福音の丘
                         

足りないものは何ひとつない

四旬節第1主日
第一朗読:申命記(申命記26・4-10)
第二朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ10・8-13)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ4・1-13)
カトリック上野教会

 四旬節が始まりました。
 毎年のことのようでいて、2019年の四旬節は一生一度。恵みのときに致しましょう。
 昔よく灰の水曜日来られなかった方のために、この四旬節第1主日のミサ中だか、ミサ後だかに、灰をかけたりしたもんですけど。実はお達しがあって、それはやめましょう、と。やっぱり四旬節は灰の水曜日からですから。
 まあ、そんなわけで今日は灰はなしですけれども、改めて2019年四旬節、特別な恵みの日々として、スタート致しましょう。今日のご聖体頂くときに、神からの呼びかけを受けてください。この季節を、本当に「わたしの恵みの中で過ごしてほしい」という呼びかけ。あなたの思いや力ではなく、「わたしの恵みによって生きてほしい」という呼びかけ。

 昨日、キャンプ仲間の若い仲間が集まって、12人いたのかな。水曜日に、灰、ちゃんとかぶったかって聞いたら、7人はかぶってて、5人は行けなかったって。まあ、半分以上行ってれば、いい方ですよね、若い仲間にしては。で、その5人が「灰かけて~」って言うから、「じゃあ、これは秘密で」(笑)と言って探しに行ったら、もう片付けられてて、器の底にかすかに残ってたのをかけましたけど、まあ、ご愛嬌。
 ただ私、そのときに、彼らに申し上げました。やっぱり、本気ってのが大事でしょ。灰をかけてほしかったら、万難排して水曜のミサに行くとか、なんでしょうね、僕ら洗礼受けて信じたんだから、そこはやっぱり、半端なことじゃないはずなんですよ。神を信じるってことにおいて。神の恵みを受けているということにおいて、やっぱり本気になってほしいし。
 親子のたとえで言うならば、子どもにとっては、親が本当にこの私を愛してくれて、私を救ってくれて、私を生かしてくれるんだって、本気で信じてないと、本当の子どもになれないわけですよ。この親は私を捨てるんじゃないかとか、自分は幸せになれないんじゃないかとか、こんな自分じゃ愛されないとか、そう思っているようでは、親子が親子にならない。
 「いいから、わたしを信じなさい」っていう、その親の思いにね、心をちゃんと開く。回心っていうのはそういうことですし。ですから、いつもは、「これは自分に必要だ、自分はこうでなきゃならない」とか、目先のことで生きていても、この四旬節の間くらいは、本気で、「神の恵みのほかは何もいりません」と言いましょう。優先順位の話です。順位の下の方も、それなりに大事だけども、トップは神のこと。神に愛されてるんだから、もうほかは何もいりませんっていう、そんな信仰を、この季節は特に、本気で大切にすると。
 だから、昨日もキャンプの仲間たちに、「四旬節に、なんでもいいから、本気度を表すようなことをやんなさい」って言いました。で、「たとえば禁煙とかさあ」って言ったら、いつもタバコ吸ってる若いのが、「それなら、もう始めた」って言うんですよ。「えらいじゃん」って褒めたら、「いつものタバコをやめて、0.1 mm にした」(笑)って。う~ん、これ、みなさんどう思います? まあ、やんないよりはマシかもしれないけれど、なんか、覚悟のない話ですよね。思わず、「半端なことするね~」と申し上げて、小林神父の話をしました。
 私の推薦司祭の小林五郎神父ですけど、私が中高生の頃の主任司祭でした。ビールが大好きで、ともかくいつもビール飲んでた。それで、僕らがからかって「神父さん、アル中でしょ」って言うと、「俺はアル中じゃないよ。その証拠に、四旬節の間は一滴も飲まない」って、胸張ってました。本当かどうかは、神だけがご存知ですけれども。(笑)でも、あの人の性格だから、本当に守ってたと思います。その証拠にと言いますか、四旬節が終わってね、復活祭のパーティーのとき、「それでは、乾杯!」って、ひと月半ぶりのビールを、ほんと~うにおいしそうに飲んでました。それはもう、普段は10本飲んでるけど、1本にしてるとかって話じゃないですもんね。やっぱり覚悟決めて、やめるなら、やめるっていう。つらくても、「神の恵みのほかは何もいりません」っていう、キリスト者の誇り、覚悟の話なんですよ。
 って話をしたら、その彼がね、「わかった!」と言ってね、タバコとライターを私に差し出しました。「四旬節中、禁煙する」と。「偉い、約束だよ。言っとくけど、明日つらいよ」と。でも、明日を越えたら、またあさってと、一日、また一日を、神の恵みさえあれば超えていけるんです。逆に言えば、そういう恵みの世界を知らないから、この世のストレスに負けてニコチンに走る。私、その場で彼からタバコを受け取って、ギュギュギュっと、ねじって、そこにあったお皿の上に置いて、水をドボドボっとかけました。
 十何年か前に、私が推薦司祭になった神学生が、神学校入るってときに、「携帯捨てる!」って言いだしたんですよ。だから、「よ~し、お別れ式だ!」とかって、洗濯機の中に携帯を、ドボーンと放り込んだことがあった。懐かしいね。彼もその後いろいろあったけれど、今は神父ですよ。でも、あいつは、覚悟があった。本気だった。大事なことです。神さまを前にして、半端なことしてもね~。やっぱり、一番大事なものを、一番大事にしないと。ほかのことは、まあまあ適当にやってりゃいいんですよ。でも、その一番大事なところを、失ちゃったら・・・。 ね、洗礼志願者のみなさん、覚悟はいいですか。

