待降節第1主日
カトリック浅草教会
第一朗読:エレミヤの預言(エレミヤ33・14-16)
第二朗読:使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(一テサロニケ3・12~4・2)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ21・25-28、34-36)
ー 晴佐久神父様 説教 ー
こうして久しぶりにみんなで声を合わせて唱えたり、歌ったりできるっていうのは、やっぱりいいですねえ。今年の春に洗礼を受けた方の中には、信者になってからそれを一度もやってないっていう方もおられますしね。今日はみんなで声をそろえて、心を込めて「アーメン!」って唱えましょう。しばらくこの状況が続くといいんですけど、またなんか昨日あたりから、オミクロン株でしたっけ? 新しい変異ウイルスの話も出てきちゃいました。「いいかげん、いたちごっこで気が滅入る」とか、「いったいいつまで」とか思ってしまいますけど、こういうときこそ、我々キリスト者はむしろ「身を起こして、頭を上げる」、と。(ルカ21・28参照)他のみんながしょんぼりして俯いて、膝を抱えてるようなときに、キリスト者は、身を起こして頭を上げる。そういう、なんていうんでしょう、キリスト者のプライドみたいなものを、どんなときも持っていましょうね。
こういうコロナのパンデミックとか、地球温暖化の環境危機とかって、相当終末的です。なにしろ、全世界規模ですからね。これまでも大震災とか戦争とか、いわゆる終末的なことってありましたけど、案外限定的でしょ。地域限定、期間限定みたいなところがあって。これがコロナ規模のパンデミックとか、温暖化規模の環境問題ってなると、人類の歴史で初めてなんで、相当終末感がある。だけど、ってことはまさに、こんなときのための聖書、こんなときのための信仰、こんなときのためのキリスト者なんですよ。まあ、キリスト教やってる我々にしてみると、変な言い方、「ついに出番が来ました」って状況だと思いますよ。
今日の福音書でも、イエスさまがいろいろと怖いことおっしゃってますけど、ちょっと現実にそれに近い状況になりつつあるじゃないですか。つまり、出番なんですね。ぼくらがこうして集まっているのも、そんな中で、なおもあきらめないため、絶望しないためなんです。だって、こんなときのために、神さまがこの世にキリスト者を用意してあるわけだから。何もないときは消防署なんて目立ちませんけど、火事のときは何よりも必要になるわけですよね。「こんなときのキリスト教」なんです。こんなときの浅草教会なんです。もちろん普段も必要なんですけど、今はまさに火事の現場なんであって、「さあ、出番ですよ」っていうときだと思いますよ。
だからイエスさまは、「眠っているな」って言うわけです。消防署員が眠ってたら、役に立たないですから。キリスト者は、目を覚ましています。あっちは燃えてないか。こっちで逃げ遅れてないか。誰か孤立してないか。コロナで困窮してないか。なんとか助けてあげよう、苦しんでいるみんなのため、誰ひとり見捨てられてつらい思いをしないようにって、目を覚ましています。
このコロナ騒ぎ、いったいこのあとどういうドラマになっていくんだか、誰もわかりません。だけど、わかんなくていいんです。どうなろうとも、神さまのみこころは正しく、尊く、そしてすべての人を必ず救います。そんな神のみこころのままに、神の御国の完成に向かって神ご自身が働いておられるんだから、ぼくらは希望を新たにして、主と共に働きます。最悪な状況で、みんなが「もうだめだ!」って言ってるときに、「だいじょうぶだ、信じよう!」、「さあ、こっちが出口だ、付いてこい!」って言う人ほどありがたい存在はないわけですし、それがキリスト者だっていうことですね。
今日からアドベント、待降節。降誕を待つ季節です。アドベントの語源は「来る」っていう意味で、「到来する」とか、「出現する」っていうニュアンスです。つまりそれは、向こうから「来る」んであって、おのずと「現れる」んであって、こっちが呼んでるわけじゃないんです。勝手に、向こうから来る。こればっかりは、向こうから「やっぱり行かない」って言われちゃったら、もうどうしようもないんです。首に縄つけて引っ張ってくるわけにいかない。あっちから、来てくれる。こっちがどうであろうともこうであろうとも、関係なしに必ず来てくれる。現われちゃう。これは、ありがたいですよ。救いは、来る。私たちは、それを待つ。
ですから、「目を覚まして祈りなさい」(ルカ21・36)って言うのは、「目を覚ましてちゃんと祈っていたら、来てくれますよ」って話じゃない。「ちゃんと来るってことに、目を覚ましていなさい」ってことです。必ず来るんだから、怯えて膝抱えて、下向いてるなって、そういうことですね。「もしかして来ないかも」なんていう恐れの状態を「罪」って呼ぶんです。悲しみが消えさる日は、必ず来ます。だから、恐れに負けないで、いつも目を覚ましてその日を待ちましょう。待降節は、特にそのことを思うときです。クリスマス、必ず来ます。「二〇二一年は、クリスマスが来なかったねぇ」なんて、ありえない。必ず来るものを、信じ続けて四週間待ちます。
