福音の丘
                         

うちにたべにおいで

主の公現
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ60・1-6)
第二朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ3・2、3b、5-6)
福音朗読:マタイによる福音(マタイ2・1-12)
カトリック上野教会

 お正月、終わりました。いかがでしたでしょうか。
 私は、いろいろな集まりをやって、いろいろな出会いがあって、いいお正月でした。いろいろお話ししたいのですが、一番申し上げたいのは駅伝の話なんですよ。私、駅伝ファンだって知ってましたでしょうか。駅伝のガイドブックまで手に入れて、正月の二日、三日は、テレビの前にかじりついてます。やっぱり、ドラマがあるし、感動がある。
 もっとも、このところは青山学院がすごく強くて、一人旅みたいな展開が多かったんですけど、今年は、ドラマでしたね。感動もありました。なにしろ、東海大の初優勝。初めての優勝って、どれだけ嬉しいことか。その思いが伝わってきて、心がワクワクしました。東洋もがんばったんですけどね。往路は優勝でしたが、復路はダメでした。復路は実は、青山が優勝してるんですね。つまり、往路は東洋が優勝、復路は青山が優勝。なのに、総合だと、東海が優勝なんですね。様々なドラマがありました。
 そんな中、今回一番思わされたこと。それは、連覇の途切れた青山学院のことです。あんなに層の厚い選手を集めて、あれだけの経験を積んで、あんな名監督の下でみんな一致して、日本最高と言われるような練習を重ねて、それで、勝てなかった。そこに、何があるのか。そのことが、この正月一番胸にグッときたことです。それは、何か。
 監督は有名ですよね。原監督。選手たちと共同生活しながら、一人一人のデータを組み合わせて、そして、最終的には厚い層の中から、一〇区それぞれに選んで、当日の朝も選び直したりするわけですけど、それが名采配だった。今までは。選手たちの方は本当に素晴らしかったんで、監督は言ってました。「私自身の、采配のミスです」と。では、何をミスしたのか。彼の言葉ですけれども、「連覇するうちに、チャレンジする心が低くなっていた」と。これなんですよ。あれほどの大学、あれほどの実績、あれほどの力を持っていても、やっぱり「慢心」ってやつですね。いい気になっちゃう。チャレンジする心を忘れていく。で、監督は、言っていました。「チャレンジする心を失う、すなわち、進化することを止めたら、退化が始まる」と。
 どうなんでしょうか、みなさま。「進化することを止めたら、退化が始まる」。現状維持しているつもりでもですよ、さらに進化することを、チャレンジする心を忘れると、結果が出ない。これが、負けてもいいや、どうでもいいやという人生ならね、それもそれで一つの気楽な人生でいいのかもしれないですけど、やっぱり何か、もうひとつ先を見てみたいという、チャレンジ。四連覇の次は五連覇だ、と、五連覇の景色は違ったはずですけど、もうそれは見られない。もう一回五連覇っていったら、一から始めないといけないわけですから、なかなか大変なことです。
 チャレンジする心を忘れると、周りのチームは全部チャレンジしているわけですから、当然追い抜かれる。だって、ほかの大学は、前と同じことしてたら絶対勝てないんですもん。ところが、青山は、前と同じことをすれば、また勝てるんじゃないかって気持ちになっちゃう。原監督がこうも言ってました。「保険をかけることばかり考えていて、新しいことに取り組まなくなっていた」と。もうこれでいいや、これを守ろうと思っていると、次の景色を見ようというようなワクワクするものが減ってしまって、守りに入っちゃう。

 そんなわけで、私は、今年、いつにもましてチャレンジする気持ちになりましたよ。みなさんもチャレンジしましょうよ。仕事のこと、家庭のこと、人生のこと。私も司祭として、キリスト者として、教会の現場であれこれチャレンジしてきたつもりでしたけれども、最近、いつのまにか守りに入っているような気がする。体もだんだん言うことをききませんとか、大きな失敗をしたくないとか、人からの評判も気になりますし、自分の心の平安が第一、みたいに、進化への恐れが出てきてるんじゃないか。でも、そこのところがたるんでくると、気が付けば、退化し始める。
 教会がね、本当に神のみこころにかなった神の国のしるしであってほしい。そのためにこそこの三〇年、いろんなチャレンジしてきたつもりでも、ふと気が付くと、こんなもんかなとか、これでいいやとか、傷つきたくないしとか、いろんなこと言われんの嫌だなとか、いろんな批判も聞こえてくるとか、そうすると、じゃあ、おとなしくしておくか、ってことになりかけるんですよ。だけど、そんなときこそ、チャレンジしなくっちゃね。二〇一九年。私は進化宣言したい。みなさんは、どうしますか? 進化を止めたら退化ですよ。「もっと上を目指そう」、「もう一歩行けるはずだ」。その気持ち、そこのところがなくなってしまったらね。
 とりわけ、教会がチャレンジしなくなっちゃったら、もう教会じゃないでしょう。いろんな教会があっちこっちにありますけど、進化止めたら退化。チャレンジする気持ちを忘れて、それこそ消化試合みたいなことしてるんじゃねえ。でも、そんな教会が増えているんじゃないですか? 去年と同じでいいやって、いつもやってることを惰性で繰り返したりして、一体我々は何をしてるんだろう。それ、教会ですかね。

