福音の丘
                         

光に向かって

年間第4主日
第一朗読:エレミヤの預言(エレミヤ1・4-5、17-19)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント12・31~13・13、または13・4-13)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ4・21-30)
カトリック上野教会


 この美しい聖堂の、祭壇後ろからの逆光の光をですね、十分にお楽しみください。きれいですよね。
 この聖堂はルドールズ神父様の時代に建ったもので、ちょうど昨日はデュレック神父様の追悼ミサもしましたけど、あの時代の神父様方に、こういう聖堂を建ててくれてありがとうと、何十年も経ってから感謝します。こうして、日の光が私達の中にまっすぐに差し込んでくるのを、神様の愛の印として受け止められれば、何よりですね。寒い季節もいよいよ終わって、ちょうど今日は、節分。明日は気温が17度になるという報道もありました。立春ということで、ぽかぽか暖かい日曜日。寒い、寒いと言ってるうちに、確実に季節は春になる。
 この、冬から春へという季節の、希望というか、また暖かくなる喜びは、格別ですね。少しづつ日も高くなって、朝早くから明るくなり、ミサに集まる時間には、ちょうど日の光が正面の黄金色の窓からサーっと差し込んでくる。この季節ならではの、新しい希望の光です。なんだかこの時期、この光に感動して毎年同じ説教をしているような気もしますけど、ホントにいいなと思うんですよ。今日のミサの主人公は、この光でしょう。

 私、今、逆光でよく顔が見えないんじゃないですか? よく見えないくらいで、ちょうどいい。(笑)この世のものは、そんな程度ですから。あんまりこの世のものにこだわったり、期待しすぎたりしてると、「裏切られた」とか、「失ってつらい」とかいうことばかりになっちゃいますよ。この世のものは、さっきもパウロの書簡で読まれた通りで、「おぼろ」なんです。おぼろですから、だいたいのところでいいんです。くっきりとした本当のもの、真実なるものはおぼろの向こうにあるんであって、そこから光が差し込んでくるし、そこに向かって我々は歩んでいるんですから、その大元の完全なものをこそ、見なければならない。手前の不完全なものばかり見つめているから、みんな、ウロウロ、オロオロ、イライラ、バタバタするんです。
 そもそも、不完全なものだけ見ながら、「不完全だ」「不完全だ」って、当たり前じゃないかって私思うんですよ。もしも、完全であるべきものが不完全であるならば、問題ですよ。「神が意地悪した」とかね、これは大問題ですよ。「神が救ってくれなかった」なんてことがあったらね、それなら、この世の根本にかかわる大問題ですよ。でも、そんなことがあるはずがない。だって、完全なんだから。しかし、不完全なこの世の不完全なものが不完全だからと言って、驚いたり文句言ったりするのはどうなんでしょう。
 もちろん、ダメなものをよくしていくのは当然のことですし、本当に間違っているものはきちんと正していかなければいけないわけですけど、だからと言って突然天国になるわけじゃない。お互い、いい加減だったり裏切ったり裏切られたりを繰り返しながら、そこは不完全同士、許し合い、忍耐し合って、しかしあきらめることもなく、その先の完全な世界を決して見失わずに、ゆっくりと。
 その意味では、この聖堂の窓の、すりガラスっていうか、向こうがはっきり見えないけど光は通すガラスっていいですね。その向こうに、輝く世界、完全なる真実の世界があるんです。だけど、今はそれが見えない。見えないとはいえ、まったく真っ暗ではなく、ちゃんと光は差し込んでいる。この聖堂に満ちているのは、完全な太陽の光ではないけれども、つまり不完全ではあるけれども、でも、確かにちゃんと届いて、満ちている。これ、誰が見たってガラスの向こうは太陽だって、わかりますでしょ? 見えなくても、見えるんです。

