福音の丘
                         

与えられた冒険の道

四旬節第1主日
カトリック上野教会

第一朗読:創世記(創世記9・8-15)
第二朗読:使徒ペトロの手紙(一ペトロ3・18-22)
福音朗読:マルコによる福音(マルコ1・12-15)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 今日、四旬節第一主日に、洗礼志願式をついに実現できます。嬉しいことです。コロナのこともあって、いったい洗礼志願式をやるのか、やらないのか。やるとするなら、いつやるのか。なかなか、はっきり決められなかったんですね。今日洗礼志願する方自身も、「さて、洗礼はどうしようか。入門講座もない中、今年受けるべきか、受けないべきか」と、ずいぶん迷われました。確かにこんな状況だし、迷ったり、恐れたり、揺らいだりといろんな思いがあるなかで、まあ、でもこうして今日、洗礼志願式があるというのは、これはもう、我々が努力したからとか、そういう話じゃないですね。神さまがそう望んだっていうことなんですよ。神さまのお望みですから、もうあとはあれこれ言ってもしょうがない。「はい、お引き受けします」と言って、神さまのお望みのままに、全部おまかせして洗礼志願式を受けてくださいね。特に今日志願する方は、とりわけおとなしい謙遜なご性格なので、いろいろと迷ったでしょうけども、今日はもう、大船に乗った気持ちでいてください。こうして教会家族の仲間たちがいっぱいおりますし、神の国に向かうイエスさまの道ですから、安心して一緒に歩んでまいりましょうと申し上げたい。

 そんな思いで、第一朗読(創世記9・8-15)と、第二朗読(一ペトロ3・18-22)を聞いておりましたが、ちょうど、ノアの箱舟の話なんですね。いつも四旬節第一主日に読まれるところです。第一朗読の創世記は、神さまがノアとその息子たちに約束するシーンでした。「もう決して滅ぼさない」と。すべての生き物が滅ぼされるんだけど、ノアたちだけが船に乗って、助かるって話ですよね。助かったはいいんだけども、もしもまた洪水が来たらどうしよう、また滅ぼされそうになったら今度はどうやって助かろうって、心配じゃないですか。そんな私たちに、神さまが「もう決してそういうことをしない」って約束したんです。なぜなら、やがて最高の救いの船である、「イエス・キリスト」っていう船、さらに言えば「キリストの教会」っていう船を人類全体に送るから、「もうだいじょうぶなんだ」と。もはや滅ぼそうったって、滅ぼせない、そんな究極の救いの船がやがて来る、そのさきがけが、ノアの箱舟なんです。
 ノアの船は、これ、人間がつくった船ですから、「そうは言っても、沈むかもしれない」って心配したでしょうけども、イエス・キリストという船は、これは決して沈むことがない。まさに大船に乗った気持ちで信者たちが乗っかってる船なんです。「船に乗るのがこわい」っていう気持ちもなくもないでしょうけど、洪水のこと考えたら、まずは船に乗っていただいて、その先のことは、仲間たちと一緒に祈って、助け合って、「その船が神の御国に辿り着くまでご一緒しましょうね」と、そういうことでもあるので、まずは乗っかっていただきたいと、そういう思いがあります。
 いわゆる契約の虹って言われている、美しい虹が出たんですよ。ノアたちがついに山の頂に辿り着いたときね。洗礼志願者となる方に申し上げたいのですが、虹は希望のしるしですからね、これからは空に虹が現れるたびに、このノアの箱舟のことを思い出していただいて、「神さまは、決して私たちを滅ぼしたりしないんだ」っていう、その約束と希望を新たにしていただきたい。

