福音の丘
                         

神のことばは実現する

待降節第4主日
カトリック浅草教会
第一朗読:ミカの預言(ミカ5・1-4a
第二朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ10・5-10)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ1・39-45)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 

 いやあ、寒いですねぇ。だいじょうぶですか、みなさん。私は昨日、寒い中うろうろして、もう少しで風邪ひくとこでした。午前中から歩き回って、午後は上野で待降節のゆるしの秘跡のあと、うぐいす食堂で路上の方たちに食事をふるまい、それからいやしのミサをやって、そのあと浅草に移動して、信者ではない方中心の福音家族。寒い中あれこれがんばりすぎて、夜には頭痛が始まったんで、「あ、これ、やばいな」って早めに寝ました。ぐっすり寝たら、今朝はスッキリさわやか。良く寝たあとのさわやかな気分、声に現れてますでしょう?(笑)。
 まあ、でもね、こうして教会のため、福音のために奉仕できるってのは幸いですよ。さっき、エリサベトがマリアさまに言ってました。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ1・45)。信じた方は、幸いだ、と。だけど、その幸いのためには、まずは主の言葉を信じなきゃならないし、信じるためには、まずは主の言葉を聞かなきゃならないじゃないですか。聞いてないものを、どうして信じられますか。だから、みんなを幸いにするためには、「神のことばを聞かせる」のが、ほんと大事なことだし、聞かせるために「神のことばを携えて出かける」、「神のことばの元へお招きする」っていうのも、とっても大事な奉仕なんです。ある人にとっては、そうして神のことばに触れたことによって人生がまったく変わってしまうってことが、確かにありますから。それを思うと、寒空の下でがんばって福音に奉仕するのって、大切な使命、使徒職だと思います。
 
 今、私、毎晩感動しながら、浅草教会の庭の馬小屋の電飾を眺めてます。素晴らしい。まだ夜に見てないっていう人、います? 一生後悔しますよ(笑)。これ見ないと。ほんとに素晴らしい。ベトナムの子たちがね、一日中熱心に、それこそ寒空の下で何日もかけて、作ってくれました。楽しそうにね、一日中、笑い声が絶えなくって。若い人たちがあんなふうに楽しく準備してたら、道行く人も幸せになるし、教会の印象もちょっとは明るくなったんじゃないかな。繰り返しやり直しながら、脚立に上って星のところを少し変えたり、何度も離れて見ては、「もう少しああした方がいい、こうした方がいい」って、夢中になって準備してくれました。あれは、みんなを幸せにしますよ。
 気持ちが表れるんですよね、こういうことって。本気を出すと、必ず伝わります。高く掲げた星のキラキラ。暗がりに浮かび上がる、洞窟の中の聖家族。庭いっぱいにロープを張って、無数の豆球をぶらさげて。司祭館の二階にいると、道行く人がみんな、足止めるのが見えるんですよ。「お、すごい」「きれいだねー」とか、語り合う声も聞こえますし、スマホで写真撮ってる人も多いし、それこそSNSで拡散してるんじゃないですか。「うちの近所の教会。めっちゃキラキラ」とかって(笑)。それはもう、一目でわかりますから、本気かどうかって。例年それなりに電飾はしてますけど、どうしても「去年と同じでいいよね」ってことになりますから、「お、今年は違うぞ」って立ち止まらせる、その「本気度」が、人の心を動かすんですよね。それこそ、福音のための立派な奉仕です。
 
 実際ですね、木曜夜の入門講座に一人の若い青年が来たんですけど、「初めまして、ですよね」って声を掛けたら、「通りすがりに電飾見て、あんまりきれいなんで入ってきました」って言いましたよ。私、ついつい、「飛んで火にいる夏の虫ですね(笑)」とか言っちゃいましたけど。もっともこれは、電飾だけでもダメで、「わぁ、きれいだなー」って足を止めると、そこに「入門講座開催中、どなたでもどうぞ」っていうカフェボードを出してあるんです。ワナですね(笑)。それで、ふらりと入ってきたら、神父が熱心に福音を語ってるわけで、その日も、その初めてきた人向けに語りました。その方、聞きながら頷いてましたよ。「そうだ、ほんとにそうだ」みたいな感じで。さらには、講座のあとで、私の主催のコンサートのチラシを渡して、「入門講座の方は無料でご招待しますよ」ってお誘いしたら、「いいんですか!? 行きます」って言うんで、すかさずチケットを渡したんですけど、そのチケットは、同じ入門講座に参加している人で、友だちになれそうな人の隣のチケットなんです。さっそくその場で「当日は、この彼が隣です」って紹介しました。「よろしくお願いします」なんて、挨拶し合ってましたけど、どうですか、なかなか巧妙でしょう?(笑)
 そうして、その方が来月のそのコンサートに来ると、そのすぐ後ろにはずらりと、この電飾を作ったベトナムの子たちが並んでるんですよ。困窮者支援のためのチャリティーコンサートですけど、当日、困窮している当事者も招待するというコンサートですから。ベトナムの技能実習生と留学生二〇人招待しましたし、他にも難民の方二〇人、路上生活の方二〇人、心の病を抱えている方二〇人、入門講座に通っている方などなど、生活困窮の方を中心に一五〇名くらい招待しました。そんな、ちょっと小さな天国みたいなコンサートですから、その方もきっと、「ああ、自分は、神に招かれてるんだ」って気づくと思いますよ。
 ですから、ベトナムのみなさん、ありがとうございます。みなさんの本気のご奉仕のおかげで、一人、神のことばの元にお招きできましたよ。あれ、光ってなかったら、入ってこなかったんだから。そう思うと、誰かが、時には人生で初めて神のことばに触れる、その接点って、すごい重要じゃないですか。そこがつながらないと、もう二度と神のことばに出会えないかもしれない。だったら、もうちょっと光らせるとか、ちゃんとカフェボード出すとか、勇気を出して声かけるとか、チャリティーコンサートに招待するとか、なんかこう、もう少し本気でやってみようよってことですよね。それで誰か救えるかもしれないんだから。私たちはただもう、聖母のように、「神のことばは必ず実現する」と信じればいいんです。「そのことばに奉仕したい」、「そのことばを聞かせたい」という、本気の思いを持って。
 
