福音の丘
                         

迷ったときは、憐み第一

年間第6主日
カトリック上野教会

第一朗読:創世記(創世記3・16-19)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント10・31~11・1)
福音朗読:マルコによる福音(マルコ1・40-45)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 昨日の地震、揺れましたねー。夜中でもあるし、びっくりしたし、やっぱり10年前を思い出しました。みんな、そうだったんじゃないですか? 10年前の、3・11。長―いあの揺れを思い出して、今回もどこで何が起こっちゃったんだろうって、震えあがりましたよ。もっとも、あの時よりは揺れの時間も短いし、それほど大きな被害はないだろうな、とか予想したり。こんな事上手になってもしょうがないんですけど(笑)、もしやどこかでって、ドキッとしました。にしてもこれ、人が暮らしていい国ですかね、ここ。台風はあるし地震はあるし、津波はあるし噴火もあるし。でも、そういう所に生まれ育った以上、これも神のみ旨として受け入れて、災害の地で生きていくキリスト者として、神から与えられた一つひとつの練習問題をちゃんと解きながら、みんなが幸せになれる道を見つけたい。
 たとえば、こんなときだから、避難所の事が気になります。感染症の心配もあるし、でも避難しなきゃならないし、この練習問題どう解いたらいいかっていう。あちら立てればこちらが立たずっていう間で、どうバランスを取ればみんなが幸せになるかって、無い知恵を絞らなきゃならない。そのためにも、事が起こる前から、日頃の準備も大事でしょう。やっぱり用意しときゃよかったって話じゃなく、食料の準備もそうですし、システムの準備もそうですけど、まずは「誰かを助けよう」っていう、愛の心の準備もしておかないと。いつか必ず災害は起こるんだし、自分は上手く逃げたとしても、愛する人は大変な思いをするかもしれない。自分だけじゃなく、みんなの幸せのために準備しておこうっていう愛の心を、準備をしておきましょう。
 この説教壇で、セーフティーネットの話を随分してきました。洪水が起こってから、地震が来てから、その時になってから慌てふためかないで、ノアの方舟じゃないですけど、ちゃんと準備しておいて、どんな災害がこようとも僕らは助け合って命を守るぞっていう、そういう本物の家族的な共同体になっていこうって、呼びかけてきました。昨日の地震を受けて、皆さんにはね、「準備はしてますか、もうちょっと何か工夫しておきませんか」って申し上げたい。で、その準備にあたってのコツっていうか、キリスト者はこういう準備をしておきましょうっていうヒントがあります。

