福音の丘
                         

ようこそコムニオへ

キリストの聖体
カトリック上野教会
第一朗読:出エジプト記(出エジプト24・3‐8
第二朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ9・11‐15)
福音朗読:マルコによる福音(マルコ14・12-16、22-26)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 いよいよ転会式ということで、ご本人は緊張なさっているでしょうけれど、家族が一人増える私たちの共同体にとっては、喜びの時です。転会式をいつにしようかと相談していたんですけど、この「聖体の主日」がふさわしいんじゃないかということで、今日にいたしました。では、なぜ聖体の主日が一人の家族を迎え入れるのにふさわしい日なのか。そのことを、少しお話しいたしましょう。

 転会式というのは、プロテスタント教会の信徒をカトリック教会に迎え入れる式です。といっても、再洗礼をするわけではありません。プロテスタント教会の洗礼も、カトリック教会と同じサクラメント、秘跡として授けているので、すでに「キリスト教信者」であり、改めて洗礼を授けたりはしません。そういうところはいいですよね、カトリックもプロテスタントも同じ洗礼を受けている、その意味では1つの共同体だという、秘跡への信頼というのは、とてもいいことだと思います。
 ただ、カトリック教会では、成人の洗礼の場合、「入信の秘跡」として、「水の洗礼」と「油の堅信」と「パンの聖体」という、3つの秘跡を一緒に授けるんですね。幼児洗礼だと、生まれてほどなく洗礼、7年くらいたってから初聖体、さらに7年くらいたったら堅信というように成長に合わせて授けますけど、成人洗礼の場合は、一緒に授けます。そのうちの堅信の秘跡、聖体の秘跡については、プロテスタントとカトリックでは捉え方が違うので、カトリック教会にお迎えするにあたって、もう水の洗礼は授けませんけど、残りの油の堅信とパンの聖体を今日お授けします。このあと、皆さんの前でカトリックの信仰を告白していただいた後、油の堅信をお授けし、聖体拝領の時にパンの聖体をいただいて、転会式といたします。
 水とか油とかパンとか、命に欠かせないものですよね。それで体もできていますし、それを受けて共同体が一致するっていうのもあります。今日転会する方は、洗礼の水を受けて神の子とされた者として、さらに堅信の油とパンの聖体を受けて、キリストの体である教会共同体といっそう深く一致して、心身共に、魂の世界においてもキリストと一つになり、キリスト者と一致するのだと思ってください。