 第二朗読の使徒ペトロの手紙でも、ペトロがノアの箱舟の話をしてますけども、ペトロの手紙では、「この水は洗礼の水だ」って言っているんですね。確かに洪水の水は怖いですけども、そもそもは神さまがよかれと与えてくださった水ですし、その水によって最終的にはすべてを救おうと、ちゃんとはからっておられる。だから、信じてその水に身をゆだね、洗礼の水をくぐり抜けて、最終的にはイエス・キリストの復活による救いに与らせる。使徒ペトロの手紙の思いが、そこに表わされております。「箱舟に乗り込んだのは八人だけだったけれども、いまや、すべての人にこの救いが与えられている」と。(cf.一ペトロ3・20-21)
 すべての人に与えられている救いの恵み。そのことを入門講座では何度もお話ししてまいりましたし、志願者はそれを受け入れて、「私もまたその救いに与っているんだ」という気づき、信仰を持ってこの洗礼志願式を受けようとしておられる。今日からは、志願者として、全世界のカトリック信者の祈りに支えられながら、復活祭の洗礼式に向かって、共に歩んでまいります。なかなかこう、洗礼志願者の時期っていうのは、どうしても不安な思いになるものですけれども、この出会いに信頼して、一緒にやってまいりましょう。今まで迷いに迷ってね、今日の洗礼志願式に出ようか、出るまいかと揺れておりましたけども、今日、もうこの船に乗ったからには、「安心して、共に」救いの港を目指しましょう。

 大坂なおみのテニス、観ました? とっても勇気づけられましたけど、優勝スピーチで印象的な言葉が出てきました。相手方の、準優勝したジェニファーのことを褒めたたえてましたけど、そのときに、「あなたも私たちと同じように、さまざまな冒険をしましたよね」っていう言い方をしたんです。「冒険」って言いました。彼女がそう言うのはよくわかります。今回の試合は、ほんとに彼女たちのチームにとってもすごい冒険だったんですね。コロナのことがあって、今までにない初めてのチャレンジがたくさんありましたし、すべてにおいて工夫しなきゃならなかったし、いつにもまして忍耐しなきゃならなかったし、それがゆえに普通の大会の何倍もいろんなことに気を使わなきゃならなかった。そのストレスとか、疲労とか、体への負担もとてつもなかったと思います。
 見ているぼくらはね、テレビの前でお茶飲みながら、「よし、行けー」なんて言ってるだけで、打ったボールがネットにでもかかれば、「もうちょっと上に打てばいいんだよ!」とか思ってるだけですけど、本人たちの、そのギリギリのところでの努力は並大抵じゃなかったはずです。それでも、チームとして心ひとつにしてそのストレスに打ち勝ち、緊張に打ち勝ち、さまざまな困難に打ち勝って、結果出すために精一杯やる、それはぼくらの想像を超える、まさに冒険だったと思うんですよね。
 冒険っていうのは、しないで済むなら、なにもわざわざしないでもいいじゃないかと思うかもしれませんけど、やっぱり、人類って冒険してきたんですよ。その冒険によって世界を発見してきたし、本当の仲間を造ってきたし、そうしてここまで進化してきたんだから、冒険って、やっぱりしていかなきゃならないことなんです。冒険を避けて安全第一で、なんの苦労もなくなんの悩みもなく、ずっとこのままでいいじゃんっていうのは、それは神さまにとっては、「そんなのは、私の創造した人間じゃない」って言うと思いますよ。人間をお造りになったとき、神さまはやっぱり冒険をさせたかったんだと思う。どこに向かって? 言うまでもなく、「神の国」に向かう冒険でしょう。それはやっぱり、何にもせずにのんびり座って、「さあ、神の国に入りましょう」っていうような話とは、ちょ~っと違う。確かに神の国は、神が与えるものですけど、同時に神は人間に箱舟つくれとも言う。だから、ぼくらは箱舟つくって、乗り込んで、洪水を乗り越えていかなきゃならない。イエスさまと共に船を出す。イエスについていく弟子たちの旅路は、やっぱり冒険だったはずですよ。その冒険、しかしそれは、ついに約束の地、神の望みの地を見出すために必要な冒険だったんです。
 なおみちゃんの冒険は、美しかった。この前の全米オープンの時なんか、毎試合、警官に殺された黒人たちの名前を一人ひとりマスクに書いて登場したんですよ。あんなの、大冒険ですよ。みなさん、できますか? よくやったと思う。彼女、まだ若いですよね。・・・何歳ですかね? (会衆が答える)ああ、二十三歳ですか。あんな若くてチャーミングな、笑顔のかわいい、二十三歳。でも、彼女は冒険したんです。冒険の旅に出ました。その旅がどうなるのか。人々からなんて言われるのか。それがどんな結果をもたらすのか。何も、わからない。わかってたら、冒険じゃないですから。でも、自分を信じて、チームの仲間と共に旅に出ます。それが勇気なんですよ。よく、「大坂選手の活躍で、私たちも勇気与えられました」とか、「これを観ている少女たちも勇気を与えられることでしょう」とかって、簡単にコメントする人たちがいますけど、その勇気っていうのは、命かけて冒険に出る勇気なんですよ。逆に、安心安全な所でコメントするだけで、自分の命を守ろうとするだけだったら、それは死の世界なんです。

