサ、お休みになっちゃいました。コロナの流行っている中国本土から、春節を終えて帰ってきた人たちがいるので、ミサは中止にしたということです。だけどね、問題はウイルスであって、中国人じゃない。必要以上に恐れて、差別のようなことにならないことを願うばかりです。
 札幌の雪まつりのニュース見てたら、レストランの入口に「中国人お断り」って貼り出してある映像がありました。これ、どうなんでしょうね。確かに、ウイルスに注意するのは大事。感染しない工夫も大事。でも、空港で検疫ならわかりますけど、レストランで店を開けておきながら特定の国の人だけお断りって、あんまりですよね。もしもどこかの国で、「日本人お断り」って貼ってあったら、切ないでしょう。もちろんある程度のリスクはあるにせよ、いろんな人が、いろんな思いをもちながらも、やっぱり協力し合って一緒に生きていく最大限の工夫をするしかありません。実は、そういうところにこそ、キリスト教が本領発揮すべき分野があるんだし、そういうのって、教会の中でも日頃から練習しておかないと、いざって時にうまくいかない。
 宗教であれ、民族であれ、貧富の差であれ、才能の差であれ、人間は互いにいろんなレッテルを貼りますけれども、キリスト教は、一つひとつのレッテルを丁寧にはがして、みんなが一緒にいられる工夫をして、お互いに助け合う訓練をしておかなきゃなりません。恐れを超える訓練。そこを怠ると、いざって時に必要以上に恐れたり、感染している人を平気で差別したりし始める。もちろん、命は大事ですから、予防も隔離もしなければいけないですけれども、同じ星で一緒に暮らしてる以上、まったく安全で、何のリスクもないなんてことはありえない。もしも完全にリスクをなくそうとするならば、孤立して一人ぼっちになるしかないでしょう。

 これね、心の問題で言うなら、コロナと関係なく、すでに恐れによって孤立して、一人ぼっちになってる人って大勢いるんじゃないですか。まるでウイルスを避けるように、家族の中でさえ、この人は嫌、この人はリスクがある、この人とは一緒にいられない、なんて排除し合ってると、最後はお互いに孤立するしかない。キリスト者であるならば、お互いのレッテルをはがし、思い込みの壁を取り除き、たとえ傷つくリスクがあっても、それでもあなたたちと一緒にいたいという意地というか、誇りというか、共に生きる工夫というか、それって、キリスト者の腕の見せ所でしょう。そういう教会がいいね。「そんなあなたのままでいいよ」、「ぜひ一緒にいてください」、「いいよ、いいよ、一緒にやっていこう」っていう、この、教会ならではの感覚。
 イエスのまわりは、間違いなくそうだった。みんなから排除された人をこそ、集める。すごいですね。当然、リスクはあったと思う。現に弟子に裏切られましたし。だけど、イエスにしてみれば、そのリスクこそが神からの恵みだし、それを十字架の犠牲によって、復活の栄光へと越えていく道を我々に示してくれたんです。我々も、ちょっと壁を取り除いて、怖いこともあるけれども、その十字架を背負わないと復活の栄光に入れないんだから、喜んで、よいしょと背負う。
 ウィルスとの共存には、まだまだ時間がかかるでしょうから、今はしょうがないこともいっぱいあります。私もさっき、香部屋出るときにアルコールで手を消毒しましたし、この後、祭壇で手を洗った後に、さらにアルコール消毒もすることになってるんで、ご心配なく。でもね、完全に排除することは不可能ですし、そもそもウイルスにだって何らかの存在理由があるはずです。まして人間関係では、排除ではなく共存の工夫こそが、今求められているんじゃないですか。

 昨日一人の青年が、私に聞いたんですよ。「キリスト教で一番大切なことは何ですか」。すごい質問だね。直球というか、一瞬ひるみましたよ。「キリスト教で一番大切なことはなんですか」。みなさんだったら何て答えるんですか。やっぱり、そこは愛でしょう、「神を愛せ、人を愛せ」とイエス様は仰ってるし。…って答えようとして、はたと「キリスト教で…」っていうならばちょっと違うか、って思ったんですね。だって、イスラム教だって、「神を愛せ、人を愛せ」でしょ。仏教だって「阿弥陀様を大切にして、衆生はお互い、仏の慈悲をもって大切にし合う」ってことじゃないですか。だから、こうお答えしました。「キリスト教で一番大切なことは、イエス・キリストに倣うこと」。これにつきる、と。だって、イエス・キリストは、神を愛し、人を愛してるわけだし、大勢の排除された人を集めているわけですし、自らを犠牲にして人々を救っているわけですから、このイエス・キリストに倣っておけば、間違いがない。
 だからこそ、イエスが何を言ったか、何をしたかを知るべきだし、イエスが言ったことを言い、イエスがやったことをやるべきだし、言うなればイエスと分かちがたいほど一つになって、神の国のために、一日、一日を神の御心のままに捧げていく訓練をする、これがキリスト教です。「そんなあなたでいいよ」、「そんなあなたと一緒にやっていきましょう」と、恐れずに手を差し伸べることで、イエス・キリストと一つになる。これはもはや、キリスト教というより、キリスト道みたいなものですから、他の宗教をやっていても、共にキリスト道を歩むことができるし、それこそがキリスト教の普遍主義です。

