福音の丘
                         

神の国コンクール

年間第29主日
カトリック浅草教会
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ53・10-11
第二朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ4・14-16)
福音朗読:マルコによる福音(マルコ10・35-45)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 今日10月17日、とある世界的な有名人の命日なんですけど、ご存じの方おりますか。フレデリック・フランソワ・ショパン。今日が命日ということで、ワルシャワの聖十字架教会では、ショパンのための追悼ミサが捧げられています。その命日を挟んで約3週間、5年に一度、ショパンコンクールが開かれるんですね。それがコロナのために一年延期になって、今年、今まさに開かれてるんですけど、今朝、ビッグニュースが飛び込んできました。ファイナリストに日本人が2名残ったんです。
 世界で最も権威のある、ピアニストであればだれもが憧れてやまないコンクールですけど、審査が大変厳しくて、ファイナルに残るっていうのはすごいことなんです。そもそも、エントリーできるのが世界中から約160人で、参加できるだけでも名誉なんですけど、その中から7月の予備予選でおよそ半分の80人に絞られるんです。この80人が10月の本選の一次予選で40人になり、二次予選で20人になり、つい数日前に三次予選があって、その発表が今朝だったってわけです。今年は質が高くて、12人ファイナルに残りました。「ショパンコンクール・ファイナリスト」っていうのは、これはもう一生ついてまわる称号で、そこに日本人が2名入ったっていうことです。ファイナルの審査は明日からで、21日の発表になります。優勝、2位、3位までが、金・銀・銅みたいなもんで、入賞者は6位以内。ちなみに、コンクール90年の歴史の中でも日本人の入賞者は数えるほどで、日本人の最高位は第8回の内田光子の第2位です。
 今回、第18回のファイナルに残ったのは、反田恭平(そりたきょうへい)と小林愛実(こばやしあいみ)の2人で、私は毎日ネットで聴いてたんですけど、二人とも3次まで文句なしの名演でした。もっとも、応援してきた他の日本人ピアニストたちが素晴らしい演奏をしながらも次々落ちてくんで、ひやひやしてたんですけどね。角野隼斗(すみのはやと)や沢田蒼梧(さわだそうご)、進藤実優(しんどうみゆ)など、あれほどの演奏をしてもふるい落とされていくなんて、なんと過酷なコンクールだろうって思いましたよ。ただ、小林愛実は前回もファイナリストでしたし、反田恭平もショパン国立音大に学んでいて、二人ともすでに人気もあって、今さらコンクールかなっていうほどの実力派なんで、期待はしていました。やっぱり日本人のショパンコンクール優勝っていうのは、悲願なんですよ。まあ、あんまり国にこだわるのもどうかと思いますけど、今回はチャンスですから。てっぺん取ってくれないかなぁ。前回は韓国のチョ・ソンジン、その前がロシア、その前は私も大ファンの、ポーランドのラファウ・ブレハッチ。いつかブレハッチのコンサートに行ったら、私の席の斜め後ろに超有名なピアニストのツィメルマンが座ってんですよ。たまたま来日してたんですね。その彼がなんで聴きに来てるかっていうと、彼はブレハッチと同じポーランド出身で、ブレハッチが優勝した年のさらに30年前のショパンコンクール優勝者なんです。同郷のショパンコンクール覇者となると、こんな大御所もわざわざ聴きにくるんだっていう、ちょっとそこに感動しましたけど、ショパンコンクール優勝っていうのは、よかれあしかれ事件なんですね。さて、10月21日の朝、どんなニュースが流れますか。
