福音の丘
                         

永遠福音宣言

三位一体の主日
カトリック本所教会
第一朗読:申命記(申命記4・32‐34、39-40
第二朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・14‐17)
福音朗読:マタイによる福音(マタイ28・16-20)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28・20)って、イエスさまから力強く言っていただいて、ほんとに安心いたします。三位一体の主日。マタイ福音書の最後の一節ですね。いろんな困難もあるし、迷いや不安もあるけれども、この宣言を信じて安心して歩んでまいりましょう。
 今日は、本所教会での久しぶりのミサですけど、ここに来るとどうしても下山神父のことを思い出してしまうし、どうしても申し訳ない思いがよみがえります。というのは、下山神父さんが推薦してくれたおかげで、神父になって最初の年に巡礼旅行に行ったんですよ。ローマとルルド。私は海外すら初めてでしたからうれしかったですし、ヨハネ・パウロ二世教皇さまとの謁見もして感動しました。帰国してすぐ、司祭の集会で下山神父さんに「巡礼、行ってきました! 教皇さまにお会いできました、ありがとうございました」って声をお掛けしたら、たったひとこと、「みやげは?」って。(笑)だけど私、なんにも買ってこなかったんです。そういう常識がないって言うか、推薦してもらったんだからおみやげくらい当然なんでしょうけど、すっかり忘れてたんで、「すいません、忘れました」って言ったら、もうなんにも話してくれませんでした。いまごろは天国で笑ってるでしょうけど。今日はそのみやげの代わりでもないですけど、みやげ話を一つしますね。
 その巡礼で聖ヨハネ・パウロ二世教皇さまに謁見した時のことなんですけどね。それに先立つ1981年、教皇さまが日本に来られたとき、私は神学校の一年生で侍者をしたんですけど、教皇さまがみんなに向かってまっすぐに語りかける姿に、ほんとに感動したんですよ。イエスさまを見てるかと、思ったほど。しかも、日本語で。単なる原稿の朗読だけじゃなくて、本当に心こめて語りかけてるのが分かるんです。「イエスさまってこういう感じだったんだろうなぁ」っていうリアリティがあって、神学校の一年生の私にとっては、それこそ「福音宣言」の力に目覚めさせてくれた、重要な出来事でした。「ああ、こんなかっこいい神父になりたい!」、そう思ったんですよ。神のみ言葉を、目の前の相手に、恐れずに堂々と語りかける。「神は、今、あなたを、愛している」という福音を、まっすぐに宣言すること。今の私の、こういう直球型の説教スタイルなんかは、間違いなくその影響を受けているわけです。
 そんな教皇さまに、神父になって一年目にローマの謁見会場で再会したわけですね。さすがは天下の阪急交通社の威力で、謁見会場の最前列に並ばさせてもらって、そうすると教皇さまが目の前に来られるんですよ。まあ、うれしかったね。私の目の前に来てくださったんで、思わず両手で握手して、ほんとは「教皇さまに声をかけてはいけない」って注意されてたんですけど、一生一度のチャンスですし、つい何か言いたくなったんです。でも一瞬何語で言ったらいいか分らず、「そうだ、ラテン語なら」と思って、思いついたのが「平和」っていう意味の「パックス」だったので、思わず「パックス! パックス!」(笑)と二度申し上げたら、私の目をまっすぐに見つめて、ひと言、「パックス」。(笑)以来、「私は聖ヨハネパウロ二世教皇さまとラテン語でお話したことがある」と公言してるんですが、まあ、嘘ではない。・・・みやげ話、以上。
 だけどね、この、人の目を見てきちんと、堂々と福音を語ると、そこでつながるもの、通じるものがどれほど大きいかっていうのは、これはその後も宣言し続けてきた者として、つくづくと感じています。語っているのはこれ、そもそもは神さまの言葉ですから、別にこの私はどんな汚れた人間でもいいんですよ。情けない気持ちでいたり、不安を抱えていたりしててもいいんです。神の言葉自体に力があるんだから、勇気をもって、「神は、あなたを愛している」と宣言する。ここには、「そう言われても、そう簡単には信じられない」とか、「今は弱っていて、それどころじゃない」っていう方もおられるかもしれません。でも、神は、あなたに今日、ご自分の親心をちゃんと注いでいます。そんな神の愛を信じて、ほめたたえる、三位一体の主日。美しい主日です。

