福音の丘
                         

爽やかに新しいチャレンジを

主の公現
カトリック上野教会

第一朗読:イザヤの預言(イザヤ60・1-6)
第二朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ3・2、3b、5-6)
福音朗読:マタイによる福音(マタイ2・1-12)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

  改めてご挨拶申し上げます。明けましておめでとうございます。
  新しい年、新しい出発をしたいですね。コロナの中でいつもと違うお正月ですけど、新鮮な気持ちで迎えました。今までと同じじゃいけないな、という気持ちです。でも、じゃあ、どう変わっていかなければならないのかって事を、年の初めという恵みのときに考えるべきでしょう。我々キリスト者は、この特別な年をどんなふうに生きたらいいのかって事を、お話したいと思います。

  私が駅伝ファンだっていう話は毎年お正月にしてますけれど、昨日ごらんになりましたか。いやあ、びっくり仰天。往路優勝したのが創価大学。とても新鮮でした。100年も経とうかっていう歴史ある大会で、往路優勝したのはまだ19校目ですから。そして今日、いよいよ復路がスタート。駅伝ファンとしては、今朝のスタートから、ワクワクしながら見てたんですけれども、何と今年は、一番いいところでこのミサが。(笑)こうしていても、気が気じゃない。
 私、ミーハーですからやっぱり強いところが好きで、青山学院を応援してるんですけど、それ、単に強いからってだけじゃなく、青学が新たなチャレンジで実績を残して、それまでの駅伝の雰囲気を変えたからなんです。それまでは、昭和の体育会系というか、根性第一で時には軍隊みたいな雰囲気のとこもあったなかで、青学のチャレンジはやっぱり新鮮でした。選手の個性を生かしてね、一人ひとりに自分で考えさせて自分で課題を決めさせて自分で乗り越えさせて。その成長を家族的な信頼関係の中で監督が忍耐強く見守り、最後は全体を見ながら絶妙な采配で組み合わせていく。そのせいか、選手ものびのびしてて、笑顔が爽やかでね、名将原監督のもとで四連覇。そのあと一回2位になっちゃいましたけど、また前回優勝。「王者」って呼ばれるのも当然です。それが昨日は何と、往路12位。年末にキャプテンが疲労骨折したっていうのも痛かったんですけど、10位以下はまさかのシード権外でしょ。さっき、ミサの始まる前は少し盛り返してましたけど、がんばれ、青学。今ごろどうなってるのかな。こうしてる今も走ってるわけですからね。余計な事は言うまいと思いつつもつい口走りますけど、一応青山学院はキリスト教ですし。(笑)
 ところで、この箱根駅伝って、不思議に思った事ないですか? なんで関東地方の大学ばかりなんだろうって。ご存じない方もいるかもしれないけど、これ、関東学連主催だから関東の加盟校しかエントリー出来ない、そういう、まあ、地方大会なんですね。だけどすでに第97回大会ですし、ここまで有名になって視聴率30%なんていう人気の大会ですから、全国の若い子たちが「箱根で走りたい」ってことで、才能ある陸上選手がみんな関東の大学に来ちゃうんです。実は、箱根走ってる子たちの7割は地方の子です。
 地方の時代とか言いながら、これ、地方から見たらたまったもんじゃないですよね。みんな東京の大学に行っちゃうわけだから。それもあって、原監督もそう主張してるんですけど、そろそろこれ、全国大会にしようよと。伝統を守るのも大事だけれども、やっぱり世界は変わってくんだし、もっとこう、新しい時代に合わせた新しい形に変えてったらいいんじゃないのっていう提案ですね。テレビで箱根駅伝の解説してる瀬古さんも同じ意見で、今97回大会だから、100年目の第100回大会からは全国大会にしたらいいんじゃないですかって。
 で、僕はそういう話が、大好きなんですよ。恐れずに新しいチャレンジをする、って話。見てみたくないですか、全国大会の箱根駅伝。逆に、こうでなきゃならないって信じ込んで、固定観念に囚われて、変化を恐れて前例踏襲っていう、過去にしがみつくような話が大嫌いなんです。変わらない方が、まあ、安心っちゃ安心かもしれないけれど、世界は変わってくんです。っていうか、神さまは常に創造し続けてるんです。創造っていうのは、今までなかったものを生み出すってことでしょう。今までのものがさらに新しく、いっそう善い形で、思いもよらない進化を遂げていくってことでしょう。恐れずにそこにチャレンジしていくのが人類の素晴らしさでもあって。まあ、変化っていっても、新自由主義みたいな悪い意味での規制緩和もあるんで、そこは気をつけなきゃならないんですけど、こうじゃなきゃならんと思い込んで、それを人にも押し付けて、変えていこうとする人たちを出る杭みたいに打ちながら権利権益を守り抜く、みたいな話がぼくはダメなんですよね。
 これ、個人的な性格ってのもあるでしょうけどね。新しもの好きだし、見たことない世界に好奇心あって。閉ざされてるものがダメなんです。やっぱり、開かれていくのがいいですよ。ぼくはこのコロナの時代にすごくそう思ったし、今年2021年はほんとにそういう意味では新しくチャレンジして、閉ざされていたものを開いていく、そういう1年にしていきたいなと思ってるんです。実際に、当たり前だって思ってた事が、コロナに揺るがされて変化していますよね。そういう現実にちゃんと向き合って、「やっぱりこれは大切だね」「本来こうあるべきなんだよね」って受け入れて、変えるべきことは変え、本当に価値あることを応援していく、そういう1年にしたいなと思っております。