アドベントクランツ、浅草教会はやらないんですか? 上野教会では祭壇前にありましたけど。ああ、後ろにあるんですね。あとでよくご覧になってください。四本のろうそくに、待降節の主日ごとに一本ずつ順番に火を灯していきます。真ん中に「キリストのろうそく」を置いて、クリスマスに灯すっていう五本バージョンもありますけど、いずれにせよ順番に一つひとつ灯していくもので、一気に点けちゃいけない。毎週、一本ずつです。これはもう、そういうもんなんだから、しょうがない。人はいろんな折々に、「まだこれだけか」とか「もっと早くしろ」とか勝手なことを言いますけど、人生は「ひとつ、ひとつ」なんです。そうして積み重ねた末に、最後に火が灯る。必ず灯る。待降節の味わいですね。人の生涯も、人類の歴史も、そのように「一つひとつ」なんだって味わいます。これはですから、「到来する」より、「出現する」の方が近いかな。「来る」っていうと「まだ来てない」みたいだけど、「現れる」っていうと、「もう来てるけど現れてない」ですから。ろうそくは目の前に、もうあります。そこに火が灯り、永遠の輝きが現れ出るろうそくが、確かにここにあります。
第一朗読も第二朗読も、そう言ってたんですよ。第一朗読では、「その日、その時、正義の若枝を生え出でさせる」(エレミヤ33・15参照)。「若枝」っていうのが、イエスさまのことですけど、まさに正義の若枝が生え出る。そのときは、必ず来る。その日にはみんなが安らかに、喜びをわかちあう都となる。必ず、その日が来る。エレミヤは、預言者として神の言葉を語るわけですけども、このときユダの人たちは捕囚の身、いわば全員奴隷ですよ。みなさんもイメージしてみてください。自分が捕囚の身になって、どこかの国に連れていかれて、「いつかは故郷の日本に戻りたいなぁ。またあの日本で暮らしたいなぁ」と思ってるって。つらいでしょう? そんなときに、神が語りかけるんです。「必ずその日は来る」って。「一日一日、希望の火を灯して生きていこう」って。これはうれしいでしょう。預言者が語る、神の言葉。
そして、イエスさまは確かに来られました。そうして今も、イエスさまは来続けていますし、やがてこの世界が完成するときに、ついにすべての人が一つになって、キリストの体となって誕生します。「やがて来る」って、イエスが白い服着て天から降りてくるわけじゃないですよ。我々みんなが一つのイエスの体となって、神の国が完成するってこと。必ず来ます。その日を信じて、一日、また一日と生きてまいります。
第二朗読では、こう読まれました。「わたしたちの主イエスが来られるとき、あなたがたを強めて、父の御前で、非のうちどころのない者としてくださる」(一テサロニケ3・13参照)。そんな日が来るんですよ。うれしいでしょう? 私は、それを待ち望みます。私の取り柄は自分の罪深さをよく知っているということで、まあ、実にいい加減だし、筋金入りの偽善者だし、いやになるほど幼稚だし、だけど、開き直るわけじゃないけど、まあこんなもんでしょうって受け入れてます。本質は変わらないんで、しょうがない。ただ、自慢できるとしたら、そんな自分を正確に知っているってところかな。だからこそ、やがて主が来られて、こんな私を強めて、「父のみ前で非のうちどころのない者にしてくださる」ことを信じますし、その日を待ち望みます。希望をもって、あきらめず。もちろん、ただ待ってるだけで何もしないわけじゃないですよ。少しはマシになりたいと思って、毎日けなげに努力してるつもりです。あまり効果ないですけど。だけど、「その歩みを今後も更に続けてください」(一テサロニケ4・1)ってね、パウロが言ってますし、希望だけは失わないで歩み続けます。どんなことも、必ず良いことにつながってると信じて。
先週、新潟へ講演会に行ってきました。その教会でお話しするの、二回目なんですよ。一回目は七年前だったんですけど、私そのとき、遅刻したんです。勘違いもあったんだけど、ともかくあわててタクシー飛ばして向かいました。講師の神父が来なくっちゃ、それこそ話にならないわけで、タクシーの中から会場の教会の主任神父に電話しました。「すいません、今向かってます!」って。相手は親しい神父だったんで、冗談で「なんか代わりに適当に話しといて」って言ったら、「えー、何話せばいいの」って言うんで、「神は愛だって言えばいいんです」って、そんな会話をしたんですね。そうしたら、電話を切ったあとで、それを聞いてた運転手さんに、真顔でたしなめられたんです。「代わりはだめですよ、やっぱり先生がお話にならないと」って。それで、会場に着いてから、「さっきタクシーの中から遅れますって電話したとき、主任神父さんに冗談で『代わりに適当に話しといて』とか話してたら、タクシーの運転手さんから『代わりはだめですよ』って叱られちゃいました」って言ったら、みんながワアっと笑ったんですね。で、今回行ったら、そのことをみんなまだ覚えてるんですよ。「神父さまがあのとき遅刻して、タクシーの運転手さんに叱られたの、覚えてますよ。講演の中身は忘れちゃったけど」って(笑)。