 もっとも、本当を言えば、素晴らしい演奏を聴かせてくれるなら結果はどうでもいいんですけどね。反田恭平が三次で弾いた葬送ソナタなんか、「こんな演奏聞かせてくれるんだったら、もう私の中ではあなたが優勝です」みたいな、歴史的名演でしたから。今はYouTubeですべて聴けますから、ぜひ聴いてみてください。もちろん、ホールで響いている音とパソコンやテレビで聴く音は違いますけど、励まされるというか、生きてるって素晴らしいことだって、心が震えます。音楽っていいなあ、人間っていいなあってつくづく思う。そういえばみんなが大好きな牛田智大(うしだともはる)君、二次で落ちちゃいましたけど、本人はホールでのピアノの響かせ方に問題があったって言ってました。でも、彼が一次で弾いた幻想曲なんか、映画一本観たみたいな感動があって、彼のナマの響きを聴きに行くのが楽しみになりました。
 私は、ピアノの響きが大好きでよく聴きにいきますし、それこそ世界の名だたるピアニストの演奏を聴きまくってきたんですけど、いつも思うことは、彼らへの感謝です。彼らが、ある意味で殉教者に見えるんですよ。たとえば声楽なんかと違って、ピアノの人たちって、それこそ早い人は3歳の頃からひたすらピアノに身を投じて、練習に練習を重ね、血のにじむような努力を続けてきた人たちです。コンクールのために青春捧げるなんてこともある。まあ賛否はありますが、発表の場がないと人って努力しませんから、コンクールもある意味大事かなとは思うんですけど、ともかく「そこまでやるか」っていうような、その真剣さ、その熱さは尊いと思う。そして、その思いが、たった一音の響きにちゃんと秘められてるんですよ。私は、曲の感動もさることながら、その感動を生み出すためにここまでピアノ道に殉じてくれたっていうこと自体に感動するし、もう、ステージから去って行く後ろ姿に手を合わせることさえありますよ。涙こらえながら「ありがとう。ほんとにありがとう」ってね。・・・元気をもらえますもん。励まされる。そして、「ああ、俺もがんばるぞ、ちゃんと福音に殉じよう」って、自らの思いを鼓舞したりするわけです。

 イエスさまがさっき、とっても基本的な質問をしてくれました。みなさんなら、どう答えるんでしょう。ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言うところですね。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」。すると、イエスが問い返します。「何をしてほしいのか」(マルコ10・35-36)。二人は「栄光をお受けになるとき、ひとりを右に、ひとりを左に」なんて答えてますけど、それはもう、この世の話ですよね。この世の権力、この世の栄誉。この世の栄光の話なんです。神の思いではなく、人間の思いで、ああしてほしい、こうありたいっていう。すると、イエスさまが言います。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(マルコ10・38)。
 みなさんなら、何を願うんですか。「何をしてほしいのか」と聞かれて。この二人は、イエスさまの死と復活のあと、本当に何を願うべきかが分かります。それはこの世の栄光の国ではなく、神の国なんだ、と。復活の主と共に互いに愛し合う、愛の国。それをこそ憧れるべきだし、願うべき。みんなが助け合い、弱い人たちが本当に大切にされるような神の国をこそ、願うべき。それこそ一流のピアニストのように、努力して練習して、いろんな犠牲を払ってでも、みんなを励まし、感動を与え、人々の喜びのために仕える弟子になりたいと願うべき。まさしく、「神の国に仕える者」、これをイエスさまは望んでいます。私たちはあんなふうに上手にピアノは弾けないけれど、日々福音に仕える練習をして、神の国のために奉仕するなら、大きな達成感と喜びを得られるんじゃないですか。そうしてこの世界に神の国の福音を響かせ、輝かせるならば、天における栄誉はいかばかりか。

