福音の丘
                         

紫の朝顔

聖母の被昇天
カトリック浅草教会
第一朗読:ヨハネの黙示(黙示録11・19a、12・1-6、10ab
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・20-27a)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ1・39-56)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 ご存じのとおり、東京教区からのお達しで、公開ミサは今日からまた自粛です。さみしいねぇ。みなさん、お元気で。(笑)しばらく会えなくなりますけど、まあ、これも神のみ心のうちと受けとめて、おとなしく過ごすことといたします。
 また、よく降りますね。雨も大変。さっきニュース速報で、長野でまた土石流があり、心肺停止の方もおられると報道していました。今日のミサは、コロナの自宅療養中に亡くなった方たちのため、また自宅で土石流に遭って亡くなってしまった方たちのためにお捧げしたいと思います。
 コロナと水害、まさに二重災害ですけど、繰り返し申し上げているように、コロナも水害も天災のようでいて、相当程度人災でもあるんですね。長野の土石流も、避難指示が出たのは土石流のあとだそうですが、もっと愛を持って、お金もかけて、よい準備しておけば、なんとかなったんじゃないですか。もっとみんなで工夫して、日頃から助け合って、お互いのために準備しておけば、救われる命もあったんじゃないですか。コロナのことだって、みなさん相当イライラしてますでしょう? 医療崩壊だとか、「今頃、そんなこと言ってるの? 一年半も前からわかってることなのに、もうちょっとどうにかならないの」って思っちゃうし、まあ、ひと言で言えば、「愛がない」。そういうことです。これ、自分の愛する人がコロナで死にそうだとか、愛する人が泥に埋まるかもしれないとかだったら、きっとなんとかしたはずなんですけど、まあ、やっぱり他人の命は軽いってことですかねぇ・・・。神さまのみ前ではみんな同じなはずなのに。遠い長野の土石流のことはよく分かりません、沖縄で自宅療養中にコロナで亡くなった人のことまでは知りませんって、ついついそう思っちゃうかもしれませんけど、我々はまがりなりにもキリスト者なんですから、見ず知らずの人にだってほんのちょっとでも愛を感じて、「この人も大切な神の子なんだ」っていう思いでこの災害を乗り越えていくように召されてるし、何らかの具体的な行動を求められてると思いますよ。
 その意味では、聖母マリアは、いつも私たちの模範です。エリサベトがお腹大きくなって大変だっていうんで、はるばる助けにいくわけですよね。「マリアは出かけて」(ルカ1・39)ってありますけども、この「出かけて」っていう言葉、実は教皇フランシスコが大好きな言葉です。口癖のように「出かけていけ」って。もちろん、誰かを助けるために。あるいは、誰かの命をあらかじめ守るために。その誰かに出会いに出かけて行け、と。あの熱海の土石流の泥なんか、98%は人間が積んだ泥だそうで、これもう完全に人災じゃないですか。金のため、経済のためなら、たとえ大雨で土が崩れて誰かが死ぬことになっても構わない、いいからここに捨てちゃえっていうことでしょう? ここに集まっている私たちは、そんな愛のない社会は望んでいないはずです。だったら、愛のある社会のために出かけて行きましょうよってことです。

