福音の丘
                         

これこそキリストさまの愛だ

待降節第2主日
カトリック上野教会
第一朗読:バルクの預言(バルク5・1-9
第二朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ1・4-6、8-11
福音朗読:ルカによる福音(ルカ3・1-6)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 

 みんなで声を合わせるのって、いいですね。長いこと唱えたくても唱えられなかったし、歌いたくても歌えなかった日々が続きましたから。せっかく洗礼を受けて、みんなで集まって感謝の祭儀を捧げてるんだから、声くらい合わせたかったですけど、なかなかできませんでした。今日はもう、みんなで声を合わせて、私たちの祈りを神さまに向かって、まっすぐに届けましょう。
 昨日は浅草教会でご葬儀があったんですけど、ご葬儀でも久しぶりにみんなで歌いました。「いつくしみふかき」とかね、やっぱり声を合わせると違いますよね。心がひとつになるというか。特に昨日は、亡くなった方の奥さまが、「主人がとっても好きだった聖歌を歌ってほしい」ってことで歌ったんですけど、それが「主よみもとに」なんですよ。「しゅーよ、みもーとに、ちーかーずかーん」……ご存知、ご葬儀でよく歌われる歌です。亡くなった方はずっと闘病なさっていたので、もしかするとご自分の葬儀のことを思い巡らしていたんでしょうか。とっても好きな聖歌が「主よみもとに」だったっていうのが、心に残りました。昨日も歌いながら、いい曲だなあ、って思いましたよ。「主よ、みもとに、近づかん」。それこそは、信仰の基本です。この世を離れる時だけでなく、僕らは生きている以上、日々みもとに近づいているわけですし、「のぼるみちは、十字架にあり」ですから。主に向かう道を、一緒に希望をもって歩んでまいりましょうっていうことでしょう。
 実を言えば昨日のご葬儀は、個人的にはとっても切ないご葬儀でした。おととし浅草教会で、私が洗礼を授けた方なんですよ。穏やかで、優しい方でね、私、大好きでした。素直で、まっすぐなんです。私、自分がひねくれてるからだと思うんですけど、素直な人、まっすぐな人と一緒にいると、幸せな気持ちになってね。彼とお話するのが、楽しみでした。あの頃はまだ、入門講座でも「一緒ごはん」をやってましたから、食事しながらいろんな話もしましたし、彼も喜んで私の話を聴いてくれました。神父はせっせと福音を語るわけですけども、素直にそのまんま受け止めてくれると、こっちも素直に嬉しくなるもんなんですよ。ああ、神父やっててよかった、福音を語ってきてよかったって思えますから。
 彼は、教会に来始めたころは、洗礼を受けようとは思ってなかったんですね。だけど、繰り返し福音を聴き、福音を信じる仲間たちと出会い、家族的に食事を重ねていくと、心が動いていくわけですよ。ご葬儀の前に、改めて受洗前の面談ノートの彼のところを読んでみたら、そのことが書いてありました。「通っているうちに、素直に洗礼を受けようという思いになりました」って。彼は、元気だったときは意気揚々と働いていたんですけど、ご両親が病気になり、叔父さんや叔母さんも入院し、何もできずに悩んでいるうちにうつっぽくなり、自分も病気になり、そんなとき、教会の聖堂に座って祈ったり、ミサに出たりするととっても癒されるし、なによりも心がリセットされて、ずいぶん救われたと。さらには、私の入門講座では「すべての人はもうすでに救われている」と聞いて、それが身に染みて理解できたそうです。そうして信者のみなさんと交わるうちに、もしもこんな救われた気持ちがずっと続くようなら洗礼を受けようかと思い、実際にそれが一年半続いたので、本当に素直に洗礼を決心したと。
 どうですか、みなさん。みなさんもね、いろいろあるでしょうけど、ミサにあずかれば、癒しの力が働きますよ。リセットされますよ。いろんな悩みから解放されるというか、邪魔なものが取り払われて、素直になる、まっすぐになる。まっすぐになれば、いろんなものが流れる。聖霊の息吹を感じる。イエスさまが来られる。邪魔なものが取り払われて、神の愛がまっすぐに届く。彼がミサで直感したのは、それだと思うんですよ。世の中はいろんな邪魔な物で詰まってますけど、ミサに来れば、そこは癒しの場だし、リセットのときだし、人間の本来というか、愛の本来というか、命の本質に触れることができて、リセットされる、そんな思いがずっと続いたので、彼は素直に洗礼を受けようと思いましたって。
 洗礼式は、一昨年は浅草教会の復活の主日のミサでやりました。でも彼は、その前日、上野教会の私が司式していた復活徹夜祭にも来てたんですよ。上野のみなさんともすでに教会家族だったってことです。昨日は奥さまが「家族葬にしたい」っておっしゃるので、「教会家族葬」にしました。信者ではない奥さまが、コロナ禍ということもあって、すでに火葬なさってたんですね。でも、ご主人が洗礼受けてるってことで、教会でちゃんとお祈りしてほしいって連絡がきたので、「私たち教会の仲間たちは家族ですから、お骨を囲んでの家族葬のミサをいたしましょう」って申し上げて、それで昨日の葬儀ミサだったんです。実際にはどこかで聞きつけて職場の方も大勢来られたんで、集まった方々に、カトリック教会というものは血縁を越えた家族だ、このミサに出ているみなさんもすでに家族だ、というお話をしました。「今日初めて教会に来た方もおられるでしょうが、かつてこの教会を訪ねてきた故人のように、みなさんも悩んだり困ったりすることがあったら、ぜひお訪ねくださいね。もう家族なんですから」って申し上げました。奥さまも、教会でミサができて、とても安心しておりました。
 