 この「キリストの聖体」の主日に、信徒の皆さんもこの秘跡についてのイメージを新たにしていただきたいんですね。転会する方が個人的に油を受け、パンを食べて、カトリック信者になりましたというような他人事の話ではなく、これは、わたしたちが皆共にパンを食べてキリストと一つになり、一つの家族として一致しましたという、共同体の体験であるはずですよね。最後の晩餐でイエスさまが言い残したことはそれですから。イエスは一人ひとりに、「これは私の体だ」とパンを渡すわけですけど、それは「私とあなたと」の一致というよりは、「私とあなたたちみんな」の一致のためですね。同じキリストの体を食べる仲間として、皆が一つに結ばれること。この、「イエスと結ばれることは皆と結ばれることだ」、「キリストの体をいただくことが、皆が一つのキリストの体になることだ」というイメージは、すごく大事です。
 カトリック教会は、長い歴史の中でこの聖体拝領を大切にしてきたあまり、どうしても「一人で御聖体をいただいて、一人で救われる」というイメージになりがちですけれども、キリスト教の本質には「個人の救い」なんて言う傲慢な教えはありません。皆でキリストに結ばれて、皆で救いの喜びをわかちあうという、愛の教えですから。その点は、とりわけ日本のカトリック信徒はちょっと弱いような気もします。
 そこには、もしかすると言葉の問題もあるかもしれません。共にパンを食べてひとつになるという交わりの食卓のことを、「聖体拝領」という漢字四文字にしちゃった。間違いだとは言いませんが、「拝領」って言っちゃうと、私がうやうやしく頂くという、とても個人的な印象になりますよね。だけど、元の言葉にはそのニュアンスはないんですよ。元の言葉は「コムニオ」というラテン語です。英語の「コミュニオン」ですね。これは、キリストにおける一致のことで、一つになること、キリストの共同体として共に生きること、全部「コムニオ」です。教会はその始めから、キリストの体を共に食べて、一つのキリストの体になることも「コムニオ」と言い表してきました。つまり、教会の交わりと、パンを食べることを分けて考えずに、どっちも一つのこととして「コムニオ」って表現したんですね。ところが、日本語ではこの「コムニオ」を、「交わり」と「聖体拝領」に分けて訳しちゃった。そもそもは「キリストにおける交わり」と「聖体拝領」というのは同じ言葉ですから、「さあ聖体拝領をいたしましょう」って言うのは、「さあ、交わりをいたしましょう」って言ってるんですね。これを分けちゃうと、キリストとの交わりは共同体との交わりだというイメージが弱まっちゃって、聖体拝領が個人的なイエスとの交わりになってしまう。
 この、皆で同じ食卓について「コムニオ」するって感覚が、今の教会ではとっても弱い気がします。ミサでも、聖体拝領する所は「交わりの儀」っていうんですけど、これは、「コムニオ」のことを言ってるんです。この「コムニオ」は、コミュニティとか、コミュニケーションとかの「コミュ」、すなわち「共に」系の言葉の元になっているような言葉なんですけど、これからの世界を救うキーワードですね。「共同体」、「共生」、「共有」。この激動の時代に、我々キリスト者の「コムニオ」が模範となり、実践のモデルとなるんだという誇りをもって、共に「コムニオ」をやっていきましょうよ、と呼びかけたい。聖体拝領するときも、「さあ、コムニオするぞ」、「コムニオに加わるぞ」、「コムニオによって世界を救うぞ」って、そういう思いを持ってもらいたいと思います。
 転会する方は、もちろん今までもプロテスタント教会で「コムニオ」をやっていたでしょうし、カトリック教会には別の「コムニオ」があるわけではありません。一つの「コムニオ」を、カトリックという伝統でいっそう深めていただきたいと思います。ミサの前に聞いた話ですけど、転会者が今まで所属していた教会に転会を申し出たとき、牧師先生から「どちらの教会に移るんですか」と聞かれたそうです。やっぱり心配なさったんだと思います。それで、「カトリック上野教会です。司祭は晴佐久神父です」って言ったら、「ああ、晴佐久神父のところなら安心だ。かつて、講演会でお話を聞いたことがあります」と、背中を押してくださったそうです。かつて日本基督教団の大会で講演したことがあるんですけど、そこにいらしてくださっていたんですね。「あの神父の所なら大丈夫だ」って言っていただいたと聞けばうれしいですし、そう言える牧師も立派だと思う。
 当然その講演会でも、福音家族のお話をしたんですよ。それこそ、「コムニオ」の話ですね。キリストが、わたしたちを一つの家族に結ぶっていうこと、それを実践することの素晴らしさ、それをやっている所をこそ教会と呼ぼうという話ですから。教会って言うのは、建物の話とか、組織の話じゃなく、プロテスタントとかカトリックとかいう教派の話でもなく、「コムニオ」を生きている現場が、教会だということ。「コムニオ」でなければ教会とは呼べないって言うようなお話を、講演会でしたんです。その牧師先生も「本当にそうだ」って思っている方だからこそ、「安心だ」って言ってくださったんじゃないですか。転会してさようならでなく、違う教派に行ってしまったのでもなく、同じキリストの「コムニオ」中での引っ越したくらいのイメージで。そういう、まさに「交わり」を、もっともっと各教会で、各教派で、さらには各宗教で大切にして目指していくというのが、キリストの願いであるはず。そのような、とても透明感のある「コムニオ」を、我々はイメージし、憧れるべきじゃないですかね。