 そういえば、なんかひどいニュースも聞いたなぁ。ご存じですか。「ホームレスはいないほうがいい」って言った方がいるんですよ。おとといだったかな。有名なメンタリストだそうで、まあ、メンタリストってなんだかよく知りませんけど、ともかくネット上では大勢のフォロワーがいる人なんだとか。当然発言には責任が生まれるわけですけれども、驚くべきことにこう発言してるんです。「人の命は平等だって言うけれど、優劣がある」。「自分にとっては、意味のない命もある」。「生活保護とか、ホームレスとかに金を使うくらいなら、猫の保護のために税金を使ってほしい」。この方、猫好きなんですね。まあ、びっくりですけど、実はこういう考えって、そこまでとはいわなくても、どこか人の心の奥にそういう身も蓋もない本音というか、身勝手な思いが潜んでいるのは、これは事実です。この彼が、「じゃあ、自分の家族とホームレスのどちらかを選べと言われたら、自分の家族の命のほうを優先するだろう?」って言うようなことも言っていて、ナンセンスな論法ですけど、そう言われると一瞬ひるむ人もいるでしょう。だれもがそういう、きれいごとではない本音を隠しているという意味では、ただこういう発言を批判して終わり、とはいかないと思う。じゃあおまえはどうするんだという問いに、向かい合わなければならないんじゃないか。
 それで言うなら、私は、そういう本音を越えてなおも平等を目指すことができる、ってところが、「人間らしさ」ってことじゃないかと思う。とりわけキリスト教って、自らの闇を越えて、たとえきれいごとでもちゃんと言い、忍耐強く実行する人たちなんだと思う。ホームレスが苦手だとか、嫌いだっていうのはある程度は仕方がない。好き嫌いなんてね、自分ではコントロールできないことですから。また、表現の自由、言論の自由があるんだから自分の考えを表明してもいいじゃないかと言われれば、それもある範囲では仕方がない。だけど、人間のすごいところ、美しいところって、そんな好き嫌いを越えていくところにあるし、言いたいことや本音を、たとえ嫌いな相手でも傷つけないようにぐっとこらえるところにあるんじゃないですか。
 子どもがピーマン嫌いでも、母親としてはいろんな栄養を摂ってほしいから、「ちゃんと食べなさい」って言いますよね。それが教育ってもんですから。子どもとしては、「えぇ!?」って思うわけですけど、そう言いながらも一生懸命嫌いなピーマン食べたりするわけですよ。えらいですよね、これ、人間だけです。猫は、絶対に嫌いな物食べませんよ。人間は、嫌いでも食べるんです。確かに、苦手だし、いやなんだけれども、それでもやっぱり、お互い大切な命だよねって言いながら、少しずつ近づき、交わり、やがてピーマンもおいしいねって言いだす。他の生き物にはありえない美徳です。なにもマリアさまみたいに博愛で、天使のように純粋な心でとまでは言いませんけど、「にもかかわらず受け入れる」っていう、そういう、なんていうのかなぁ・・・。
 この人ね、「生活保護の受給者やホームレスが生きていても、自分にはなんの得もない」、っていうようなことも言ったんですね。「なんの得もない」と。だから、いないほうがいいと。「邪魔だし、臭いし」とまで言っていました。確かに匂うこともあるかもしれませんけど、「だからこそ」っていうのが、人間の素晴らしさなんですよ。目の前の一人の人間に思いを馳せて、「この人はどんな人生を生きてきたんだろう。今どんな思いでいるんだろう。どんなひどい目に遭ってきたんだろう。きっとたくさんの不運も背負ってるんだろうな。だからこそ、他の運のいい人たちよりも、ちょっと優先しよう」って思える、そこが一番かっこいいっていうか、人間らしくなれる時なんです。「何の得もない」って言うけど、実は自分をまっとうな人間に育ててくれるという意味では、嫌いでも受け入れることって、すごく「得」なんだってことを知らないだけなんじゃないか。
 社会全体が冷たいというか、何でも損か得かで考えるようになっちゃって、あの「津久井やまゆり園」の事件なんかはその極みと言っていいんでしょうけど、実は、「何の役にも立たない」と思われる人こそが一番役に立ってるし、「損は得で、得は損だ」ってことを、みんなもっと知るべきです。こうして教会に集まっている私たちこそは、イエス・キリストが冷たいこの世界に現れて「そうじゃあないよ」と、「一番上になりたかったら、下になりなさい」と、「たがいに仕え合いなさい」と教えてくれたことを、証ししなければなりません。むしろ自分のほうが犠牲になって、一番運の悪かった人たちに仕える時、神さまが特別の恵みを与えてくださる、だから「損」することが最高に「得」なんだっていうことを、具体的に目に見えるかたちで示すっていう。