 三位一体って、我々にとってもっとも身近な、もっとも本質的な真理です。それは、「親は、わが子を、愛する」です。三位一体って、それだけです。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」(マタイ28・19)ってイエスさま言ってますね、しかも「すべての民に」と。これ、キリスト教のすべてです。
 「父と子と聖霊」って、父は神で、子は神の子で、聖霊は神が神の子を愛する、その愛ですから、要するに親子の愛の交わり、「まことの親は、わが子を、愛する」ってことです。
 「名」って言うのはそのものの本質を現しているわけですから、「父と子と聖霊」そのもの、すなわち「まことの親が我が子を愛する愛そのもの」ってことですね。
 「洗礼を授ける」って言うのは、もとは「水にとっぷりと沈める」ってことで、その中に完全に招き入れるっていうことです。
 つまり、「父と子と聖霊の名によってすべての民に洗礼を授けなさい」っていうのは、言い換えるなら、「『まことの親はわが子を愛する』っていう、神の愛の交わりの中に、すべての人を招き入れなさい」ってことです。この場合の「洗礼」とは、特定の教派の、特定の儀式で、特定の信者になるとかいうことじゃないですね。もっと広くて、深くて、あなたも私も、いわゆる「クリスチャン」であろうとなかろうと、もう「すべての人」を、神と神の子という愛のうちに招き入れること、正確に言うと「もう招き入れられていることに目覚めさせること」、です。
 それは今、ここで現実に起こっていることですよ? みなさん、ここに座って、父と子と聖霊の名のうちに、すなわち親はわが子を愛するという愛のうちに、とっぷりとつかっているんです。なので、これからは、「父と子と聖霊」っていう言葉を目にしたり、口にしたりするときは、心の中でこう翻訳してください。「まことの親は、我が子を愛する」。まあ、この世の親は色々なんで、なかなかそう実感できないでしょうが、「天の父」は、すべての我が子を愛しています。これは、この宇宙の根本だし、それなしには我々も存在しないし、今日こうして座っていても、「まことの親は、我が子を、愛する」っていう恵みの中に、とっぷりと座ってますよ。その意味では、実はもうすべての人が「洗礼」を受けているんですけど、ほとんどの人はそれに気づいてないので、「まことの親である神は、我が子であるあなたを、完全な親心、永遠の愛によって守り、導き、生かしておられる」、その事実に気づかせるのが福音宣教ってことになります。その愛そのものが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」って宣言しているんだから、「父と子と聖霊のみ名による洗礼」は、今日も実現し続けております。洗礼って、「何年何月何日に受けました。はい、終わり」じゃない。毎日、受け続けているんです。毎日、神の愛にとっぷりと浸かってることに目覚め続けるんです。

 身近な証しをするなら、ちょうど昨日の上野教会なんか、ほんとにその「父と子と聖霊」すなわち「まことの親は子を愛する」っていう恵みに、みんなとっぷりとつかってました。12時にみんな集まり始めて、3時にホームレスの方たちにお弁当を配るまでの約3時間は、とりわけ「とっぷり」でしたよ。
 というのは、う~ん、どこから話したらいいんだろう。まず、お弁当作りを手伝っている方のなかに、上野教会にもう一年以上住んでいるスリランカの難民の方がいるんですね。スリランカに帰れないでいるうちにコロナで仕事もなくなって、住む所も失い、食べることもできなくなった、その彼を援助してもう一年間、一緒に暮らしてるんです。その方が、路上生活者の食事を作るのを手伝ってくれてるんですね。いい光景でしょう? これこそ教会だって思う。その路上生活者の中に仲良し三人組がいて、雨の日にはこの三人を教会のホールにお泊めしてるんですけど、私がいないときは、この難民の彼が鍵を開けて受け入れてるんですよ。私は彼に、「私がいないときは、あなたの判断でこの三人を受け入れてかまいません」って言ってあるんです。彼にしてみれば、自分がある意味同じ境遇ですから、喜んで手伝ってくれています。
