年間第2主日
カトリック上野教会
第一朗読:サムエル記(サムエル上3・3b-10、19)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント6・13c-15a、17-20)
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ1・35-42)
ー 晴佐久神父様 説教 ー
懐かしいですね、「ミサごたえ」。ご存じない方も多いでしょう。祭壇奉仕をしている侍者のことを昔、「ミサごたえ」って言ったんですね。今日から、感染症対策で、歌のみならず唱えるのも自粛しましょうっていうことで、侍者が独りで応唱する形式になりました。これ、みなさんは慣れないかもしれませんけど、私の世代は、子どもの頃そうだったんです。ラテン語ミサの時代ですね。司祭が「主はみなさんと共に」ってラテン語で言うと、侍者がみんなを代表して、「また司祭と共に」って答える。「Dominus vobiscum」に、「Et cum spiritu tuo」って侍者が答える。それで、侍者のことを「ミサごたえ」って呼んだんですね。コロナのせいで時計の針が五十年戻ったような感じです。
あの頃は、侍者はみんな子どもでしたから、子どもたちがラテン語を教わるんです。私は小学校一年にあがったときに、神父が我が家までやって来て、「昌英くんも、小学校にあがったので、ミサごたえをしてくれますか」って言われて、「はい!」って答えると、その場で、「それでは、早速練習をしましょう。神父様がドーミヌスボービスクムって言ったら、エトクムスピリトゥトゥーオって言うんですよ。はい、言ってみましょう。エト、クム」「エト、クム」「スピリトゥ、トゥーオ」「スピリトゥ、トゥーオ」「はい、続けて」「エトクムスピリトゥトゥーオ」「はい、よくできました」
そんなのをね、両親がうれしそうに見守ってるわけで、そうすると小学校一年生ですから、得意になるわけですよ。私は性格的に、おだてりゃ木に登るじゃないですけど、調子にのるタイプですから、一生懸命ラテン語覚えました。「君は選ばれて、特別なお役目をいただいたんだよ」みたいなこと言われて、うれしくなっちゃってね、素直なもんですよ。「誰よりもイエスさまの近くでお仕えできるんだよ」とか神父に言われれば、誇らしい気持ちにもなるじゃないですか。おだてられて木に登って、そのまま神学校にも入って、こんなことになっちゃった(笑)っていう、原点ですね。
それにしても、小学校一年生にラテン語教え込んで、「きみは特別だ」なんて、これもう洗脳でしょう。でも、今にして思うと、信仰においてそういう誇りを持つことって、大切なことだって思いますよ。司祭に限らず、キリスト者であるならばみんな神さまから選ばれているんだし、だれよりもイエスさまの近くにいるというお役目を頂いているし、そしてイエスさまと共に、この世界を救うことができる。このコロナの時代なんかは、特別にキリスト者は大切なお役目を与えられていると思うし、そこはやっぱり誇りに思って、ちょっと得意になって、調子にのるくらいでちょうどいいんじゃないですか。みんなが下向いて、不安になって、落ち込んで、苦しんでいるときにこそ、キリスト者は顔を上げて、自分は選ばれているという誇りを、大切にいたします。
昨日は、私、初めてZoomの講演会っていうのをやって、これがなかなか、なんていうか、うまくいかなかった。パソコンのあの小っちゃいカメラを見つめて、お話しするわけですよ、60分。・・・なかなか、うまくいかなかったですね。こうやって直接お話ししていれば、みんな目の前で聞いてくれてるのがわかるじゃないですか。頷く人もいたりね。そうすると、自然と言葉が出てくるんですよ。ぼくはそういう脳の回路なんで、レンズに向かってじゃ、言葉が出てこないんです。誰がどんな顔して聞いてるんだかわからないまま、レンズ見つめて60分。相当つらかったですけど、でも、それもやっぱり使命ですから、がんばりました。それこそ、「神さまから特別なお役目をいただいたんだ」ってね、任せられたミッションですからねぇ。
まあ、昨日はそこで福音家族の話をしたわけです。「お互いに助け合おうよ」と。そういう助け合う家族を造っていくこともまた、神さまからいただいた特別なお役目ですね。血縁ではない人とも、家族同然に思って助け合うってこと、できるはずだし、そういう家族づくりはもはやキリスト者のミッションですから。「やってみようよ」と、レンズの向こうの皆さんに呼びかけました。
第一朗読をもう一度見ていただきたいんですけども、サムエルが神さまから呼ばれるんですね。お師匠さんのエリは、サムエルが神さまから呼ばれていることに、最初気づかなった。でも何度も「呼びましたか」ってやって来るんで気づいて、「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。
