四旬節第2主日
第一朗読:創世記(創世記15・5-12、17-18)
第二朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ3・17~4・1 または3・20~4・1)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ9・28b-36)
カトリック浅草教会
洗礼志願式という、恵みの日です。本番の洗礼式はまだ先ですけれども、洗礼式が始まったも同然という、恵みの日です。今日並んだみなさんに、「信じるって何を信じるのか?」って話をしたいと思います。一番大事なことを。
それは、今日のパウロの言葉で言えば、「本国は天にあり」(cf.フィリピ3:20)です。素晴らしい言葉です。
本国は天にある。
受洗者のみなさんは、この地球上に生まれて、この日本で生きてきて、「今は生きているけど、やがて死んだらどうなるんだろう?」なんて思っていたと思いますけども、今日の志願式からは、「私たちの本国は天であって、今は、まだ仮の日々だ」と信じていただきます。本国からの出張中? 旅行中? そういう気分になっていただかないと。今、私がいる所、これが本物であって、ここからよくわからない天国とかに行くのかなとか、そんな話じゃなくて、我々のいるべき本国は天であって、そこから、今日は浅草教会に来てますとか、自宅に行きますとか、そういう感覚ですね。本国は天にある。その真の安心感をね、大切にしてください。
イエスさまの姿が真っ白に変わって、二人の預言者が現れて、天からは神さまの声まで聞こえてくる。「本国」を、チラリと、イエスさまが見せてくれてるんですね。励ますためです。
この、出張中の地上で、我々はがんばって生きておりますけれども、なかなか大変じゃないですか。問題が多いし、病もある。争いもある。色々苦しい中、私たち、この出張先で精一杯生きている。だけども、やがて、本当に涙も争いもない本国に、私たちは帰っていくのです。今は、旅行先で大変な思いをしているけども、人生の先輩たち、先に本国に帰って行った人たちが大勢いるわけですよね。
今日の洗礼志願者の中にも、最近お母さまが亡くなったっていう方がおられますけども、そのお母さまは、この地上から去って行っちゃって、「ああ、かわいそうに。どこに行ったのかしら。もう会えなくて悲しいわ」なんてことじゃない。先に本国に帰って、娘を待っている。そういうことですよね。この、本国があるっていう安心感。これはやっぱり洗礼を受けた者の、最高の喜びというか、信仰というか。その希望だけは、一歩も譲ってはいけませんよ、と申し上げたいのです。
イエスさまは、いうなれば「十字架復活」で天を開きました。十字架と復活、死から命へという道で天を開いて、私たちの本国、まことの命の世界が本当にあるんだっていう証拠を見せてくれたわけです。私たちが天国に生まれていくその日は必ず来るんですけども、その前の段階で、チラリとその本国を見せてもらい、励ましてもらう。洗礼式や洗礼志願式というのは、そんな感じ。これから洗礼志願式を行いますけれども、それはもう本国の入り口であり、もう入ったも同然なんだという体験です。
普通の人はそんなこと信じていません。さっきの朗読のパウロの言い方ですと、「この世のことしか考えていません」(フィリピ3:19)と。「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」(フィリピ3:18)、すなわち「復活なんて、ありえない」「この世だけだ」って言っている人たちは、この世のことしか考えていない。みなさんもかつてはそうでした。そこから、「本国は天にあり」っていう世界に、私たちは高められていきます。