 この「コムニオ」は、「コミュニズム」も同じ語源ですね。コミュニズムは普通は「共産主義」って訳されますが、いったいどれだけの人が真の共産主義を理解しているか。かつてはバチカンも、「共産主義とカトリックは同時に信じることはできない」なんて言ってたことがありましたけれども、それは言うなれば、当時も今も、いわゆる「共産主義」が本当のコミュニズムじゃないから、一緒にやっていけないってことなんですよ。ソ連・中国型の共産主義は一党独裁で、西ヨーロッパ型の共産主義は民主・社会主義。ソ連・中国型の共産主義を赤いコミュニズムと呼び、西ヨーロッパ型を白いコミュニズムって呼んだりすることもあるんですけど、どっちもどっちというか、赤いとか白いとか、色がついているコミュニズムは、本来のコミュニズムではないんですよね。色って、相いれないじゃないですか。白は赤が嫌だし、赤は青とは混ざりたくないしって、もうバラバラか争いか、みたいなことになっちゃう。私は、コミュニズムって本当に素晴らしいものだと思います。それが、イエスの語る「神の国」をもたらすものであれば。分かち合い、共有し、そして無条件に助け合う。平等で、一人ひとりが大切にされ、自由でありながら一致している。そんな、神の国。それを目指すのが真の「コミュニズム」なんです。言葉の成り立ちからして、そもそもこれは「コムニオ主義」なんだから。「コムニオ」に共感し、「コムニオ」を目指して一緒に生きて行こうっていう仲間たち。それこそは、私に言わせれば、赤いコミュニズムでも白いコミュニズムでもなく、透明なコミュニズムなんです。いつもそうですけど、真理は何色でもない。あるいは、何色でもある。これからの世界が、どれほどそれを必要としているかということは、みんなよくわかっているはずですよ。今やバチカンだって、そういう意味でならば、「真の共産主義はカトリックである」って言うんじゃないですか。

