神の母聖マリア
第一朗読:民数記(民数記6・22-27)
第二朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ4・4-7)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ2・16-21)
カトリック上野教会
新しい年、新しい心でまた一緒に教会をやってまいりましょう。私はこの2020年を、今までになく新しい年にしたいと思っているところですが、みなさんどうでしょうか? 年が明けたけど特に感慨はないとか、昔はもう少しお正月って新鮮な気持ちだったのに、最近はいつもとそう変わらないような気がするなとか思う人もいるんじゃないですか。
それは実は、お正月の風物詩が消えていったとか、加齢による現象の一つとか、そういうことじゃないと思う。単純に、何度も繰り返してるうちに、慣れっこになったというだけのことだと思う。子どもの時はお正月新鮮です。それは今の子どもたちも一緒。彼らなりの新鮮さを持って感じているはずです。だって、初めてなんだから。「世の中がいつもと違うな」とか、「おせちはあんまり好きじゃないけれど、こういう儀式も悪くないな」とか、それぞれに新鮮に感じ取ってると思う。ただ、それを毎年毎年繰り返していると、だんだん新鮮味がなくなっていっちゃう、そこが問題なんです。
繰り返しているようでいて、いつも、新鮮に受け止められる、ここが大事。キリスト教の「新しさ」ってそういうところにあります。いつものメンバー、いつものお雑煮、いつもの部屋・・・のようでいて、すべてを、本当に神さまから与えられた恵みとして感じる信仰です。目の前の人が、ただのいつもの人じゃなくて、今、まさに神さまによって出会わされている大切な誰かとして、向かい合う。一緒に過ごしているかけがえのないこのひとときを、心から感謝して過ごす。その新鮮さ、神が与えてくださる新しさを受け止めることは、とても大切だと思う。
ですから、「ああ、また今年もあっという間に一年たっちゃったねえ」とか、そういうこと言うの、今年はやめにしませんか。ね、つい言っちゃうじゃないですか。「この前年が明けたとか言ってたのに、もう2月だね」とか、「おめでとうとか言ってたのに気が付けば復活祭だね」とか。そうしてオリンピックとかって騒いでるうちに、「もう年の瀬か」って言う、それやめにしましょうか。ボーっとしてんじゃねぇよって、昨日の紅白にも出てきましたけど、ボーっとしてるって、新鮮に受け止めてないから、そうなる。人の脳って、同じことを繰り返していると、もうそれを知ったものとして処理するんで、新鮮な感動がないと、その体験はなかったも同然なんですよ。「あっ、お正月ね」って処理されるだけで、脳が何も動いてないんです。記憶の引き出しの中の古びた回路を一瞬微電流が通って、終わり。
でも、今日この一日でも、まるで初めて会ったかのように物事に向かい合うと、脳の中にいっぱいいろんな電流が流れて、「ナントカ防止」にもなりますよ。今年は、すべてを新鮮に受け止める一年として、チャレンジしてみませんか。いつも見過ごしている人とちゃんと出会うとか。毎日出会っていることでも、初めて会ったかのように受け止めるとか。一緒に暮らすパートナーでもいい、「いつもの旦那」じゃなく、それこそ初めて会った時の気持ちのように向かい合う。まだ何も分かっていない、一人の他者として。その人が今何を感じているか、その人が何を求めているか、何をしたら、その人が喜ぶか。今まで一度もしたことのないような、関わり方をしてみる。一度も言ってみたことのないようなことを言ってみる。そうすると新鮮な反応があり、新鮮な出会いがあり、新鮮な感動があり、もうそれだけで脳みその中いろいろ動くし、その積み重ねによって、ああ、今年の一年すごく充実してたな、いろいろ豊かに過ごせたなと、そう思う年末が待ってますよ。
いつもとおんなじことして、おんなじようなもの食べて、おんなじような会話して、おんなじようにミサに通ってちゃあね・・・まあ、神父もおんなじような説教してんのかもしれませんけど。私も今年はなるべく新鮮に語るつもりでおりますから、すべてを新鮮に受け止めるチャレンジを始めましょう。いつもと同じ回路で処理しないってことです。「ああ、見知らぬ人だ」って思って、それで終わり。「あっ、嫌いなタイプ」って感じて、それで終わり。これじゃ、一年、あっという間に終わりますよ。知らない人だけど、ちょっと声掛けてみると思わぬ出会いになるなんてことっていっぱいあるんですよ。嫌いなタイプだけど、一緒にごはん食べてみる。案外、いろんな発見があって、感動が待ってますよ。
昨日、「二人のローマ教皇」っていう映画見たんですけど、NETFLIX っていうので初めて見ました。それこそ私としては、新しいチャレンジですが、ネットにつないで、テレビで見れるんですよ。ぜひ見てください。素晴らしい映画です。ベネディクト16世と教皇フランシスコの二人の関係のドラマです。ベネディクト16世が辞めて、フランシスコが教皇になったいきさつについて、史実を交えながら物語も加えた、よくできた映画です。ベネディクト16世をアンソニー・ホプキンスがやってんですけど、これが名演!