 今日の福音書に、洗礼者ヨハネが「悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(ルカ3・3)、とあります。洗礼っていうのは、どういうことか。この洗礼者ヨハネのことをイザヤが預言してるわけですが、それは「主の道をまっすぐにすることだ」と。谷を埋めて、山を低くして、曲がった道をまっすぐに、でこぼこの道を平らにする。「通り道」ってことです。通るって、何が通るんですか。救い主が通る。神と人が通じるんです。邪魔なものを取り払えば、神の救いとまっすぐにつながって、神を仰ぎ見ることができる。洗礼って、みなさんも受けているわけですけど、普通には、ちゃんと勉強して教会にもなじんで、信者にふさわしい生活をして洗礼を受けるものだって思ってるかもしれませんけど、逆なんですね。むしろ、こんな自分はダメだっていう思い込みや、自分は何も分かっていないからふさわしくないとか、そういう囚われを取り払って、神の愛を素直に受けてまっすぐになると、神の救いを仰ぎ見ることができる。聖霊がまっすぐにやって来て神の子となる。イエスと結ばれてその境地に入ることが、洗礼を受けるってこと。
 洗礼を受けた人たちがこうして集まっている、このミサは、元気に立派に生きているつもりの、世間の価値観とは全然違うんです。自分そのまんまで、素直に、天に直結。自分らしくない邪魔なものを取り払って、素直に神の愛を受け止めます。私たちは愛されているんだ、私たちは家族なんだ、助け合う仲間だ、素直にそう思った人たちが洗礼を受けて、神さまの御前で正直に「こんな自分だけれど、よろしくお願いします、救ってくれてありがとうございます、あなたの愛を信じます」と、心を開く。本当は素直になるのって、そんなに難しいことじゃありませんよ。ヨハネの洗礼も、大勢の人が来て次々受けてますけど、長い講座を受けてから水かけてもらうってわけじゃない。素直に改心して、神さまに心を開いて、本来の人間のまっすぐなものを取り戻そうとする、シンプルな洗礼です。待降節は、このまっすぐさを取り戻すとき。
 