 今日、聖母マリアがこう言ってますけど、今の世界はこれをどう聞くんでしょうか。
「主はその腕で力を振るい、
 思い上がる者を打ち散らし、
 権力ある者をその座から引き降ろし、
 身分の低い者を高く上げ、
 飢えた人を良い物で満たし、
 富める者を空腹のまま追い返されます。」(ルカ1・51-53)
 これを聞いて、普通、自分はどっちだと思うんでしょうかね。「思い上がる者」のほうだったら、「打ち散らされ」ちゃうんです。「権力ある者」だったら、その座から引き降ろされちゃうんです。「富める者」だったら、空腹で追い返されちゃうんですよ。でも逆に、「身分が低」ければ、「高く上げ」てもらえる。「飢えている」んなら、「良い物で満たし」てもらえる。まあ、右か左かどっちかだ、みたいな二者択一じゃないでしょうけど、やっぱりドキッとするべきなんですよ。「私、どっちだろう?」と思うべきなんですよ。そして、もしも「思い上がる者」だと気づくなら、あるいは「権力ある者」になっちゃってるなと気づくなら、「身分の低い者」に近づき、「飢えた人」の現実を知らなきゃならないし、そのために「出かけていく」必要があるんです。それを今日、聖母から語りかけられていると思いますよ。

 この夏もまた、私、加計呂麻島に行けなくて残念ですけれど、加計呂麻島の合宿所を建ててくれた海宿から、もうこれで丸二年行けてないんでかわいそうに思ったんでしょう、合宿所の隣の農園のマンゴーを送ってきたんですよ。そこのマンゴーは加計呂麻一といっていいおいしいマンゴーで、ハウス栽培ですけど、完全無農薬栽培だから地面にはいっぱい虫がいるんです。虫がついたところは黒っぽく変色しちゃうんで普通は除虫するんだけど、そこの農園の主人が言うには、「虫のついたマンゴーほど、うまいものはない」と。実際、ほんとに濃厚な甘みでおいしいんです。その大きなマンゴーを、二つ送ってきたんですね。うれしくなってすぐに一個食べちゃいましたけど、「ああ、この味!」って、懐かしさで泣きそうになりました。だけど、そのときふと思ったんです。自分だけこんなおいしい思いしちゃあ申し訳ない、もう一個は元ホームレスの「最寄りさん」の所に持っていこうって。ご存知、浅草教会の最寄りのホームレスだった最寄りさんです。生活保護を受けられるようにお世話して、何とか今は山谷のハウスで暮らしてるんで、しょっちゅうお寄りしてます。その最寄りさんに、もう一個のマンゴーを冷やしてサイコロに切って、パックに詰めて持って行ったら、それはそれは喜んでくれました。
 なんて言うんでしょう、この、マンゴーが二つ届いたら一つは分かち合おうって思う一瞬って、とっても大切な瞬間なんじゃないですかねえ。まあ、イエスさまだったら二つとも持って行くんでしょうけど、そこはやっぱり半端なキリスト者としては、とりあえず一つは食べちゃうわけで、そこはご愛敬で神さまもお許しでしょうけど、じゃあ、あと一個はどうすんの? っていう話です。「二個もらったら、二個とも自分の物」っていうのは、別におかしなことじゃない、普通のことだって誰もが思ってますけど、それは本当に「普通」なのかって話です。本当は、「半分はみんなのものだ」って分かち合う方が「普通」なんじゃないか。一個食べてめっちゃおいしかったときにふと、「そうだ、あの人、一人暮らしで食費もぎりぎりで、冷えた加計呂麻マンゴーなんて食べることないだろうな。食べたら感動して、一生の思い出になるかも。よし、持って行こう」って思うほうが、本当の「普通」なんじゃないか。どうなんでしょう。これが家族ならね、分かち合うのが「普通」でしょう? だけど、家族じゃなくても、家族同然に「これ、おいしいよ」って分かち合うのが「普通」だったら、世界中が幸せになるんじゃないですか。キリスト者は、そのような普通の感覚で出かけていき、ごく普通に分かち合うんです。