これはもう、キリスト教がそうだとかいう話を超えた、普遍的な話です。それこそ「普遍的」、「カトリック」ってことですから、カトリックの洗礼を受ける準備をする方たちは、「その本国は、すべての人の本国である」と、信じていただきます。あらゆる人種、あらゆる民族、あらゆる人がその本国に、みんなもう現に集っているし、これから完成していく。この仮の世では、何人(なにじん)だとか、何教だとか言ってるけど、そんなことをはるかに超えた信仰に入っていくんですよ。
カトリックというのは、普遍主義ってことですから、洗礼を受ける人は、「私は普遍主義を信じて、普遍主義の信者になるんだ。何教であれ、何宗であれ、すべての人が神さまに愛されている、神の子たちで、すべての人が同じ天の本国に集う日が来るんだ」、そう信じる仲間になっていく、そういう洗礼を受けてくださいね。「私は、プロテスタントじゃなくてカトリックの洗礼を受けるんだ」とか、「私は浄土真宗じゃない、カトリックの信者になるんだ」とか、そういうことじゃない。それじゃ、この世のことになっちゃう。
すべてに通じる、普遍的な考え。
すべての人が、幸せになれる道。
これを「カトリック」って呼ぶんです。
先週の日曜日の毎日新聞の書評欄に私の名前が出てきたんで、何気なく読んでてびっくりしました。柄谷行人さんの本を、佐藤優さんっていうプロテスタントの神学者が紹介してるんですけど、その本の中で柄谷さんが私の本の一部を引用してるんですね。佐藤さんが、そこのところをわざわざ持ち出してあれこれ書いてるんです。柄谷さんが引用した私の文章なんて、柄谷さんの本の中のほんの1ページにも満たないのに、そこについて、延々と書いている。佐藤優さんは、間違いなく晴佐久昌英を意識してます。(笑)いや、光栄なことですけど、じゃあ、何を意識しているのか。
彼が、こう書いているんですよ。「祖霊崇拝という日本人の宗教性の特殊性をカトリシズムが包摂できるという晴佐久氏の認識に柄谷は共鳴している」と。うーん、これ、言っている意味はわかりますけども、私の言いたいことじゃないですね。言いたいのは、「祖霊崇拝と言う日本人の宗教性は、決して特殊なものじゃなく、全人類の宗教性とも通じる透明なものであり、それこそがカトリシズムだ」ってことなんですよ。そもそも、「カトリシズム」が改めて何かを「包摂」するって、どこか変です。初めからすべてに通じている根本原理みたいなものを、カトリシズムって呼ぶんだから。
こうも書いてあった。「かつて柄谷氏が共産主義、アソシエーション、Xなどと表現してきた人間の新たな共同体がカトリシズムの普遍主義に回収されつつあるのかもしれない」。柄谷行人をご存知ですか? 人類史の本質的構造を普遍的に語る、唯一無二の哲学者です。「思想の普遍主義」ともいうべき知性なんですよ。それはもう、「宗教の普遍主義」ともいうべきカトリシズムとも何ら矛盾なく響き合える、とっても透明感あふれる思想なんです。思想と言うか「道」ですね。言うなれば「普遍道」です。同じ道を歩む同志と言ってもいい。
佐藤優氏が、晴佐久の普遍主義を意識しているのはよくわかりますが、彼が言うところの「カトリシズムが包摂できる」とか、「カトリシズムの普遍主義に回収」と言うような表現には、違和感がある。だって、「包摂」とか「回収」って言っちゃうと、あたかもカトリシズムが、すでにできあがった、原理主義的な「イズム」みたいじゃないですか。どんなに特殊に見える宗教性の内にも、ちゃんと秘められている普遍性をていねいに見出して、共に生きる道を忍耐強く求めるのが普遍主義ですから、「包摂」っていうよりは「共生」して共に成長していくものなんです。あるいは、どんなに特殊に見える共同体の内にも、秘められている普遍性を探し出して、より高次元の共同体をクリエイトしていくのが普遍主義ですから、「回収」するんじゃなくて互いに「発見」して創造していかなきゃならないんです。