 昨日、いやしのミサ、「おかえりミサ」やりましたけど、来られていた一人の方のこと、ご紹介しましょう。その方、一八歳のときにお母さまを自死でなくしているんですね。これはもう、当事者でないとなかなかわからないつらさを抱えてます。自死のことって、なかなか人に言えませんからね、しかも自分の母親ですよ。まだ一八歳で、その思いを一人で背負うわけですから、つらかったと思う。そのせいもあって、三〇歳の頃に心の病を発病いたしました。これもまた、つらい。他の病気だったら、「こんなふうに苦しい」ってみんなに言えますけど、心の病は偏見もありますから、なかなか誰にも言えない。どんどん孤立していくわけです。
 ただそのころ、理解あるご主人と出会って、その方にも励まされて、彼女は勇気を振るって近くの教会の門を叩きました。教会ならこの苦しみをわかってくれると思ったからです。ところが、訪ねて行ったら、ちょうど神父がテレビでサッカー観戦をなさっている途中で、たぶんワールドカップかなんかじゃないですか、「今はそれどころじゃない」と追い返されたっていうんです。まあ、サッカーがお好きな神父さまなんでしょう、お気持ちはわからないでもないですけど、勇気振るって訪ねて行ったら追い返されるって、かなりきつい体験です。「教会からも見放されるなら、私はもう救われないんじゃないか」と思ったそうです。
 でも、おかげさまでと言うべきか、次に近いカトリック高円寺教会を訪ねてくださったんで、お会いできました。あのころは「ウエルカム教会にしよう」ってね、教会の入り口に売店をつくったり、誰でも寄れるお茶の間をつくったり、ともかく苦しむ人を受け入れよう、孤独な人に神のことばを知ってもらおうって、教会あげてお招きしてました。実際、毎年八〇人とか九〇人とか洗礼を受けてましたよ。「神のことばに出会う」ことが、どれほどすごいことか。その言葉を「信じます」と言って洗礼を受けることがどれほど恵み多いことか、私は知っています。彼女は土曜の夜に最初に来て、「ここならだいじょうぶだ」と思って、翌日の日曜日に、人生初のミサに参加しました。そこで神父の説教を聞き、福音を知って、「ああ、私は救われた」と、「イエスさまに出会えた」と、そう思って、翌年洗礼を受けました。
 そうは言っても心の病は続きますし、そのあと悪化して家から出られなくなり、次第に教会に来られなくなり、今年まで一五年間、教会から離れてしまいました。ただ、その間、私が多摩教会に移ってから、「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会」とか、「心の病で苦しんでいる人のための夏祭り」とかをやってたんですけど、そこには、というか、そこにだけは来られたんですよね。細い糸一本のつながりです。「心の病で苦しんでいる人のための」っていう冠がついてますから、「ここなら行ける」っていうことで、なんとか出てこられたんですけど、とってもうれしかったそうです。
 それが、今年になってから特に調子が悪くなって、ついには入院の話が出てきました。それは彼女にとっては相当な衝撃で、もう自分なんかは救われないんじゃないか、神さまなんかいないんじゃないか、そういう思いが極まったのが、先月の一一月です。悪循環で、入院は嫌だと錯乱し、そうするとますます入院しかないってことになり、でも絶対にいやだ。主治医との信頼関係も崩れて、孤立して、ますます錯乱する。入院すると、最初はカギのかかる保護室に入ったりしますから、それこそ私みたいに閉所恐怖があると耐えられませんよ。心の病って、いい環境なら自然と癒しの力がわいてくるんだけど、悪い環境だと、「錯乱する、仕方がないから拘束する、それでもっとおかしくなる」っていう悪循環になっちゃうんです。彼女にとって、そんな天下の分かれ道みたいな日がありました。医者からの電話で混乱し、錯乱し、ご主人も「入院やむなし」って思っちゃって、彼女は孤立して叫び、暴言を吐いて暴れた、絶体絶命、人生最大のピンチの日。一一月二二日です。
 そのとき、錯乱する彼女をケアしていた、普段は穏やかなご主人の口から、突然強い調子の声があふれ出てきたんですって。信者じゃない方ですよ。これはどうしてなのか、ご主人本人もわからないって言ってましたけど、自分の口から霊的なことばがあふれてきた、と。「あなたは今、悪霊につかれている。こういうときは祈りしかない。聖書を黙想しなさい」とか、いろいろと霊的な言葉がご主人の口からあふれてきた。教会のことをほとんど知らないご主人だったんで、彼女はびっくりして、これは神の声だと思ったそうです。するとまさにそのとき、一五年前に高円寺教会で洗礼を受けたときの代母の人からメールが入ったんですって。「今日はあなたの洗礼名のお祝い日です。おめでとうございます。いつもあなたのためにお祈りしてます」っていう、お祝いメールです。一一月二二日、誰のお祝い日かご存じですか? そう、セシリアですよね。本人はそんなこと忘れてたわけですけど、彼女は信じました。「これは神のことばだ。神はおられる」って。信じた途端に、錯乱はすっかり収まって、入院しないですんだだけでなく、その日から病気がどんどん落ち着いて、医者も驚いているそうです。
 