 今朝、この雨ですから、上野教会の副委員長からメールが来たんですね。実は、上野教会には上野教会の「最寄りさん」がいて、教会裏の高速道路の下で暮らしてるんですけど、その方がずぶ濡れになっているから、教会のホールで保護していいですかっていうメールだった。だから、「もちろんです」とお答えしました。それこそ、「普通」のことですから。ただ、これ何でメールが来たかって言うと、そもそも雨の日はホールにはすでに先客がいるんですよ。三人の路上生活の方。この三人とは私も親しくて、いつもこんな雨の日は教会のホールで過ごしてもらってるんですね。もちろん、寒さで保護したこともありますし、ついにこの前は初めて、暑さで保護しました。温暖化のせいですね。「今日は命の危険を感じます」って言って、やってきたんです。ほら、38度になったときありましたでしょ? みなさんはクーラーの効いた部屋にいますけど、路上ってめちゃめちゃ暑いんですよ。まあ、そんな三人を昨日からすでに保護してるんで、上野の副委員長がわざわざ今朝メールしてきたってことです。「もう一人いいか」って。「雨でずぶ濡れになってます」、と。
 ねぇ・・・なんか、いいですよね、教会って。そういう、「普通」の感覚があるって、いいと思いませんか? かたや、「ホームレスなんかこの世にいなくていい。邪魔だし、くさいし。生活保護の人に金かけるくらいなら、猫に税金使ってほしい」っていう人がいる。どう思おうと、他人の脳みその中のことまであれこれ言えませんけれど、かたや、「ホームレスの人をホールで保護したい。生活保護の人にも最高のマンゴーを食べてもらいたい」という人もいる。だけどそういう、本当の「普通」の人たちもいないと、やっぱりこの世界は、どんどん身勝手で野獣化していくんじゃないですか。危機のときに人の本性が現れますけど、コロナの時代、温暖化で災害も激甚化しているこの危機の時代に、自分の命と血縁だけ守ればそれでいいっていうのは、あまりにも悲しい。ケモノの世界はそうでしょうけど、人間は違う。人間は、自分の命と同じだけ大切な命が世界にあるし、自分の家族と同じだけ愛すべき人たちが世界にいっぱいいるだなんて言うんですよ。

 そうは言っても、日頃からその「普通」の感覚を養っていないと、いつの間にかそんな「普通」を見失っちゃいます。
 私、今、教会の庭で朝顔育ててるんですけど、実は今日のこの日に合わせて育ててきたんです。(青い祭服を見せて)これ、初めて見た人、います? 青い祭服、素敵でしょう? 8月15日の聖母被昇天のミサでいつも着てるんですけど、今日、その15日と日曜日が重なったから、日曜だけの方は初めてかもしれません。いうまでもなく、聖母のブルーです。私、青は大好きな色ですから、聖母被昇天の朝に青い朝顔が満開だったら素敵だなあと思って、青い朝顔の種を頂いて10株ほど育ててきたんですけど、植えたのが遅かったのか、今日には間に合いませんでした。
 ただ、ひと株だけ鉢に入れて3階で育ててたのがあって、それがいち早く、つい数日前の朝に咲いたんです。ところが、咲いてみたら紫色だったんですよ。青いのを楽しみにして毎日水やってたんで、「あ~あ、がっかり。やっと咲いたと思ったら紫だったぁ」って、朝からぼやいてたんです。そうしたら、泊りに来てた私の友人が、「そんなこと言ったら、かわいそうだよ」って言うんですね。「本人のせいじゃないんだから。精一杯咲いたんだから、何色でも喜んであげなよ」って。私、ドキッとしました。おっしゃるとおり。やっと一輪咲いたその朝顔のことを、「あ~あ、青じゃなかった」だなんて、あんまりですよね。本人にしてみたら、ワクワクしながら育って、ついに最初の一輪を咲かせたとたん、「あ~あ」ってガッカリされちゃったら、ショックどころじゃないでしょう。
 そういうことなんですよ。自分が好きならかわいがるけれど、自分の趣味に合わないと、都合に合わないと、自分の思う通りでないと、嫌って「あ~あ」だなんて言っちゃうんです。かわいそうな、朝顔。私、そりゃそうだと思って、すぐに「ごめんね」って謝りました。「おめでとう。とってもきれいだよ」って。



2021年8月15日録音/2021年10月19日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英