福音の丘
                         

だいじょうぶ、必ず治ります

主の洗礼
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ40・1-5、9-11)
第二朗読:使徒パウロのテトスへの手紙(テトス2・11-14、3・4-7)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ3・15-16、21-22)
カトリック上野教会

 私、歯の骨の手術をした後で、実は今、しゃべるのが大変なんですけど、そこは話すプロですから、どんな時でも滑舌よくちゃんと話しましょうね。
 その手術は、静脈に鎮静剤みたいなの入れて、うとうとしてる間に終わるとかっていう説明でしたけど、実際には爆睡しちゃいました。ただ、眠るまでにどれくらい時間かかるんだろうって興味があったんで、ロザリオのお祈りをしたんですね。アヴェマリアを何回唱えたら意識が遠のくもんなのか、実験しようと思って。で、鎮静剤の注射をして、さあ、アヴェマリアを何度唱えられるだろうか・・・って思ったとこまでは覚えてるんですけど(笑)、もう、一瞬で寝ちゃいました。で、目覚めもすっきりで気持ちよかったですね。「よくお休みでしたよ」とか言われて、目覚めたら、すっきり。
 そのときふっと思ったんですよね。最期の時もこんな感じなのかなあって。そう思うと、怖いというよりは、まあ、どのみち目覚めるんだから、あれこれ考えずに全部お任せしておけばいいんだなっていうようなね、なんかそんな気持ちになりましたね。眠る時って、そもそも、「小さな死」みたいなとこがありますよね、スッと寝ちゃうわけで。死の時もおんなじで、もう、何考えてもしようがない。全部任せるしかないんで、スッと寝るしかないんです。でも、必ず目覚めます。新たに生まれる恵みの時がくる。眠る時が「小さな死」なら、死は「小さな眠り」なんであって、眠ってるんだから、目覚めがあるんですね。イエスが、死んだ少女のことを、「死んだのではない、眠っているのだ」と言ったことがありましたけど、眠りは死であり、死は眠りです。
 爽やか~な目覚めでしたよ。この、鎮静剤打った後の目覚めは。きっと、天の世界で目覚める時っていうのは、もっともっと、究極に爽やかなんでしょう。もはや何の囚われもないというか、恐れがないというか、すっきり爽やか、地上の人生では味わったことのないクリアーな目覚めなんだろうなって想像します。やがて誰もが体験する、そんな目覚め。みなさん、ど~ぞお楽しみに!と申し上げたいですね。

 すっきり爽やか、天への目覚め。それの先取りっていうやつが、洗礼ですね。洗礼は水かけた時が洗礼っていうよりも、そのような、死を超えて新たに生まれるっていう、天への誕生の時こそが真の洗礼、天の洗礼であって、地上の洗礼はその先取りなんですね。ですから、神さまの愛を全部受け入れて、やがて天に生まれることを信じたならば、地上での洗礼は受けていなくても、すでにもう天の洗礼を先取りしてるんです。
 先ずはその信仰において、爽やかに天の洗礼を先取りして、そのしるしとして、地上で水をかけられる。なので、逆に、みなさんは水はかけてもらって、もう地上の洗礼は受けたつもりでも、そんな爽やかな天の洗礼、神の愛への目覚めがありませんとか言うんだったら、まだまだ洗礼式が完成してないって言わなきゃなりません。今日はちゃんと、神の愛を信じ、いつの日か必ず、すっきりと天の世界で目覚めるということを信じ、その日の先取りとして、こうしてミサを捧げてると。そういう信仰で、今年も爽やかに、希望を持って、全部委ねて、安心して生きて参りましょう。
 特に主の洗礼の今日は、我々も自分の洗礼の日のことを思い起こすわけですけれど、洗礼の日は、これはもう圧倒的に神さまの愛が私たちを包むときですね。天と地がスパークする瞬間です。天がプラスで、地がマイナス、電圧高まって、雷が「バチン!」みたいなね。圧力がグーっと天から掛かってきて、私たちが心開いて、手を天に伸ばせば、バチンっと、スパークする。そこはやっぱり、私たちが心開くとか、手を伸ばすとか、天を信じて祈るとか、何らかの信仰がないと、なかなかバチンっていう時が訪れない。もっとも、向こうからの圧力がすごいですから、結局は我々がそこにいるだけで、突然目覚める、みたいなことがないとも言わないけれど。日々心を天に向けて、天からの圧倒的な愛の恵みが満ち満ちていることをね、私たちは感じるべきだし、それに希望を置いて、この困難な日々を生きていきましょう、ということじゃないでしょうか。