 大晦日にホームレスの方たちとお年越したってお話しを元日のミサでしましたけれど、実は上野・浅草教会に来るまでは、路上生活者の事なんてあまり真剣に考えた事なかったんですよ。でもここに来ると、街なかにいっぱいいるわけじゃないですか。みんな寒そうだなーとか普通に思うし、ちゃんと食べてるのかなと普通に思うし、そう思うと当然、何とかしようって、今まで考えてもみなかった事にチャレンジし始めるわけですね。チャレンジっていっても、何か立派な施設造ろうとか、援助組織を造ろうとか、そんな元気も才能もないですから、ただちょっとだけ、何とかしてみようかなっていう、ささやかな工夫の話です。そんな程度であっても、やっぱりそれは閉ざされていたものを開くっていう事なんですよね、これ。教会の扉を開いて受け入れるって、結局開いてるのは扉じゃなくて自分の心なわけですから。まずはそこをちゃんと開いて受け入れる、目の前の人に喜んでもらえるチャレンジをする。これはやっぱり楽しいですよ。
 もちろん、おかげで色々と面倒な事もあるし、だれかに迷惑かける事もあるんだけども、それもまた通らなければならない尊いプロセスですよね。問題起こしたくなければ何も変えなければいいんだけど、じゃあ何にもしないで去年と同じがいいかっていうと、ぼくみたいな性格だと、問題が起きることよりも、去年と同じで変わらないっていう方が怖い。死の世界みたいに感じちゃう。それはそれで逆の囚われなのかもしれませんけど。多動性障害のせいかもしれない。掟に縛られて、何も変わらずにずっとおんなじでいるっていうのが、ある種の恐れです。与えられた可能性を無駄にしちゃう怖さ? タラントンを地面に埋めておいたら神さまに叱られちゃいましたみたいな(笑)話が聖書にありますけど、そのタラントンを使ったらどんな面白い事、どんな喜びが生まれるだろう、その恵みを開いたらどんな感動が待ってるだろうって思うと、それを見れないことの方が、ものすごく残念。ちょっとでもやれば見れたものが、やらなかったから見れなかったっていう後悔だけは、耐えられない。それはもう恐怖に近い。何でだか、そんな思いがあるんですよねー。

 紅白を見てた時にひとりの30代の青年が一緒に見てたんですけど、まじめな顔で「紅組って、女性ばっかりだね」って言うんですよ。何言ってるかわかんないじゃないですか。びっくりして、「いや、紅白歌合戦なんだから男女別でしょ」って言ったら、びっくりして、「え、そうだったの?!」って(笑)。面白いねー、世の中には色んな人がいるってことですよ。まさかここには、今そう聴いて「そうだったの?」って驚いてる人いませんよね? だれだって紅白歌合戦は紅組女子で白組男子だって知ってると思いきや、世の中には知らない人もいて、で、さらには「そうだったんだー、でもなんで男女に分けるの?」って不思議そうに聞くんですよ。これにはびっくりを通り越して、考えさせられました。当たり前だと思っていたけれど、言われてみると何だか変なことしてるような気もしてくる。
 生まれたときから女の子にはピンクの産着を着せ、男の子には青い産着を着せ、男だ女だって当たり前のように分けて管理してきたけれども、よくよく考えてみるとそこまでして男女で分けることに、どんな積極的な意味があるだろう。むしろ弊害の方が多いんじゃないのっていう時代になってきましたよね。そもそも、男女混合で分けられないバンドなんかもありますし。今年の氷川きよしなんて、ユニセックスでめちゃめちゃカッコよかったですけど、あれで紅組白組言うのは、もはや意味ないでしょう。誰かがピンク組でいいんじゃないのとか言ってましたけど、ピンクじゃあ男女混ぜただけですから、やっぱり虹色、レインボーがいいんじゃないですか。「レインボー歌の祭典」みたいのでいいんじゃないの、みたいな。今年はそんな新しさも必要な気がしませんか。
 昭和のおやじじゃあるまいし、無自覚に線引いて、男はこうだ女はこうだ、男はかくあるべし女はかくあるべしって、もう通用しない時代です。性別で支配したりされたり、忖度したり排除されたり、しまいに同じ仕事で給料が違ってたり、そんなの、だれがどう考えたっておかしな話でしょう。そういうのも、コロナあたりに揺るがされて、今大きく変わっていこうとしているんで、今年はちょっと頭を柔らかくして、捉われる事なく自由な発想で、言いたいことを言って、開かれたキリスト者でいこうじゃないですか。

