福音の丘
                         

「ああ、これは俺だ」

王であるキリスト
カトリック浅草教会
第一朗読:ダニエルの預言(ダニエル7・13-14
第二朗読:ヨハネの黙示(黙示録1・5-8)
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ18・33b-37)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 先週、七五三の祝福式に行ってまいりました。港区のカトリックの幼稚園ですけど、子どもたちにパンダの話をしたんですね。
 「晴佐久神父です。上野教会から来ました。すぐ近くの上野動物園で、双子のパンダが生まれました。かわいいパンダの赤ちゃんが生まれたとき、お父さんパンダもお母さんパンダも、大よろこびしたんですよ。かわいいみなさんが生まれたときも、みなさんのお父さんとお母さんは、大よろこびしたしたんですよ。みんなこうして元気に育ってくれて、もっともっと、よろこんでますー。」
 とまあ、そんなような話をしたんですけど、もちろん、マスクをして話してたんですね。するとですね、そのあと職員室でマスクを外してお茶をいただいてるところに、一人の男の子が忍び込んで来て、わたしを見てこう言うんです。「あ、神父さまだ! マスク取ったら、おじいさんだった!」(笑)。まあ、異論はありません(笑)。そのとおりですけど、心の中で言い返しました。「まあ、そう言うキミも、すぐだからね」(笑)。
 まだまだ若いつもりでいても、ふと気づけば、おじいさん。みなさんの中にもそう実感している人いるんじゃないですか。ふと気づいたら、自分もいつの間にかおばあさん、とか。私にとっては、人生で初めて「おじいさん」って言われた記念日になりましたけど、まあ、いいことですよ。そう言われるまで生きたってことですからねえ。なんだかんだ言っても、こうして今日まで生かされたことにはやっぱり意味があるよねって、つくづく思うんです。それだけ、ほんとにいろんな素晴らしいものを見てきたし、素晴らしい体験をしてきたし、その分感謝も賛美も深まりますから。
 もちろん、若くして亡くなることも神のみこころのうちですし、長い短い関係なく、みんな神に望まれて生まれ、神に愛されて生きた同じ神の子です。ただやっぱり、五〇年、八〇年と生きてきたっていうことは、神さまがそれだけの時間を与えてくださったってことだし、そこにはそれなりの意味というか、責任みたいなものもやっぱりあるはずですよ。なぜ時間というものがあるかといえば、それは神の愛を知るためだし、神の望みを行うためですから。「今日まで、それだけの出会いをして来たぞ、それだけの日々愛されてきたし、愛してきたぞ。だから、今日もまた、誰かを少しでも幸せな気持ちにさせるために生きよう」。おじいさんになった私も、そのような思いで今日もここに立っております。神さまがこの日々を贈ってくださったことに感謝もし、感動もしながら。もちろん大した人間ではないけれども、若くして亡くなったあの人、この人にはできなかったことを、今日もやろうと思えばできるんだから、それはやっぱりやってかないとねって。そう、気持ちを新たにして。