 2月3日、節分の日。季節の変わり目。いよいよ春が近づいています。今まで寒かったねえ、そして、辛かった。苦しい夜があった。傷つけられた日もあった。震える日々、凍える出来事、確かにあった。でも、ほら見てください。もう春ですよ。
 福音ってそういうことですね。「ほら、神様の愛が、もう我々のうちに来ていますよ」というその知らせに、私達の心は喜びに沸き立ちます。そうして、不完全さの中で希望を新たにします。やがてみんな、この窓の向こう側に行くわけですから、その時には、すべてをはっきり、くっきり見ることができる。それ、どんなんでしょう。こっちにいる間は、まだおぼろでね、はっきりと見ることは許されていないし、それに今見ちゃたら、もったいないっていうかね、もっと言えば、こんな自分のままじゃあ、見たくないというか。いつの日か、ちゃんと神様に招かれて、ちゃんと神様に清められて、ちゃんと神様の御許に生まれていってから、その本当の光の美しさを仰ぎ見るという、そんな希望を見つめて、歩んでまいりましょう。そうすれば、その手前で、ちょっと暗かろうが、汚れていようが、そんなにイライラすることもないんじゃないですか。

 昨日、学生たちの集まりで夢の話をしてたんですけど、夢って不思議ですよね。おぼろで曖昧で、目覚めて「ああ、夢だった」って思うけど、起きてからの現実だって相当おぼろで、実はまだ夢なんじゃないかとか、そんなこと思ったことないですか? とか、学生達とそんな話して、この現実が実は夢で、もうすぐ目覚めるのかも、とか盛り上がりました。このミサだって、夢かもしれないですよ。これは夢じゃないって、確かめようもないですしね。もうすぐハッと目覚めると、まだ家で寝てるかもしれない。確かめようがない。なんだか、おぼろな感じ。
 さっきパウロが、鏡に例えていましたよね。今、私たちは、鏡におぼろに映ったものを見ている、と。(cf.一コリント13・12)昔の鏡は、金属を磨いたもので、今みたいにくっきり映ってるわけじゃないんで、おぼろに映ってる。この現実は、まだおぼろなんだ、と。これが大事なんですよ。今くっきり見ている気になっちゃだめなんです。おぼろなんだから。私も遠視で老眼で、眼鏡外すとぼーっとしてなんだかよく見えなくなる。実際、何が事実で、何が本当にクリアなのかというと、この世界の真実のクリアというのは、人にはわからない。4Kだ、8Kだという時代ですけど、どんなにクリアに映しても、真実のクリアは見えない。それを受け入れないと、傲慢になるんです。わかった気になって、お互い責めあったり、こっちが正しい、あっちが間違ってるとか言い始める。もっと謙遜になって、我々は、お互いおぼろなものしか見ていないことを認めましょう。
 そんな私たちも、やがて真実なる神様の世界で、くっきり、はっきり、目覚める日が来ます。その日を私達は待ち望みます。その日まで、「この私には何もわかりませんが、神様は全てご存知だから、信頼いたします」と、申し上げましょう。実際、人類は、この世界のことなんか、なにも知りませんよ。AIとかいうけれど、本当に何もわかってない。
 それで言うなら、夢なんか、ほんと不思議。私、奇妙な夢を見たことがある。幽体離脱して、天井付近から自分の体を見ているんです。で、あの自分の体に帰らないといけないと思ってるのに、帰れない。このまま帰れなかったらどうしよう、なんとか帰ろう、帰ろうと必死になってるんですね。ふと見ると、すぐ手前にスチールの本棚があって、本棚の上に本が積んである。そうだ、この本を落として、自分を起こせばいいんだって思いついて、積んである一番上の本を、自分に向かって落としたんです。その瞬間、本が1冊バサッと落ちてきて、私、目覚めたんです。不思議じゃないですか。昨日も、学生たちにその夢のことを話したら、そこに東大生がいて、「それは、たまたま本が落ちてきただけで、その瞬間、目覚めるまでの0.0何秒の間に、脳が自ら作り出した夢でしょう」なんて解説をしてましたけど、どうなんですかね。あの時の、どうしよう、帰らなきゃ、帰らなきゃと思ったあの感覚や、そうだ、この本を落とせばって思った時のあの意識は、あまりにリアルで、ただの夢で片付けられないような実感がある。この世のことは、まだまだ、だれにもわかんないんじゃないですか。何にもわからないのに、これはこうだ、それはああだと、まあ、説明はいくらでもできるけど、確かめようもない。私達はまだ、幼子みたいなもんなんです。赤ちゃんは何も知らないじゃないですか。だんだん大人になってだいぶわかってきたつもりでも、まだ何もわからない。
 辛い思いをいっぱいしました。死にたくなることもある。けれども、何かわかってる気になって、もうダメだって決めつけちゃいけない。これからどれだけ素晴らしいことが待っているかということを、みなさんは知らない。この金色の窓の向こう。ちゃんと信じるべきですよ。今までのことは今までのこと。だけど、今日はまた新しい1日が始まって、一陽来復。今日は春節で、中国センターの信者さんたちも盛り上がってお祝いするわけですけれども、大いにお祝いしたらいいですよ。季節が変わって、希望が新たにされる、この日。

