福音の丘
                         

アポトーシス

年間第27主日
カトリック上野教会
第一朗読:創世記(創世記2・18-24
第二朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ2・9-11)
福音朗読:マルコによる福音(マルコ10・2-16)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 秋晴れの気持ちのいい日曜日になりました。緊急事態宣言も終わって、すっきりした気分です。まだまだっていう現場もいっぱいありますけど、こうしてミサも再開されましたし、希望をもって新しい一歩を踏み出してまいりましょう。
 県をまたぐ移動もそろそろ、ということで、私は昨日、日帰りで長野に行ってまいりました。爽やかなお天気でね、北アルプスの山々が綺麗に見えました。何をしに行ったのかと言うと、待ちに待ったライブコンサートに行ったのです。Official髭男dismというバンドを御存知ですか。通称「髭男(ひげだん)」と呼ばれている、今日本で最も人気のあるグループです。バンドとしての実力もナンバーワンだと言っていい。一年ほど前にこの髭男の「Laughter(ラフター)」っていう曲のことをここでお話した記憶がありますが、大好きなバンドなんですよ。音楽性も素晴らしいし、歌詞も素晴らしいし、演奏も素晴らしい、そして何より、ボーカルの藤原聡(ふじはらさとし)、彼の声が素晴らしい。ぜひ一度、お聴きになったらいいと思います。
 ブレイクしたのは一昨年、「Pretender(プリテンダー)」っていう曲が大ヒットしてからですけど、これはもう腰抜かすほど素晴らしい曲だったんですね。そして去年の夏は、先ほど申し上げたその「Laughter」に腰抜かすほど感動して、思わずファンクラブに入っちゃいました。その髭男が今回、「Editorial(エディトリアル)」という腰抜かすほどの名アルバムを作って、その全国ツアーが始まったんです。これが、9月から各地を回るということだったんですけど、皮切りが神奈川県だったんで、まだ緊急事態宣言中だったもんですから、自粛せざるをえず、残念な思いをいたしました。それで、宣言が終わる予定の直後のコンサートが青森だったんで、チケットを取って楽しみにしていたら、宣言が延長になって、公演中止になっちゃったんです。これまた残念でしたけど、仕方がない。ということで、急遽その次の公演の長野のチケットを取って祈るように待ってたんですけど、今回晴れて緊急事態宣言が終わり、ついに昨日、聴くことが出来たというわけです。
 ナマの髭男だけは生きてる間に聴きたい、聴くまでは死ぬに死ねないと思ってましたので、昨夜は藤原君のナマ声が聴けて、大満足で帰ってまいりました。ただですね、会場はほとんど10代、20代で、もう60過ぎたおじさんがうろうろするのもなかなか大変でした。なにしろ会場に入るのが、電子チケットなんですよ。紙のチケットがないんです。スマホに登録した電子チケットを見せなきゃ入れないんですけど、スマホに入れたはずの画面がどうしても出てこなくって、開演時間は迫るし、焦って相談デスクに行って相談したら、チケットぴあと直接連絡取ってくれました。ところがもうひとつ、スマホにCOCOAっていうアプリを入れておかなきゃならないんですけど、これがどうしても入らない。COCOAって、ご存知ですよね、コロナの濃厚接触者を特定したりするやつですね。あれをインストールしとかないと会場に入れないんです。チケットは出てこない、アプリは入らない、この両方ダメって人は特別対応デスクに回されて、結局COCOAは私の10年近く使っている古い型のスマホだと入らないってことが分かって、手首に特別対応の輪っかをつけてもらって、ようやく中に入れました。まあ、還暦過ぎたらバンドのライブ会場なんかウロウロするなってことですかね。