 また、その日にお弁当造りを手伝ってくれた青年が二人いるんですけど、その二人とも、それぞれ私が二週間ほど前に会ったばかりの青年です。一人は、ある教会に救いを求めて行ったら、「洗礼を受けないと、救われない」と言われた。それで「じゃあ仏教徒は救われないんですか?」って聞いたら、「う~ん、それについてはなんとも言えないけれど、確実に救われるのは、キリスト教徒だ」って言われたっていうんですよ。私に言わせれば、誰に対してでも「あなたは確実に救われます、もう救われてます!」って福音を語るのがキリスト教徒なんですけどね。ともかく、その青年は「そういう教えならこの教会には通えないな」と思って、いろいろ調べた末、私の所に現れたので、普遍的な救いという真理についてお話ししました。その彼をうぐいす食堂に誘ったんですけど、これが、ホームレスの方たちとほんとに仲良くしゃべってですね、「いやあ、目からうろこのような気持ちです」って言ってました。まだ若い方たちは、直接しゃべったことなんてないわけですよ、ホームレスの方たちと。だけど、直接会って、直接話をすることで、いろいろなことを教わったし、気づいたんじゃないですか。神が、洗礼を受ける受けない関係なしに、ほんとに一人ひとりのことを愛している、その目に見えるしるしが教会だし、そのような目に見えるしるしを信頼して集まってくる、路上の方たち。「これこそ、神の国の入り口だろう」って、やっぱり感じてくれたと思いますよ。
 もう一人の青年は、不登校でひきこもりで、社交不安障害を抱えていて、今もなかなか働けないでいる、そんな不安と孤独を抱えて生きてきた青年です。その彼が救いを求めて教会を訪ねてきたので、「あなたはもう救われている、すべての人は神の愛によって救われている」って福音を語りました。彼はそれを聞いてとてもホッとして、「これからこの教会に通いたい」って言ってくれました。どんな理屈よりも教会の本質を見てもらうのが話が早いんで、その彼もうぐいす食堂に誘ったら、「ぜひお手伝いしたい」ということで、昨日はお弁当を作るのを手伝って、ホームレスの方に一人ひとり渡してました。
 おかげでこの二人すっかり仲良くなっていましたけど、二週間前までは、この二人とも、ある意味で真実の福音を知らなかったんです。キリスト教っていうものをなんとなく聞いていたし、そこに救いがあるだろうと想像はしていたけれども、それがどういうことなのか、よく知らずにいたと思う。っていうのは、福音って、体験しないと分からないんですよ。だから、お二人は昨日、はっきりと神からの宣言を聴く体験をしたと思いますよ。「わたしは、すべての我が子を愛してる」という宣言。それをいくら口先で言ったってねぇ、たとえば子どもがおなか空かせているのに、自分は食べながら子どもにはパンも出さないで、「あなたを愛してる」って言ったって、そんな愛、伝わりませんよね。教会は、本当に、救いを求めている人になんらかの救いの手を差しのべることで、神の宣言の目に見えるしるしとなる。それを、体験したんですよ、若い彼らは。
 さらに、昨日はその三時間の間に、遠くから一人の女性がやって来て、私はそのお世話もしておりました。DV被害から逃れて隠れ住んでる方が、今住んでる所を失いそうなので、相談に来られたんですけども、私はそれまでも彼女のところに缶詰を送ったりしてたんですよ。最初のご縁は彼女からの電話です。各方面に相談してたら、あるところから「それなら、晴佐久神父の所に電話しなさい」って言われたとか。私は彼女に、「ともかく直接会いましょう。勇気をもって会いに来てください、救いはそこから広がっていきますよ。交通費をお出ししますから、安心して来てください」と申し上げ、ずっと励ましてきたんで、昨日ついに来てくれたんです。入門係の何人かが関わってくれて、シェルターについてのいくつかの道について提案しましたら、少し安心したご様子で、うぐいす食堂のお弁当も一つ食べてくれました。