 イエスさまも40日間の試練を受けました。覚悟のほどを試されたってことですよね。で、悪霊との対決って、アニメみたいに力と力の戦いをイメージするかもしれませんけど、実は違うんです。悪霊は、その人の一番弱いところを突いてくるんです。それこそ、イエスさまに、私は神の恵みだけで十分だって思わせたくない。思わせたくないから、ここが肝心なんですけど、「お前には何か足りない」って思わせようとするんですね。腹、減ってるだろう?パンがないだろう? と。権力とか、繁栄とか、お前にはそれがないだろ、欲しいんじゃないか? と。あるいは、神は本当にお前を救うのか? お前には救ってもらえるだけの資格はないんじゃないか? 不安だろうから試してみたらどうだ? っていう具合に、何か足りないものがあるかのように思わせる。ここがね、悪霊の方法です。実際、足んないと思っちゃったら、恐れが生じるし、疑いが始まるし、そこをこの世のもので満たそうと思って、神から離れていく。悪霊としては、「自分は足りない」って思わせれば、もう成功なんです。逆に言えばですよ、私は神の恵みで満たされているから、何も足りないものはないって思えたら、それはもう悪霊の付け入るスキはないってことでしょう。大丈夫ですか、みなさん。金が足んない、健康が足んない、あれが足りない、これが足りない。自分には幸せが足りないって思ってたら、それを埋めるために、人は悪霊の門下に下るわけですよ。どうですか?