 「人新世(ひとしんせい)の資本論」っていう本が売れているのをご存知ですか。斎藤幸平さんっていう新進気鋭の学者さんが書いた本です。環境危機の現代、資本主義は行き詰まっている、持続可能で公正な社会を実現するには「脱成長コミュニズム」しかないって言う主張です。これ以上地球環境を破壊しながら、今までのような経済成長を目指すのは不可能だし、誰も本当の意味で幸せになれない。地球環境を大切にしながら、貧富の差をなくして、無駄な成長を目指さずに、みんなで「コモン」を大切にすることで、脱成長型のコミュニズムが可能だと。コモンって言うのは、環境とか社会インフラとか、みんなが生きていくのに必要な共有の富のことですけど、まさに「コムニオ」の富のことです。それこそ、透明なコミュニズムですよ。若い世代が、この「コムニオ」の必要性を知り、目指すべきは「コムニオ」だったんだと気づき、「コムニオ」をやっていけば本当に楽しくて、共に自己実現できる幸いな世界が可能だって信じてほしいんです。
 現実問題、資本主義の格差社会の中で、住む所なくしかけて右往左往している若者も多いんですよ。これ、絶対本人のせいじゃないんです。つい先日も二人、お世話しました。どちらも私が洗礼授けた青年です。これ、先週本所教会でもお話ししたんですけど、一人は心の病を背負いながらなんとか生きて来た青年です。お金のやりくりがつかず、ついにアパートの契約更新の保険料が足りなくなって、そのことで心が不安定になり、電話してきたんです。お金って、恐ろしい魔力を持ってて、命削ってまでそれを求めるし、それがなくなる心配で自死する人さえいる。本当はなんとでもなるのに、この資本主義の世の中では、「金がないイコール死」ってみんな洗脳されてるんですね。「コムニオ」さえあれば、金なんてなくっても全然平気だっていうことを、特に若い人には知ってもらいたい。その彼も、これからのことを考えると苦しくて死にたくなるみたいなこと言うので、足りないのはいくらなのって聞いたら、1万7千円だって言う。それで、「大丈夫、それくらいならなんとかするよ」ってことで、先週の日曜日にお渡ししました。そしたら、一昨日速達が届いて、「自分の勘違いでした、更新の保険料は必要ありませんでした」って、そっくり送り返してきたんですよ。偉いでしょう? 私、感心して、「届いたよ」って電話して、でも本当に困ったらいつでも言ってねって言いました。まあ、神父の金なんて「コモン」ですから、つまり共有財みたいなもんですから。要するに、「コムニオ」さえあれば、なんとでもなるってことですよ。逆に言えば、それがないと住む所まで失っちゃう。「コムニオ」さえしっかりあれば、「あー、なんとかするよ」ですむし、なんとかなったら返せばいい。家族的ってそういうことですよね。
 もう一人の青年も、病気で何度も入院して仕事が出来ず、ついにやりくりが付かなくなってアパートを出ることになり、いとこの家に転がりこむことになりました。ただ、今まで使ってたアパートの冷蔵庫や洗濯機、その他の荷物を持って行けないんで、しばらく預かってくれないかって言う。確かに、誰かが預からないと、また自立してやっていけることになったときに一から揃えなきゃならないですから、預かることにしました。いとこの家とはいえ、いつまでもいられませんから、いざとなったら司祭館にしばらく泊ってもいいかって言うから、「どうぞどうぞ、困ったときは助け合い」って申し上げました。こういうの、クッションというか融通をきかせるっていうか、まさしく「コムニオ」なんですよ。そのクッションがないために、一気に路上生活にまでいっちゃう若い人もいるし、それこそ今、炊き出しに並んでいるシングルマザーとか、みんな、どことも繋がってないんです。「コムニオ」を知らないから。
 私たち上野教会が、本当に「コムニオ」だったら、どんなにみんな助かるでしょう。あっちで困っていたら、こっちで支えます、こっちで困ったら、そっちが支えます、そういうこの私だっていつ困るかわからないけれど、なにがあっても必ずみんなが助けますって、抽象的な説教や立派なお祈りだけじゃなくて、「コムニオ」がちゃんとあれば、神の国はここに来てるんじゃないですか。聖体の主日にいつにもまして感謝してご聖体を頂きますけど、ご聖体ってあくまでも、「このパンを食べ、この杯を飲め」、「これをいっしょに食べる俺たちは、永遠の家族だ」っていう、イエスの「コムニオ」でしょう。「コムニオ」を実現するための、固めの杯っていうことですよね。遺言ですよ。その翌日には殺されちゃうんだから。このパンは俺の体だ、俺の愛そのものだ、このパンを共に食べて、俺が愛したように愛し合って、何があっても信じ合い助け合って、俺が死んでも「コムニオ」を続けてくれっていう、このイエスの遺言を弟子たちは殉教覚悟で守り続けたんです。キリストの教会においては、パンを食べる「コムニオ」と、キリスト者として交わる「コムニオ」が、一致しているんです。

 「コムニオ」。美しい言葉です。それによってキリスト教は成り立っているし、その完成を目指してキリスト者は働いているし、その完成形の先取りとしてミサでご聖体を一緒に食べて、「透明なコミュニズム」を実現してまいりましょう。上野教会の皆さん、「コムニオ」しましょうよ。もしも自分が本当に困った時には、素直に正直に「助けて」ってお互いに言える教会なら、どんなにいいか。
 さあ、転会式をいたしましょう。「コムニオ」の主日にふさわしい式です。転会する方、これからは何か本当に困ったときには、御覧ください、こんなに大勢の「コムニオ」家族がいて、必ず、なんとかしてくれますよ。御安心ください。ようこそ「コムニオ」へと、教会を代表して申し上げたいと思います。



2021年6月6日録音/2021年7月4日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英