いい言葉ですね。でもこれ、みなさんも神さまに呼ばれてるんですよ。神さまはいつも語りかけています。みなさん一人ひとりにそれぞれに、それぞれの語りかけをしています。それで、私たちも答えます。「どうぞお話しください。
それさえ聞き取れれば、「私はなんのために生きているのか」とか、「この苦しみになんの意味があるのか」とか、そういうさまざまな迷いとか、恐れとか、吹き飛ぶんですね。だって、この私の限界とか、弱さとか、今の窮状とか、そういうものは全部「この私ならではの現実」なわけですし、それを百も承知で神が選び、むしろその限界や窮状という現実を用いて、神がこの私をお使いになるという意味では、ほんとに特別のミッションですから。「この私ならでは」っていう。他と替えがきかないんです。「こんな私じゃ役に立たない」とか、「他の人たちみたいにうまくできない」とか、そういう恐れは全く無意味です。そのあなたを、神さまが選んだんだから。
お師匠のエリも、「なんでサムエルなんだ。俺じゃないのか」なんて決して思わないわけですね。ともかく、神さまがこの少年を選んだっていうことを、この少年にわかってもらう、それが一番大事なこと。私はお師匠じゃないですけど、それが今のみなさんに最も必要な気づきであることは、わかります。みなさんも「聞いております」って、ちゃんと心開いてください。気持ちいいですよ。神に選ばれている、という信仰を持つと。信じればいいだけです。神さまは、あなたを選んでいます。神さまはそのことを今までもずーっと言ってたんだけど、みなさんがずーっと聞いてくれなかったっていうことなんです。ですから、「お話しください。聞いております」ってね、まずはそう答えてください。
今日のヨハネの福音(cf.ヨハネ1・35-42)、これもまさにその使命、召命の話なんじゃないですか。私は、「福音家族」、つまり「みんなで助け合う家族的なつながり」を造って広めることを、自分に呼びかけられた使命だと信じてますけれども、それは、私ならではの使命ですね。だから、しつこいほどに言いつのるわけで、それは使命だからどうしようもない。この箇所も、「福音家族への召命」としてしか読めないわけです。
このふたりの弟子なんか、イエスに呼ばれて、イエスの家族になっちゃう話ですね、これ。「来なさい。そうすれば分かる」(ヨハネ1・39)って招かれるわけですけど、このイエスの招きなんかは、もう、ある意味「絶対の招き」でしょう。選択の余地がないというか。イエスから「来なさい」って呼ばれて、もしもですよ、「いや、結構です」って行かなかったら、そのあとどんな後悔というか孤独というか、取り返しのつかない世界が待っているか。それはもうイエスの呼びかけに応えないっていう選択肢は、この世界に存在するものとしてあり得ないって言っていいほどの聖なる呼びかけなんであって、それに応えないっていうのは、私なんかにはある種の恐怖でもありますね。
「来なさい。そうすれば分かる」って言われて、じゃあ「何が分かるんだろう」って、知りたいじゃないですか。その答えを知らずにこれから一生生きていくっていうのは、たまんないなっていう気持ち。どうですかね、みなさんにも、そういうのありますか。テレビなんか見てても、「では、今年の第一位は・・・」ってとこで、コマーシャルになるじゃないですか。そうすると、答えをやっぱり知りたいから、とりあえずコマーシャルを我慢するわけでしょ。まあ、今年の一位が何かなんて、別に知っても知らなくてもいいんだけれど、イエスさまから「来なさい。そうすれば分かる」って言われて、「いや、それ、別に分からなくていいです」って人、いないんじゃないですか。だって、人生で知りうる最高のことだし、この世界で経験しうる最高の体験なわけでしょう? それ知らずに生きていくなんて、ぼくには恐怖でしかない。もう絶対について行って、それを見たい、知りたい、信じたい。
それを呼びかけられているっていうことの、ありがたさ。イエスさまからの、「来なさい。そうすれば分かる」っていう、こんな美しいひと言を知りたくても知らない人、大勢いますよ、日本中に。コロナの時代、「この先どう生きて行けばいいのか」「こんな自分、なんの役に立つのか」「不条理な世界の中で、生きてる意味はなんなのか」なんて言っている人たち大勢いますけど、そんな一人ひとりに「来なさい。そうすれば分かる」って言ってくれる人、どこにもいませんから。イエスは絶対の権威を持って招きますし、それについて行くと、ほんとに分かる。じゃあ、何が分かったのか。私にとっては、それが福音家族ですし、それが分かったことが本当にうれしいし、だからみなさんにも、「おいでよ」「そうすれば分かるよ」って、呼びかけ続けるわけですね。
