福音の丘
                         

自分自身に傷を残したい

待降節第3主日
カトリック上野教会
第一朗読:ゼファニヤの預言(ゼファニヤ3・14-17
第二朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ4・4-7)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ3・10-18)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 

 いかがですか、バラ色の祭服、きれいでしょ? これ、中国センターが貸してくださいました。待降節第三主日、「喜びの主日」の典礼色です。素直に喜びましょうね。ちょっと喜びが足りないですから、私たち。神さまは、喜ぶべき条件を全部整えてくださっているのに、私たちが何だか疑って、勝手に怖れて、しまいに悲しみ始める。喜びを無駄にしてしまっていませんか。待降節の味わいは、「もうすぐ主が来られる、いやもうすでに来ている」っていう喜びにあります。神は私たちを、もうすでに愛しています。その愛の中で、私たちも神を愛します。そんな喜びに満ち満ちた日々を過ごしつつ、クリスマスを迎えます。
 
 ただですね、この喜びには秘密が隠されていて、私たちが神に愛される喜び以前に、神が私たちを愛する喜びってのがあるんです。神の喜び。そこがね、喜びのカギです。今日は、神の喜びの主日でもあるんですよ。そういうテーマがね、今日の聖書にも秘められています。私たちの事を、神が喜んでいるという。
 イエスさまが「聖霊と火で洗礼をお授けになる」って言う言い方がここにありますけど、聖霊のことを私は「神の親心」って翻訳しています。お手元の「聖書と典礼」には「神のいのち」っていう解説もありました。いずれにせよ、「無償で与える、純粋な愛」のことですね。まあ、親であれば当然、わが子に命を与え、愛を与え、喜びを与えるわけで、それはなぜそうするかって言うと、与えたら自分も嬉しいからでしょう。この関係が、親子ってことであり、分かちがたい神と人の繋がりです。神は、喜びを与えます。私たちはその喜びをいただいて、喜びます。そうして私たちが喜んでいると、神もわがことのように喜びます。世界って、要するにそういうことです。
 赤ちゃんが笑っていると親も笑顔になるじゃないですか。洗礼っていうのは、ただの教会加入式じゃなくて、神という親と、私たち神の子とが、本当に親子の愛で結ばれて、一緒に喜ぶ。その喜びを目に見えるしるしとして表すことなんですよ。ですから、今洗礼準備している方に申し上げたいのは、みなさん自身が「洗礼を受けることができて嬉しいな」と感じてるでしょうし、教会の仲間たちも「洗礼授けることができて嬉しいな」と思うわけですけど、実は洗礼式でみなさんが水をかけられてるときに、一番喜んでるのは神さまだってことです。
 そもそもあなたがこの世界に生まれたときに、神さまは喜んでます。生みの親ですから。だけど、わが子がその親の愛に次第に気づき始め、やがてニッコリして「ママー」なんて呼ぶとき、ほんとに親は嬉しいじゃないですか。生まれてきたときももちろん嬉しいんだけど、ちゃんとこの親に気づいて「ママー」なんて言ってくれると、ほんとに嬉しい。洗礼はね、神の子が親の愛に目ざめて、「あなたこそ私のまことの親です、あなたの愛を心から信じます」って言うとき、すなわち、神に向かって「ママー」と呼びかける、そういう儀式ですね。ですから、地上での洗礼を受けようと受けまいと、もうすでにわが子を生んだ親の愛と喜びは何も変わらないんです。ただ、子どもの側で、その愛に目ざめて「ママー」って呼びかける、「天の父よ」って祈る、そのときは、いっそう喜んでおられます。
 その意味で言うと、イエス・キリストは長男みたいなもんなんですね。親の愛に完全に目覚めている長男。その長男が、親と心をひとつにして、親に成り代わってね、弟や妹たちに、パパとママの愛を一生懸命伝えてるってわけです。「パパとママはこんな素晴らしいんだよ、こんなに優しいんだよ」って事を、それこそ命がけで教えてくれて、それで弟や妹たちは「分かりました、信じます」と言う、そのとき長男はもちろん、パパとママはほんとに喜ぶんです。
 洗礼式のとき、そんな、神の喜びってことをイメージしてほしい。洗礼を受ける前から、自分が生まれて来て生きてるだけで親は喜んでいるし、洗礼を受けるときすなわち、パパ、ママ、愛してるよって言うとき、いっそうパパもママも喜ぶっていうイメージです。まあ、そのために生んだようなもんですから。子育てって大変ですし、子どもが色々問題を起こせば起こすほど、手がかかればかかるほど親心も膨らむわけですけど、そんなわが子が「パパ、ママ、ありがとう」なんて言ってくれると、もう嬉しくて泣いちゃう、みたいな。
 