 先週の木曜日、上野教会の朝のミサに、ひとりの路上生活者が来たんですね。うぐいす食堂に来ている方です。最近、うぐいす食堂に来ている人の中から、日曜のミサにも現れる人がポツポツ出てきたんですよ。うれしいことです。それが、その日はついに平日のミサにも現れたんで、うれしくなって声かけたら、「お腹すいてる」って言うんです。それでレトルトのカレー温めて、カップラーメンにお湯入れて差し上げたら、喜んで食べてくれました。ただ、いつもより元気がないので、どうしたのって聞いたら、こう話してくれました。
 「自分は、何をやってもうまくいかない。失敗ばかりで、社会で生きて行くのが難しい。今までも色んなところでお世話になったけれども、結局長続きせず、今も住む所がない。何やってもうまくいかないっていうのは子どもの頃からだし、おとなになっても相変わらず居場所がない。行くあてもなく冷たいタイルに座ってると、すごく情けない気持ちになる。しかもつい最近、駅前で殴られて、財布をとられた。周りの人も誰も助けてくれないし、おまわりさんに言っても取り合ってもらえない。もう自分なんかは生きていてもしょうがないと思ってビルの屋上に上ったけど、飛び降りる勇気もなくて、死ねなかった。そんなときに、ポケットに入っていた上野教会の入門講座のチラシを取り出して、そこに載っている晴佐久神父の顔写真を見たら、涙が出てきて、やっぱりがんばろうって気持ちになった。今日は神父さんの顔を見たくてミサに来た」
 いや~、・・・私、なんかもう、それ聞いて胸詰まりました。確かに入門講座のチラシには、神父の顔写真も載ってて、「つらい人、苦しんでいる人、どうぞ来てください」みたいに書いてあるわけですけど、そんな一枚のチラシがある人には命綱になってるんですよ。彼がもうチラシを取り出さないで済むようにと願うばかりですけど、「冷たい世の中だなあ」とも思うし、だからこそ、「教会っていいなぁ」って思うんです。だ~れも相手してくれなくて絶望した人が、もう死のうと思ってビルの屋上に行ったって、誰も気にもとめないし、たとえ飛び降りても、人知れず処理されるだけ。そんな一人の神の子が、ミサに来て、「次のうぐいす食堂に必ず来ます」とか、「今度は入門講座にも来たい」とか言うんですよ。そんなことを言わせる教会って、これはやっぱり、神の国の入り口なんですよね。講座があって、福音が語られて、「つらい人どうぞ」っていうチラシが配られる。ピアノコンサートのチラシにも美しいチラシはいっぱいありますけども、神の国に招くチラシは、本当に美しい。尊い。彼が「靴下ありませんか」って言うから、用意してある靴下を差し上げましたけど、見ればマスクも真っ黒に汚れてたんで、「それ、取り替えようね」って、新しいのを差し上げたら、なんと、ずうっとかけっぱなしだったんで、耳の後ろがただれてて、ゴム紐が皮膚に張り付いちゃってはがれないんですよ。どう思います?
 情けな~い気持ちで生きている、そんな一人ひとりのために、イエスさまはキリスト者を遣わします。靴下一枚でも、カップラーメン一杯でも、それは神の国に仕えてるってことなんですよ。「かわいそうだな」ってね、「なんとかしてあげよう」ってね、「仕える者になりなさい」(cf.マルコ10・44)ってイエスさまから言われて、我々は隣人に仕えるわけですけど、それは単に目の前の人に仕えてるだけじゃなく、神の国に仕えてるんです。ピアニストだって、鍵盤に仕えているわけじゃない。その向こうに響き渡る、音楽のよろこびに仕えてるんです。我々キリスト者も、ピアニストがショパンコンクールで最高の響きを響かせることに憧れるように、美しい神の国に憧れ、神の国でみんなが最高の喜びを共にすることに憧れる、その憧れが大事なんじゃない? ぼくはやっぱり憧れるし、そんな喜びにだったら、人生を捧げてもいいな。これって、言われて渋々やるとかじゃなくて、「ぜひそうしたい」っていう気持ちが大事だし、それは出会いによって引き出されるものなんで、その彼とのやり取りはちょっと衝撃でしたよ、私にとっては。「そっかぁ、俺の顔写真見て生き延びてる人がいるんだ」って知れば、ぜひとも、もっともっとがんばろうっていう気持ちにもなりましたから。