 教皇フランシスコが新しい回勅をお出しになりました。『兄弟のみなさん』っていうタイトルの回勅ですけども、その中に、こういう一節があります。「どうか『あの人たち』で終わらせず、ひたすら『わたしたち』でありますように」。美しい言葉でしょう? たとえば同じ人たちを見ても、それを「あの人たち」って思うのか、「わたしたち」って思うのか。これ、全然違うんですね。相手は一緒ですよ、同じ人たちなんですけど、こっちの捉え方が違うわけです。「あの人たち」っていうのは、三人称複数形ですから、どこか客観的なんですね。「ホームレスの方たち」とか「難民たち」とか、属性でくくって「あの人たち」って言うわけで、どこか冷たい響きです。それは線引きした「対象」なわけで、言ってしまえば「わたしたち」じゃない。まあ、最初はそう思っちゃうのは普通のことかもしれませんけど、驚くべきことに、その「あの人たち」が「わたしたち」になるという、なにかとてつもなく素晴らしい、美しい瞬間があるんですよ。「あの人たち」を「わたしたち」に変えてしまう特別な力が、この世界には確かに働いてるってことです。その力を、神さまはすべての人にちゃんと与えているし、それを発動させてくれるのがイエスなんです。「あの人たちは別だ」、「あの人たちは危険だ」って、三人称複数でくくって遠ざけるんじゃなくて、「この人たちもわたしたちと一緒だ」、「初めからみんな、わたしたちなんだ」って、一人称複数にしていく、それこそはキリスト教の本質じゃないですか。
 教皇はそれに続けて、こうも言っています。「わたしたちには互いが必要で、互いに対して義務を負っていることに、はっきり気づけますように。わたしたちが引いた境界を越えて、すべての顔、すべての手、すべての声を備えた人類として、新たに生まれるために——」。遠ざけた人たちが、実は必要な人たちだ。わたしたちとして互いに受け入れ合うことは義務なんだ、と。そうして「わたしたちという人類」として新たに生まれる、それこそは神の国でしょう。キリストの体でしょう。そんなふうに「あの人たち」が「わたしたち」になる感動の瞬間を、ぼくらはこの人生におけるかけがえのない経験として味わってきたはずですし、さらに、キリスト者として、もっと「わたしたち」になっていくチャレンジへと、招かれています。

 今日は、「王であるキリスト」の主日ですけれども、イエスの王国って、どういう国なんでしょう。イエスさまは、「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18・36)って言います。「この世」っていうのは、線引きする世界です。国家も社会も、「あの人たち」「この人たち」を決めて管理します。難民問題とか、そうしなければやっていけないほどに複雑になっちゃってるってのもあるんだとは思うけれども、それに対してイエスは、「実際、わたしはこの世には属していない」って言う。じゃあ何に属しているのかっていうと、まさにイエスは「わたしたち」っていう世界に属しているんです。これは、みんな結ばれていて、助け合う、神の国とも言うべき世界です。人類が本来そうあるべき「わたしたち」の世界。この世はそれを忘れて、都合のいい人たちだけの閉鎖的な「わたしたち」を作り、それ以外の人を「あの人たちのせいで」とか、「あの人たちも救ってあげましょう」とか、なんかよそよそしい。「みんなわたしたちだ」って言えば、すべて解決するのに。だって、誰であれ、「わたしたち」なら必ず助けるんだから。
 今日もここにこうして集まっている、これは「わたしたち」ですよね。それこそが、ミサの一番の喜びでしょうねぇ。そうそう、来週からみんなで歌ってもよろしいと、教区からお達し出ましたよ。もっとも、あまり大声で歌わないようにってことですけど、それでも「また、みんなで歌えた!」っていう感動がありますよ、きっと。だけどわたしたちは、なんで感染症のこの時期に、同じ部屋に集まってわざわざ歌ったりするんですか。「わたしたち」だからです。「わたしたち」の喜びを分かち合うためです。見てください、ここには「あの人たち」がいません。みんな、「わたしたち」。初めて会っても、気が合わなくても、キリストにおいて結ばれた「わたしたち」です。この集いはやっぱり、この世には属していないですね。この世は、「そうは言っても」とか、いろんな言い訳をしながらみんなを分断していきますから。
 イエスさまはさすがですよねぇ。「わたしたち」っていう模範を見せて、それをミサというしるしで残してくれて、おかげで二千年経っても、わたしたちは、こうして紛うかたなき「わたしたち」を生きています。来週、待降節第一主日、もちろん唱和も解禁です。「主はみなさんと共に」って言ったら、「また司祭と共に!」ですよ。忘れちゃったんじゃないですか?(笑) もう一年以上、言ってませんからねえ。みんなで声を合わせて、「アーメン」って言えるわたしたち。ほんとに「わたしたち」って、幸いだなと思う。