 先週、浅草教会のミサで、同時に二つの集会をしていたために、エチオピア人のスープとベトナム人の鍋が混ざってしまった話をしました。全国広しといえども、そんな教会、なかなかないですよ。象徴的です。エチオピアの難民がどれほど辛い立場にあるか、ベトナムの技能実習生がどれほど過酷な現場にいるか、一緒に飯食っているとひしひしと感じるし、何とかしてあげようと思う。話を聞いてると、ベトナム技能実習生のひとりに、給料未払い3か月っていう事実が発覚したんですよ。だから、その集まりに出ている日本人とベトナム人の仲間たち中心に、給料3か月分取り返すチームを作って今相談中です。今日の夜も、その作戦会議。だけど、これ、キリストの教会の本質ですよ。いくらミサで「神に感謝」なんて言ったところで、イエス様だったら必ず声をかける人を見過ごしにしていたら、何のためのキリスト教か。キリスト教で一番大切なこと。それは、あのイエス・キリストに倣うこと。非常にシンプルです。

 先週の月曜日は、ウズベク家族をやりました。ウズベキスタン人の福音家族です。ウズベキスタンってどこにあるか分かりますか。タジキスタンの隣です。トルクメニスタンの北で、カザフスタンの南。(笑)言われてもわからないでしょう? そうなんです。だれもウズベキスタンがどこにあるか知らない。ウズベキスタン人てどんな人かも知らない。何を食べてるかも知らない。私も全然知らなかった。去年までは。ところが、上野教会の一青年が、コンビニで働いてる若いウズベキスタン人に声をかけた。その青年は福音家族が大好きなんで、「一緒にご飯食べようよ」と声をかけ、かけられた方は喜んで仲間のウズベキスタン人を集めて、教会で一緒にご飯を食べた。それがきっかけで、日本人の仲間も誘って、月に一度の「ウズベク家族」が始まりました。
 前回は日本人がご飯作って出したんですけど、今回は、ウズベキスタン人が自分達で作ると言って、カザンケバブという羊肉料理を作ってくれた。これがめちゃめちゃ美味しかった。今までいろんな美味しものを食べてきたけれども、世の中にはこんな美味しいものがあるんだと。ローストした羊の肉と、まるごとのジャガイモを、クミンで味付けて。私、食べた時、心底ぞっとしたんですよ。もう少しで、カザンケバブを食べずに死んでいくとこだった。なんということだ。このままじゃ、死ぬに死ねないぞ。世界には、他にどんな出会いが待ってるんだろう。
 わたしたちは、いっつも同じ人と、同じような所で、同じようなことをして、これでいいやって思ってる。でもそれ、やばくないですか。何にも知らずに死んでいくんですよ。私もスマホでウズベキスタンの地理と歴史を調べましたし、ネットの動画でウズベキスタンのダンスを探して、テレビにつないでみんなで見ました。素晴らしいダンスでした。びっくり。西洋のダンスも日本人の踊りもいいけれども、こんなにダイナミックな、人の心を掴むダンスもあるんだって。すごいなあと思ったし、彼らとこれから毎月一緒ごはんして親しくなっていくことを私は本当に楽しみにしております。ウズベキスタンは、ほぼイスラム教徒ですから、ハラル食しか食べません。でも、彼らの中にはお酒飲む子もいて、「あれ、いいの?」って言うと、「親に知られなければいいんだ」と。
 時代は変わってます。原理主義で戦っていたのは、前の世代。新しい世界が始まっているのに、カトリック教会が内向きで、閉鎖的で、去年と同じことを同じようにやってたら、死ぬに死ねない。そもそも、教皇フランシスコが、教皇になってすぐに訪ねた施設でイスラムの少女の足を洗いましたよね。そして、すぐに、イスラムの難民センターのあるランぺトゥーザ島に行ったじゃないですか。なぜですか。彼はキリスト者だからです。キリストに倣って生きることが、最も大切だと思っている、キリスト者だからです。
 実を言うと、ウズベク家族の一人の青年が、そういう人脈を持ってるので、私、昨日頼みました。「クルド家族」を作りたいって。クルド人ご存知ですか。埼玉県の方に結構大勢おります。世界で最も不幸な少数民族。少数って言っても3000万人いるんだけれど、その意味では自国の領土を持っていない世界最大の民族です。イラク戦争でアメリカに使われたり、戦争が終われば見捨てられたり、悲劇の歴史です。高貴な精神をもっている民族ですけど、排除されて流浪の民となり、仲間たちがどんどん見殺しにされていく。でも、そのクルド人たちが、ISに迫害されたキリスト者たちをかくまって救ってくれたことがある。自分たちの居住地に、教会まで建ててくれて。ぜひ、在日のクルド人を集めて、助け合う仲間としてやっていきましょうって言いたいんです。キリスト者が助けてもらったんだから。