 そんな話し合いの最中なんですけど、一本の電話が教会にかかってきました。実は今日この後、心の病で苦しんでいる青年の集い、「ここヤシの集い」のミサがあるんですけど、そのメンバーの一人が電話してきたんです。彼が言うには、「アパートの契約更新のための費用がどうしても足りなくて苦しんでる。今後のお金のやりくりを考えているとすごく不安になって、死にたくなる」って言うんです。「いくら足りないの?」って聞いたら、「一万七千円ですけど、貸してくれませんか。必ずお返しします」と。私は、「じゃあ、明日の集まりに来てね、用意しておくから」と申し上げました。だけどそんなにお金がギリギリだったら食べるのにも困るかもしれないと思って、「二万円渡すから、返すのは一万七千円でいいよ」って言ったら、ほっとしてました。それはいいんですけど、そんな電話のやりとりを、横でその女性が聞いているわけですよ。最初に彼女と電話で話した時はとても怯えて混乱してましたけど、勇気を出してはるばる遠い教会に来て、入門係のスタッフたちとお弁当を食べたり、ホームレスたちの笑顔を見たり、生き生きと奉仕する青年たちの姿に触れたり、たまたま電話してきた青年に神父が「返すのは一万七千でいいよ」なんて言っているのを聞いたりするうちに、「ここは安心だ」って思っていただけたようです。
 昨日、この彼女は、何を体験したんでしょう。その彼女は信者ではなくとも、キリストの教会を体験したんじゃないですか。三位一体の神の愛にとっぷりつかっている教会は、三位一体の神の愛のしるしでしょう。彼女は、教会って何なのか、神の愛って何なのかっていうことを、肌身で感じたと思うんですよ。まず感じてもらうことって、福音を伝える上で一番大事なことだと思う。
 私たちは今もこうして聖堂でお祈りして、ミサで恵みをいただきますけれども、一番の恵みは何かと言ったら、父と子と聖霊の愛そのものの中にとっぷりとつかっていることを、心身で感じられること、それを感じさせることじゃないですか。その恵みにだれもが与れるように、キリストの教会は、今日も、精一杯、奉仕してます。だからみなさん、安心してください。二千年経っても、イエスさまは教会と共に働いておりますし、教会は神の国の目に見えるしるしになっていますから。それはもう、キリストの教会は、世々に至るまでそうですし、そうでない教会なんてありえません。
 今日読まれたのはマタイ福音書の最後のところですけど、最後の一行のイエスさまの宣言、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」っていう宣言は、「ほんとかな?」なんて言っちゃいけないんですよ。つい昨日の上野教会の、あのひとときを見ただけでも、「あぁ、本当にイエスさまは、いつも共におられるんだ」ってことが、目に見えるわけですから。集う人たちはみんな、すっごい親切ですしね、お世話する方たち。昨日は他にも統合失調症で苦しんでいる方が突然いらしたのをうぐいす食堂のスタッフがていねいにお相手してましたけど、それはつまりイエスさまがお相手してたってことでしょう。
 イエスさまが共にいる、「これが、キリストの教会だ」っていうリアルを深く感じることのできる教会を、ご一緒にやってまいりましょう。なんらかのお手伝いとか、援助とかいただけたらうれしいですし、みなさん自身も、「これは、神さまの愛の目に見えるしるしだ」っていう確信をもって神の愛を証ししてください。迷っている人、悩んでいる人の目をまっすぐ見て、「だいじょうぶ。なんとかするから。神さまはあなたを絶対救ってくれるから、心配しないで」ってね、ひと言、言ってあげてくださいよ。そういう宣言は神さまからのものですし、永遠なることですし、本当に人を救うんです。それこそ、「緊急事態宣言」は延長されて、「いったい、いつ終わるの」って感じですけども、人間の宣言なんていうものはいい加減なものですから、延長したり、撤回したりですけど、イエスの宣言は、「緊急」なんてものじゃない、「永遠」なんです。永遠の喜びの宣言ですよ。「永遠福音宣言」とでも言うべき宣言。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という永遠福音宣言、これは決して終了しません。私たちは自らの口でその宣言を宣言しますし、その宣言の中で安心して、この一日を捧げます。どうぞみなさん、ご安心ください。神さまは宣言通りにあなたと共にいて、本当に救ってますよ。



2021年5月30日録音/2021年7月1日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英