 コロナ時代、「命か経済か」っていうバランスの話がもう1年間ずーっと続いてますけど、キリスト者はそういう時、イエスさまに学ぶわけですね。で、イエスさまならどうするんだろうっていうと、今日の福音書にもある通りなんです。イエスさまは、「深く憐れんで手を差し伸べてその人に触れ『よろしい。清くなれ』」って言って癒すわけです。そのとき、「厳しく注意して」何も言うな、とも言います。それが広まると、色々大変な問題になっていくからですね。重い皮膚病の人に関わったりさわったりするのは律法違反だし、そもそも、うつっちゃうかもしれない。それこそ、感染症の話ですから。つまりこれは、ソーシャルディスタンスをちゃんととれって言ってるのに、イエスさまは近寄って触っちゃったって話なんですね。
 実際には、感染症対策としての掟は必要でしょう。検査しろ、自粛しろ、と。重い皮膚病患ってる人は街に入るなとか、むやみに近づくな、関わるな、触れるな、と。だけどイエスさまは、「ごめんね、君にはさわれないんだ。ここはひとつ我慢してくれ、さようなら」って言えないんですよ。もちろん、さわったら立場も悪くなるし、自分の計画に支障が生じるかもしれないし、だれかを躓かせるかもしれないしと、どっちにすべきかと迷うような現実がイエスさまにもあったはずです。そんな中でイエスさまはどうしたかっていうと、「深く憐れんで、手を差し伸べて、触れる」。
 ここに、キリスト者としての最良の答があると思います。触れたらどうなるかはともかく、みんなからどう思われるかもともかく、社会的にはどっちが大事かなんてこともともかくとして、ただ、自らの内からあふれ来る「深い憐れみ」に、従う。「ああ、この人可哀そうだな、何とかしてあげたいな」、そう感じちゃったらもう、何を考えてもしょうがない。関わるしかない。関わって、イエスさまも、「これは内緒だよ」とか一応方策も立てるわけですけど、それは、関わった上で、後から考えること。だけどまあ、言いふらしたこの人もこの人だよね(笑)。「大いにこの出来事を人々に告げて言い広めた」って、あんまりじゃないですか(笑)。
 そのせいで、イエスは実際、町に入る事ができなくなった。もっとも、結果的にはおかげで人々は四方からイエスの所に集まってきたわけですから、却ってよかったっていう事にも繋がっていく。イエスがどこまでそれを想像していたかは、わからない。ただもう、自らの内なる憐みに従います。「何とかしてあげたい」と思ったらもう、その思いを止めることはできないし、ただ信じて触れてしまう、これがキリスト教です。
 もちろん、感染症対策は大事ですし、1人もコロナ出さないようにがんばりましょうっていう、それはそうですけど、だからといって憐みを忘れるわけにはいかない。会うなと言われても、あの人孤立して寂しがってるし、この人困窮して助けを待ってるし、ほっとくわけにもいかないし。コロナなんか無いかのように好き勝手やるのはやり過ぎでしょうけど、最後は「何とかしてあげたい」っていう思いに従って、行動する。人によってそのレベルは違うとは思いますけど、そういう訓練なんじゃないですかねえ、神さまからの、この練習問題っていうのは。
 災害があります、感染症があります、神さま何でこんなことをって言うかもしれないけれど、それって、ある種の練習問題でもあるんですよね。じゃあ自分の身を守るために何もしません、っていうのか、自分に害が及ぶかもしれないけれど、何とかして差し上げましょうっていうのか、そういう練習問題を解くヒントとして、イエスさまのように、自分の内から湧いてくる「深い憐れみ」に、従う。そこだけは、裏切らない。
 だけどね、そういう思いで関わると、結果がどうであろうと、ある種爽やかなんですよね。もっとああしてあげればよかったなあっていう後悔ばっかりの人生の中で、「あの時やっぱり、心の声に正直に従ってよかったな」っていう、それがキリスト者の在り方でしょう。イエスさまなんかはもう、百パーセント心の声にしか従わない人ですから、忖度とか何にもないわけですよ。セーフティネットが壊れちゃってるこの社会で、キリスト者が、心に湧きおこる憐れみにのみ従って行動することが、どれほど大きな喜びを生み出すことか。