 「神なんかいるものか」って思うことはあります、確かに。苦しけりゃ、そうですよ。しかし、なんらかのしるしを見せてくださるんですね、神って。「わたしはいるよ」っていうしるし。「あなたを愛しているよ」という救いのことば。それを見逃しちゃだめです。彼女は、ご主人の口から出てきたことばを、神のことばとして聞きました。代母からのメールを神のことばだと信じました。ここが肝心。「夫までおかしくなった」ではなく、「こんなの偶然のメールにすぎない」でもなく、「これは、神からの救いのみことばだ」と、信じた。それで、その日、その場で彼女は私に電話してきたんです。「今、神秘的な体験をしました。神のことばを聞きました。ぜひ洗礼を授けてくださった晴佐久神父からゆるしの秘跡を受けて、教会に戻りたい」と。そのときは、私はなんのことやらわかりませんでしたけども、先日お会いして、すべての事情を聴き、ゆるしの秘跡をお授けいたしました。
 ゆるしの秘跡ってね、いうなれば、再洗礼なんですよ。洗礼を受けたけど、教会から離れちゃうことは、あります。でも、洗礼の恵みは決して消えませんし、その恵みは長い年月をかけて育っていくんです。「晴佐久神父は洗礼を簡単に授けすぎる」とか、「ほら見ろ、洗礼を受けても教会に来なくなったじゃないか」とか、一人一人の事情も知らずに批判する人もいますけど、私はむしろそう言う人のことを心配します。だって、神の業を批判しているわけですから。一五年、待ってればいいんです。教会離れて五〇年後の聖体拝領ってのも経験したことありますよ。
 その方が、昨日のいやしのミサに来られたんです。本当に久しぶりに聖体拝領をしておりましたよ。ぼろっぼろ泣きながら。ご聖体渡すほうもね、「ほんとによかったねえ」って感動しますし、これ、人間がどうこうしてる話じゃないですよね。ちゃんと聖霊が働いているんです。私なんかは、ただそれを証しするだけで、「神のことばは必ず実現する」ってことだけは、ちゃんと信じていただきたい。彼女はこれから、主日のミサに毎週通うと言っておりますが、今日は浅草教会に来ております。そこに座っておられます。あなたにとっては久しぶりの主日ミサですね。でも、ほんとによかったね。あなたには、私が確かに、洗礼を授けました。二〇〇七年。あの年の受洗者たちも忘れられません。確か八五人だか、九〇人だかいましたけど、あなたは、あの長い洗礼式で、一番初めに受けたんでしたよね。それも尊いしるしです。そのあと、どんなにつらかったかを、神はすべてご存知です。だから、もうだいじょうぶですよ。安心してください。あなたは、「神のことばは実現する」っていうことを体験したし、信じたし、だからこのあと、また試練があったとしても、だいじょうぶです。いつの日かあなたに贈られる天上の洗礼を受けるその日まで、安心してご聖体につながっていていただきたい。
 
 さあ、クリスマス。浅草教会に、いろんな人がやって来ますよ。「神のことばを生まれて初めて聴く」っていう人もいるんじゃないですか。それがどれほど尊い、大いなる出来事か。考えてみてください。こうしている今、まだその人は聴いていないんですよ。もうすぐ、クリスマスの夜、美しい電飾につられて入ってきて、福音を聴いて救われるかもしれない。なんと幸いな恵みでしょう! 楽しみでしょうがない。



2021年12月19日録音/2022年2月22日掲載 Copyright(C)2019-2022 晴佐久昌英