 この第一朗読をちょっと見ておきますけれども、エレミヤの預言ですね。召命の出来事です。エレミヤが召命を受けた時、主がこう言っているんですね。「私はあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。」(エレミヤ1・5)
 これ、みなさんに言ってることでもあります。みなさんの、召命です。神がある人をこの世に生み出すこと、それ自体がすでに召命です。あなたを産むと神が願わなければ、あなたはいない。みなさんそこに当たり前のような顔して座ってますけど、天地創造の初めに、神が、それこそ晴佐久昌英なら晴佐久昌英を生もうと願って、この宇宙を作り、この世界を育て、ある日あるところで私を生んだので、私はここにいるんです。
 すべての人がそうです。あなたなんかいなくてもいいという人は、一人もいない。神が願ったから、私がここにいる。だから、なにがあろうとも責任者は神なんです。みなさんの願いじゃない。頼んで生んでもらったわけじゃないんだから。神の願いなんです。そして、神様の願いが、悪い願いなわけはないでしょう。本当に一人の人間に喜びを与えたい、生きている恵みを味わわせたい、そしてやがてご自分のもとにお召しになって直接会って、その時ははっきり、くっきり、神様と出会う、その日に向かう喜びの旅路を与えたい、これが、神様の御心ってやつですね。それによって、私はここにいる。
 だから、一歩、また一歩、その恵みの中で、あちらの光の方に向かって歩んでいきましょう。闇に引き込まれそうになっても、共に励まし合い、顔を上げて、光の方に向かって、一歩、また一歩。そうして節分になり、明日は立春。まだまだ寒い日もあるでしょうけど、素敵な春をやっていきましょう。みなさん豆まきとかするんですか。いいじゃないですか、豆まき。やりましょうよ。追い出す鬼って、なんでしょうね。恐れでもあり、傲慢でもあり、それこそ、そのような神の願い、神の愛から引き離そうとする力ですよね、我々を。そういう鬼は、外。福音は、内。そこはきっちり信じて、希望をもって。パウロに言わせれば、信仰も希望も大事だけど、一番大事なものは愛だと。愛は何かと言えば、まずは神からの光ですよね。神からの愛が私達に差し込んでいて、私達はその光を受けて、感動して、安心して、お隣の人も、愛のおすそ分け。そして、うつむいている人に、あの光の方に一緒に行こうよとお誘いする。

 昨日のデュレック神父様の追悼ミサでもお話したんですけど、我々は1つに結ばれているんだから、天国の方々も今ここにおられるし、私達ももうすでに、その光の世界に入り始めているし、バラバラではないんです。実は今、このミサに、「もう死にたい」と思っている人が来ておりますけれど、光の方に向かいましょう。もう、今日、このミサに来た、それは天国に来たも同然なんですよ。それに気づいてほしい。そして、ここから一歩、もう一歩、一緒に歩んでいきましょう。みなさんも、死にたくなっちゃった人と心を合わせて、みんなで信じましょう。神様が、今日、この日に、こんな美しい光を見せてくださっていることを、ただの偶然ではないと、そう信じます。
 いつの日か、おぼろに見ているこの世界が、すべて神様の光に満たされている恵みの世界であるということを目の当たりにする日が来るでしょう。自らの生きる意味が、くっきり、はっきりとわかって、喜びと感動に満たされる日。



2019年2月3日録音/2019年5月5日掲載 Copyright(C)2019 晴佐久昌英