 これ、いつもこの時期に話してますけど、「エクソシスト」っていう、悪魔払いの映画ご存知ですか? 怖いですよ。何が怖いかっていうと、人の一番弱いところ突いてくる、その悪魔の巧妙さが怖いんです。
 女の子に悪霊がついたってことで、司祭が聖水かけて悪霊と戦うっていう話ですけど、その司祭には弱みがあるんですね。それは、自分の母親の介護が必要になったときに、嫌がる母を施設に入れちゃったっていう後悔があるんですね。母親は施設で、一人さみしく死んでいきました、と。司祭だから仕方ないことであるとはいえ、彼にとっては自分をゆるせないわけですよ。そこを、悪魔は突いてくる。聖水をその女の子にかけてたら、女の子が彼の母親の声で言うんですね。「もうこれ以上、いじめないでおくれ」とかって。それ、息子としては、怯むじゃないですか。聖水かける手も、思わず止まる。これ、悪霊のやり口なんですね。
 そこでね、いいや、私の母は神に愛されて生きて、神の愛のうちに召されて、今は、天の国に生まれて幸せに生きてるんだって信じるのか。それとも、母はつらい思いをして、絶望して死に、今は地獄でわが子を呪ってるのかもしれないと怯えるのか。そこを問われるわけですよ。悪霊に立ち向かうには、むしろ神は、自分の一番弱いところを受け止め、赦し、愛してくださると信じることです。神は愛であり、救いであり、全ての罪人を救ってくれるんだと。

 第二朗読、「主を信じる者は、だれも失望することがない」(ローマ10・11)。「口でイエスは主であると言い表し、心でイエスは復活したと信じる」(cf.ローマ10・9)。これですよ。「主であると言い表す」っていうことは、神が救い主であり、私は神に救われていると、それを信じ切ること。そして、「イエスは復活したと信じる」っていうことは、私たちもまた復活するんだ、母も、私も、どんな罪人も復活すると信じ切ること。 
 「お前などは天の国にふさわしくない」って言うのは悪魔なんであって、神はそう言わない。悪魔は、いつもその一番弱いところ、恐れとか疑いとかを引き出して、神から引き離そうとする。人を苛立たせたり、失望させたり、分断させたりしながら、しだいに「私は神の子だから、神さまに満たされている、足りないものは何ひとつない」っていう、そんな爽やかな感動と安心から引きずり下ろそうとする。これが悪の力ってことじゃないですか。

 洗礼志願者のみなさん、みなさんは恵まれています。教会に出会い、イエスに出会い、信仰に出会って、この試練の四旬節を越えて、復活祭に洗礼を受けようとしている。みなさんは本当に恵まれてます。
 恵まれてますけれども、洗礼を受けるまでのこの準備期間、今日、洗礼志願式を受けてから洗礼式を受けるまでのこの四旬節という、回心のとき、恵みのときを、生涯一度の、やはり悪霊を超えて行く日々として、本気で、過ごしていただきたい。それはでも、申し上げておきますけど、勝ち戦ですよ。主イエスが共にある日々ですから。
 悪霊は日々、ささやいてくるでしょう。「そうは言っても、生きていくためにはこれも必要じゃないか。足りないんじゃないか」と。「誰も見ていないんだから、ここでタバコを一服したって、別に罰当たるまい」と。まあ、それに負けてこの世のものを追い求めたり、約束破って一服したりするかもしれない。それはそれで、弱い人間のリアルがある。しかし、忘れてならないのは、神はそんな私を必ず赦しているという、その恵みの世界、そこから離れてはいけない。
 ぼくらいつも半端ですからね、負けてばかりって日々ですけど、四旬節は目覚めのときですから、「何やってんだろう・・・? 俺」と。「こんなもの、天国に持ってけないのに」と。やはり、そういう気づきの日々を送っていただきたい。一生一度ですからね。洗礼式を結婚式にたとえるなら、今日はこれ、婚約式みたいなもんですからね。今日からは、結婚という神との一致を夢に見ながら、毎日ワクワクしながら過ごしてください。悪霊が魅力的な顔してやってきて、「こっちもいいぞ」って言ったところで、見向きもせずに、神さまの御顔を仰ぎ見るその日まで、私たちはわくわくしながら日々を生きていくのです。上野教会の信仰の先輩たちも、みなさんの洗礼志願に励まされて、信仰を新たにし、みなさんのために祈り続けます。
 洗礼を志願する方はこれからお名前を呼びますので、前に出ていただきます。

 


2019年3月10日録音/2019年7月11日掲載 Copyright(C)2019 晴佐久昌英