そもそも、ある特定の宗教の教義がすべてを包摂していくって、これ、争いの元じゃないですか。「うちの宗教が真理だ」とか、「こっちの教義が正しい」とかって、これ、戦争の元じゃないですか。そんなこと、言い出しちゃいけない。カトリックだろうが、プロテスタントだろうが、浄土真宗だろうが、すべてに共通する何ものか。その共通する何者かの信者になりましょうよ。カトリシズムっていうのは、そうなんです。カトリックっていう名の教会が現にあって、そしてカトリシズムって言うから、ちょっとややこしくなるんだけども、基本的にカトリシズム=普遍主義です。
だから、佐藤優さんが「カトリシズムの普遍主義」っていう言い方をしてるんですけど、よく考えてみると「カトリシズムの普遍主義」って、ただの同義反復なんですよ。「普遍主義の普遍主義」って言ってるだけですから。ただ一息の、「普遍主義」でなきゃ。すべての人を幸せにする道をみんなで見つけていこうよってイエスが言い出した,その普遍主義です。僕らはそれを信じて、その道を歩みます。
すべての人の本国は天にあるんだ、という、この、見えないものを見るまなざしが必要です。そういうセンスを大切にしてほしい。宗教やるとついつい、「うちが一番」とか、「そうは言っても、こっちにいらっしゃい」みたいな話になるじゃないですか。だから、「カトリックの洗礼を受けましょう」ってあんまり言うのもどうか、ですよ。そういうことをはるかに超えた透明性に向かって、僕らはチャレンジする。そこが、カトリックのかっこいいとこだし、美しいとこだし、それによって、そこに通じる人たちとも、ホントに響き合える。
つい数日前、日本武道館でのコンサートに行ってきたんですけど、松任谷由実、ユーミンのライブコンサートです。彼女、今年で45周年です。すごいですよね。まだ第一線で歌ってる。私は40年以上前からのファンで、ずっとコンサートを聞いてます。そんな、この45年のいろんなコンサートの総集編コンサートなんですよ。「TIME MACHINE TOUR(タイムマシーンツアー)」っていうツアーで。
で、コンサートの最初に何を歌うか。最後に何を歌うかっていうのは、聞きに行く楽しみの1つなんですけど、今回、一曲目に、復活祭の歌を歌ったんですよ。これには、感動したねえ。ご存じですか、『ベルベット・イースター』っていう、名曲です。
空がとってもひくい
天使が降りて来そうなほど
いちばん好きな季節
いつもとちがう日曜日なの
彼女は、八王子のカトリック本町幼稚園の出身です。小さい頃から聖歌を聞いて、教会にもなじんでいたわけですけど、その原点に、「空がとってもひくい 天使が降りて来そうなほど」、そう歌うまなざしがあります。見えるものの向こうの、見えない世界。
一番最後の曲で、こういうMCをしてました。私はデビューしたとき、本当は歌いたくなかったんだけれど、「自分で歌え」ってプロデューサーに言われて、しょうがなく歌ってきたんだと。でも私の本当の夢は曲作りで、16歳の頃の夢は、日本中の誰もが知っている、みんなが口ずさめる曲を作ることだった。今、その夢はかなっていますって。そして、「みんなで一緒に歌ってくれますか?」って言って、『やさしさに包まれたなら』を弾き始めました。これはみんな、口ずさめますよね?「(歌う♪)やさしさに包まれたなら きっと 目にうつる全てのことは メッセージ」名曲ですよ。この曲なんかもやっぱり、目に見えない世界の話でしょ?
雨上がりの庭で くちなしの香りの
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのものは メッセージ
今日も、こうして祭壇から見ていると、正面に美しい庭が見えますけども・・・、桃色の花、あれ、梅ですか? 桃?(会衆席から「あんず!」の声)まあ、なんであれ、美しい。(笑)昨日雨が降りましたけど、まさに雨上がりの庭で、キラキラ光ってますよ。
目にうつるすべてのことはメッセージ。
そのメッセージって、何ですか。天のメッセージでしょう?
