福音の丘
                         

普遍の霊がもたらす感動

聖霊降臨の主日
カトリック浅草教会
第一朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録2・1-11)
第二朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ5・16-25)
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ15・26-27、16・12-15)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 聖霊降臨の祝日です。聖なる霊を、たっぷりといただきましょう。「いただきましょう」というか、正確に言えば「聖なる霊がたっぷり働いていることに、目覚めましょう」ですね。聖霊はあなたが生まれる前から働いていたし、一日も休まずあなたを導いてきたし、今日もたっぷりと愛の熱で満たしています。そして明日からも、イエスさまが「これから起こることをあなたがたに告げる」(ヨハネ16・13)って言ってるとおり、さらに神さまの恵みの世界が開いていくことを告げて、私たちを希望で満たしてくださる。
 人間のやっていることはお粗末なことばかりだけども、聖なる霊はちゃんと働いているんだから、せめてその邪魔をしないようにしましょうよ。自分がこうしたい、ああしたくないってがんばるのもいいけど、もっと聖霊の働きに身を委ねるって感覚が大切かな、と。川の中でバタバタ暴れてると溺れ死んじゃうけど、スーッと水に任せて浮いていれば、ちゃんと岸に着く、みたいな。そんな大いなる流れに信頼いたします。
 なにしろ、みなさんが生まれる前から、やがて天に召されるときまで、この聖なる霊はちゃんと働いているんですから。それに気づこうと、気づくまいと。でも、できるならば気づいてほしいし、気づいて安心して「いっそう委ねよう」って聖霊に協力する、工夫する、それが生きる意味のすべてなんじゃないでしょうかねぇ。

 先週の5月19日は、私にとってはちょっとした記念日で、これは非常に個人的な記念日で、私が日記をつけ始めて五十周年の日だったんですよ。どうでもいいですか。(笑)すいません。十三歳の5月19日、突然、日記をつけ始めた。中二の春ですけど、これが、立派な決意表明が書いてあるんですよ。「これは、過去の出来事を書いてるんじゃない。これを書くことで自分が成長していくために書くんだから、未来の自分を書いているんだ」って。カッコいいでしょう?(笑)
 記念日だってことでその一冊目を読み始めたんですけど、第1ページ目は、今日学校で何があったとか他愛もないことが書いてある中で、目を引いた箇所がありました。そのころ、小平の家から立川の学校まで通学してたんですね。西武線だったんですけど、日記に、「一橋学園駅で電車が停まっている間、いつものように線路の向こうのプロテスタント教会の聖言を読む」って書いてある。聖言って、聖書のみ言葉ね。ちなみに浅草教会も、道に面してみ言葉を掲示してますよね。担当の方、いつも書いてくださってありがとうございます。今は「家造りの捨てた石が、隅の親石となった。それは神のみわざ、人の目には不思議なこと」って書いてありますけど、あれ、道行く人、結構見てますよ。み言葉ですから、それを読む人に、神が語りかけてるんですけどね。
 十三歳の私がそのみ言葉を目にして、覚えてたわけです。で、そのみ言葉っていうのが、「生きることはキリストであり、死ぬことは利益である」。フィリピの手紙ですね。パウロの言葉です。2021年の5月19日に五十年前の日記を読んだら、「生きることはキリストであり、死ぬことは利益である」って神から語りかけられちゃいました。このみ言葉は、「自分を無にすれば、キリストが働く」って意味ですね。聖霊が働く、でもいいですよ。イメージとしては、神からいただいた器の容量を100とするなら、自分を100入れちゃったらキリストが入ってこれない。自分を50にすれば、キリストが、あるいは聖霊が50入ってくる、みたいことでしょう。ってことは、自分をゼロにしたら、聖霊100になるわけですね。
 中二でどこまで理解してたかわかりませんけど、面白いですね、五十年前に神が電車の中の中学生に語りかけた言葉が、今日はこの聖堂で語られて、みなさんの心に届きました。何か意味があるんじゃないですか。自分を少しでも無にしていくと、聖霊が働く。聖なる霊は、こうして、何十年も何百年も前から不思議なつながりのなかでちゃんと働いて、み言葉で人を導き、養い、世界を造り続けてるんですね。これはもう、一個人の努力や工夫がどうこうって話じゃないですよ。
 我々はだから、もっともっと聖なる霊の働きに信頼して、そりゃあ自分にもいろんな思いはありますけど、それを少~し鎮めて、「神さま、あなたが働いてください。み心が行われますように」って祈ります。そうすると、もっとお互いに自由に結ばれていくし、世界も変わっていくし、いいことづくめなんです。自分100のままで「さあ、聖霊来てください」って祈ったって、聖霊も入れないわけですよ。まずは、自分を減らして、少し風通しよくして隙間を空けていくと、そこに自然と、聖なる霊が満ちていく。それ、気持ちいいじゃないですか。
 ついでに次の年の5月はどうだったんだろう、その次の年はって読み始めちゃって、おもしろくって止まらなくなっちゃったんですけど、7年後の5月、もう二十歳で「神学校に入ろう」って決心した年には、こう書いてあるんです。「自分が成長していくのがわかる。なんと素晴らしい経験だろう」って。
 いやあ、もう、なんか恥ずかしいような、初々しいような。普段は少しずつ成長していくんでしょうけど、自分でもわかるほどに成長するときってありますよ。思春期だったり、二十歳前後だったり、こう、グーッと伸びていくときがあるんですよ。それはもう、今でも覚えてます。決定的に、自分が変わっていくとき。なかなか人生で、そう何度も経験できるわけじゃない、恵みの日々です。こんな祈りの言葉も綴られていました。「神さま、あなたは素晴らしい言葉、素晴らしい出会いをいつも私にくださいます。これでもか、これでもか、と。どうか、自分の中の虚栄心と傲慢を取り去ってください」。
 いやあ、素直だねぇ。四十三年後の汚れた自分に聞かせてやりたい(笑)。いまだに虚栄心と傲慢に振り回されてますからね。なんにせよ、すでにそのころ、「利己心さえなくなれば、もっと聖霊が働く」って分かってるわけですよ。もちろん、傲慢がきれいさっぱり消えて、ゼロになるなんてことはないにしても、1でも2でも隙間を空けたいっていうその思いは、でも今でもやっぱり消えてはいないと思う。できれば3、できれば4、と。ま、自分に与えられているミッションは5でも充分かな、とか。ともかく、最低でも1は空けないといくらなんでも、ですよ。キリスト者なんだから。ふと気づけば、一瞬の内に「自分100」になっちゃいますからねえ。