ホントに感動したんだけども、新鮮さって言うなら、まさに教皇フランシスコの新しさですよね。ベネディクト16世はこう言っちゃなんですけども、古い。古いのが悪いとは言わないけれど、どうしても現代社会に適応しなくなっていく。支持されなくなってくる。人を救えなくなってくる。で、映画では、フランシスコがまだベルゴリオ枢機卿だった時に、ベネディクト16世に辞任を申し出に行くんです。でも、ベネディクト16世は、ベルゴリオが非常に先進的なことを言っていて、とても人気があるので、ここで辞任を許可したら、また教皇庁が批判されることになる。だから、踏みとどまってくれって説得する。
そのとき、ベルゴリオがこう言うんですよ。「私はもうこんなセールスマンをやりたくない」、と。つまり、福音宣教をセールスに例えてるんですね。キリスト者ってある意味、キリストの素晴らしさ、教会の素晴らしさを「これ、素晴らしいですよ、ぜひどうぞ」ってセールスする立場じゃないですか。でもベルゴリオにしてみたら、あまりにも保守的で人々から支持されなくなっているカトリック教会を人に勧めるのが、つらくなってきたわけです。
みなさんは、どう思いますか? 例えば、誰かすごく苦しんでいる人、救いを求めている人に「いいから、カトリック教会にいらっしゃい」とか、「ともかくキリストの福音を聞いてくれ」って、まごころから勧められますか? 心から勧められるんであれば、それは本当に素晴らしい福音に出会ってる人だし、いい教会で過ごしてる人です。でも、もしも、「さあどうぞ、ぜひ教会にいらっしゃい。本当にいい仲間に出会えます。福音に出会って安心できます。救いの喜びを知ります」って言えなかったとしたら、果たしてそこは真の教会か。
古い教会の体質に変わってほしいって思っているベルゴリオ枢機卿は、バチカンに改革の提案をしたんですね。離婚と秘跡の問題で苦しんでる人、 LGBT の問題で排除されている人、そんな一番苦しんでいる人に、ともかく神の慈しみをもって向かい合う教会にしよう、神さまがどれほど一人ひとりのマイノリティを大切にしておられるか、それをこそ最優先にしよう、と提案する。しかし、バチカンがなかなか反応しないので、彼は、「なら、私は枢機卿を辞めます」、と。現在の教会は人々に心から勧められる教会じゃないし、心から勧められないものを売るセールスマンはあまりにつらいので、「私は販売員を辞めたい」と言うわけです。
面白いやり取りがありました。ベルゴリオ枢機卿が、「教会も変わっていかなければ」というようなことを言うと、ベネディクト16世が「しかし、神は変わらない。不変だ」って言うんですね。すると、枢機卿はこう返したんですよ。「神も、変わる」。つまり、人を救うためなら、神も変わる、それが愛だって言いたいんですね。まあ、神学的にはね、もちろん神の本質、それは変わらない。普遍の教会、それは変わらない。そうは言うけれども、ただもう金科玉条のように、あなたがどんなに苦しんでいようが、それは変わらない、あなたがなんて言おうが、前の前の前の神父さんにそう言われたから、それは変えられない。これじゃあ、キリスト教のいのちである新鮮さが失われてしまう。
今、目の前の血を流している人を救う野戦病院であれ、教会はそういうものであれと言う教皇フランシスコは、映画の中でですけれど、「神だって変わる」って言い放ちました。そもそも、すべての神の子を救うために イエスがこの世に生まれた前と後では、やっぱり神も変わってるんですよ。これが教会の本質、新しさ。今日の福音書で、すべて天使の話した通りだったので、羊飼いたちが神を賛美しますけど、人々は羊飼いたちの話を「不思議に思った」とあります。今までにない、まったく新しいことが始まっているんです。いつもと変わらぬ経験と判断からすれば理解を超えた不思議なできごとのようでいても、天の父が深い憐みをもって、人類に決定的に関わり始めているんです。神の新しさ、新約の新しさです。今年、新しい一年にしましょうよ。「もうどうせ変わらない、いつもと一緒だ、後はもう仕舞い支度だ」みたいな教会に、人を呼べますかね・・・。