 ある意味、あの全豪テニス自体も冒険に出かけたわけですよね。観客入れたんだから。なおみちゃん的には、前の全米は無観客だったから、どんなにさみしかったことか。もちろんそこでも結果出したんですけど、今回の全豪は、観客がいて、応援してくれる。それはほんとに力になったでしょうし、うれしかったんじゃないですか。冒険なしには決して生まれないよろこびがあったんじゃないですか。
 今日のこの洗礼志願式もね、まあ、さまざまな工夫をして、対策をして、なんとか実現にこぎつけました。額に香油を塗るんだって、今日は綿棒で塗るんですよ。直接触れないようにね。これ、コロナ仕様ってことでバチカンがちゃんと認めてるんですよ。先週の「灰の水曜日」の灰だって、いつもは額に付けてたのを、頭の上からパラパラッてかけたりね。いろんな工夫をしながら、なんとか、それでも、私たちは冒険の旅を続けてまいります。あの、観客入れての全豪オープン、あれを観てると、去年、ずっと無観客ミサを続けていた司祭としては、なおみちゃんの気持ちがわかりますよ。「みなさん、今日、来てくれてありがとうー!」って言ってたじゃないですか。私今ほんとにそういう気持ちですよ。お互いにも、そう言い合ったらいいと思いますよ。

 昨日、とても元気づけられる本を読みました。竹下節子さんっていう、専門は比較文化ってことになるのかな、たくさんお書きになっていて、以前からほんとに面白くってよく読んでいたんですけど、新刊が出て、「新しい未来を生きるあなたへの25のメッセージ」って言う本です。フランス在住なんで、出版社を通して私に新刊を送ってくれたんですよ。竹下節子さん、以前、上野教会のミサにも来てくれたことがあります。で、その本の最後に、こう書いてあったんですよ。「人生は冒険だ」、と。「人生は冒険だ。未来に絶望することなく、与えられた冒険を生きよう。」
 与えられた冒険。なるほど。神は、我々にチャレンジの機会を与えてくれてるんです。この与えられた冒険の旅路を、歩まないではいられないでしょう。教皇フランシスコの四旬節メッセージの最初のところにもありました。「真理っていうのは、イエス・キリストであり、イエス・キリストという道なんだ」、と。「その道はすべての人に開かれていて、神の充満に導いてくれる」、と。「キリストは道だ」っていう、この「道」は、時に冒険旅行でもありますけど、信じて歩んでまいりましょう。キリスト者であるぼくらには、冒険が必要です。
 およそ冒険っていうものは、出発するときはこわいものです。でも、洗礼志願をしたあなたは、勇気をもって旅に出て、今日ここに来ることができました。それは神のみわざでもあり、さらなる冒険の始まりでもある。ただ、ここが肝心なんですけど、それは神が与えた冒険ですから、必ず約束の地に到達することができる、与えられた冒険の道なんです。確かに、怖いことではある。しかし、恐れっていうのは、ほとんど、「自分はふさわしくないんじゃないか」とか、あるいは「ちゃんとやってけるんだろうか」とかっていう恐れであって、それは、今そう思ってるだけの話です。「思ってること」には何の意味もない。「歩き出すこと」が大事です。一歩踏み出すならば、この仲間たちと共にたどり着く、約束の地が待っております。
 この四旬節という恵みのときを、希望をもって歩き出しましょう。やがて、復活祭には洗礼式がありますよ。それは、もう神の国に着いたも同然の、「約束の地」です。
 洗礼志願する方と代親の方は、前に進んでください。

 


2021年2月21日録音/2021年4月10日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英