 でもねえ、「生きてる間にこれだけはどうしても」って言う気持ち、ありませんか? せっかく生まれてきたんだし、いろんな素晴らしい出会いがあるわけだし、あれをどうしても聴きたいとか、これを直接見てみたいとか、一度っきりのかけがえのない体験を大事にしたいっていう気持ち。まあ、私なんかはもう十分聴いただろうと言われればそのとおりで、バンドで言うならミスチルを本当によく聴いたし、ワンオクにはまってライブに通ったし、その後はセカオワ大好きになって、東京、さいたまはもちろん、山梨や大阪まで追っかけたりするようになって。だけど、長生きすると髭男にも出会っちゃうわけで、これはもうしょうがないでしょう。生きることって、つまりはこの世界の感動に触れることなんじゃないかと思うんですね。そのためなら何でもする、みたいな情熱がすべてというか。実は、青森が中止で長野もダメだった時のために、宮城のチケットも押さえてあるんです。ファンってそういうもんですよ。長野から東京に帰る新幹線の中、髭男のタオルを首からかけている人たちが結構いましたけど、みんな東京から聴きに行ってるんですよ。そんなファンの一人として、今回特に「どうしてもナマを聴きたい」って思っちゃったのは、ある曲のせいでもあります。それは、新しいアルバムのリード曲である、「アポトーシス」っていう曲です。

 コロナ時代、死のことを考えさせられることが多くなりました。自宅療養中に亡くなってましたとか、高齢者になると重症化のリスクが何倍だとか、全世界で何百万人死んだとか、パンデミックの中でだれもが日常的に死と向かい合うようになりました。でもまあ、これはある面いいことだと私は思ってます。死はリアルですから。全ての人にとってのリアルですから。死を遠ざけている現代文明が、人間の有限性を悟って回心するチャンスだってことです。しかしそれは同時に、死というリアルを超えた「まことの命」と向かい合うチャンスでもあるんです。我々が「死」と呼ぶ現象は、キリスト教的に言えば神の御業であり、すなわち恩寵ですから、ただの悪い出来事ではなく、まことの命の始まりであるはずでしょう。だから、そこに向かって、私たちはドキドキしながらも信仰と希望をもって歩んでいくという、そのリアルに目覚めるチャンスをコロナからいただいているように思いますよ。そんな今だからこそ、この「アポトーシス」っていう曲にとても啓示的な感動を覚えてるんです。
 アポトーシスっていうのは、生物学用語になるのかな、細胞が自分で死んでいくことですね。自分で死ぬっていうか、あらかじめ予定されている死のことで、組織全体をより良い状態に保つために、細胞が自ら死んでいくように組み込まれているプログラムがあるんです。ケガや病気で細胞が死んじゃいましたっていうのとは違って、ある条件下では、自ら消えていくんですね。全体を生かすために。犠牲の死って言うのか、なんかステキでしょう? 考えてみたら、例えば人間だって、いつかは死ぬようにセッティングされているわけですけど、大きな意味でアポトーシスなんですね。つまり、一人ひとりの死は、全体のためなんです。実際、もし誰も死ななかったら、今頃この聖堂もいっぱいで入れないでしょうし、日本中、世界中人であふれて、もはや新しい子どもを産むことなんてできなくなる。それが全体にとっていいことかと言えば、そうではない。やっぱりちょうどいい適正な規模というのがあって、常に新しい世代が生まれてくるし、古い世代は場所を譲っていく。そのように、全体のいのちと自分のいのちを一つのこととして受け止めるのが、キリスト教ってことなんじゃないですか。
 ちなみに、コロナでも第何波とか言って、ウイルスがぱーっと増えては減ってを繰り返してますけど、これも私の考えでは、たぶんウイルス自身に、これ以上増えたら全体にとってよくないと自制するプログラムが備わっていて、いわば自動的、自律的に増えたり減ったりしているんじゃないですか。だから、こんなことを言ったら身もふたもないですけど、人間が自粛しようがしまいが、根本的な影響はないんじゃないかな。ある程度は防いだり減らしたりもできるでしょうけど、根本的にはウイルス自身が変異しながら強毒化したり弱毒化したりを、いわば自動的に調節しているって部分も相当あるんじゃないかって思ってます。