二人の弟子たちも、イエスについて行って、午後四時ごろって言うんだから当然ごはんも一緒に食べたでしょうし、一緒に泊まったわけですし、泊まったひとりのアンデレは翌朝飛んで帰って、「救い主を見つけたぞ!」って、血縁の兄弟のシモンを連れて来るわけですよ。そうするとイエスさまが、「今後おまえをペトロと呼ぶ」ってね(cf.ヨハネ1・42)、会った途端に名前まで付けられちゃって、家族にさせられちゃうわけですね。名前を付けるって、家族の特権ですから。このあとペトロは、死ぬまで片時もイエスから離れなかった。
結局、アンデレもペトロも、家を出てっちゃったわけですよ。残された方はたまったもんじゃなかったかもしれないですけど、血縁の家族を超えて助け合う家族、このバラバラな世界を救う大きな家族をつくり出すっていう、イエスさまのこのチャレンジはめちゃめちゃ魅力的だったろうし、だから、「来なさい。そうすれば分かる」って言われてついて行って、アンデレは一発で分かったんですよ。「これだ!」って。「この家族的交わり、この一致が世界を救うんだ」って。・・・その感動は、今にも続いているはずですし、アンデレのその気持ちは、すごくよく分かります。
もっとも、福音家族の実践はなかなか難しいこともあって、特に今はコロナで生活困窮の人がすごく増えてきて、かかってくる電話をとるとそういう話、みたいな感じになってきてます。昨日もここで「おかえりミサ」っていう癒しのミサをやったんですけど、助けを求めてやって来た生活困窮者の方、二人いました。どちらも初めて会う方です。
先に来たひとりの方は、「携帯電話代をどうしても払えないので、一万円貸してほしい」と。行政の世話で安宿で暮らしているんだけれども、仕事を受けるためには携帯が必要で、最後のライフラインなんで、どうしても料金を払わなければならず、なんとか助けてくれないかっていう話でした。
事情は分かりますけど、貸して返ってくるってことがまずないんですよ。なので、ちょっと怯むんですね。これ、全部司祭が個人のお金で対応するわけですから、最近のようにそういうのが増えてくると、こっちも色々とやりくりしてるわけで、一万はきつい。っていうのも、ついこの前、知り合いの一人暮らしの生活困窮者で、救急車で入院した人から、「入院費用がどうしても足りないので貸してほしい」って言われて、四万貸したばかりなんです。今月の予定がどんどん狂っちゃってて、一万はなかなか難しいなぁと思って、よせばいいのに、私、値切ったんですよ。「八千円でどうですか」って。そしたら、「だいじょうぶです。八千円あれば、なんとか」って言うんで、自室に戻って封筒にいったん八千円入れて、でもそのときに「いやぁ・・・、なんだか悪いなあ」と思って、プラス千五百円入れて、「お返しいただくのは八千円でいいです」って申し上げました。「ありがとうございます!」って受け取って、喜んで帰っていきましたけど、あとあと、ホントにケチだなあって思いましたよ。あと五百円出せばいいものを、結局九千五百円に値切ったっていうことですから。生活困窮者相手に値切ってどうする、ですよ。
その次に来た方も、その方は生活保護を受けているんだけれども、その保護費をもっと困ってる友人のために使っちゃって、生活が続かなくなっちゃっていて。「じゃあ、担当の人に事情を相談して差し上げましょうか」って言うと、「役所の担当者にだけは言わないでくれ」って、ひらに頼まれて。それで、ともかくも食べるものを袋に入れて、そして迷いに迷いましたけど、結局、「この人も家族なんだから」と、封筒に三千円だけ入れてお渡ししました。これっぽっちじゃ何日も持たないだろうなって思いつつ。
キリスト者って、結局は最後は召命に応えるしかないわけですよね。イエスさまみたいに百点とはいかないけど、だからと言って零点ってわけにもいかない。いろいろ迷いつつ、ためらいつつ、やりくりしながら最後は、「もう千五百円入れよう」とか、「これっぽっちでごめんね」とかっていう、あの瞬間が、まさに召命なんですよ。もうしょうがないわけです。「これ、やめとこうか。でもやっぱり入れようか」って悩みつつも、最後はちょっとでも入れる。それはなんかこう、小学校一年生のときに、「昌英くん、イエスさまのために働く、侍者をやってくれますか」って言われて、「はい!」って答えた以上、ほんのちょっとでもやらなくっちゃっていう、それをまあ、こうして何十年もやってきてるような気がする。お返事って大事ですよね。
「来なさい。そうすれば分かる」って言われてね、「はい!」ってついて行った。その弟子たちと一緒に、私たちもイエスさまについてまいります。ついて行って、ほんのちょっとでも、福音家族を実現します。聖なるミサは、「アーメン!」ってね、すなわち「はい!」ってお答えする場です。今日は声を出せませんけれども、心の中で、「アーメン」って唱えてください。心の中では大声で、「アーメン! わたしはここにおります」って叫んでいただきたい。
2021年1月17日録音/2021年3月4日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英