 入門講座に来ている方からよく質問を受けたりとかするんですけど、たいていの人が、自分の恐れから生まれる内容のことを質問するんですね。これは圧倒的にそうです。やっぱりみんな怖いから、「だいじょうぶでしょうか?」って。お医者さんの前で、「私、治るんでしょうか?」とかって聞いてるのと同じです。「これ、治るんですか?」って。で、お医者さんが「だいじょうぶです!治ります」って言ったら、「ああ、良かった~」と。それと同じで、神父の前で、みんなやっぱりそれを聞く。だから、私はもう圧倒的に神の愛が、恵みが来ていることをはっきりと宣言して、一人ひとり、「だいじょうぶですよ」っていう福音によって救っていく、そういう仕事をしているわけですね。
 例えば、先週木曜日の入門講座でしたか、初めて来られたっていう方が、「因果応報ってあるんですか?」って聞くんですね。「私、いろいろ悪事を重ねてきたと思うんですけど、罰が当たるっていうことはあるんでしょうか?」と。やっぱりすごく気になるところなんでしょうね。
 それで言うなら、ちょうどさっき、イザヤの預言が読まれました。「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。そう、彼女に呼びかけよ」と。彼女っていうのはエルサレムですね。「罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。そう、呼びかけよ」ってわけです。これ、捕囚時代ですから、ユダヤの民は史上最悪の苦しみを体験しているわけですけども、そのバビロン捕囚は、「彼女の咎」、民の罪に対する神の裁きと考えられてたんですね。要するに「罰が当たった」、と。そんな時にイザヤが預言するわけです。その咎は、いまや、全部償われた。その罪のすべてに倍する報い、恵みを、主の御手から受けた、と。
 これ、その時点ではまだその恵みは受けてないんだけれども、預言者がそのような救いについて、希望についてはっきりと語っている。それを聞いて、罰を下されていたと思っていた民は、「ああ、神は本当に愛なんだ」と知り、信じて希望を新たにするわけです。この私は、確かに悪い私だけれども、罪深い私たちだけれども、それに倍する恵みを神さまはくださるんだ。それほどに神は大きく優しく、愛に満ちた方であるよ、というそういう福音ですね。
 質問した方は、当然、自分の罪のことをすごく心配している方なんですね。「私は罰が当たるんでしょうか?」「因果応報っていう言葉があるけれども、それはキリスト教にもあるんですか?」と。
 そこで、私はひとりの預言者として、はっきりとお答えいたしました。「神は決して罰を当てません。むしろ、あなたが自分に罰が当たっていると思い込んでいる、その状態が罪なんであって、キリスト教は、その罪からあなたを救うんです」と。
 イエスさまが来られたのは、裁くためではありません。救うためです。第二朗読見てください。なんて書いてありますか。使徒パウロが「愛する者よ、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」。イエスのことですね。罰だの、因果だのっていう、その恐れを吹き飛ばす、罪に倍する神の恵みが現れました、と。「現れました」って、これはもう過去形です。旧約時代の預言者の、いつかは救われるだろうっていう話じゃない。もう神さまの愛は、現れました。主イエスが私たちの内にもたらされました。すべての人々にです。救いをもたらす神の恵みが現れた。信じるべきは、「私は救われる」ということではなく、「私は救われた」ということです。
 