というのも、命の仕組みってぼくらが知ってるよりもはるかにお互いに深く関わっていて、すべての命は命全体のことを思っているし、去るべき時がくると、去っていくようにできていて、それがいのちの喜びでもあるからです。アポトーシスっていうのは、ある意味最高の犠牲の死でもあって、それってなんだか、十字架に向かうイエス様を思わせるじゃないですか。自らの定めを恵みとして受け止めて、自分が去っていくことがみんなのためになるってことを信じて、去っていく。現代文明はどこか不老不死を願っているようなところがありますけど、大きないのちを生かすために自らは去っていくってところにこそ、最も人間的な意味が現れるんじゃないですか。
 そんな「アポトーシス」って曲なんですけど、髭男の藤原聡君、詩を書くのも、曲を作るのも、歌うのも彼ですけど、これはもう超一流の芸術品です。演奏もアレンジも、本当に素晴らしい。こういうエモーショナルなテーマの曲はついつい情感たっぷりなアレンジになりそうなところを、ストリングスとか使わずにクールでスタイリッシュにまとめて、メンバーそれぞれのセンスをキュッと響き合わせて飽きさせず、今まで聴いたことのない独特な新しさを感じさせる楽曲になってます。何と言ってもその歌詞が、まさにアポトーシスなんですよ。たぶん長年寄りそった夫婦の想い、それも片方が重い病気で死を目前にしている、そんな状況での想いを歌ってるんですね。歌いだしが、「訪れるべき時が来た。もしその時は悲しまないで、ダーリン」って、呼びかけてるんですよ。夫が妻に呼びかけてるのか、妻が夫に呼びかけてるのか、ともかくパートナーのどちらかが重い病気にかかっていて、もうすぐ来る「その時」、すなわち死別の時のことを歌ってるんです。「いつの間にやらどこかが絶えず痛み出し、うんざりしてしまうね」という歌詞もあるし、「今宵も明かりのないリビングで」「水を飲み干しシンクにグラスが横たわる」とか、自宅での闘病看護生活を思わせます。体験したことのある方もおられるでしょう。愛する人が病気で苦しんでいるのを、身近に看病するつらさ。本人は痛いし、不安だし、看病する方も怖くて、やるせない。「この幸せがいつか終わってしまうなんてあんまりだ」って言う歌詞もある。だけどこの歌は、そういう苦しい現実を分かった上で、安易な希望や励ましを歌わずに、そのリアルそのものを丸のまま受け止めようとしてるところが、グッとくるんです。
 夫婦ってね、やがて別れの日が来るわけですよ。どちらかが先に去っていく。それはつらいことだけど、本質的にはアポトーシスなんですね。未来永劫二人で幸せにっていうわけにはいかない。むしろ、「訪れるべき時」にどちらかが去っていくことは、二人にとって、ひいては命全体にとって、忍びがたいことではあっても、最終的にはいいことなんであって、摂理なんだと。「神の定め」ってやつですね。細胞のアポトーシスも、イエスの十字架上の犠牲も、神の定めなんですね。去っていかなければいけない。だけど、実はそれはただ去っていくんじゃなく、みんなを生かすという、何か大きないのちの始まりでもある。曲の最後は、こう歌うんです。「もう朝になるね。やっと少しだけ眠れそうだよ」。おそらくは夜通しの看病の果てに、相手がようやく眠れたので、自分も眠れそうだっていうのかもしれない。それとも、もしかすると夜の間に看取ったのかもしれない。いずれにせよ、「朝」は、光の世界の始まりですね。まあ、ぜひ聴いてみてください。サビもいいですよ。って、調子に乗ると歌い出しそうになるから、もうやめますけど。

