年間第4主日
カトリック上野教会
第一朗読:申命記(申命記18・15-20)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント7・32-35)
福音朗読:マルコによる福音(マルコ1・21-28)
ー 晴佐久神父様 説教 ー
緊急事態宣言もまだまだ続きますけれども、体の健康はもちろんですけど、心の健康の方はどうですか。何となくイライラしたり、不安が続いたりで暗い気持ちになっているとしたら、このミサで気持ちを明るくしてほしいなと、心からそう願います。
世の中がギスギスしてくると、お互いにやっぱり、責め合うというか、裁きあうというか、縛りあうというか、そんな事になりがちなので、自粛警察じゃないですけど、あんまり厳しくしないで、我々キリスト者はもう少しゆったりした心で、「でも大きな目で見れば、神さまがちゃんとしてくださってるんだから、大丈夫」っていうようなね、広々した心で日々を過ごしてまいりましょう。
ちょうど今、命令に従って入院しなかったら懲役だなんていう法律をつくる話が取りざたされてますからね。罰則を厳しくして世の中を守りましょうって、わからないでもないですけど、現実には色んな事情がありますしね、人にはそれぞれ。一律に厳しく締め付ければ世の中が幸せになるかというと、微妙でしょう。確かに命は守らなきゃならない、モラルは守るべき、でも、だからといって完ぺきな人はどこにもいないし、厳しくしすぎて心がすさんで、世の中がかえって悪くなるなんてこともありえますからねえ。
先週刑務所に、教誨師として行きましたけれど、私がいつも車を停めてる所に救急車が来てね。今まさに教誨始めるっていう時になって、その車を移動してくれって言うんです。と言っても、外出るのに鍵のかかっている扉を四つ、通るんですよ。刑務官に付き添われて、鍵を四回開けて、車を奥の駐車場に移動して、また鍵を四回開けて戻りました。救急車の周囲が消毒で物々しかったんで、コロナ関係だったのかもしれません。コロナ陽性者が入院拒否したから逮捕懲役って言っても、医療刑務所の現場もなかなか大変なんで、そう簡単な話じゃないですよ。
今の時代、厳しい北風方式でうまくいくかっていうと、逆効果なことの方が多いんじゃないですか。少なくとも、人間味がないですよね、厳罰主義には。人間て、やっぱりちょっと弱かったりダメだったり失敗したりっていう事をある程度前提にして、それも仕方がないねってお互いに受け入れて、100点を求め合わず、80点くらいでいいです、この人はいろいろ恵まれてないんだから65点でいいんじゃないのくらいな感じで、そこはみんなで補い合ってやってきましょうっていう、イエスさまの教えはほんとにそうだと思いますよ。
「律法主義者のようにではなく」(cf.マルコ1・22)っていうのがさっきの福音書にもありましたけど、重要なポイントですね。イエスの教えに人々は驚いたんです。律法学者のようではなかったから。律法学者っていうのはこれは100点じゃなきゃならんっていう人達ですから、厳しいし、自粛警察的だし、間違えた人、従わない人は懲役だみたいな、そういう方向ですよね。それで社会が守られてると言えばそうかもしれませんけれど、イエスは少なくとも律法学者のようではなかった。むしろ逆に、どんな弱い人でもどんなに間違った人でも、全ての人を救う事がおできになる、そんな権威を持っている者として振舞った。だから、権威っていっても、人を強権的に支配する権威ではなく、全ての人を救う事ができる、愛による権威の事です。そのような権威を持っているからこそ、みんなを導く事ができるし、みんなも従うし、みんなを一つにする事ができる。これはやっぱり法律だ罰則だではなかなかうまくいかない。キリスト者はこのイエスに倣って、お互いにもう少し緩く、優しくしてあげたらいいと思います。
昨日、NHKで山口百恵のラストコンサートをやってました。緊急事態宣言下でみんな家にいるし、土曜日だし、視聴率高かったでしょうね。ご覧になりましたか。私の年代はあの時代、百恵ちゃんと一緒に過ごしてたようなもんなんで、ホントに懐かしくて最後まで見ちゃいました。いやあ、時代ですね、あのころは引退っていうか、要するに結婚退職するわけですよ。それであの伝説の、武道館ラストコンサートが行われました。1980年の10月5日、私が神学校に入った年です。その二か月後の12月8日にはジョン・レノンが殺されていますが、それはこの前もお話しました。まあ、私の70年代は、百恵ちゃん引退とジョン・レノンの死で終わった、みたいな感じです。