 昨日のご葬儀の前ですけど、洗礼面談もありました。司祭としては、洗礼面談で洗礼許可を出すときほど嬉しいことはないんです。洗礼を願い出た人に、面談して洗礼許可証にサインして渡す、そのときにその人は正式に洗礼志願者となる条件が整う、ほんとうに嬉しい瞬間です。今日、そういえば宣教地召命促進の日ですよね。宣教地での、宣教するキリスト者の召命を促進する日でありますけど、宣教地ってどこの国のことですか、みなさん。まずは、日本です。ここって、宣教地でしょ? 一パーセントしかキリスト教信者のいない国って、どう考えても宣教地です。つまり、どこか遠い国の召命を願うんじゃなくて、日本での召命を促進するっていう話。今日、拝領祈願のあとでそのための祈願をするんですけど、その中に、「司祭が喜んでいる姿が、召命に繋がりますように」っていう言葉が出てきますよ。司祭が、喜んでいる姿。大切ですね。そりゃあやっぱりね、神父がつまらなそうに生きていて、疲れた顔でイライラしながら文句ばっかり言ってたら、誰もついてきませんよ。人のこと言えませんけど、少なくとも私から若い方に言いたいのは、司祭として洗礼授けるときって、本当に嬉しいんですよ、喜びがあるんですよって、これは申し上げておきたい。
 昨日ご葬儀した方もね、私が、洗礼証明書にサインしたんです。洗礼面談の記録にも彼の言葉が全部書いてあります、「福音に癒されて、救われた、素直に信じて洗礼を受けたい」って、彼はそう思ったんです。その二年半後には亡くなってしまって、切ないし残念ではあるけれども、その2年半の間、それは彼にとっては「主よ みもとに 近づかん」という、とても幸いな日々だったはずですし、彼をその主のみもとへお招きできたことは、司祭として大きな喜びです。そのうち私も天に召されて、彼とも再会するわけですし、彼は「神父さん、福音を伝えてくれてありがとう」って言うでしょうし、私は「いやこちらこそ、洗礼を受けてくれてありがとう」って言うでしょう。ね、洗礼は大きな恵みですよ。ここは宣教地なんだから、もう少しみんなで信じた喜びを、素直に、正直に表明して、主の道をまっすぐにして、救いを求めている人に神さまの恵みがちゃんと届くように働きましょうよ。
 その、昨日のご葬儀の前の洗礼面談ですけど、これがね、本当に嬉しかったんです。洗礼を申し出てくれたこと、何よりも教会を信じてくれたことが、嬉しかった。洗礼面談のときはいつも受洗動機書というのを書いて出してもらうんですけど、そこにいきさつが丁寧に書いてありました。本人がそれをみなさんに言ってもいいって言うんで、ここで分かち合いましょう。
 その方は、長い間、病院の精神科に入院してたんですね。だけど、いろいろとつらいことがあって、逃げ出しちゃったんですよ。「逃げる」って言うのは違うな、どこに入ろうとどこから出ようと、自分のことを自分で決める権利はありますから、「もうここにはいられないと決心した」ってことですね。扱いがひどかったってこともあるし、病院側に携帯を預けてあったんだけど、思い出があってとても大切にしていた携帯のストラップを、誰かに勝手に切りとられてしまっていたとか、様々な理由もあって、ともかく出て行こうと。でも、その方は、出ても行くところがないんです。そういう人、少なくないですよ。行くあてがなくて、仕方なく精神科に長期入院している人って。その方も頼るところがなかったんだけど、勇気を振り絞って飛び出しました。そうすると、そのままだと路上生活になってしまうわけで、さらに勇気を出して、とある教会に飛び込んだんですね。「泊るところがありません、何とか助けてください」って。ところがですね、「うちでは対応できない、そういう話なら晴佐久神父の所に行くといい」って言われたと。
 そういうこと言う教会、少なくないんです。何もしないで「あそこに行け」って。実際にそう言われたっていう人が結構来ます。まあ、そういう風に思われてるっていうのはね、私は名誉なことだと思いますけど、これって良く言えば「ご案内した」、悪く言えば「丸投げした」っていうことですかね。まあでも、おかげでこの上野教会に来てくれたんで、私は当面の宿代を御用立てして、食品を援助して、急場をしのいでいただきました。そのうちに、上野教会の近くに住みたいということで、区役所の福祉に相談して近くに住まいを得て、晴れてこの教会に通うようになり、入門講座にも熱心にいらして、そして昨日の洗礼面談だったんです。受洗動機書には、こう書いてありました。「見ず知らずの人をそこまで助けてくれる教会という所に感銘を受けて、これこそキリストさまの愛だと信頼して、私も求道者となり、洗礼を受ける決意をしました」。
 こんな嬉しいことないですよ。宣教地で、キリスト者に出会い、「これこそキリストさまの愛だと信頼して、洗礼を受ける決意をした」。でも、よく考えると、私たちもみんなそうだったんですよね。特に戦後の日本なんか、宣教師たちのおかげで、キリストさまの愛とはこういうものかっていう体験をして、洗礼に導かれたじゃないですか。かくいう私の母だって、そうですし。司祭に、キリスト者に、救われる。救われて、素直に、信じる。「見ず知らずの人を、そこまで助けてくれる教会に感銘を受けた」っていうのはうれしかったけど、私、昨日、その方に申し上げました。「見ず知らずって言えばそうかもしれませんけど、私は初めて会ったときから、ああこれは神さまが出会わせてくださった家族だと思ったし、当然のこととしてお世話しただけです。それに感銘を受けてくれたのは嬉しいけれど、キリスト教信者が困っている人をお世話するのは、ごくごく当たり前のことなんですよ」と。そうでしょう? 私は、そう思う。そして、「多分、携帯のストラップを切ったのは、聖霊だったんですよ、だっておかげでここに導かれて、洗礼を受けることになったんですから。もう安心して洗礼を受けて、これからは何があっても大船に乗った気持ちで、信仰生活を歩んでくださいね」と申し上げました。
 来年の復活祭の、洗礼式です。楽しみですね。上野教会の次の復活徹夜祭は、私の司式です。昨日のご葬儀の方が、三年前、浅草教会での受洗の前夜に参加していた、上野教会の復活徹夜祭です。受洗者の上に、神さまの力がまっすぐに働く瞬間です。どうぞみなさん、受洗者のためにお祈りください。曲がった道を、まっすぐに。でこぼこの道を、平らに。人はみな、神の救いを仰ぎ見る。旧約の預言が、上野教会で成就しますよ。



2021年12月5日録音/2022年2月10日掲載 Copyright(C)2019-2022 晴佐久昌英