 私思うんですけど、なんて言うんでしょう、夫婦ってね、あるいは夫婦でなくても、今日の聖書でいうなら、「神が結んだ者」としてのパートナーってね、第一朗読にもありましたように、互いに助け合うように結び合わせたわけですよね。愛し合うのもいいんだけど、一緒に旅行するのもいいんだけど、助け合わなければもはやパートナーとは呼べない、と。でも、じゃあ助け合うってどういうことか。それは、単に困ってるときに助けるとかいうだけじゃなくて、最終的には、相手が去っていくことを二人にとって良いものとして受け入れることなんじゃないか。パートナーシップってそういうものだと思う。どのみち最後は別れなきゃならないんだから、その別れを単に悪い出来事にしちゃうなら、それまでどんなに相手を助けたところで、最終的には相手を助けられないじゃないですか。パートナーが互いに悪い出来事に向かってひたすら心配しながら過ごすんじゃなくて、「訪れるべき時が来た、もしその時は悲しまないで、ダーリン」と、確かに自分も怖いけれど、そのリアルを受け入れて、すべてを良いものとするために、お互いに今ここで助け合って生きていくこと。
 ニューヨーク在住の男性と日本の皇室の女性が今月結婚するとかで大騒ぎしてますけど、私は「好きにさせたら」って思う。女性の親が随分心配しているようですけど、さっき聖書にもありましたよね、「それゆえ、二人は父母を離れて一体となる」っていうことで、若い二人で苦労すればいいんじゃないですか。あんまりみんながいろいろ言うんで女性の方が心の病を患ったという報道もありましたけど、「健やかなるときも病める時も」のパートナーですから、一緒に背負ったらいいでしょう。ただですね、これだけは言わなきゃならない。パートナーになるってことは、やがて、どちらかがどちらかの最期を看取るってことです。結婚っていろんな定義がありますけれども、「あなたの最期を看取ります」ってことでしょ。それは、一般には悲しいことでも、キリスト教的には「摂理」であって、その摂理を受け入れることこそが永遠の命への目覚めでもある、そういうことじゃないですか。パートナーになるって、相手にそんな目覚めのチャンスを与えることでもあるんですよ。夫婦だけじゃない。親子でもいいんですけども。「あなたの最期を看取ります」と。
 人間て、とても弱い生きものではありますけれども、時に英雄的な行為もできる存在で、とりわけそれが現れるのが、愛する人の最期を看取る時だと思う。まさに「ピエタ」ですね。イエスの十字架のもとで、聖母マリアは愛する息子の最後の最後まできちんと見届けて、ついにはそのなきがらを両手に受け止めました。弟子たちは逃げちゃいましたけど。神が結んだものを、人が離すことはできない。夫婦だけじゃなく、親子でも友人でも、最後まできちんと看取る。マザー・テレサなんか、見ず知らずの人でも看取ったじゃないですか。神が結んだ相手だって信じたからです。
 愛する人、大切な人の最期に立ち会うことって、その人がいのち全体のために自らを捧げているという、その犠牲に敬意を表するってことでもある。そうして、やがてこの自分も、誰かのため、みんなのために自分を明け渡して去って行く。いのち全体のために、私の人生をお捧げしますっていう思い。人間存在の根底に、そんなアポトーシスが秘められているんじゃないですかね。すべての命は神のみ手の内にあって、結局は全部繋がってますから。自我は自分のことしか考えませんけど、自分が消えていくことが全体を生かすんだし、ということは、私は消えるんじゃなくてむしろ全体として生まれるんだ、という気づきは大切だと思います。
 コロナもなかなか収まらないですし、このまま第6波とかいったら、本当に、「うんざりしてしまうね」とさっきの歌詞にもありましたけれども、でも、生きてるって、こうやって忍耐強く、いろんな面倒なことや、受け入れがたいことを受け入れながら、それでも助け合う者として一緒にやっていくってことだって気づかされた日々でもありました。コロナで命を失った人も、自分を捧げものとして、みんなを生かすための犠牲を引き受けた人であったはずですし、その命は失われたのではなく、永遠なんです。キリスト教は、そう信じます。イエスさまは十字架の上で、「全てを神に委ねます」と言って亡くなりましたけれども、自ら進んで自分を捧げつくしたわけです。それによって、全ての人が生きるものとなりました。ここに集う私たちもまた、今もそのイエスの死によって生かされているのです。



2021年10月3日録音/2021年11月5日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英