年明けて、さっそく今年の講演会を頼んできた方があって、6月の講演会ですけど、テーマを「終活」にしてくださいって言うんですよ。就職活動じゃないですよ、終わる活動ね。でも私、そのテーマでしゃべるの、ちょっといやだなって思ったんです。だって、終活って言ったって、要するに仕舞い支度ですからね。終わりの準備というか、去っていくための整理とか、なんか寂しいじゃないですか。キリスト教って、もっとワクワクすること、元気が出ることであるはずでしょう? そもそも、私たちの人生は終わらない。常に新しくされていって、最終的には神の国という最高の新しさの中に、僕らは入っていくんだから、何かが終わってくんじゃない、だんだん新しく近づいていくっていう活動であるべきしょう。常に新しくされていくプロセスを生きてるんだから、終わる活動についての話はちと寂しいですとお伝えしました。「キリスト者は、終わらないんです、復活するんです」って。復活という新しさに向けて活動していくっていう意味では、「終活」ではなくて、「復活」がいいんじゃないですかと提案しておきましたけど。「終わる活動」だなんて、どう思いますか? この一年、そんなことをしていくんですか? 身の回りの整理をして、後の人が迷惑しないようにいろいろ書類を用意してとか? そんなもの、どうだっていいんですよ。ほっとけ、です。後は、後の人がなんとかしますから。キリスト教は、「明日のことまで思い悩むな」、でしょう? 私は、一日一日、新しく生きていきたい。終わりの準備ではなく、これから始まる準備をしたい。年の初めくらい、そんな説教させてくださいよ。2020年、今までと一緒でいいんですか? また今年の最後も、「一年、あっという間だったね」なんて言うんですか? 寂しい話じゃないですか。
年末最後の日曜日の夕方、「福音家族」出版記念パーティーというのを、やりました。福音家族がみんな集まってくれました。出版社の編集の方も来て、晴佐久神父がなかなか書いてくれなくて、ほんと困ったって打ち明け話もしてましたけれども。それもそのはずで、福音家族とか書いてても、現実の福音家族がたくさん同時進行してるんで、このことも書き足したい、あのことも書き入れたい、ってやってるとなかなかこれで終わりって言えないんですよ。しまいに編集者が怒っちゃってね、「出版社にも社会的責任というものがあります」とかって言われちゃって。じゃあ、もはやここまでって、ぎりぎりで書き上げたおかげで、なんと12月に出た本なのに、11月のことが書いてあんですよ。なんか本当に大変な思いで書きましたけど、私にとっては生涯で一番大切な本になりました。本って、共著も含めて20冊近く出てるんですけど、これを書けたからもう後はいいやっていう思いになれた本です。「福音家族」。教会の新しさについての本です。
イエスさまがお始めになった、血縁を超えた家族。誰もが「ここにいていいよ」と言って受け入れてもらえる家族。誰かが困っていたら「絶対に助けるよ」と言い合える、本当の家族。そんな、神の国、神の愛の目に見えるしるしとなっていく、教会という名の福音家族を、ただ言うだけじゃなくて、実際にやってみようと、ず~っとチャレンジし続けてきて、司祭生活32年。ず~っとチャレンジし続けてきました。振り返れば、多くの福音家族と多くの食事をしてきました。記録のノートを見たら、去年一年間で、福音家族として200回以上の一緒ごはんをしています。
実は、記録ノートに全部、数字を記録してます。数字というのは、食費です。福音家族は、みんなでせっせとごはん食べるんですけれど、じゃあその食費はどこから出るのか? いくつかの大きな福音家族、たとえば「うぐいす食堂」とか「まんまカフェ」とか「ここヤシの集い」とかは、独自会計です。それぞれで寄付を募りますし、スタッフが出し合ってるところもあります、あと、「入門家族」はそれぞれの教会から、食事のたびに一回3000円出ています。家族ですから、一食いくらとかで売るってのはおかしい。だって家族の中でそんなことしてないでしょ。わが子に、「今日のカレー300円よ。カツのせたかったら、あと200円」とか、そんなことあるわけないじゃないですか。当たり前のこと。福音家族の基本は、それです。なので、独自会計できないほとんどの福音家族は、誰かが出しているってことになります。