その最後のコンサートは、やっぱりファン達にとってはなかなか切ないものだったわけで、聖子ちゃんみたいに結婚して子供産んでもアイドルであり続けるっていう80年代と違ったんですね、70年代は。結婚退職なんですよ。「友和さんとお幸せに」なんていう垂れ幕も掛かってましたけど、ファンとしては百恵ちゃんの歌をもうこれっきり聞けないのかっていう、それこそ百恵ちゃんの歌の歌詞のまんまで、「これっきりこれっきり、もう~これっきり~ですか~」っていう気持ちだったんです。「横須賀ストーリー」ですね。この曲については、百恵ちゃん本人もコンサートのトークでネタにしてましたよ。あるパチンコ屋で横須賀ストーリーを流してたら、客が「これっきり、これっきり」なんて、玉の出が悪くなるからやめろって言うんで、店員さんがレコードのB面の曲に変えたら、タイトルが「GAME IS OVER」だったっていう(笑)。まあ、実際に、あのコンサートがほんとに「これっきり」で、あのマイクをステージに置く有名なシーン以降、二度と彼女の歌を直接聴くことはなくなりました。
何でそんな話をしてるかっていると、そのコンサートで最後に彼女が言ったひとことが、なんだか気になったんです。結婚で引退するわけだからでしょうけど、「私のわがままを許してくれてありがとう」って言ったんですよ。まあ、70年代的というか、清楚なアイドル像としてはそうなんでしょうけど、40年過ぎて聞くと、ちょっと違和感を感じたんです。
だって、結婚したり、引退したりするっていうのは、人として自由な選択ですし、それは「わがまま」じゃないですよね、どう考えても。もちろん、ファンの期待に応えられないことを申し訳なく思うっていうのはわかるし、そこまで深い意味で言ったんでもないとは思いますけど、やっぱり、自分の幸せを追求することがわがままだっていう空気はあったと思いますよ。周りに合わせることが第一で、自分がこうしたい、こうありたいって思う事を堂々と言えない空気。
だけど、色々な意見はあるにせよ、反社会的でもない限り、最終的には本人の自由な意思が最優先のはずで、そこをわがままって言っちゃうとみんなが幸せになれないんじゃないですかね。誰もが、妙な忖度せず、いらぬ気を遣わずに、その人らしくあっていいはずです。もともと自分が好きで歌っているわけだし、もっと好きな別の道を見つけたならそっちを選べばいいわけだし、その選択を、仮にもファンであるならば、全面的に受け入れて応援するのは当然ですから。ファンだったら、「今まで本当にありがとう、あなたの歌を聴けて幸せでした、どんな選択だろうと、あなたが幸せならそれでいい、わがままだなんて決して思わないでほしい」って、そう言えなければ、そもそもファンじゃないですもん。
こういうのは、日本の風土なんですかねえ。今でも、いや、むしろいっそう、自分の好みや思いをはっきり主張することは「和を乱す」みたいな空気があるんで、「わがままを許してください」って言わざるを得なくなる。そう言わせちゃう空気、「自分が我慢してるんだから、他人も我慢すべきだ」みたいな空気、これ良くないと思います。
逆に、わがままをいい意味で使うなら、もっとわがままでいいとも言えますよね。神さまのみ前では、もっと自分らしく、もっと私のままで、すなわち「わがまま」でいいんじゃないですか。この、自粛自粛の時代になると、ますます「迷惑かけちゃいけない、自分の幸せを追求しちゃいけない」っていう空気が強まってるんで、もう少し自分に優しくして、むしろわがままでもいいよ、って自分に言ってあげたらいいし、そんなあなたでもいいよ、そうは言っても守れないこともあるよね、って他人にも言ってあげましょうよ。
律法学者のように他人に完璧を求めるのではなく、イエスさまのように他人の弱さや過ちを赦し合う力を育てること。それが、大事です。天の父は、すべてを許します。滅ぼすために裁くのではなく、生かすために許します。その許す力こそが、真の権威でしょう。その権威にこそ信頼を置いて、こんな自分でも大丈夫、自分の幸せを求めていいんだと信じて、自分がやりたい事、自分が好きな事を、もっと正直に打ち明けたらいいし、それを応援し合えたらいいなと思いますよ。お互いに、「それもいいね」「頑張ってね」「応援してるよ」って。責め合ったり裁いたりするんじゃなくって。