目に見えるものがただキラキラ光ってんじゃないんです。太陽の光が花びらに当たって光ってるって言えばそうなんだけど、それだけじゃない。愛である神からのメッセージなんです。世界は美しい。その向こうに天の栄光の世界がある。誰もが、それが、わかる。
カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのものは メッセージ
この世界はもう、すべて宗教ですよ。カトリシズムですよ。普遍主義ってやつですよ。誰だって、思うでしょう? 何教だろうが、何宗だろうが、カーテンを開けて、静かな木洩れ陽のやさしさに包まれたら、目にうつる全てのことは、メッセージ。当たり前ですよね。
「わたしはおまえを愛しているよ」と。
「みんな、わたしの子なんだよ」
「みんなみんな、天の栄光の世界に生まれていくんだよ」
「争わず、押し付けず、信じ合い、許し合い、助け合って、仲良くやってこうよ」
そんなことが、花一輪見てもわからなかったら、まあ、この世に生まれてきた意味がないっていうことじゃないですか。それを語るのが宗教ですし、イエスの道ですし、あらゆる道は普遍主義であるべきです。つい先日もニュージーランドで、大勢の人が殺されました。白人至上主義のテロリストが、イスラム教の移民たちは侵略者だ、と。・・・何、言ってんでしょうね。なんっにも見えていない。この世のことしか見えていない。
「本国は天にある」。だから全員、同じ国の国民なんです。それをみんなが信じて、仲良くやっていくっていう道のために、受洗者は奉仕してほしい。普遍主義に、奉仕する。それがキリスト者っていうことでしょう。今のこの時代に、何人(なにじん)だとか、何教だとかって言ってること自体がすでに罪です。普遍主義に徹しない者は、すでにテロリストに加担してるも同然ですよ。それにしても、すごいですよねえ、銃を五丁持って、車に爆弾積んで、モスクに乗り付けて、片っぱしから撃つんですよ。世の中どうなっちゃったんでしょう。何がいけなかったんだろう。やっぱりこれ、カトリックの責任じゃないですか? 普遍主義者であるはずの、カトリック信者の怠慢じゃないですか? もっともっと本気で、イエスの道を歩み、普遍主義を極めていきましょう。自分の宗教を押し付けず、相手の信仰を尊敬し、同じ神の子として、愛し合って、助け合って、一緒に、雨上がりの庭で、くちなしの香りのやさしさに包まれたなら、それが天国。
「私を殺そうとしている、あの人たちをゆるしてください」って、言いながらね、イエスは死に、ステファノも死にました。そんな普遍主義においては、報復なんてありえないわけでしょ。今回の白人至上主義者は、テロを「報復だ」って言いましたよ。スウェーデンのイスラム教徒のテロへの報復だと。恐ろしいことですよ。私たちは、みんな神の子です。「この人たちをゆるしてください」と神に祈りながら、普遍主義に奉仕する、それがキリスト教でしょう?
普遍主義で育てられた福音家族の若い仲間たちなんか、すでに筋金入りの普遍主義やってますよ。つい先日も独自に新しい福音家族を始めました。どんな福音家族だと思います? 今、コンビニに行くと、外国人のアルバイトがいっぱいいますでしょう。この人、何人(なにじん)だろうって思うような。最近、ウズベキスタン人が増えてきました。若い子たちが、この、コンビニのウズベキスタン人と仲良くなったんですね。で、ぜひ教会で一緒ごはんをしようって呼びかけたら、彼らにもネットワークがあって、仲間たちを呼び合って、ウズベキスタン人が二十人くらい集まりました。で、カトリックの若者たちがご飯作ってふるまったわけですけど、ご存知の通りウズベキスタン人って、みんなイスラム教徒ですから、ハラル食なわけですよ。豚肉とか絶対食べないし。だから、若者たちがちゃんとハラル食を作って、もてなしました。「ウズベキスタン家族」ってわけです。向こうも若者たちですけど、「日本人と仲良くなれてうれしい」「店長以外の日本人と初めてちゃんと会話した」って、言ってたって。
イスラム教徒のウズベキスタン人を教会ホールに20人集めて、ハラル食をふるまう。別に不思議な話じゃないです。キリストの教会として、当然のことです。イエスが始めた普遍主義、「カトリック」の教会です。これ、テロなんか起こるはずないじゃないですか、一緒にご飯食べてんだから。
洗礼志願者となるみなさん、キリスト教はかっこいいんです。普遍主義は美しい。生涯、このカトリックという名の普遍主義の世界を誇りをもって生きていっていただきたい。よろしいか。
それでは、洗礼志願式をいたします。
2019年3月17日録音/2019年9月8日掲載 Copyright(C)2019 晴佐久昌英