 今日、主の公現の主日ですけど、この、博士たちがですね、旅に出るわけですよ。東方ってどこでしょうかね。占星術の学者たちとありますが、占星術って、当時で言えば一級の学者たちです。天の運行を観察しながら、宇宙の働きと現実の世界との関わりについて、つぶさに研究をし、経験を積んで、一流の評価を得た立派な学者たちです。この学者たち、いつも一緒にいたわけではないでしょう。それぞれの国の学者ですから。東方の有名な学者たちが、連絡取り合って、連れ立って来たんじゃないですか。「あの星が出たぞ」と。それが超新星だったのか、惑星が固まって見えた出来事なのか、いろんな説がありますけれど、ともかく「ついに、あの星が出た。新しい王が生まれて、新しい時代が始まる。その王を拝みに行こう。贈りものを届けよう」と、長い旅に出る。これ、まさしく、チャレンジですね。「新しい景色を見たい、新しい時代の証人となりたい、私たちには、それを見抜く目と旅する力が与えられているんだから、出発しよう」と。
 もちろん、簡単な話じゃないです。この時代、旅に出るのは命がけですから。現に、下手したらこれ、ヘロデ王に殺されていたかもしれないわけでしょう。ヘロデ王が「帰りがけに寄ってくれ」なんて言ってますけど、これ、帰りがけに寄ったら殺されてたわけですね。だって、救い主が生まれたなんて話を広められたら、民衆が何をするか分からない。権力者としては、そういうのは芽のうちに摘んでおかなければいけない。「私も行って拝もう」なんて言ってますが、行くわけないですよね。兵を送って、殺してしまえという話です。ともかく、この学者たち、殺されてもおかしくないという旅に出たんです。おとなしくね、ふるさとで星眺めてればいいものを、わざわざ危険を冒してでも旅立っていく。
 そのおかげで、彼らは、救い主がついにこの世界に生まれてくるという、まったく新しい時代が到来した現場に立ち会うことになりました。チャレンジすることで、私たちは、神の国の到来を体験できるんです。そういう憧れだけは、持ち続けたい。そのことは、第二朗読にありましたね。「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。この計画は、キリスト以前には人の子らに知らされていませんでした」(エフェソ3・3b、5) そうなんです。旧約時代は、まだ、この宇宙が何のためにあるのか、この世界がどこに向かっているのか、私たちが生まれてくるというのはどういうことか、何のために生きてるのか、そういうことの究極の本質が秘められていたんです。今や、それが、現れた。みんなが求めてきたのに、みんながわからなかった、その真理がついに現れた。キリストの誕生とはそういうことですから。新約の私たちは、本当に幸いですよ、それをもう知ってるんですから。

 チャレンジしましょう。三人の博士は、まだ知らないのに、「ともかく、そこに行こう」と、それを目指して出発しました。そうして、『今やそれが霊によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました』(エフェソ3・5参照)。そうして、全ての人が知るところとなったのです。異邦人、なに人、関係なし。いい人、悪い人、関係なし。全ての人が、福音によってキリスト・イエスにおいて約束されたものを受け継ぐ者、そういう者になる世界が始まったのです。みなさんのことですよ。その福音を私たちは、主イエス・キリストによって知りました。
 全ての人が家族であるという、この神の恵みの世界。国家とか権力とか、金とか、そんなことを超越した、永遠の命の世界。今みなさんが、隣に座っている人、その人と出会うために生まれてきたというような、神の国の話です。我々は、キリスト・イエスにおいて、同じ体に属するものです。血の繋がった関係を「血縁」というなら、この世の血なんかじゃなく、神の血によって繋がっている血縁なんです、我々は。こういう神秘、真理が、イエス・キリストによって知らされた。そういう神秘に向かって、旅に出るのです。三人の博士は、その星の導きを信じて、長旅の末に、ついに主イエスに出会って、真心からの贈り物を全て捧げて、そして夢のお告げ通り危険から守られて、それぞれの国に帰って行った。どれほどの感動と喜びを味わったことでしょう。
 ミサの初めに、二人の侍者と私と三人で、中央の通路を歩いて来ましたけれども、祭壇前に飾られた飼い葉桶のイエスさまの前で、三人で深々と礼をしたとき、なんだか三人の博士になったような気持ちになりました。みなさんも、今日でこれ片付けられちゃいますから、写真撮ってですね、深々と礼をしてくださいよ。主イエスはもう、私たちのうちに現れました。この宇宙の意味、人間の真理、真実の愛と本物の幸い。それがもう現れたんです。そこに向かって、私たちはチャレンジいたします。みなさんもね、三人の博士になりましょう。もうイエスに出会ったとはいうものの、やっぱり旅にでなくっちゃ。まだまだ見るべき景色があるんじゃないですか。上野教会も、こうして発展してまいりましたけれど、まだまだその本当の可能性を我々はまだ見ていない。駅伝で言うなら、まだ一区、二区。さあ、ここからどんな景色が待っているか。それは、チャレンジを忘れちゃったら見ることができない。進化していくって、なかなか大変なことだけれども、そこ止めちゃったら退化が始まる。ああ、怖い、怖い。そのために、みなさんは今年、どんなチャレンジをするんですか。