 ふと、日本の総理大臣のひと言を思い出します。先月の末、衆院の予算委員会でしたか、「このコロナ時代に、色んな支援が必要だけれども政府の支援はちゃんと届いているんですか」っていう質問があったんですね。みんなが一番心配しているところです。すると、首相がこう答えたんですよ。「色んな見方があるでしょうし、色んな対策もあるでしょうし、最終的には生活保護という仕組みもある」
 これにはびっくりしました。生活保護って、これはもうコロナであろうとなかろうと、国民を守る国としてなすべき、最低限の社会政策ですよね。当たり前の話です。誰だって、ひとたび病気になれば、家族を失えば、仕事をなくせば、生きていくのも困難になる可能性があります。誰でも、です。だから、みんなで税金出し合って、そんな人達、運の悪い人達を支えるわけです。それも、他人のためだけじゃなくて、いつかはそうなるかもしれない自分のためにも支え合いましょうっていうのは、この社会の一番基本の話です。
 それはコロナであろうとなかろうと当然そうするって言う話で、今、コロナでほんとにみんな苦しんでるっていう時に、「最終的には生活保護という仕組みもある」って言われちゃうと、「仮に支援が行き届かなくったって、最後は生活保護受けりゃいいじゃないか」っていうふうに聞こえるわけですよ。普通の人にとって、生活保護受給っていうのがどれほどハードル高く、心理的負担になっているかを知ってるんでしょうか。コロナでそうならないように、ちゃんと政府が支えますよって、なんで言えないんだろう。あまりにも冷たい言葉じゃないですか。これじゃあ、もう政府に期待できないし、首相の口癖の「自助」でやっていくしかないわけで、あの発言はちょっとショックでした。
 そもそも、「最終的には生活保護がある」ったって、それすら受けられない人が大勢いるわけだし、日頃から、身近なそういう人達のお世話をしている身としては、全然「最終的」じゃないじゃん、ていう思いもあります。まあ、「あちら立てればこちらが立たず」で言うなら、確かに税金にも限りがあります、マンパワーにも限りがあります、保健所の問題もそうでしたけど、色んな問題があって政府も苦慮してるのはそうなんでしょうけれども、「それを言っちゃあおしまいよ」みたいなこと口走る前に、なにかもっとあったかい、つらい人を励ますような、人間的な言葉がリーダーの口から出たらみんなすごく安心するのになあってね、思うんですけどねえ。
 その生活保護に一人の路上生活者を繋いだ話を、去年したのを覚えてますか。今もお訪ねしてますけど、おかげで今は生活保護を受けて元気に暮らしています。浅草教会の最寄りのホームレスだったんで「最寄りさん」って呼んでたんでいた方です。
 あの時は、彼を何とか生活保護に繋ぐために奔走しました。私としては、支援グループに丸投げせずに、素人の個人でも繋げるかっていう一つのチャレンジでもあったんですね。でもやってみると、コロナのこともあったし、色んな事を迷いました。毎日路上にお弁当持って行くんでも、相手は78歳ですし、こっちがウイルスをうつして殺しちゃったらどうしようとかって、やっぱり思うわけですよ。それだけ言うなら、それは関わらないのが、一番いいわけです。でも、だからといってこの小さな「憐れみの心」を無視するのはキリスト者としてどうなんだろうとか、毎日考えましたね。
 ところが、そうするとですよ、おじいちゃん殺しちゃったらどうしようって思ったら、感染に気をつけるようになるんですよ、自分が。まずは、関わるためにはそこをがんばらないとならない。さらには、本人がもう死亡扱いになってたって事が判って、区役所や家庭裁判所を夏中あちこち走り回ったわけです。でもね、車に乗せるのもやっぱり気になるわけですよ。匂いのこともあるし、密閉空間で感染させちゃわないかな、とか。それで、他に誰も乗せないようにしたり、消毒してから乗せたり、新しいマスク渡したり、窓開けたり、色々対策講じるわけですね。お弁当毎日作るんだって、司祭館の食堂で作るわけですから、食中毒でも起こしたら大変だっていうんで、それまで散らかってたキッチンをきれいに掃除して、消毒もていねいにするようになって、自戒するために壁に張り紙もしました。「常に清潔、最寄りさんのため」って、ハートマークもちゃんと付けて(笑)。
 こういうのってね、「いやあ、素人仕事で食中毒になるかもしれないから、やめといたほうがいいよ」って言っちゃえば、そうも言える。だけど、それで諦めちゃうんじゃなくて、じゃあ、十分きれいに消毒してとか、よく火を通してとか、何か工夫すればいいんですよね。それ以上のことは、もう神のみ心のままにで、あとは信じるしかない。やらない言い訳はいくらでもできるんですよ。うつすかもしれないから関わるのはやめとこうとか、理屈からいえばそれも正しい。でも、そういう、「マルかバツか」じゃない、一番面倒で大変な「サンカク」のところを、精一杯工夫しながら、憐みの心を最優先にして生きるのが、キリスト者でしょう。
 たとえ町にいられなくなることになっても、目の前の苦しむ人に触れるイエスさまのこの生き方、これはやっぱり僕らキリスト者の模範ですし、それこそがキリスト者のね、取り柄というか、使命というか、神さまがお望みになっている、人と人を結ぶ一瞬なんです。
 コロナもまだまだ長引きそうですけど、そこをヒントにして、ある程度は覚悟を決めて、最後は神さまが必ず良くしてくださるという信仰のもとに、「迷ったときは、憐れみ第一」っていう、そういう生き方を今日の聖書は教えてくれているように思います。イエスさまは、深く憐れんで、その人にしっかりと触ります。そして、宣言します。「よろしい。清くなれ」と。
 イエスさまは、今日も、この地球に触れて、世界を清めてくださってますよ。みんなで、お手伝いを致しましょう。


2021年2月14日録音/2021年4月4日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英