 先週、刑務所に行ったんですけど、拒食症の女性に会ってきました。収監されてからお母様が亡くなったんだけど、受刑中なので葬式にも出れずに、ショックもあって拒食症になっちゃった方です。こんな私はもうこの世から消えたいっていう思いがあるんでしょう。拒食症の本質にはそういう自己否定感がありますから。なので私は、これまでもずっと福音を語って支えてきましたけど、少しずつ体重が落ちて行って、前回行ったときはついに一週間で5kgもやせてました。なので、前回行ったときに、はっきりと申し上げてきました。
 「神はあなたを許している」ということ、「あなたは必ず幸せになれるんだ」ということ、「やがて天国で必ずお母様と会える」ということ、そして何よりも、「言うなれば、お母様はあなたを生かすためにご自分の身を捧げたんだよ」ということ、「だから、あなたがしっかり生きていかなければ、お母様の病気、お母様の死は、意味がなくなっちゃいますよ」ということ、「イエス・キリストの十字架も自分の命を犠牲にして、私たちを生かすためのものであって、お母様は十字架を背負ったんだから、あなたもイエス様のように復活しなくっちゃ」ということを、はっきりと申し上げました。そして最後にこう言いました。「お母様が今、あなたに言いたいことを、私が代わりに言いましょう。お母さまはこう言ってますよ。『今夜はちゃんと食べるのよ』って」。
 そう申し上げたら、ポロポロと涙をこぼしました。
 その彼女が、今回行ったら、ふっくらしていたんですよ。一目見て、ああ、食べてるなってわかるほど。嬉しかったねえ。血色よくてね。「あれから、ちゃんと食べれるようになりました。」と。いつか、元受刑者を受け入れる福音家族を作るのも、わたしの夢です。

 みんな恐れてるし、みんな寂しいし、みんな辛いです。でも、イエスはそんなみんなを集めて、福音を語ってくださいました。私たちも、イエスの真似をしなければなりません。イエスの周りに病人が集まって来たように、イエスの周りに異邦人が集まって来たように、イエスの周りに罪人が集まってきたように、教会は恐れずに病人の世話をし、イスラム教徒とご飯を食べ、受刑者を受け入れる教会でなければなりません。
 今日の福音書で、シメオンが、『メシアに会うまで死なない。』というお告げを受けていたってところを読みました。(cf.ルカ2・26)でも、みなさんもシメオンと同じですよ。救い主に会うまでは、死ぬに死ねません。問題はどこで、どのようにイエスに会うか。シメオンは言いました。『もうこれで死ぬに死ねる』と。イエスに会ったからです。神の救いを見たからです。彼が見たのはどのような救いなんですか? 「万民のために整えてくださった救い」(ルカ2・31)って言ってるじゃないですか。それって、感染者だろうが、イスラム教徒だろうが、受刑者だろうが、関係ない救いだって言ってるんですよ。万民のための救いだ、異邦人を照らす啓示の光だ、イスラエルの誉れなんだ、と。(cf.ルカ2・31-32)その普遍性こそが「キリスト教の誉れ」でしょう。
 わたしたちの教会の誉れを、この世界に輝かせようじゃないですか。恐れを超えて人々と結ばれるなら、そのときこそ、「私は救い主に出会った」って言える。「私はこの目であなたの救いを見た」(ルカ2・30)と、神をたたえることができる。




2020年2月2日録音/2020年4月20日掲載 Copyright(C)2019-2020 晴佐久昌英