 昨日の夜は、福音カフェの学生たちとお鍋を囲みました。お鍋というか、すき焼きなんですけど。最初はすき焼きにする予定ではなかったのに、急遽すき焼きにするっていう話になっちゃった。なぜかと言うと、昨日の午後、電話がきて、福音家族の青年の一人が、SNS上で「今駅にいる、もう死にたい、これから電車に飛び込む」ってつぶやいてるっていうんですね。うつを抱えている青年ですけど、うつの人には、そういうときもあります。もう終わりにしたいと。それほどにつらい。その彼とは、私は親しいので、そのSNSに気付いた友人が電話してきたわけです。「神父さま、なんとかしてあげて」と。彼に洗礼を授けたのは、私です。別の青年を見舞いに、精神病院に毎日通っていたときに、たまたま、閉鎖病棟の中で出会いました。教会においでよと誘ったら、退院してから教会に通うようになり、洗礼を受けたわけです。
 私は電話で、まずこう言いました。「つらい気持ちはよくわかる。でも、死んだりしたら、おばあちゃん悲しむよ」と。おばあちゃんというのは、実のおばあちゃんではなく、子どものころ彼を救ってくれた、近所のおばあちゃんです。彼は、育児放棄されて、親が何もしてくれなかったんです。ご飯も与えられない。お腹すいて、家の前に立っていると、そのおばあちゃんが、「うちにたべにおいで」って、いつもご飯を食べさせてくれた。それどころか、塾にも通わせてくれて、そのおばあちゃんのおかげで、中学を卒業できた。そのおばあちゃんが、カトリック信者だったっていうんですよ。だから、彼はカトリック信者というのはそういうもんだって思っていたんです。それで、閉鎖病棟の中で会ったときも、私がカトリックの神父だって聞いて信頼してくれましたし、やがて教会にも通って、洗礼も受けた。そういう彼なので、私は言ったんです。「死んだりしたら、おばあちゃん悲しむよ」って。そして、「おなかすいてないの?」って聞いたら、「何も食べてない。お腹すいた」と言うので、おばあちゃんに代わって言いました。「うちにたべにおいで」と。「お腹すくのは元気なしるし。もう大丈夫。すぐに食べにおいで。しっかり食べて、生きて行こうよ。お正月だし、来てくれるなら最高に美味しいものを食べさせてあげる。よし、すき焼きにしよう!」って言っちゃったと、そんなわけで、すき焼きだったんです。そんな彼が来るっていうんで、慌ててみんなで買い物に出て、昨日の夜は、すき焼きをいっぱい用意しました。私は、イエスさまに贈りものをする三人の博士のように、彼に心からの贈りものを贈りたかった。それは、彼にわかってほしかったからです。「あなたは贈りものを贈られる価値のある存在なのです」と。
 思い出します。彼に初めて会った時。毎日、病院に通った日々。なかなか大変でしたけど、私はチャレンジしたんです。そんな彼のためにもと、心の病を抱えた青年たちの福音家族を作ったのも、チャレンジでした。その彼を連れて合宿に行ったのも相当ハードなチャレンジでした。そうして昨日の夜、「すき焼きだ!」と彼を招いたのも、チャレンジなんです。もちろん一つひとつのチャレンジは大変なんだけれども、チャレンジをし続け、進化し続けていくと、ようやく見えてくる景色があるんです。私は昨日の夜、その景色を見ましたよ。彼は、来てくれました。そして学生たちとおいしそうにすき焼きを食べ終えたあと、こう言ったんですよ。「神父さま、ゆるしの秘跡をお願いします」。私は嬉しかったね。感動しましたよ。そうして秘跡を受けて涙を流し続ける彼の姿を見ながら、なんて美しい光景だろうって思った。教会っていいなと思ったし、イエスさまって本当に素晴らしいなと思った。すべての根底に、イエスさまの聖なるチャレンジが秘められているんだから。
 神の愛が、この世界に現れました。そうして、以来二千年経った今、こんな遠い東方の国の、一人の死にたいとつぶやいている青年の心の奥にまで、公現の光がちゃんと差し込んでいくのです。チャレンジあるのみ。新しい年の、素晴らしいスタートになりました。




2019年1月6日録音/2019年3月15日掲載 Copyright(C)2019 晴佐久昌英