だけどね、今回その教会に再び行ってお話しできたのは、実は七年前に遅刻したからなんです。七年前に、私が言ったんですよ。「遅れたおわびに、いつかまたもう一度来て、お話ししましょう」って。それで、今回頼まれたんです。「あのとき、神父さまは、また来るって約束してくれました。今コロナでみんな不安なんで、ぜひ来て希望を与えてください」って。それでとってもいい時間をみんなで過ごしたってことですから、つまりあの日遅刻したおかげでまたみなさんとお会いできた、そういうことになるわけです。
だからまあ、一つひとつの失敗とか不運とか、そんなに気にすることないですよ。「あんなことしなきゃよかった」とか「こんなことさえなければいいのに」って思うようなこと、それこそコロナ禍に至るまで、実は神さまが良いことの準備としてなさってることなんじゃないですか。すべてはきっと何か、次の良いことにつなげてくださるんだって信じて、心配せずにくさらずに、一本一本、ろうそく灯しながら、歩み続けてまいりましょうって言いたい。気に入らないこと、イヤなことも恵みの内。全部取り去っちゃったら、何にもなくなっちゃう。
そうそう、それでいうなら、つい何日か前に面談した方ですけど、最近浅草教会に通うようになったきっかけを尋ねたら、「晴佐久神父のことをネットで知った」、と。で、検索してたら、晴佐久神父の批判が載ってたんですって。見ないでくださいね、みなさん(笑)。私自身はそういうの絶対見ないんで、何言われてるのか全く知りません。まあ、何言われてもいいです。言われるような者ですから。ただ、面白いなと思ったのは、その方、その批判の内容を読んで、「こういう人たちからこういう内容で批判されてるってことは、よほどいい神父に違いないと思った(笑)」って言うんですよ。そういう読み方をする人もいるんですね。ってことは、批判する人にも感謝するべきですよ、ご批判ありがとうございますって。自分にとって一見都合悪いものも、知らずに役に立ってるってことですよ。くよくよせずに、全部ひっくるめて受け止めちゃいましょう。神さまは、必ず良いことに用いてくださると信じて。
今日の洗礼式ですけれど、あなたはおいくつでしたかね。……ああ、一一歳ですか。
一一歳って、幼児洗礼なのか成人洗礼なのか微妙なところですけど、幼児洗礼でもあり、成人洗礼でもあるという意味では、とても恵まれていると思いますよ。本人の意思を越えて神さまが授けてくださるともいうべき幼児洗礼でありながら、本人の意思もちゃんとそこに協力しているという成人洗礼でもあるわけですから。
その意味で、私はこれから洗礼を受ける一一歳、神に選ばれた一人の神の子であるあなたに、コロナ禍の待降節第一主日に洗礼を受けることの意味をはっきりと申し上げたい。それは、「希望を持って出発する」っていうことです。ここにいるこれだけの信じる仲間が家族になるっていうことですし、そんな仲間たちと、必ず素晴らしい世界が待っていると信じて、希望をもって歩み出すっていうことです。
やっぱりね、希望があるって素晴らしいですよ。今は、恐れて混乱して、どうしていいんだかわからず、しゃがみこんでしまっている人も多いですけど、洗礼を受けたキリスト者は立ち上がります。こんな状況だけど、こんなひどい世の中だけど、こんなにいやなこともあるけれど、それでも、必ず、神さまは素晴らしい世界にしてくださるっていう希望をもって歩き出します。誰だって、希望がなきゃ歩けませんって。たとえ歩けても、なんのために歩いてるんだか分からなければ、うれしくないじゃないですか。喜びの世界に必ず辿り着けると信じていれば、その日を待ち続けられますし、日々歩き続けることができます。そうして歩いて行けば、いいこといっぱいありますよ。
今年のクリスマスは、コロナの中での二度目のクリスマスです。中々大変な世の中ですし、みなさんもつらいことやさみしいことがたくさんおありでしょうけど、今年は、今までの人生で一番いいクリスマスになることでしょう。なぜなら、その喜びの世界が、毎年毎年少しづつ近づいているんだから。つまり、みなさんの今までの人生で、今が一番神の国に近いクリスマスなんですよ。もちろん、来年はさらに近づくわけですけど、ともかく、神さまが用意してくださっている神の国に日々近づいているんだという信仰、何があろうともその信仰と希望だけは持ち続けて、歩んでまいりましょう。そんな仲間が増えることはほんとうにうれしい。私たち、信じる仲間たちは、洗礼を受けてあなたが一緒に歩んでくれることがほんとにうれしい。
2021年11月28日録音/2022年2月7日掲載 Copyright(C)2019-2022 晴佐久昌英