 その日、浅草教会に移動したら、玄関先にトゥアン君が1人ポツンと紙袋下げて立ってたんです。ベトナムの技能実習生で、私が一番親しい実習生の1人です。4年前にベトナム人留学生の集いを始めたんですけど、そこで日本に来たばかりの彼がポツンとしてたんで声かけたら、技能実習生だって言うんで、「そうだ、留学生だけじゃなく、技能実習生の集まりもつくろう」って思いついて、サンタ会ってのを始めました。最初の日には、日本のごちそうを知ってもらおうと、近江牛のすき焼きを振るまったら、みんなおいしいおいしいって喜んで食べてくれました。心細い異国の地で親切にされるのって、本当にうれしいものです。以来、親しくしていたんですけど、最近はコロナで一緒ごはんも出来ずにいるうちに、帰国の日が来ちゃったんですね。それでわざわざ、挨拶に来たんですよ。彼は私のことを「チャ―」って呼ぶんです。ベトナム語で「お父さん」って言う意味で、神父のことを親しみをこめて言ういい方なんですけど、「チャー、ベトナムに帰ることになりました」と。4年ぶりに実家に帰って両親に会える、と。技能実習生はベトナム中部の貧しい地区の出身が多く、弟や妹の学費のためにとか、親の医療費のためにとかっていうんで働きに来ている人たちです。彼も日本で精一杯働いて仕送りして、きっと家族もすごく感謝していることでしょう。今はコロナで帰国もなかなか大変で、向こうでもしばらくは隔離されると言ってましたけど、家族は待ちわびているんじゃないですか。
 それがですね、「いつ帰るの」って聞いたら、「明日です」って言うんですよ。なんと帰国の前日なんですよ。準備も色々あって大変な時でしょう、荷物もいっぱいあるって言ってましたけど、そんな忙しい帰国の前日に、「チャーにどうしても会いたい」って来てくれたんです。教会に来ても誰もいないので、扉の前でずうっと待ってたって。いやあ、うれしかったねぇ。しかも、「ありがとうございました」って、紙袋を渡されて、中にシャインマスカットと巨峰が入ってるの。あれ、高いでしょう、結構。もう胸がいっぱいになっちゃいました。彼は私のことをとても慕ってくれていたんで、「でも、また日本に来てね」って言ったら、真面目な顔で「もう来ません」と。確かに、そんな簡単な話じゃないんですよ、ベトナムの貧しい地区から日本に来るのって。レートが全然違いますから。彼ら、百万円借金して、それを返しながら実家にも送金するわけで、考えてみればまた日本に来るなんて、まずない話なんです。そうか、もう二度と会えないのかと思うと、切なかったです。彼が写真撮りたいって言うんで、二人で顔を寄せて、自撮りで写真撮りましたけど、名残惜しそうに何枚も何枚も撮るんです。別れ際にはギュってハグされました。なぜだか、ハグしてそのまま私を持ち上げるんです。(笑)あれはベトナム式なんですかね? こっちは足バタバタさせましたけど。(笑)最後、「さよなら」もなんだなと思って、「Hẹn gặp lại」(ヘンガプライ)って挨拶しました。いつの間にか覚えたベトナム語で、「またね」っていう意味ですけど、彼もうれしそうに「Hẹn gặp lại」って言って帰っていきました。どうにもつらくて、私は振り向きませんでしたけど。
 教会っていいところですねぇ。教会が無かったら決して会うこともなかったであろうベトナム中部の1人の若きカトリック信者とこんなにも親しくなって、神の国の喜びを分かち合うことができるんです。神の国は、始まっています。教会は、その目に見えるしるしです。国の違いとか、貧富の差とか、言葉の壁とか、そんなこと全然関係なく、人と人が本当に神さまの子どもとして、対等に向かい合って、分かち合って、喜び合って、何よりも、仕え合う。これはやっぱり、神の国でしょう。その神の国にこそ、仕えたい。その目に見えるしるしになることに憧れます。そのために、もっともっと練習しなくっちゃ。そうですねぇ、入賞は難しくても、予備予選くらいは通りたいな。神の国コンクール。

2021年10月17日録音/2021年12月10日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英