実はこれ、1年半前まで、全部私が出してたんですよ。当たり前のことだと思ってたから、各方面から寄付をもらったりしながら、やりくりしてた。ところが、2年半前から1年半前にかけて、私の貯金通帳の残高がスーっと減っていった。貯金ったって大した額じゃないですけど、これがスーっと減っていったんです。明らかに、2年半前くらいから福音家族グループの数を増やしたのと、正比例してた。このままじゃマイナスになるって判明した時点で、箱を2つ作りました。上野の箱と浅草の箱ですけど、福音家族があるたびにそれを置いて、「ここに、他の福音家族の食費としてお金入れてください」って頼むことにしました。家族なんだから、みんなで出し合いましょうよ、と。もちろん、持ってない人は別にいいんです。自由に出し合います。
逆に、食費は、料理する人が買いに行って、レシートを持ってくるので、そのレシートの分を箱から出す。それを記録する。これをずうっとやり続けました。それを一年通してやったのが、去年が初めてです。で、去年一年、箱の中にいくら入ってたと思います? 一年間通して、1,092,500円。そしてなんと、食費で出ていったのが、1,090,500円だった。誤差2000円。すごくないですか? 私昨日、大みそかにそれ計算してて、感動したんですよ。出ていったのが1,090,500円。入ってきたのが、1,092,500円。つまり、家族なんですよ。お互い出し合えば、み~んなおなかいっぱい食べれるんです。これ、それぞれの家族でいえば月に1度ですけれども、理屈から言えば毎日やったって同じことになりますよ。つまり、貧富の差とか、それを解決するのは困難だとか言ってますけど、みんなで出し合えば、み~んなちゃんと食べれるんですって。
福音家族、今年もまたこんなの始めよう、あんなの始めようって、いくつかの計画があります。みんなが集まってきて、一緒にいて、一緒に食べる、そういう教会。ど~んどん人々が集まってきて、「ここが私の居場所だ」、「ここで本当の自分に出会えた」、「ここで私は神の愛を知った」とそう言えるような教会を目指しませんか。一年だけでも、なんかちょっとムキになって頑張ってやるっていうの、どうですかね? いつの日か、2020年は一生懸命やったねって言えるように。どんどん人を招いて、一緒に食べて、互いのつらい胸の内を聞いて、「でも、私たちがいるから大丈夫よ」って言ってあげられる、そんな家族・・・絶対いいと思いますよ。
出版記念パーティーの会場に、大きな看板を掲げましたけど、「福音家族」出版記念会って、でっかく私が墨で書きました。ただ、なんか物足りないなと思って、つい書き添えちゃいました。「教皇フランシスコ推薦」って。(笑)でも、うそは書きたくなかったから、その後によく見ないと分からないくらいちっちゃく、「してもおかしくない」と、(笑)一応付け加えました。でもね、教皇フランシスコ、「福音家族」読んだら絶対喜びますよ。実を言うと、「福音家族」の英訳の話も出てますから、もしかしたら読むかもね。
救いを求めている人、2020年も、無数にこの教会の前を通り過ぎます。皆さんの身の回りにも、こんな私生きてていいのかと、つらい思いを抱えている人、いっぱい現れるでしょう。そんな一人ひとりに声を掛けて、「一緒にごはん食べましょう」と言える、そんな新しいチャレンジを始めましょう。今年一年、どんな福音家族に、どんな感動が待っているか。わくわくします。新鮮に出会って、たくさん感動して、あっという間に過ぎ去るようなことのない一年にしたい。
2020年1月1日録音/2020年1月17日掲載 Copyright(C)2019-2020 晴佐久昌英