 昨日、この浅草教会で、対談をしたんですね。日本カトリック映画賞を今年は、『コンプリシティ 優しい共犯』っていう映画に差し上げたんですけども、その監督が来てくださいました。近浦啓監督という、いくつかの国際映画祭でも大変評価されている、若手の監督です。この映画は、技能実習生の話です。今日もここにベトナムの技能実習生の方が大勢おられますけれども、これは中国の技能実習生の話です。
 主人公の青年は、都会で技能実習生として働いてたんですけど、色々とうまくいかず、職場から逃げ出しちゃいます。で、悪い仲間にそそのかされて、他の実習生になりすますんですね。これ、不法滞在ですから、警察は追っかけるわけですよ。それで、逃げるようにして、山形県のそば屋で住み込みで働き始めます。そば屋の主人を藤竜也が演じてるんですけど、寡黙で、朴訥な、人間味ある主人なんですね。この、ろくに日本語もしゃべれない主人公の実習生に、蕎麦のうち方から、丁寧に教えるわけですよ。これがだんだんうまくなっていくし、頼りにもされて、二人は親子同然みたいに仲良くなる。だけどやがて警察がやって来て、主人は事実を知ってショックを受けるんだけど、決心して主人公を逃がしちゃうんです。それがいいことなのか悪いことなのかはともかく、親心ってそういうもんでしょう。
 とまあ、それでタイトルも『優しい共犯』ってわけですけど、その監督が昨日、面白いことを言ってたんです。映画の中で、このそば屋の主人の家に主人公が初めて来るシーンで、主人はすき焼きをふるまうんですね。「さあ、どんどん食べなさい」って、たらふくすき焼きを食べさせて、主人公も喜んで食べるという。ところが、そのシーンが脚本上、リアリティに欠けるみたいに批評されることが多いんですって。いわく、そのそば屋の主人のモチベーションが不可解だ、心理がちゃんと説明できてない、物語としておかしいんじゃないか、みたいに。要するに、会ったこともない実習生が来て、最初っからすき焼きをふるまうわけがないっていうわけです。普通は最初は警戒してそっけない対応をするはずだし、お互いに通じ合わないことも多いはずだし、それが、すれ違ったり対立したり、共通の体験をした上で二人の心が通い合い、最後は親子同然の関係になって警察から逃がしてあげましたっていう話なら説得力がある、と。これが最初からすき焼きを出したら、物語が成立しないんじゃないか、みたいな批評ですね。
 だけど、監督はこう言ってました。「最初は通じ合えない冷たい関係で、それがやがて通じ合えて仲良くなりました、ああよかったね、なんていう話にだけはしたくなかった。そんな映画はいくらでもある。だけど、人と人の関係って、本当はもっと初めからちゃんとつながってるんじゃないか」と。つまり、監督のリアルで言うならば、「来てくれた実習生に、初めからすき焼き出すでしょう?」ってことです。だから、私の書いた批評を監督はとても気に入ってくれたんですよ。というのは、ぼくも、浅草教会でベトナムの技能実習生の集まりを始めたとき、最初の日にすき焼きをふるまったし、そのことを書いたからです。
 ちょうど先月、その話をしましたよね。そのときすき焼き食べた実習生のトゥアン君が、ベトナムに帰る前の日に葡萄を持ってお別れに来てくれたって話、したじゃないですか。そりゃあね、彼とは何年も一緒ごはんしたし、だからこそどうしても会いたいって、最後の日にお別れに来たわけですけど、じゃあ、最初は警戒して通じ合えなかったかって言うと、全然そんなことない。はじめっから思ってましたよ。「はるばるベトナムから来た技能実習生たち、異国で不安だろうし、仕事でも大変な思いしてるだろうなぁ。あんまりいいもの食べてないんじゃないかな。ぜひみんなと一緒にごはん食べて励ましたい、そうだ、毎月食事会をしよう。最初の日はやっぱり、すき焼きでしょう、せっかく日本に来たんだから。どうせなら、特上のすき焼きを腹いっぱい食べさせたいな。みんなきっと、喜ぶだろうな」ってね。で、近江牛のすき焼きを食べさせた。
 まあ、喜んでくれたし、そのときのこといつも話題にしてくれたし、むしろこっちが喜ばせてもらったって感じです。だけどこれってね、別に美談じゃないと思う。英雄的行為でもないし、言っちゃえば愛があるってほどでもないんですよ。これ、人として普通のことだと、私は思う。つまりね、監督の脚本に違和感を持つ人は、「最初の日にすき焼きって、普通じゃないでしょ?」っていうことですよね。私は、逆に質問したい。「なんで、最初の日にすき焼き出さないんですか? その理由はなんですか?」と、むしろそっちのほうが普通じゃない。意味がわからない。