 私自身は子育てはしたことないんで、そんな喜びを体験できないというか、まあ、神父はしょうがないですけど、それでも今年は、小さな命を育てる体験をしました。
 先日友人たちを招いて小さな食事会をしたんですけど、チーズフォンデュとブイヤベースを用意したんですね。っていうのは、この春から浅草教会の屋上でプランター菜園を始めたんですけど、その収穫物を食べる会だったんです。コロナで閉じこもってたってこともあってね、ミニトマトにカラーピーマン、イタリアンパセリとかアシタバとか、シソとか。サフランも育てて、雌しべを乾燥させて、ブイヤベースに使ったし、よく育ったのはツルムラサキ、これは元気にどんどん伸びたんで、茹でて食べました。一番手間かけたのが、大好きな芽キャベツ。種から育てて、芽が出て少し大きくなったら移植してって、色々工夫してやってみたんだけど、これが、うまく育たなかった。プランターでは限界だったのかもしれない。ちゃんと肥料もやったし、手間暇かけたんですけどねえ。台風のときは室内に運び込んだりまでして。
 芽キャベツで大変だったのは、アブラナ科ですからいっぱい青虫がつくんですよ。知らぬ間にチョウチョが卵産みつけて、もう無数の青虫がわいてきて葉っぱを食べちゃう。それで、毎朝毎朝、ピンセットで取りました。一匹、また一匹って、百匹以上取ったかな。ただ、気が弱いもんだからそれを殺せなくて、屋上の端まで行ってはね、ぽいっと下の庭に落としたりして。あれは嫌なもんですね、ピンセットでつまむと身をよじるんですよ。可哀そうだけど、ごめんねって感じで、ぽいっとね。そんなに苦労したのに芽キャベツ、小指の先みたいなのしかできなくて、いくら待ってもそれ以上大きくなりませんでした。それでチーズフォンデュにしたんです。蒸して、チーズをからめて食べたら、なかなか美味しかったですよ、ちっちゃくてもちゃんと芽キャベツの味で。
 それはいいんですけど、その芽キャベツを摘むときにですね、心が痛むんですよ。あの気持ちって、何なんですかね。やっぱり手間がかかってるじゃないですか。わざわざプランターを買ってきてね。種をまいた日のワクワク感。芽が出たときの感動。台風の日は中に入れ、陽射しが強いといえば日陰に移し、毎日水をやって肥料をやって、青虫を一匹一匹取ったんです。それでようやく、ちっちゃいビー玉みたいなのが、茎の周りに並んで実ったわけですけど、それをポリっと取るときに、心が痛むんですよ。キャベツなのにね(笑)。あの気持ちは、やっぱり手間暇かけたからだし、どうせ食べちゃうにしても、情が移ってるというか、まあ、ちょっとだけわが子気分なんですよね。だって、可愛いんです。
 