 数日前、興味深い新聞記事を読みました。ヘルシンキの大学の若い哲学者が、『世界一しあわせなフィンランド人は、幸福を追い求めない』っていうタイトルの本を書いて売れてるそうで、その作者にインタビューした記事です。世界幸福度ランキングっていうのがあって、日本はすごく低いんですけど、フィンランド人がランキング1位なんですね。で、フィンランド人はなぜしあわせなのかっていうと、幸福を求めていないからだっていうんですよ。幸福っていうのは求めるもんじゃなくて、意味ある人生を生きていれば自然と付いてくるものなんだ、と。言われて見れば、幸福感って、脳の中の快楽物質による感情なわけで、それを無理に追い求めたら、いきつくところは麻薬しかないわけですよ。ずっと幸福感を感じ続けるなんてこともあり得ないし、「しあわせじゃない」と感じるようなときがあっても、「自分の人生には意味がある」「この世界には価値がある」って信じて生きていれば、幸福感は自然と得られるってことですね。
 じゃあ、どうやって意味ある人生にするかと言えば、人間の内に元からある三つの欲求を満たせばよくて、それは「自律」と、「自信」と、「親密」であると。「自律」っていうのは、自分で人生を選択して、自由に生きていく欲求。でもこれ、キリスト者の本質ですよね。キリスト者は、この世のどんな支配からも自由だし、十字架だって選択できるんだから。悪からの自由っていうね。
 「自信」っていうのは、自分のやってることがうまくできて、自分自身に自信を持てるような力を得たいって言う欲求です。これもキリスト教的に言えば、人から見たらダメでも、神から見ればうまく出来ているって信じられるなら満足できる欲求じゃないですかね。
 そして、「親密」。大切な家族や仲間たちと関わって、共にあること。お互いそのままを受け入れ合って、助け合う、そんな親密な関係への欲求。これは、神の国への欲求と言っていいかもしれませんが、ともかくこれらの欲求を満たせば、生きる意味を感じられるし、おのずと幸福感もついてくるってことだそうです。
 で、興味深かったのは、「自律だ、自信だ、親密だと言っても、そう簡単には手にできないかもしれない。そこで、だれでも簡単に手にできる四つ目の方法がある。それは、慈善だ」って言うんです。他者を助けること、他者と分かち合うこと、他者を受け入れること。その記事にはどこだかの実験の結果も書いてあって、自分のためではなく人のためにお金を使うと、血圧が下がって寿命が延びるんですって。どうぞ血圧高い方、人のためにお金どんどん使ってください。(笑)さらには、ボランティアをしている人の寿命が長いそうだし、パートナーの介護をしている人の平均寿命も介護していない人よりも長いんですって。日々の介護している方、大変でしょうけれども長生きできますよ。たぶん介護って、その分自分の存在に意味があるって思ったり、あるいは相手の喜びや感謝を感じたりしてるからじゃないですかね。
 誰かのために分かち合う、苦しんでいる人を助ける、そんな慈善がしあわせを作り出す。当たり前って言えばそうですけど、幸福感の乏しいわが国ですからねえ、それが簡単に幸福を得る方法だっていうのは覚えておいていいんじゃないですか。自分のために金使ってもたいして幸福になれないって、みんな何となく気付いていると思いますけどね。「おいしいもの食べて、しあわせだなぁ」って、「素敵な観光地を旅行して、楽しかったなぁ」って、それもまあまあ、幸福なんでしょうけど、今日食べるものがないっていう人と分かち合って食べるとか、自分なんかは誘われることはないと思ってる人を誘って旅行に行くとか、そんなときのほうが、はるかに大きな幸福感をもたらすんでしょうね、きっと。