 今日、公現の主日には、そういうテーマも秘められてるんですよ。だって、三人の博士ってこれ、たぶんユダヤ教じゃないですよね? 遠い東方から来た占星術の学者たちですから。それがイエスさまを拝みに来るって話です。神さまが、イエスを通して、全ての人にご自分の愛をお示しになった。星の輝きのもと、主イエスというまことの光によって、全ての人を照らす。そりゃもう、旧約と違うわけですよ。新しい創造のわざが始まってるんです。救いはユダヤ人だけみたいな律法が廃止されて、閉鎖的な世界が開かれて、全ての人に救いが及ぶっていう、そういう歴史が始まった。遠くから異教徒の博士たちがそういう救いのもとに集まってきたのは、そのしるしです。これ以降、まさに神の救いが普遍的なものとして全ての人に及んだ、それを記念する重要なお祝い日なんですね。第一朗読の中でイザヤが預言しているとおりです。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」と。「目を上げて見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来たる」と。(イザヤ60・2-4)この、普遍的な光、そこに向かって全ての人が集まって来る。あらゆる宗教を超えた、普遍的な光です。「何教の神」とか「何宗の教祖」とかそんなみみっちい話じゃない。やっぱりね、「キリスト教の大学を応援しよう」(笑)なんていうのはケチな話なんですよ。普遍的な救い、それがもうこの世界に現れた。これが公現の主日の心です。今年、去年までの囚われから解放されて、どんなささやかな事でもいい、爽やかに新しいチャレンジを。

 あとひとつ、お正月は毎年、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートも楽しみにして見てるんですけど、今年はあの楽友協会ホールで、無観客で開催したんです。リッカルド・ムーティっていう大指揮者が素晴らしい演奏をしてくれましたけど、最後に彼がマイク握って挨拶したんですね。これ、生放送ですから、全世界の人が見てる挨拶の中で、「私たち音楽家は、職業で演奏しているのではありません。使命でやってるんです」って言ったんですよ。感動しました。ミッションなんです。仕事だからとか、金稼ぐためにとか、そういう理由でやってるんじゃない、使命としてやっていると。で、その使命とは、人々の心を豊かにするため、心の健康をもたらすためだ、と。「もちろん、身体の健康は大事ですけど、心の健康もそれに劣らず大切だ。音楽は、それをもたらす事ができる。私たち音楽家は、そういう使命感をもって演奏しています」。
 確かに、体が弱ることもあるけれど、心が弱ることもある。体と同じく、心の健康、心の豊かさ、心の喜びも必要です。「私たち音楽家はそれを生み出す」っていうその使命感溢れるスピーチに、感動しちゃいました。おっしゃる通りだし、それで言うんなら、キリスト者ってまさにそうでしょう。キリスト者って、これ皆さん、職業でキリスト者やってるわけじゃないですよね? もうかるわけでもないし趣味でやってるわけでもない。キリスト者って、使命なんです。何の使命かって言ったら、福音によって世界の健康をもたらすためでしょう。みんなの体の健康のために奉仕する、心の健康のために愛し合う、社会の健康のためにチャレンジする、そういう使命感を持ってこの一年を始めましょうよ。人々を縛り付けている仕組みや習慣を破って、もっと自由に、新しい風を吹き込んで、とか話してると、青学どうなってるのか気になるんで(笑)、終わります。


2021年1月3日録音/2021年2月15日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英