 ぼくらね、「この世」に属しちゃっててね、なんか洗脳されちゃってるんじゃないですか。「俺が働いて得た金は、俺のものだ。」「会ったばかりのヤツと分かち合うなんて普通じゃないだろう。」「こっちも大変なんだよ、きれい事言ってられないよ。」「色々危ない世の中だから、ちょっと様子を見てから。」そんなような、この世に属している人ならではの常識にみんなもう洗脳されきっちゃってて、「最初からすき焼き出すのは、説明がつかない」とか、だけどそう言ってるほうがおかしいだろうと、私は思う。そんなような話で、近浦監督とはとても共感できました。
 実は監督、カトリックの学校を出てるそうで、「聖書もいっぱい読まされました」とか言ってましたから、「善きサマリア人のたとえ」とかも読んでるんじゃないですか。あれなんか、倒れてる人を助けるのって、理屈じゃないし美徳でもないし、ただごく普通に「だいじょうぶか!?」って、駆け寄るだけの話ですよね。大祭司のように道の向こう側を通っていっちゃうとしたら、そっちのほうが異常。普通じゃない。「ちゃんと普通にやろうよ」っていうのが、イエスさまの活動なんですよねって、監督とお話しいたしました。
 監督に、それにしてもなんで実習生の映画撮ろうと思ったんですかって聞いたら、ベトナムの技能実習生が山羊を盗んで食っちゃったっていう事件がありましたよね。四、五年前ですか。監督はそのとき、「彼らはなんでそんなことをしたんだろう?」って興味を持って調べに行って、本人たちを始め、いろんな証言を聞いているうちに、ハタと「この子たちは、自分自身だ!」って気づかされたって言うんです。ニュースで、「ベトナムの技能実習生が日本に来て、生きた山羊を盗んで、解体して食べた」って聞けば、なんかちょっと理解できないというか、普通じゃない出来事のようにも思うでしょうけど、そこをずっと調べていくうちに、彼らの現実、すなわち彼らの窮地、彼らの恵まれない環境、そんな中で生きていくための必死な思いや健気な工夫を知って、監督は「ああ、これは俺だ」って思い、「そういう映画をつくりたい」って思った、と。つまりこれ、監督にとっては、自分自身の映画なんですよ。ニュースで見ただけのベトナム人、自分とは無縁のはずの異国の技能実習生が、実は自分自身だったと気づく、この瞬間をもたらすのは、ぼくは聖霊の働きだと思う。「あの人たち」が、「わたしたち」になる瞬間。
 キリスト者ってね、いつでもどこでも誰にでも共感する、共感できる人たちです。「そうそう、俺もそうなんだよ」「自分だって、その状況なら、そうしちゃったかもしれない」って、思える人たちなんです。「あの人たちは目障りだ」って排除するんじゃなく、「あの人たちのせいだ」って裁くんじゃなくって、「わたしたちみんなで幸せになろうよ」って思える人たち。そう思えるようになる、その一瞬がね、イエスの国の立ち現れる瞬間です。
 イエスが王さまである国、いいじゃないですか。日本の総理大臣、コロコロ変わりますし、この世の王は消えていきますけど、我々の王は、変わらない。永遠に変わらない。イエスという愛の王さまが支配している国、駆け寄るほうが当たり前な国、いいじゃないですか。そんな国の国民でありたいじゃないですか。



2021年11月21日録音/2022年1月31日掲載 Copyright(C)2019-2022 晴佐久昌英