 すべての人々っていえば、昨日静岡に行ってきたんですけど、静岡の清水教会という所です。福音宣教についてお話ししてくださいってことで、行ってきましたけど、満員でした。他の教会からも、静岡各地から来ていて。清水は初めて来たと思ってそうお話ししてたら、言われちゃいました。「神父さん、隣の草薙教会に来てくれました」とか、「清水の市民会館で市民クリスマスのメッセージも話してくださいました」とか(笑)。
 最後の質問コーナーで、一人の女性が恐る恐る手を挙げて、こう聞きました。
 「キリスト教では、信じた人は皆天国に行くって言うけれど、私の両親は熱心な仏教徒だったんで、天国には行けてないんでしょうか。私はキリスト教信者ではないんですが、もしキリスト教に入ったら、両親と一緒にはなれないんでしょうか。先日、あるキリスト教の教会に行って同じ質問をしたら、キリスト教の洗礼を受けていない人は天国に入れないって言われて、とてもショックだったんです」
 これは結構、多くの人が疑問に思っていることのようです。私はその方に、はっきりと、「ご両親は天国におられます。あなたも必ずご両親と一緒になれますよ。今日この講演会に来て、良かったですね。安心してください、信じてください」と申し上げ、こうお話ししました。
 「そもそも、洗礼を受けて信者にならないと天国には入れないって、論理的に考えてもおかしな話だと思いませんか。だって、天国って何の悩みも恐れもない、幸いな世界のはずじゃないですか。もし仮に、自分の愛する両親が地獄にいたとするならば、ああ、なんてかわいそうなんだろう、救ってあげたいって思うのは当然でしょう? でも、それをず~っと救えないまま見てなきゃなんないなんて、それ、地獄じゃないですか。そんな思いでいるところを天国って呼ぶことに、あまり意味がないんじゃないですか。天国っていうからには、愛する両親も一緒じゃなければ天国じゃないでしょう。愛する人、すべての人が神の愛の中で共にいる、そのような恵みの世界です。これを人間の愚かな二元論で汚してはいけません。神はすべての人の救いを望んでいますし、神におできにならないことはありません」。
 私たちは、それを神と呼ぶか仏と呼ぶかはともかく、究極の愛の源である方の許に生まれ出ていくのです。その愛の源に望まれて生まれて来たすべての人です。先ほどパウロ書いていたじゃないですか「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」って。すべての人々に救いをもたらす神の恵みが、もう現れてるんです。問題は、現れているのにそれに気づかないで、まだ苦しんでる人がいるってこと。「罰が当たるんじゃないか」とか、「親と会えなくなるんじゃないか」とか。そう思ってる人を救うためにイエスさまが来られたんじゃないですか。その苦しみから解放するのが福音じゃないですか。
 それを聞いて、質問した彼女、すごく喜んでました。「ありがとうございます!」と。み~んな神さまの御許に生まれていくんだから、そのことを信じて、その希望によって、天に向かうこの準備期間、本当に愛し合って生きていきましょう。特に、救われないんじゃないかって苦しんでいる人に、善人も罪人も、正しい人も正しくない人もみ~んな神さまの光を受け、恵みを注がれるのだという、普遍主義の福音というものをきちんと語るのが教会の仕事です。

