福音の丘
                         

チーム人類で祈っている

年間第3主日
第一朗読:ネヘミヤ記(ネヘミヤ8・2-4a、5-6、8-10)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント12・12-30、または12・12-14、27)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ1・1-4、4・14-21)
カトリック浅草教会

 このイエスさまの宣言を、みなさんも今、聞きました。
 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4・21)
 だから今日、ここで、この言葉は実現しております。

 解放の福音ですね。私たち、みんなに与えられている救いの福音ですね。律法主義、原理主義は、「これから、これこれを守れば、いずれ救われる」という教えですけれども、私たちの信じる福音は、「もう救いは実現した!」っていう宣言ですから、今日もこの仲間たちで、それを聞いて、「よかった、よかった」と喜び、祝う。それが、私たちの教会のあるべき姿です。
 完了形でしょう? 「実現した!」
 私たちはそれを信じる仲間たちです。今、洗礼の準備をしている人がここにも何人もおりますけれども、今までは、「私は救われるんだろうか」「こんな自分で大丈夫だろうか」って心配だった人たちが、「もう救われている!」っていう福音の宣言を聞いて、「あぁ、よかった」と喜んで、信じた仲間たちと一緒に生きていこうと、洗礼を受けるんです。
 洗礼を受けたから、救われるんじゃない。救われていると信じて、洗礼を受ける。
 この福音を、特に、「まだ私は洗礼なんて考えてもいない」とか、あるいは「ちょっと迷っている」とか、そういう人たちに宣言したいです。そんな宣言を聞いて、「そうか。私は救われているんだ」「なんてことだ。なんて素晴らしい福音だ」と、安心して、信頼して、そう信じる仲間たちと一緒に生きてまいりましょう。それが洗礼っていうことです。

 パウロに言わせると、こんな言い方でしたね。
 「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらった」(一コリント12・13)
 美しい表現です。一つの体となるために洗礼を受けた。このミサは、ほとんど洗礼を受けている人たちですから、その意味では、もうここに一つの体が成立しているんですね。みんなで福音を聞いて、みんなで喜ぶ。「こんな嬉しいことはない」と。1人じゃない。
 大坂なおみがインタビューで答えてましたよね。自分のスタッフチームに向かって、「あなたたちがいたから、この私がここで戦えるんだ」と。1人で練習して、1人でテニスしてるんじゃない。それこそ、観衆の応援とか、スタッフや大勢の人たちの支えがあり、そもそも、子どもの頃育ててくれた恩師たちや家族も含めて、それこそ、1つのチーム。
 この教会の仲間たちも、洗礼によって、1つのチームになっている。チームどころか、1つの家族になっている。我々はテニスではなく、福音のために戦っているわけですが、この勝負は、必ず勝利に終わる。そのような、何ていうんだろう、「チーム全員で頑張って、勝ちをとろうぜ」みたいな前向きな気持ちっていうのは、教会には絶対必要です。
 そんな我々にとっての勝利とは何か。言うまでもなく、神の国の完成です。みんなで神の国が実現していくプロセスに協力して、みんながもっと平等になって、みんなで悲しむ人をいたわる、そういう、神の国のために働く、勝負する。そういうチームです。
 