 まあ、芽キャベツ育てたくらいで神さまの親心を想像するのもなんですけど、でも思うに、神さまの愛とか喜びとかって、実はとってもシンプルで、もの凄く身近なことであるはずなんですよ。そうじゃなきゃ、感じられないじゃないですか。洗礼式ってね、神の喜びをとっても単純に、身近に感じるためにやってるようなもんです。そもそも、みんなもう知ってるはずですよ、親の喜び。この世の親だって、手間暇かけるじゃないですか。みなさん、そうでしょ? おむつ替えて、ミルク飲ませて。わが子に対する愛情、それは時には執着と言っていいくらい激しいものもあるわけですけど、神さまはそれどころじゃない、それに倍する激しさで、それの何乗倍くらい手間暇かけています。ずーっと共にいて、それこそ青虫一匹一匹取るみたいに、一人一人のわが子を愛して育ててきました。それはもう、みなさんの肉親以上に、身近です。たとえイメージできなくても、事実は事実です。
 洗礼式っていうのはね、そんな親心に全面的に信頼して、ここから先はもう、私を愛するこの神をこそまことの親として生きるっていう、ある意味出家なんです。ま、血縁の親もいるんだけれど、洗礼から先は、神という親と共に生きてその親の喜びとなっていく、そんな親子関係を生きていきます。神さまにだって育てる喜びがあるんだから、ポンと子どもを産んでそれで終わり、じゃないでしょう。育てるプロセスを忍耐強く楽しんでおられるし、育ってくれると本当に喜んでおられる。
 今、洗礼面談って言うのをやってますけど、洗礼に至るそれぞれのプロセスを聞くとやっぱり感動しますよ。一人一人、色んな人生を生きてきて、キリスト教に出会って救われて、迷いながらも洗礼を決心して。それはやっぱり、神のわざなんですね。神の招きであり、神と人がほんとに親子として結ばれる、そこに神ご自身が導いてるんですよ。神が、育ててるんです。そこに感動する。洗礼を受けているみなさんも、神がそこまで育てたってことで、神にとってはご自慢のわが子なわけです。
 何日か前に面談して、洗礼許可を出した青年がいるんですけども、面談のあと、ちょうど信者のみなさんが別の部屋でお祈りしてたんで、そこに連れて行って、「今、この彼に洗礼許可を出しました。この教会に新しい子が生まれますよ、みなさんで受け入れてくださいね」って報告しました。喜びの報告ですね。まだ洗礼前だから、誕生の報告じゃないですけど、妊娠の報告みたいな(笑)。子どもが生まれますよってね。そこにいたみんなで、「おめでとう」ってね、一緒に感謝のお祈りをしました。ほんとに嬉しい事ですから。
 その彼の洗礼動機なんですけど、ちょっと感動的なんです。「自分は長いこと引きこもりだったし、どれだけ寝たか分からないくらい寝ていた。人生において、様々なことにずっと悩んできた。だけど、キリスト教に出会い、自分の絶望を救うのは神の愛しかないって言う信仰に導かれた。自分はもうその神の愛に救われていると信じることができたので、洗礼までは受けなくてもいいとも思ったんだけれども、やはり受けることにした。それは、洗礼によって、自分自身に良い意味での傷を残したいからだ」と、そういうようなことなんですね。感動したのは、「自分自身に傷を残したい」っていう、その覚悟です。本人はそのことを、「自分はこれからも悩んだり絶望したりする事もあるだろうけれど、そんなときに、神との切っても切れない絆を思い起こして、神の愛を信じ切る、洗礼をその消えないしるしにしたい」って、言ってました。
 それを聞いて、私、イエスの傷を思いました。イエスが十字架上で傷を負っているのも、あれはもう、覚悟の傷ですよね。自ら傷を負ったんだから。神の愛のみを完全に信じ切る、あの十字架こそがイエスにとっては最終的な洗礼になってるんですね。神と結ばれる、目に見えるしるしなんです。この傷によって、私は神の愛に打ち付けられるという覚悟ですよ。ほら、腕に入れるタトゥーとかあるじゃないですか、彼女の名前をね(笑)、腕に刻みつけちゃったりして。で、別れちゃったりして(笑)。消すに消せない。まあ、若気の至りでね、ついつい盛り上がってとか、分からないでもない。愛なんて目に見えないですからね、何か消えない形にしたいと。まあ逆に言うと、イレズミしなきゃ心配な程度の愛なのねっていう(笑)。だけどね、本当はあれ、心配だから刻みつけるんじゃなくて、刻みつけた以上は死んでも別れない、っていう覚悟を表してるはずでしょう?
 そうそう、私、子育てした事ないって言いましたけど、実は一人育てた子がいるんですよ。私の説教の最多登場人物で、ご存知かもしれませんけど、家出して転がり込んで来て、もう一〇年前からずっと世話してきた子ですけど、うつで苦しんで、自殺未遂してっていうのを、まあわが子同然なんで、なんとか自立するまで育てました。もう、思い出すと大変でしたけど、まあなんとか今は元気でやってます。その彼がですね、あるとき腕にタトゥーを入れてきて、それが私の名前なんです。名前っていうか、彼は私を「はれれ」って呼んでるんですけど、それで「800」が、シンボルの数字なんですね。ちなみに私の車のナンバーもずっと800にしてるんですけど、その800をタトゥーにして、「はれれをタトゥーに入れてきた」って。正直、ちょっと、引きましたよ(笑)。おいおいって思いましたけど、よくよく聞けば、それが彼の覚悟なんですね。彼の思いの中では、もう、私が教会のシンボルなんですよ。彼をカトリックの信仰に招き入れたのは私ですし、タトゥーは、彼にとっての洗礼みたいなもんで、神を信じるその信仰からもう決して離れない覚悟の表現なんだと。彼はもう、僕から聞いた福音を信じたし、福音家族との繋がりを信じたし、もうそこから離れない。それは彼の命を救った信仰であり、彼を今も生かしている教会であり、福音家族の仲間たちであって、そこから生涯離れない、そのしるしなんです。
 
 どうですか、洗礼を準備しているみなさん、本物の覚悟が必要ですよ。「いい意味で傷を残す」覚悟、ありますか。でもそれは、自分で刻むんじゃない、神さまが刻んでくれる傷ですし、それどころかですよ、神さまご自身も自分に傷を残してるんですね。イザヤの預言にありますでしょ、四九章ですか、みんな勝手なこと言ってね、神は私を見捨てたとかっていうけど、神は言います。「母親が自分の乳飲み子を忘れる事があるだろうか」と。「自分の産んだ子を憐れまないだろうか」と。「たとえ母親たちが自分の子どもを忘れたとしても、わたしは決してあなた方を、忘れない」と。そして言うんです。「見よ、わたしはあなたの名をわたしの手のひらに刻む」。美しい宣言ですね。タトゥーなんですよ。消えないんです。刻んじゃったんだから。
 親としては、子どもを産むのって命がけですし、あなたを生んだのは、傷を覚悟の上なんです。子どもにしてみたら、親ガチャじゃないですけど親を選べませんから、その親を信じてついていくしかないわけですし、もしもその親が本気じゃなかったら、絶望しかないでしょう。しかし、安心してください、まことの親である神は、あなたの名前を自分の手のひらに刻みつけています。それほどに愛しているわが子が、自分の愛に目覚めてくれた、そのしるしとしての洗礼。みなさんが洗礼を受けるとき、神さまは泣いて喜んでますよ。 



2021年12月12日録音/2022年2月15日掲載 Copyright(C)2019-2022 晴佐久昌英