 先ほどの朗読で、「一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2・4)って読まれました。「パルティア、メディア、エラム、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネ」(cf.使徒言行録2・9-10)、すごいですよね。当時の全世界ですよ。そんな世界中の人たちが集まって、みんなで同じ言葉を聞いているっていう、この普遍の霊。聖霊って、そういう広がりに目覚めさせる霊なんですね。「慈善」っていうことで言えば、日本っていう国がですね、自分のことだけ考えているんじゃなくて、他の国のことを助けるっていうのも慈善ですよね。パートナーを介護するのも大事ですけど、隣の国のケアをすることも、神の国のための必須条件だと思うんですよ。日本が、ほんとの幸福感を味わうための。
 昨日のTBSの報道特集で、入管で亡くなったスリランカ人のウィシュマさんのことを扱ってましたけど、その中で、衝撃的な言葉が出てきました。
 ウィシュマさんは、愛知の入管で、食事もできないほど衰弱していても手当してもらえず、ほっといたら死ぬとわかっているのに、まともな治療を受けることが出来ずに、収監された部屋で亡くなりました。苦しかったでしょうね。日本の入管って、裁判所の手続きなしで収監できるんですよ。人権を全く無視したこわいシステムで、法改正が絶対必要です。ちなみにこの前廃案になったのは、法改悪だったやつで、ともかく邪魔なやつはたとえ故国で殺されようが送り帰しちゃえ、従わないやつには罰則規定をつけよう、みたいな恐ろしい法案でしたけど、このウィシュマさんが亡くなったっていうこともあって、廃案になりました。
 先日法務大臣が、日本に来たウィシュマさんのご遺族に会ったんですけど、ご遺族が見せてくれって言ってる、閉じ込められた部屋で亡くなったときの監視カメラの映像を、結局大臣はなんだかんだ言って公開しないって。何か都合悪いことが映ってるわけですよね。大きな問題になる、システムを根本から変えなきゃならなくなる、誰かが重大な責任を取らなければならなくなる、そんな何かが映ってるんですよ。今の法務大臣、カトリック信者のはずですけど、聖霊が降って、神のみ心に適った判断をしてくれるといいんですけど。
 私が衝撃を受けたのは、遺族の方がウィシュマさんのご遺体に対面するシーンがあるんですね。亡くなった姉があまりにも細くなっているんで、妹さん二人が泣き崩れてるんですよ。泣き崩れながら、こう叫んでるんです。
「私たちが貧しい国だから、こんなことするんですか。アメリカ人にも同じことをしますか!」
 日本人として、これになんて答えたらいいんでしょう。スリランカ人にそう感じさせる日本ってなんだろう、ってことじゃないですか。私は上野教会ではもう一年以上、スリランカに帰れないラリットさんと暮らしてますから、余計に心が痛いです。スリランカ人も、日本人も、全く同じ神の子です。全く、です。今この聖堂にもベトナム人がいっぱいおりますけれども、見てください、全くおんなじ神の子です。一ミリも、違いがない。神に望まれて生まれ、神に愛されている、しあわせになるべき神の子たちなんです。そういう当たり前のことをこそ、普遍の霊が教えてくれるんです。そんな真実がみんなのうちにちゃんとあるならば、なすべきことははっきりしてるんですよ。助けるとか、支えるとか、救うとか。それを見えなくしている、邪魔をしている悪霊が、我々の中で100になっちゃったら、生ける悪魔になっちゃうんじゃないですか。
 第二朗読で読みましたよね。「みなさん、霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(ガラテヤ5・16)。
 自分が100になっちゃったら、そんな「霊の導き」が1も入ってこない。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び」(ガラテヤ5・22)です。幸福になりたかったら、霊に心を開くしかないってことです。「肉の業は明らかです」(ガラテヤ5・19)と読まれましたけど、さっき朗読した方がとってもゆっくり、朗々と、「利己心・・・、不和・・・、仲間争い・・・、ねたみ・・・」ってね、一つひとつ区切って読まれたんで、思い当たることばかりでみんなドキドキしちゃいましたよ。(笑)自分を支配している肉の業を1でも2でも減らせば、そこに入ってくるのは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。そんな幸福、欲しくないですか。「霊の導きに従ってまた前進しましょう」ってね(ガラテヤ5・25)、そう言われました。前進しましょうよ。

 二十歳の頃の自分。「自分が成長していくのがわかる」って書いてましたけど、その後にはこうも書いてあった。「ブラジルに行く決心をした谷村神父、インドネシアに宣教に行くレイモンド神父、カナダから来てくれた、ジャン・ガブリ神父。彼らのことを思うと涙が出そうになる」。いずれも、そのころ親しかった神父たちです。国を超えてでもだれかの幸せのために働きたいという、彼らのうちには間違いなく普遍の霊が働いていたし、二十歳の僕はそれに感動して、自分もこの道をって思い始めていた。
 普遍の霊がもたらす感動は、人を変えます。



2021年5月23日録音/2021年6月22日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英