 勝負といえば、私、先週の日曜日の夜、すごくいい体験をしました。
 その夜は、ベトナムの技能実習生の福音家族をやっていたんで、司祭館の食堂で、7、8人でベトナム料理を一緒に食べました。ベトナムの技能実習生、なかなか大変で、多額の借金背負って来てます。その彼らを応援するために、それこそ彼らもカトリック信者なんで、一つの体となるために、一緒ごはんをしていたわけです。で、ちょうどその夜、アジアカップの「ベトナム×ヨルダン」戦があったんですよ。
 この「ベトナム×ヨルダン」戦は、ベトナム人にとっては大きな出来事で、初めて、実力でアジアカップの決勝トーナメントに出場できたんです。日本が初めてワールドカップに出た時の、あのときめきを思い出していただければわかると思います。ベトナムのナショナルチームがついに初めて決勝トーナメントに出た。これは、全ベトナム、本当に嬉しかったでしょうし、ある意味、固唾をのんで、初戦の結果を見守ったわけです。
 ちょうどその実習生たちと一緒ごはんしている時にキックオフだったんで、みんなで応援したんですけど、何故だかベトナムの子たちはみんな、ベトナムは負ける、負けるって言うんですよ。(笑)謙遜な国民なのか。まあでも、日本がワールドカップに最初に出た時なんかも、出られただけでもう奇跡みたいに思っていて、よもや勝ち上がるなんて贅沢なことは考えない、みたいな感覚はあったような気もする。そういう思いだったのかもね。でも私は、「いいや、絶対、ベトナムは勝つ。信じなさい」と、そう宣言しました。するとみんな、「信じない」「信じない」って言うんです。(笑)
 そこで、私は申し上げました。「いいや、信じなさい。いいかい、見ててごらん。前半終了の直前にヨルダンが1点入れて、1-0になる。ヨルダンは喜び、ベトナムはがっかりする。しかし、後半開始早々5、6分以内に、ベトナムは1点返す。ベトナムは勢いづいて、ヨルダンは焦る。追いつかれた方は心が疲れ、追いついた方はいくぞ、いくぞの勢いで、最後の最後にベトナムが1点入れて、2-1で勝つ」と。(笑)
 なんと、まったくその通りになったんですよ。(笑)前半終了間際にヨルダンが入れた。その時はみんな、がっかりして、スタジアムではヨルダンの人たちが飛び上がって喜んでましたけれど、私はひとこと、「この喜びは、涙に変わります」(笑)
 で、後半開始早々、6分でした。ベトナムが1点返した。もう、ベトナムの子たち、「信じます」、「信じます」(笑)って。(会衆席に向かって)そう言ったのは、君です。・・・でも、ほんとに楽しかったよねぇ。
 最後の最後はPK戦になったんですけど、「よし、みんなで肩組もう」って言ってね。テレビの前で日本人とベトナム人、一緒に肩組んで、念を送って。誰も知りませんけど、あのPK戦の1点は、僕らが肩組んだからです。(笑)
 すごく楽しい体験でした。ホントに、心から、ベトナムを応援したんです。そこにいたのがヨルダン人だったらヨルダンを応援したかもしれませんが。(笑)まあ、ベトナム人と一緒に、ベトナムのごはん食べて、「僕らは家族だ」なんて言ってお祈りして、新年会やってたわけですけど、忘れられない新年会になった。勝った時はみんなで歓声を上げて、飛び上がって喜び、ハイタッチして、ハグして、ピョンピョンと飛び跳ねて。

 そのとき私、ふと思ったんですよ。トーナメントで、次にベトナムが戦う相手は、「サウジ×日本」の勝ち組なんですね。で、どっちが勝つかはその時点ではまだわからなかったんだけど、「たとえ日本戦になっても、私はベトナムを応援する」と決めたんです。(笑)そうしたら、その後日本が勝って、「日本×ベトナム」になった。でも、私はもう心に決めたことなんで、その日は、ベトナムを応援しました。こんなこと、人生で初めてですよ。「日本×ベトナム」戦で、ベトナムを応援する。それで・・・日本、勝ちやがった。(笑)悔しかった。日本が勝って、悔しい。なかなか、新鮮な体験でしたよ。
 でも、よくよく考えてみたらね、たかが球蹴りの運動会ですしね、あんまりナショナリズムに引っ張られ過ぎて、「日本、日本」って言い張るのも、どうなんだろうと。もっと、広い、透明な楽しみ方もあっていいんじゃないか。「日本、日本」って叫んでいる、その先に、もしかして、自国優先主義、行き過ぎたナショナリズム、ひいては軍国主義や戦争なんていう匂いも漂ってくるのであれば、もっと各国のみんなで肩抱き合って、相手のことも喜べるようなセンスというか、それを養うチャンスがあっていいんじゃないですか。そういう多様性における一致の練習をね、キリスト者なんていうんであれば、やっておいた方がいいんじゃないですか。
 ちょっとこう、最近の特に若い子たちはいろんな不安の中で、自分に自信つけるために、国家のアイデンティティみたいなものに依存してますけれど、言うほどのことですかね、近代国家のアイデンティティって。あまりはっきりしたものじゃないでしょ。ベトナムだって元は、南と北だったりですし、国家の国境線って常に変化してますよね。日本民族だって、色々なものが混ざり合っていて、文化だって古くは韓国、中国からすごくお世話になっている。北方四島の一体どこから日本で、どこからがロシアなのか。なんだかはっきりしない中で、権力者たちに踊らされて、経済原則のもとで、無反省に「日本、日本」なんて興奮して夢中になっていると、一番大事なことを見失っちゃわないかなと。みんな、一つの体なんであって、「この国、要らない」って言えないんですよ。「この民族、要らない」って言えないんですよ。前世紀には「この民族、要らない」って、全員収容所に入れて抹殺しようとしたなんて話、あったじゃないですか。
 パウロの言う通りです。目が手に向かって、「お前は要らない」とは言えない。(cf.一コリント12・21)現に、「要らない」って言って切ったら、自分が痛いわけでしょ。そんなことありえないじゃないかと。頭が足に向かって「お前たちは要らない」(cf.一コリント12・21)そんなこと言えるか、と。全部そろって、ようやく体になれるんだから。
 洗礼の秘密っていうのは、そこにある。「私たちは一つの体なんだ」っていう、その喜び。それこそが神の国であり、そこにおいて私たちは一つの体なんだって言える、そういう、一体になる秘跡。
 確かに大坂が勝てばね、嬉しいけれども、でも、たとえチェコのクビトバが勝っても、怪我を越えてここまで来た彼女に「おめでとう!」って言える、それがスポーツの普遍主義の良さですよね。いうなれば、「チーム・ジャパン」以上に、「チーム・人類」って言えるような、そういう神の国をやっぱり夢みたい。そんな、チャレンジを続けていくっていうのは、とっても素敵なことじゃないですか。その意味でも、教会って、いいですね。現にこうして、いろんな国の人が集まって、一緒に同じ食卓を囲んで、チーム人類で祈っている。