 今、一人の青年が相談に来ていて、自分は他の教会で洗礼を受けたんだけれども、ここの教会に変わりたいっていうんですね。私は、すべての人が神の愛のうちに生きているし、その意味ではもう救われてるという福音をちゃんと聞いて信じていなければ、どこの教会に行こうが変わろうが一緒だよと、そこはきちんとお話ししました。すると彼は、「今、いろんな教会を訪ねて、同じ質問をして回ってるけど、どこも答えは同じなんです」と。その質問というのが、「僕は救われるんでしょうか?」という、非常に素朴な、しかし、やはりそこはきちんと聞かなければならない、まあ、一番肝心な質問なんですね。「自分は本当に罪深い人間だって、自分でわかってはいるんだけれども、こんな私でも天国に行けますか?」と。そこがやっぱりとても心配なわけです。
 だけど、どこの教会に行ってもみんな同じ返事なんですって。「それは、神さまだけがご存知であって、必ず救われるとは言えない。しかし、イエス・キリストを主であると告白して、神は救ってくださると信じて、一緒に信仰生活を生きていこう」と、どこでもそんなような返事だったそうです。まあ、そういえばそうなんでしょうけど、でも、彼はそれだと不安なんですね。「必ず」と言ってもらいたいんです。例えばお医者さんにね、「この私の病気治るんでしょうか?」って言ったら、「それは、神さまだけがご存知であって(笑)、必ず治るとは言えない。一緒に治療を頑張っていきましょう」って言うのとね、「治ります。安心してください。だいじょうぶ、必ず治ります。いやもう、治ったも同然です」。そう言われるのとでは、全然違うじゃないですか。そして、体の病気は治らなくても、魂の世界では、すべての人が必ず救われるんですから、そこはイエスさまのように「あなたは救われます」と、宣言して、恐れの闇から救い出してあげるべきでしょう。
 「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」は、もう現れたんです。私たちはそれを信じます。それを信じて受け入れることが洗礼だって言っていいんじゃないですか。いくらそんな救いが現れても、「いいや、それは嘘だ。私には、救われない可能性があるんだ。すべての人が救われるだなんて異端だ。私は恐れと疑いの中を生きていくんだ」とか言ってたら、その人自身が救いを拒否してるってことになるわけですね。もう救われているのにも関わらず。なぜ自主規制をするんでしょう。自分で自分を裁き、囚われの身にしてしまっている、そういう状況。これを、罪と呼ぶんです。そこから私たちを解放してくださった、このイエスの恵み、イエスの教え。そこに我々は希望を置きます。

 今日は成人式ミサですけど、お一人成人がおられます。来てくれて、ありがとうございます。やっぱりね、一人もいないとさみしいですから。本当は二人並ぶはずだったんですけども、お一人体調が悪くて。ちょっと心配ですね。みなさんでお祈りいたしましょう。なので、今日、あなたが来なかったら全滅でした(笑)。やっぱり教会に、次の世代がいないとね。赤ちゃんが泣いたり、成人式があったりでないと、「教会の希望を新たに」なんて言っても、なかなかイメージわきませんし。実は彼、中国から来た留学生で、二十歳の青年です。実は君のいないときに、君の話を説教でベラベラしゃべってたんですよ(笑)。君が入院したとき、私がお見舞いに行ったこととか。
 彼は17歳のころから日本語を勉強して、今は非常に上手です。日本人みたいに。でも、日本でね、なんかやっぱり、日本人や日本社会との間に壁を感じるようなこともあったり、一人で体調が悪くなったりすると不安だったり、さみしい思いをしたりもしています。でも、そんな中で、今日成人の日を迎えて、この主の洗礼の日に、洗礼の恵みを新たにして、改めて福音を信じてほしい。あなたは、救われています。何があっても、恐れずに歩んでいってほしい。日本での生活もいろいろさみしかったり、不安だったりするかもしれませんけれども、仲間がいる、教会がある。あなたは、すでにいろいろな福音家族と一緒ごはんをしています。それが、救いのしるしです。仲間と共にイエスさまの福音を聞いて、信じてください。自分がどれほど罪深くても、神は私を愛している。この私に罰が当たる、そんなことは決してないという福音です。
 そうして、いつの日か神さまの御許に必ず生まれていって、自分の愛するすべての人たちと天の家族という恵みの日を味わう日が来ます。この世のあらゆる苦しみを超えて、すっきり爽やかに目覚める日が来るんだという、この福音による希望を新たにして、一人前のキリスト者という意味で成人して、その恵みを他の人にも伝える、そういうキリスト者となってもらいたい。
 君は、私たちの教会の新しい希望です。神の祝福を心から祈りましょう。では、新成人はお立ちください。


2019年1月13日録音/2019年3月24日掲載 Copyright(C)2019 晴佐久昌英