昨日メールでやりとりした、これはもう20年近く前からの付き合いの、なかなか元気になれない、「うつ」を抱えた信者ですけれども、「自分が人としてやらなきゃならない事を、ちゃんとしてない気がする」って言うんですよ。こういう、「するべきことをしていない感」を抱えてる人って、結構多いんです。これ、僕なんかだって少しは抱えてますから、全くないって人はいないんじゃないですか。みんな大なり小なりそういう不全感は持ってるんでしょうけど、やっぱり、キリスト教である以上、そこからの解放を目指しましょうよ。「もっとちゃんとしなきゃいけないのに、自分はできていない」とか、「自分にはそうする力は与えられていない」っていう、この「何かが足りない感」自体が、実は結構罪なんですよ。神が与えてくれている喜びを、感じなくさせる感覚だから。彼も、「自分はするべきことができていないっていう感覚がいつも頭の中にあって、心がモヤモヤしてとてもつらい」って言ってましたけど、そこからの解放です。
まあ確かに、うつの時は体が動けなくなるし、元気な人たちを見れば見るほど、自分なんかは役に立ってないんじゃないかっていう、その感覚は理解できます。だけど、その苦しみの根本が「こんな自分じゃいけない」っていうとこにある限り、その苦しみから逃れるってことは、絶対できないはずですよ。だって、どこまでやったって、どんなにがんばったって、「まだ、これじゃ足りない」って思う苦しみなんだから。「もっと元気に働きたいのに、どうしてもできない。世の中のためになりたいのに、むしろ自分の存在は迷惑だ」とかって、勝手に思い過ぎて、ますます苦しくなる。しまいには「こんな自分はいない方がいい」ってことになる。ということは、そこから逃れる答えはたった一つで、「こんな自分でもいい」って気づく以外に、道はない。決してない。
昨日は、自分の信仰を伝えました。
「僕だって、もっとちゃんとやらなきゃっていつも思うし、なんでこんな自分なんだろうって、モヤモヤすることもしょっちゅうある。だけど僕は、それでいいよって言ってくれている神を信じてる。神がいいって言うんだから、こんな自分でいいって思うし、人から責められても神は責めてないと思えば安心できるし、他人を責めることもなくなる。第一、どんなに変わろうとしても変われないんだから、これ以上、どうしろっていうの。これでいい、変わらなくてもいいんだって気づかない限り、救いなんてあるはずがない。そもそも私は神の望みによって人間として生まれてきたわけで、人間の弱さを抱えていたり、毎日のようにモヤモヤしてるのも、神の望みのうち。神のみもとでは、足りないものはなにひとつないんだから、神の目から見れば、そこにいるだけで十分なんだよ」。
「するべきこと」って言っても、ねえ。人としてするべき事って何ですかねえ。何もないと思いますよ。あえて言うなら、神から望まれて生まれてきて、神から愛されて育てられてきて、今、私という存在としてここに生きている事。それだけでもう、人としてするべき事はすべてやってると思う。そういう存在を創造するのが、神の権威でしょう。今以上に何かをしないと役に立たないとか、掟に背けば懲役だとか、つまりは「そんなあなたじゃだめだ」って裁き合う社会の中で、律法学者のようではない、イエスの「権威ある教え」に、僕は救われています。特に、この自粛の時代になると、余計にね。
どうか皆さん、まだまだ自粛生活が続くようですけれども、神さまのみ前で「こんな私ですいません」だなんて決して思わずに、「こんな私でありがとう!」って言ってくださいね。「わがままを許してくれてありがとう」っていう百恵ちゃんの言葉で言うなら、「わがままにさせてくれてありがとう」って、それが神さまに言うべき言葉です。つらい時代なんだから、もうちょっと、わがままになってください。「ちょっと」ですよ。ほんとにわがままになったらお互いにぶつかるだけです(笑)。でも、この緊急事態宣言下、この寒空にこうしてミサに来るような皆さんは、どちらかというと自分に厳しめな方が多いんじゃないですか。「わがままにさせてくれてありがとう」って神さまに言っていいんですよ。
そういえば百恵ちゃんは、「私のわがままを許してくれてありがとう」って言った後、最後の最後にひとこと付け加えました。「幸せになります」って。ポロリと涙こぼして、そう言いました。皆さんも言っていいんですよ。神さまのみ前でね、「幸せになります」って。
2021年1月31日録音/2021年3月9日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英