 この、第二朗読、もう一度読んでいただきたいんですけど、22節ですね。
 「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(一コリント12・22)
 これが体の秘密ですね。頭とか目とか、偉そうにしてますけれども、もっと、たとえば小指の爪とかだって、大事ですよ。小指の爪、はがれたら痛いですよ、相当。体は全部そろって体なんであって、しかも、他よりも弱く見える部分、それがかえって必要なんですね。
 「神は、見劣りする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。」(一コリント12・24-25)
 一つが苦しめば、全部が苦しむ。我々「チーム・人類」、ここで言えば「チーム・浅草」の仲間たち、自分たちの中で、一番弱い部分を、どうやって特別に大事にするかっていうことを第一に工夫していくと、まさしく、本当に健康な体になれる。チーム浅草なんて言っちゃいましたけど、宣教協力体でいえば、浅草、上野、本所の「チーム下町宣教協力体」ですね。
 今日、いらしてますかね・・・いた、いた。本所教会でいつもミサに与っている仲間がいらしてます。現在は入門講座が本所にはないので、浅草の入門講座に出ている方です。同級生たちと受けたいということもあって、浅草教会の復活の主日ミサで洗礼を受けます。だけど、籍は、本所教会になる。ただ、同期生が復活徹夜祭に上野で洗礼を受けるので、復活徹夜祭は上野のミサに参加する。翌日、浅草で洗礼を受けて、所属は、本所。(笑)いいじゃないですか。なんか、そうやってこう、お互いに弱点を補い合って一つの体として成長する教会。いたずらに線を引いて分けたり、「ここだけ」って言い張ったり、なんか、人ってすぐに群れて、閉じこもって、自らを絶対視するっていうクセがありますけど、キリスト教はそういう「罪」から自由に解放されていくってところが、やっぱり素敵だなと。

 第一朗読の最後のところは、これもまた、美しい表現がしてありました。律法が宣言されたその日に、良い肉を食べて、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、分け与えてやりなさい、と。(cf.ネヘミヤ8・10)
 美しいですね、ここね。新約でいうならば、律法ならぬ福音が宣言された日ってことでしょうけど、神の愛によって、私たちはみんな救われている、一つの体にしてもらえた、その福音を信じて、「こんな聖なる日に僕らは良い肉を食べよう」と。そして、「持ってない人には分けてあげよう」と。そういう一緒ごはんね。具体的に、どんどん広めていったらいいと思う。
 昨日の上野のうぐいす食堂でも、ホームレスの方がまた大勢来てくれて、嬉しかったですけど、以前話しましたよね。ホームレス支援の雑誌、ビッグイシューを売って、なんとかお金稼いでいる人が、みんなにたかられて苦しんでいるって。人がいいもんだから、稼いでも稼いでも、「貸して」「貸して」って仲間たちにどんどん持っていかれて、「生きていても、しょうがない。もう死にたい」って、以前そう言ってたんですよ。それで、スタッフがなんとか彼のささやかな収入を守る相談をしてたのに、行方不明になっちゃった。いつもの駅前にいない。うぐいす食堂にも来なくなっちゃった。みんなでとても心配してたんですけど、昨日、現れたんですよ、久しぶりに。嬉しかったねえ。私、彼の顔を見て1分立たないうちに、その日来てなかったスタッフに、LINE送りましたよ。「彼、来たよ!」って。
 ホームレスの方と知り合って、一緒にごはん食べて、その人の悩みを知り、その人が来なくなっただけで心配して、また来てほしいと祈ってるっていう、その感覚がね、すごく私は嬉しいんですよ。一人のホームレスのことを、「また来てほしい」って願い、来てくれたらホントに喜べるっていう、現実の感覚ですね。昨日はおせち料理、日本酒、筑前煮とご飯、銀鱈西京漬け、その上お雑煮、そして白玉ぜんざい。みんな満腹。
 書いてある通りです。
 「(行って)良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない物には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミヤ8・10)

 
 「今日、あなたがたが耳にしたとき、神の国が実現した」と。(cf.ルカ4・21)
 今日、ここに私たちがいるっていうことほど、素晴らしいことはありません。みなさん全員で、一つの体です。誰を見ても、「これも私の一部だ」と思えないようなら、もはや体の意味がない。


2019年1月27日録音/2019年4月5日掲載 Copyright(C)2019 晴佐久昌英